饗宴『深海のカンパネルラ』を観た




ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘の草の中につかれてねむっていたのでした。胸は何だかおかしく熱り頬にはつめたい涙がながれていました。

銀河鉄道の夜/宮沢賢治

いきなりだけど、この涙の質感を伝えられるのは、ほんらい小説だけだ。漫画や映像ではこの質感は伝えられない。涙をただ流して、その涙を流すという行為のことしか描けない。演劇も同様、画そのもの自体というのは弱い。例えば青年団の平田オリザは演劇のこういうことを(厳密には違うけど演劇の限界として)「歯が痛い」という言葉で説明した。歯が痛いことをせりふで「痛いんだ」と主張することは不可能で、歯が痛いらしい、ということしか言えないのだと。

ではどうやって涙の温度や湿度を出すか。

たしか、田島列島は漫画『子供はわかってあげない』で涙のうえに手のひらを置いた。彼女が目を閉じる。彼がその瞼に手のひらを当てる。その指の隙間から、涙が溢れる。

触覚を使う。

瀬戸祐介はこれをやっていた。

『頬にはつめたい涙がながれていました。』と地の文が言う。瀬戸氏は自らの頬を触った、そのあとその手で、自分の腕のあたりを拭くように触ったのだ。

こういう行為を観たくて、劇場に足を運んでる。

役者のなかで起きてること。感情が身体に滲むこと。それが空間にまで及ぶこと。

演劇は、戯曲ではない。演劇は、せりふではない。演劇は、身体ではない。演劇は、役者ではない。

人間は単純じゃない。感情は入り組んでいて、言葉は裏腹だ。すきだと言いたいのに、ばかと言ってしまったりする。すきだと言いたいのに、言葉が足りない。すきだという以上のことを言いたいのに、すきだという言葉にしかならない。

演劇はその複雑な人と人とのあいだにうまれる。〝推し〟だけを双眼鏡で切り取って眺めていては、演劇は見えない。

演劇にしかできないこと。この上演で、それを観た気がする。芝居自体はそりゃあ、それも観るけど、演劇は芝居ではない。もっともっと遠くから目を凝らしてみないと、ぜんたいを捉えられないものだ。

観客は役者の身体と言葉を辿って、物語をつなぐ。舞台のうえで星座をつなぐ彼らと同じように。眺めながら、途方に暮れるような気持ちになった。この茫漠とした広さが、星を見る遠さが、この距離が、この作品をみるときの(自分の)最適解だと思う。

きみの誕生日を覚えている。
きみのすきな星を覚えている。
きみの部活を覚えている。
きみの最期を、忘れようとしても思い出せない。

そうじゃなくて。

死まで受け入れるとき、やっと愛せる。

〈不在〉を現在→過去の箱庭にいれて再生することで死が現象になり、センテンスを反復することで空想が現象になり、ボーイミーツボーイを救いとすることで(広義での)恋が現象となり、きみを存在として愛している、という、つめたい愛。

きみの誕生日を忘れる。
きみのすきな星を忘れる。
きみの部活を忘れる。
きみの最期を、ときどき思い出す。

ラストの暗転前、りくはやっと遠くに目をやる。

時間を辿ることでしか、辿り着けない出口。見えない景色。

演劇にできることを、すごい彼方から思い出したような感じがした。






というわけで今回は自分用備忘録ブロゴとなります。ほかの細かめの感想はツイッターに載ってる。コロナ以降ほとんどの演劇は録画されてきた。でもこの公演は配信もされず円盤も出ない。戯曲販売もない。だから書いとく。でもあらすじ書いたって上演の意味がないので、観劇中自分にみえた星座のことを書く。あ、配信に慣れきってしまったからか単純に感性が鈍ったか、せりふをパンチラインとして覚える能力が衰えたので今回のせりふはとくにニュアンスで書いているためきをつけろ

ちなみにこれから書くのはBチームの公演のことだよ




瀬戸氏のかんそうはいっぱい作品のことと語るのでまずみんなのハイライトから。

葉山さんはまっすぐな落ち着いたあかるさがあってすごくよかった。いて座、だったかなあ、あれのとき椅子に片足かけて弓を引くのがすきだ。なにより彼は背負わないのがとてもいい(この「背負わない」は詳しくはこのブログ(声優・宮本充のブログ)のようなことですので参照)。悲しい場面を悲しく演じては客は感動できない。抑制が効いててかなりよかった。

しゅうへいさんはもうなによりかたちがいい。これは才能なんだけど、身体に癖を感じない、というのはなかなかじつは稀有。役者としてのつよみだとおもう。THE・MANでいられる才能。そんで説得力。車掌よりにーちゃんがよかったな。とても大人で、とても男だった。

川本さん。先生よかったな。あの概念をしゃべるところをほとんど立てていないのがかなりいい。生きるってことはぜんぶだからね。それをあたりまえのように、説くでもなく、独り言みたいに、でもはっきりとすばやく言う。ぜんぜん押し付けがましくなく、かといって聞かせないわけでもない。この塩梅とてもすきだった。

そんで瀬戸氏。

『どうして』という開口一番からもうよかった。テキストは解かれ、「どうして」のせりふのその以前の心性が空間に放られたようだった。ほんとに「口をついて出る」のが普段の言葉だ。祈りが通じてしまった、そのあとはもう、それは祈りではなく、縋るだけの幻想になってしまう。

〈ジョバンニ/りく〉は、〈カムパネルラ/けんじ〉の居た(もう居ない)椅子を見る。不在を思う、ということは、存在を強烈に思う、ということだ。

読み返して、念じては、だれも居ない椅子に目をやる。

この「祈り」の、正気な狂気がいたく哀しい。『屍者の帝国』でワトソンはフライデーを屍体のまま生かしたが、なんかそういう、信仰と化学が同一になってしまうような。

ただ瀬戸氏のジョバンニは同化していない。それが妄想のごっこ遊びだとあきらかに分かっていて、こうして物語のなかにいるうちはあいつがいるんだよ、ということも自分で言ってのける。だが、口だけだ。わかってるよ、と言いながら、受け入れ切れてはいなくて、むしゃくしゃしてる。

〈先生〉は「銀河鉄道に乗るか」「降りるか」の2択を出す(〈車掌〉は不在の椅子:けんじに向かってだけ、明確にアナウンスをしている)。そしてさいごには、りくに「君は降りなさい」と言う。
いまのりくはけんじが死んだことを受け入れず、死んだ者にこだわって、自分の生きている世界に戻れなくなっている。
けどりくは、結局は、どちらも選んだ。銀河鉄道に乗り、けんじに会いに行き、彼に向き合うことになる。

別れを言うときには、会える。

幻想第四次の邂逅のなかで、りくは孤独やさびしさを受け止めていく。

けんじとの偶然の出会いに巻き戻されて巻き込まれて、時間軸は混ざってく。このへんからりくはストーリーテラーを降りて、なんていうか、お母さんへ牛乳を届けにいくほうの彼になる。客は彼を遠くから眺めることになり、望遠鏡を逆さにしてみたような、全体から一点を見守るやさしさのようなものを持つ。わかりながら、わからないふりをしているのか、過去の記憶を眺めているのか、これがりくの見たかった夢なのか、いずれにしても。もうけんじはいない。

さんざん戯れ合って「また明日」で別れたあと、カットがかかる。

さっきまでの青春群像を、茶化すように、笑い合いながら、幻想第四次でふたたび会う2人。ひとつずつ、競り合うように、互いの分野のひとつひとつを指していく。そのひとつひとつは、その文字とは、違う言葉だ。デネブ。どうして。ベガ。行かないで。アルタイル。いやだよ。レグルス。さようなら。

けんじが死の間際に見た、ゴブリンシャークの群れ。そしてマリンスノウ。星空みたいで、奇麗だった。その死の手前、自分のあたえた記憶がそこで再生されたこと。彼の死が、全て苦しみに覆われていたわけではなかったこと。嘘でも、そう思えた。そう思いたい。ロマンチックう、そう呟くりくの喉が泣いている。

おまえ、そこにいるんだろ。

潜って潜り切った深海の、つめたく暗い底に立つ、りくのせりふだ。

羨ましいよ。おれだって見たいよ。

おまえのほうが羨ましいよ。ベテルギウスの超新星爆発。見たかったな。

ざまあみろ。

そのせりふの、気が遠くなるような裏腹さ。

けんじのひとことずつに、目をみはって、まばたきを忘れて、なにも言えずにいる。微笑むすぐ手前のような、それでいていまにも泣き出しそうな、片眉だけすこし下がったあの表情。

引き裂かれるようだ。幻想と現実のあいだにあぶなく立ち、それでも、それでも、と本をひらく彼の、どんどん少年のようになっていく、柔らかくて、ひどく繊細で、薄皮一枚下にふれているような、掻痒感すらあるようなあどけなさ。つよくてよわい。彼の飄然としたような佇まい、その奥にある、ふだんは羊歯で見えない、彼の暗がり。そういうことを思ってしまう。なんて無防備なんだろう。
なんだかいつも彼が舞台でひかるとき、その身体はとてもよわく見える。いや、肉体的にじゃなくて。目(は視覚なんだけど)の触覚が、彼の纏う感情に、ぐぐ、と入り込んでしまう。だからいつもつられる。観ていて、おなじような顔になる。おなじような喉になる。呼吸になる。それは感情移入でも共感でもない。なんだろう、ブラインドマラソンで、伴走者とランナーが一緒に持って走るロープがあるんだけど、それみたいだって思う。
感覚が感覚のまま伝わってくる。言葉は架け橋じゃない。作品は媒体じゃない。わたしたちが普段会話をしているときのあれがそのまま。瀬戸氏は「ほんとうに」それを言っている。いま、いま、いま、自分の裡からつねにあたらしく出た声として。

けんじはもういない。
でも別れを言いにきたから、ちゃんと会えた。

汽笛を遠く聴く。本をみずから閉じる。胸のまえで、ぱたん、と、手を合わせるように。それは祈りの姿にも似て、銀河鉄道を見送るりくのすがたに喉が詰まった。




余談だが、〈先生〉が言う「救い」を宮沢賢治が描こうとしていたとは私は思わない。彼が描こうとしていたのは、きっと祈りそのものだ。ほんとうに、誰しもの祈りを、どうか、どうかと、決して自己犠牲が先にあるわけではなく、だれかのために、自分の寿命をあげたっていい、そう思うことがわりとあるけど、そういう敬虔で痛切な感情のことを書きたかったのだと思う。

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

農民芸術概論綱要/宮沢賢治

それは『深海のカンパネルラ』でも言及される〝蠍の火〟のことだ。なにを尽くしても、身を灼くことでしか贖えないような、どうしようもなさみたいなものがある。生きていく苦しさだ。言葉を尽くして書こうとしたが、結局言葉がみつからない。「慟哭させる」ということでしか、ジョバンニの感情を表せない。
慟哭は、フェリーニ『道』テオ・アンゲロプロス『エレニの旅』(ちなみに同監督の『永遠と一日』では銀河鉄道の夜のような描写がある)、東野圭吾『容疑者Xの献身』ヤマシタトモコ『違国日記』とかにもあった。慟哭でないものもあるが、泣くことでしか、あらわせない感情について書いてある。宮沢賢治でいえば『注文の多い料理店』でも「二人は泣いて泣いて泣いて泣いて泣きました」という表現がある。

透き通るほど淡い夜に
あなたの夢がひとつ叶って
歓声と拍手の中に
誰かの悲鳴が隠れている

back number『水平線』

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。そのどうしようもない感情のために、ものを書いていた、というような気がする。業を変換して、昇華する。かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは 智慧にみちびかるべし。つまり魂の営為だ。やむにやまれぬ激情が、そうさせる。瀬戸祐介の芝居に、ときどきそれを感じる。それをみて私はいつも蠍の火になって、たくさん言葉を尽くしてしまう。

イヴステぼんやり考




今回はもうだいたいツイッターに書いたので、マジの編集後記っていうか、あとがきブロゴです。

例によってツイ備忘録は「@so_lar_is since:2022-12-24 until:2022-12-25」な。

今回はあんまり舞台そのものについて、あと役者についてはもうぜんぜん語らない。ていうのも、なんかそもそもが、刺さらなかったんだ。刺さらなかったっていうのかなあ、なんか「いうことなし」っていう感じがいちばん近い。だからそのものの感想はツイッターで言い切ったというか。舞台がよくなかったとかではマジでまったくなく、むしろ原作は大学生のときに観てて印象に残ってるほうの作品だったし、舞台化での設定や物語の落とし込み方も唸ったし、演出(というか画づくり)のしかたもすきだった。博品館劇場に足を踏み入れて、わりとストイックな舞台装置、客入れのBGMも無し、役者もみんないい、最高。劇場を出たあとも、つまんないという感想は一切持たなかった。だからなんでこんなにも自分の感想がうっす〜いのかということを年末ぼんやりしながら考えていた。考えて、やっぱり観てよかったな、って思った。作品本編以外のところへ連れて行ってくれる作品は、いい作品なんす。例外なく。


『イヴの時間』のサビはけっこうよくわからない。いやそんなものなくていいし、テーマとかそういうんじゃなくて作ったと思うんだよ。実際『イヴの時間』の企画は最初、どこからスタートしたんですか?』というインタビューの質問で監督said,『喫茶店の中と外を描いて“思春期レベルのブレードランナー”をやったらどうかと。』って言っていた

ブレランでは恋におちた2人はどちらもレプリカント(アンドロイド)だった。でものちにその赤子が『奇跡』として産まれるんだけど。まあそれはいいとして。

イヴの時間はなんつーか、恋愛もの未満だし、リクオとサミィはどうもこうもなったりしない。
リクオが主人公だけど、リクオはけっこうドリ系を否定しながらも困惑しながらも自分がロボットに情を持つことをふつうに受け入れてく。「コーヒー美味しいよ」「ありがとう」と言えてしまうし、対人間へのディスコミュニケーションの不満っていうか。嘘つかれた、なんで、言いたいことあったら言ってくれ。ふたりの関係はピアノへ結実する。でも一方でだよ。平気なふりしつつ、なかば茶化しつつ、マジでシリアスな感情を持ってたのはマサキのほうだ。淡々とすすんでく『イヴの時間』っていう作品のサビを強いていえば?っていうなら、テックスとのシーンがけっこうサビなんだろうなと思ってるんだけど。

人間は物に心を宿してしまう。「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」ではない。「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?と、人間は思ってしまう」だ。

アニメ版のテックスの顔。経年劣化かなんかで目頭からすーっと下へ線が伸びてる。それが「泣いた」ように見えてしまう、そういう人間の心。

アニメ版は喫茶店の外を描けた。視聴者はどちらかといえば主人公側に寄り添うかんじ。それでも、アンドロイドから見た人間、を描いている。テックスとのシーンは同時にどちら側からの視点も入ってる。ロボットが泣いてるように見えてしまう人間と、人間に向けて本音を紡ぐロボット。いくつもの短編を並べることで、アンドロイドと人間の関係性を複数見せていく。なにかたったひとつのテーマに落とし込んだり、必要以上に物事を掘り下げたりしない。見せたそれら複数の叙事から、視聴者のなかで像を結んでもらう。

舞台版は物語をほとんど喫茶店の中で描いた。もちろん外のことも語ったが、アニメ版よりはリクオとマサキに観客は寄り添っていないと思う。独白するのはリクオだけだ。彼が主人公なことには変わりない、んだけども、舞台版はどちらかといえば、結果的に、アニメ版よりも尚アンドロイドの内面を描いていたように思う。

だからアンドロイドは夢を見た。でも、そうあってほしい、という脚本家の思いでもあるような気もした。その思いは、たぶんリクオやマサキと同じものなのだとおもう。

サミィがはじめてイヴの時間を訪れたときの会話。

『家にはコーヒーの好きな男の子がいて』
「その子のために美味しいコーヒーを淹れてあげたい、と?」
『はい、そうです。そうしたいです』

舞台『イヴの時間』

そうしたい、とサミィはいう。

舞台版『イヴの時間』の作品の意思はたぶんここにあるんだろう。



でもなんかなあ、なんか刺さんなかった。

それはただたんに、ほんとに嗜好というか、魂の位置が違っただけであって、べつにそんなことはどの作品でもあるし、いままでにもたくさんある。でも観劇後に思い出したり考えたりしたことを引き摺り出すと、たぶんけっこうこの物語の持つ、設定、みたいなものに、自分が勝手に思い入れがあるんだろうなあと気付いたし、それをいまこの際に理解したにすぎない。

アンドロイドに託したいものはここにはない。

私が託したいのは思想だった。


2022年9月に宮沢章夫が死んだ。最も、ほんとうに最も敬愛した人間だった。

彼がこのニュースを知ったら、この演劇を観たら、この本を読んだら、どう思うだろう、どう書くだろう。なんて言うだろう。いつもそのことを考えていた。2.5次元舞台を観るときも、というかなにをみるときも、きくときも、よむときも。もし彼が観たら、もし演出したら。彼のつくる作品が観たかった。もう一度。

私はなにかに傾倒するとき、ほんとうにすべてをそれに捧げる。それは分かりたいからだ。彼らの思考を。理由を。だから分かるために、彼らをインストールする。同じ本を読み、同じものを食べる。癖を身体に入れる。喋り方ひとつ、歩き方ひとつ。

(とくに)そういう点では、人間もアンドロイドも変わらない。頭痛薬を飲んで、すっかり頭痛が消えてしまうこと。それと同じように、抗うつ剤が、暗いきもちを消してしまうこと。

性別とか、血液型とか、心理テストとか。育った環境まではインストールできないにせよ、想像して(ほんとうはあんまりよくないことだけど)、推し量ることはたぶんできる。

そうやって脳を彼らの近くまで連れていく。回路を編み直す。実際、宮沢章夫の演劇は彼の見聞きしてきたものを知っているかいないかで、感度はだいぶ変わってくると思う(宮沢章夫の舞台は引用がとても多い、みずからのことも引用したりする)。

宮沢章夫の言葉がもっとほしかった。

未来にもまだ彼の言葉があってほしかった。

だって伊藤計劃ももういない。私は引用でできていて、私は彼らの言葉を、まなざしを、自分の口や目と取り替えて、観劇している。自分は借りパクでできている、と言ったのは櫻井孝宏。落語家は容れものだ、ということばが出てくるのは『昭和元禄落語心中』。

屍者の帝国』を伊藤計劃から引き継いで書ききった円城塔。そのペンネームは、彼の指導教官だった金子邦彦が書いた『カオスの紡ぐ夢の中で』のなかに登場する「円城塔李久」という物語生成プログラムからとっている。『屍者の帝国』を読んだとき、彼はほんとうに自動生成機になった、と私は思った。そのなかに伊藤計劃がインストールされている。書き続けるフライデーは円城塔であり、遺されたワトソンは円城塔である。

円城塔はさいごにこう書く。

せめてただほんの一言を、あなたに聞いてもらいたい。
「ありがとう」
もしこの言葉が届くのならば、時間は動きはじめるだろう。
叶うのならば、この言葉が物質化して、あなたの残した物語に新たな生命をもたらしますよう。
ありがとう。

屍者の帝国 / 伊藤計劃・円城塔

自動生成機ではない、円城塔の言葉。

私も書き残したいと思う。伝えたいと思う。演劇という時間とともに消えてしまう行為のことを。あの姿のことを。

私は容れ物で、そこに彼らの言葉が、記憶が、姿が、たくさん詰まっていて、だから書き留めたくて、残したくて、伝えたい。でもほんとうのこたえに、その姿の向こうにある彼らの解に、到底追いつけることはないから、彼らしか持っていない美しいこたえを残してほしい。残された言葉から、あたらしい言葉を生成できる、と思いたい。

アンドロイドに、そういう夢を見る。

おぼんろ『瓶詰めの海は寝室でリュズタンの夢をうたった』を観た




リュズ夢自分用備忘録。例によってほとんどツイに書いてたことです。瀬戸円盤鑑賞後記に追記するくらいのノリでやっていきたい。

演出がどうとかこうとかいう本音めいたことはツイッターのほうにいっぱい書いてるので「@so_lar_is since:2022-08-20 until:2022-08-29」で検索だ。このブロゴは総括な。

そのまえに、末原氏×瀬戸氏の最高対談がこの公演がはじまる以前に公開されていたので、まずそのはなしをします。このあとだいぶ引用して語るのでここで話しておく。2.5ジゲン!! 編集部さんほんとうにありがとうございます。あと末原さんありがとうございます。

――お互いの第一印象を教えてください。

末原:去年の4月に僕が脚本演出の舞台に祐介が参加してくれたんだよね。

瀬戸:その時がはじめましてでしたね。末原さんの他にも同い年の演出家っているにはいるんですけど、一緒に仕事したことはなかったんですよ。当時は末原さんの名前も知らなくて、何の情報もないまま稽古場に入ったんですが、末原さんの稽古スタイルとか人に考えを伝える姿を見て、この人はすごいなと思いました。一気に尊敬しました。同い年なのに芝居を見る力がめちゃくちゃあるなって。その時はコロナもあって作品を世に出せなかったので、今回は嬉しいですね。この舞台は一緒に盛り上げたいという気持ちです。

末原拓馬&瀬戸祐介、「リュズタン」はまるで自由研究? この物語があなたの物語でありますように

まずここよ。瀬戸氏って「芝居を見る力」とか言うんだっていう。いやあたりまえに思うかもしれないが、役者なら全員が全員そういう視点持ってるかというとじつはそうでもないと思う。視座の違いというか、芝居を見る力があっても、それを意識的に言語化できるかどうか。まずもってほんらい「感じたことを言語化する」は難しく、なんなら「感じる」ことがまず難しい人もいる。瀬戸氏は末原拓馬という名前も、その人がやってることも知らずに、ただ「演出家」として出会ったのに、なんの補助線もなしに「この人は芝居を見る力がある」と感じ、かつ言えてしまうというのはやっぱり信頼っす。思考がクリアだから芝居もクリアなんだろうな感じる所存。

末原:当時、祐介が務めていた役は大事な役なんだけど出番は多くなくて、でもずっと稽古を見ていてくれたんです。印象的だったのは、主演の2人のシーンの稽古を粘っていたとき、他のキャストが帰っていく中で祐介はずっと稽古を見ていたんだよね。だから「ごめんね、ちょっと手伝って」って言ったら、スッと入ってきてくれて、「芝居が好きなんで」って言っていて。

瀬戸:そんな渋いこと言っていました?

末原:言っていたよ(笑)。芝居を最短時間で仕上げて、どんどん現場を回るっていう俳優の仕事のなかで、疲れているだろうし、ドライに仕事をこなす人もいるんだけど、祐介はめちゃくちゃ熱いんだなと思った。それが、普段稽古場にいる祐介からすると意外だったね。

末原拓馬&瀬戸祐介、「リュズタン」はまるで自由研究? この物語があなたの物語でありますように

ここもけっこうすきで、『薔薇ステ』稽古場スペースのときもさんざんツイートしたけど、稽古を「見る」人だから芝居が格段にいいんすわ。稽古で自分のターン以外のところをせりふ覚える時間にあてたりするひとはけっこういる。まあもちろん特に2.5の俳優とかは興行のスパンがバカみたいに短いせいでそんな稽古見てる時間とれない現場も多くあろうけれども、そういうなかで瀬戸氏はわりと「見る」人らしいということがまた信頼に値する。マジにインフィニティ・反芻で何回言うねん案件なんだけどこれはもうほんとうになかなか性格が出るから稽古場はさあ。まあ稽古場の居方は当然のこととして、いろんな芝居を見ることでしかたぶん見る眼は肥えないんだと思うし、けっこう下手な人のを見るのとかも大事だし線でどう変わってくのかを見るのも大事だし、見ることは簡単でみんなできるけどその精度と経験、質と量がマジで大事だということなんで何回も言います

――瀬戸さんの演技の印象を教えてください。

末原:祐介は芝居で嘘をつかないですね。表面上の演技についてはみんな技術を磨いてくるんだけど、ある意味当たり前なんですよね。10年くらいよっぽどサボらなければある程度の上手さは備わってくるんです。もちろんその技術は大切なことなんだけど、祐介はそのさらに中にある感情とそれを表現する方法に嘘がないんですよ。祐介本人の持っている個性は人間的な暖かな個性で、でも頑固なんです。すごく強くて頑固で暖かい中にとても脆いものがあって、その繊細さが見え隠れしながら舞台上で役を演じているというのが、多分祐介の個性なんだろうなと思います。そればっかりはどんな天才だろうと他人から引き出せないじゃないですか。そういった生まれてから祐介が培ってきたものを表現するために技術を磨いてきたんだなと思うと、彼は他の作品ではどんなふうになるんだろうって考えますね。

瀬戸:僕についてみんな、「セティって明るいね」っていうんですよ。脆いところがあるって言ってきた人って人生で数人しかいないんです。だからちょっと末原さんすごいなって思いました。僕はみんなでワイワイ明るいのも好きだし、僕自身明るいところもあるんですけど、実は陰キャなんですよ。色々怖いなって思っているんですけど、意外とみんなは気づかないみたいで。

末原:祐介は明るいもんね。

瀬戸:別にわざと明るくしているんじゃないんですよ、体育会系だし。でもやっぱり興味のあることにはグっと集中しちゃいますね。末原さんすごい。2回稽古場が一緒になっただけで、こんなに人を見ているなんて。

末原拓馬&瀬戸祐介、「リュズタン」はまるで自由研究? この物語があなたの物語でありますように

この辺のわかりみもすごかった。筆者はもうずっと瀬戸氏には申し訳なく思ってるけど、邪推分析人間なので勝手に、ほんとうになんの根拠もなく瀬戸氏の芝居、ひいては本人の性質のことを考えまくっている人間なんだけど、筆者が思うに、瀬戸氏って別に陰キャではないけど、根アカの謙虚シャイボーイだよなと勝手に感じている。

はっきりとした陰や暗さ、ナイーブさはほとんど見えない。かといってザ・陽キャって感じではない。確実にネアカではあると思う。でもだってさあ、これは筆者の偏見にまみれすぎの感想だけど、あんなビジュアルをもって生まれてきてサッカー部だった人間なんてスクールカースト上位男子すぎるだろっていう。ちょっとダサすぎの偏見なんだけどでもそうだろ。って思うじゃん。なのにそういう、ああいう人間たち特有のギラつきみたいなものはみえず、飄々とした佇まい、力が抜けていて、落ち着きのある、むしろちょっとさめてみえることもある。わりと奥ゆかしい印象。大人数のなかだとすすんで喋りはしないが、喋ったときには的確にもっていく、みたいな。いまのところの瀬戸氏の印象としてはまあ瀬戸氏の円盤を全部見たほうの感想ブログに書いてますのでそっちを見てくれ。

とにかくだ。芝居にこの人の佇まいが出てる。滲んでいる、と思う。

瀬戸氏の芝居は暗がりにいる人間のようなそれではない。でも、確実にそこには魂の営為がある。芝居に救われている、ではない。芝居に満たされている、あるいは、癒されている。そういうある種の、心の洞窟みたいなところに芝居が響いている。だから筆者は瀬戸氏の芝居に惹かれた。どこがどうみたいなのは後述することにも出てくるしあとにする。

あと『頑固』という言葉が出てきたのが鋭かったし、わかる。
よく瀬戸氏は自分のことフラットだっていう。けど、オープンマインドにガバガバのひろい心ですべてを吸収したその上で持ってる美学は譲らない役者だと筆者は思っている。
これは自分がそうだから言ってみることだが、自らのことをフラットだって言うひとはけっこうフラットじゃないと思っている。例えがちょっとアレすぎるんだけどどうしようかな。まあいっか。まあフェミニストにもいろんな種類がいるっての知ってるうえで、『ズートピア』でウサギが言ってたように、女であるってことを忖度しないでください、と言ってる奴ほど女への偏見がすごいんだよな、みたいな意味で、〝自らのことをフラットだって言うひとはけっこうフラットじゃないと思っている〟。要するにそこがコンプレックスなんですよ。偏見ありすぎるから、そう見ないように心がけてる、みたいな部分あんじゃねえかなあ、ってのは邪推している。

はい。最高対談でした。

そのうえで、『リュズ夢』のはなしだ。


自分が見た回は8/20夜・8/21昼と、配信された2公演、の全4公演。なんかうまいことミックスキャストのミックスを観れて全員の芝居は塩崎ラッコ以外2回ずつ見ている。塩崎ラッコは1回、瀬戸ラッコ3回。塩崎ラッコよかったんで瀬戸氏と比較してのちほど語っていきます。

リュズ夢俺ベスト回は8/21昼。メンツはわかばやし・橋本・高橋・瀬戸・大久保、だったかな。このベストというのはキャストの善し悪しではまったくなくて、このキャスト陣でリュズ夢という物語の本来の輪郭が見えた気がした、という点で。5人の関係値として自分の腑におちて、自分なりの最適解がそれだった、という点においてのベスト回。という意味です。

では自分的初回の8/20夜がベストに感じなかったのは何故か。

けっこうTwitterでブワーと検索かけて感想見てたんだけどこの興行はもう初日の初回の時点から「よかった」、「泣けた」、「信じられないくらい泣いた」、とかを見かけたが、あんまり筆者は「泣ける」物語を信用していない(これも後述する)ので警戒しつつも、末原氏の感性を見るにちょっとわりと響きそうな部分がちらほらあり、もしかしたら響きすぎて戻ってこれなくなるんじゃないか、と思ってちょっとこわくて、そのくらいの感じで期待してハンカチも膝の上に置いて観劇したんだけど、とくに、あの〜、泣けるんだと思うし泣きどころもわかるし物語もわかるしテーゼとかもモチーフもわかるんだけど、ほとんどグッとこなかったんす。

この世につまんない芝居はたくさんある。一方でこれはかなりおもしろい芝居だった。加えて空間の音楽の使い方とかもわりとどきどきしてテンション上がって見てたし、それが演劇としてどう、とかは抜きに作品を面白がれるタチなのを自分は自分で知ってるはずだった。だからけっこうこのグッとこなさには拍子抜けしてしまい、このわけを、この腑に落ちなさを、ずーーーーっとその夜ホテルでツイートしながら考えていた。今読み返してもけっこうただしいこと言ってると思うしはっきりとした差異は言い当てられないんだけど。

たぶん自分の感性と、この物語が持っている波長の、たんなるずれ。主人公の在り方と、マクガフィンの在り方、物語の視座。このへんが末原氏は自由なんだよ。屈託なく創作している。自分の寸法からけっこう外れていることが多くてびっくりしたもんな。でも弁士だしてきたりとか空間の飾り方がフィリップ・ジャンティめいていたりいろいろ見てんじゃないか?とも思えるのでむずかしい。っていうか末原氏という一人の人間からキヨとトノキヨの言葉どちらもが出てきてるということがめっちゃすごいと改めて思うんだが。まあそれはそれとして。

キヨが一回ああなることによって物語の一旦のゴールが「キヨを救う」にすり替わる。でもそもそもはトノキヨが救われなくてはならなくて、トノキヨが「生」へと恢復していくべき物語だ。想像力のことが繰り返し言われていて、想像力がキヨを救う、あの頃の5人を救う。けれども、トノキヨは想像力そのものに救われたわけではないんだよ。トノキヨは想像力をつかって過去を取り戻し、向き直り、携え直した。でも再生したのは想像力でもなんでもなくて、もう4人はいない、ということを認めて、受け入れた。そのことが捉えきれなかったから腑落ちしなかったんだと思った。あと〝演劇的な〟想像力をそんなに使わなかった、というところも、自分の感性とのずれがあったというだけのはなしで、めっちゃわかるのに、周りと琴線が合わない、みたいになったことが腑落ちしなかったでかい一個の原因だった。まあとった席が前すぎたというのはおおいにある。

それでだよ。

自分が腑落ちしたのは橋本真一のキヨと、わかばやしめぐみのトノキヨの姿だった。

まずこの物語には「母性」が必要だったのか!と思ってしまうような女性主人公の存在だ。「こども」である4人の心のぐしゃぐしゃを包容するまなざしと、つよく立つ「大人」。「4人とトノキヨ」という関係値がわりとクリアに見えた。その関係値は「こども/大人」であり「主人公/脇役」であり「巻き込まれるひと/仕掛け人」とかいえるとおもう。

そんで橋本氏の純性というか、邪気のなさ。キヨは無垢でよろこびを満たした子供だと腑に落ちた。末原氏のクラゲは「わかりすぎてる」という感じがしたんだよ。ミステリアスすぎるっつーか、なにかを背負ってそうすぎる。キャラクターの造形が二枚目すぎる。もちろん末原氏本人も二枚目だが。〝悪童〟なんだよ。寝室の窓を開けた瞬間のあの佇まい。かっこよすぎる。だからこういう立ちすぎてる存在感のキヨが闇堕ちする、という現象のコントラストも立ちすぎるし、ほんとにキヨが「最強」にみえてしまう。あの4人は対等・並列であったほうがいい。キヨが中心にいたとしても。ていうかだって末原氏はガチの創作人間だし。イマジナリ最強人間というのが板の上でも滲むんだなあと思う。

でもこれもインタビューのはなしじゃないけど、自分がコンプレックスで物語をまなざしてしまう人間だからそう見えたってだけだとも思う。私はなんにも思いつかないこどもだったから。トノキヨのせりふがほとんどかなりわかる。

かといってこれはべつに共感とか感情移入とかのはなしではない。視座がずれる、ということ。それまでトノキヨの物語だったのに、さいごだけキヨが立ちすぎて急によくわかんなくなってしまっただけで、さいごまでトノキヨの物語であればちゃんとこの物語の輪郭を捉えられるんだなと思った、っていうはなしをする。

この8/21昼の回はわかばやしさんの『海をみようよ』というせりふが妙に立って聴こえた。ここでもうちゃんとグッときた。

ああ、そうか、この物語はそういうことだったんだ。

『想像力使って/提出しないとな、夏休みの宿題』が、すべてを認めて、受け入れた向こうの言葉として聴こえた。諦めた向こうにある、決意と再生。トノキヨの姿がここで変わったのがわかった。

そしてもうひとつグッときたところ。

トノキヨが発表をはじめたとき、キヨが抗う。ああ、終わりが来てしまう、いやだ、やめてくれ。そういう「こどもがぐずる姿」が痛いほど無垢でひどく胸にきた。だからキヨを、「キヨに守られていたトノキヨ」が、こんどは「キヨを守る」、という姿の反転が、切なくてとても奇麗だった。

そしてなによりも、あのキヨの痛ましい姿は、あの記憶に差し掛かってしまう、そのおそろしさに抗う姿だ。橋本キヨが抗いだしたとき、ふなの、憲宗、みなの3人が、キヨから目を〝背けていた〟。ここに私はかなりはっとした。末原キヨにはハラハラとみんな前のめりになっていたような気がして、それを確かめる術はもうないんだけど、でも橋本氏のキヨはそういう「見てはいけない一面」があそこでどっとあふれるのがよかった。

見ていられない、っていうことってあんまりないと思うんだよ。どうしたって『想像力』を持っているからこそ、悪性の好奇心が人間のなかにはある。目を背けながら、見たくなってしまう光景ってけっこうある。でも、あの場面はすごく痛かった。私も見ていてそういう気持ちだったからたぶん「目を背けた」という3人の行為に驚きと同意とではっきりと記憶しているんだと思う。心の痛覚がヒリヒリして、劇場にいたひとみんなおなじような顔してたと思う。3人が示し合わせたようにほとんど同時に目を背けていたような気がして、そうだよね、という、なんか安堵とか救いのような気持ちと、光景にある痛みと、どっちも感じていた。だから、トノキヨがキヨを守り、トノキヨ自身が「乗り越える」大人としてつよくあそこに在ってくれて、また胸を打たれた。

あの「厭わない」つよさ。アシタカがタタリ神にのまれたサンにあたりまえに手をのばすみたいな信頼のつよさだ。キヨは戻ってくる。キヨは大丈夫だから。キヨは最強だから。そういう信頼と愛に基づいて言葉をかけていく。そのひとつ、ひとつ、って光が戻ってくる速度が、朝日の昇る速度と並行して辺りはあかるくなっていく。

『砂浜を走りました』というふなのの無垢さ、無邪気さが胸にくる。

『海の水に触りました』という憲宗の声の震えが、すこしみんなより賢いだろう彼の想像力に触れたと思えるようで胸にくる。

『みんなを見ながら』というみなの佇まい、立ち位置、4人への愛が胸にくる。

あのラスト前の場面で感じたかったエネルギーがこの回は胸に満ちてきた。間違いなく海の端っこだった。熱かった。






そんでもう個別感想を言うには書きすぎてんよ。だが書いとかないと後世の自分が困るので以下瀬戸氏重点の感想。

じつは塩崎ラッコがかなり好みで解釈一致だった。この物語の筆者としての最適解ラッコは塩崎氏だったと思う。
憲宗ってほんらいこういう奴なんだろうなあと思うような感じだ。名は体をあらわすけど瀬戸氏のは「憲宗」ってかんじではあんまりない。みたいな感じ。伝われ。瀬戸ラッコはちょっと鋭すぎるかな。わかんない。でも「叡智」って感じっつーか。塩崎ラッコのが「小学5年生なりのがんばって背伸びした聡明さ」って感じで自分はこっちがぴったりきた。
瀬戸氏はわりと自分の地からいってるというか、自分の「なかにある」子供を引っ張ってきてやってる感。けど塩崎氏は地とはちがうとこで自分の「外から」引っ張ってきてる感。塩崎氏のほかのを見たことないからちょっとわからんけども。
瀬戸ラッコはガチで聡明そうに見える。だからたとえば、鉄橋前の『何時だと思ってんだよ』とか見ててしんどいせりふある。ここが実際どうなってたかはあとで語りますが。
たとえば火って高温になると寒色になっていくじゃん、塩崎ラッコの炎は暖色だけど瀬戸ラッコの炎は寒色だ。瀬戸氏のもってるオープンマインドな、ちょっとひりつくくらいのやわらかさを併せ持ったつめたい愛があり、これが「そのせりふどんな気持ちで言ってる?」っていう胸痛になっていく。これはヲタクの幻の痛覚だけど。
塩崎ラッコは子供なりに聡くて、隙があって、不器用ぽくて、無骨であった。大人になるにつれ、忖度とか恥とかで素直に投げれなくなっていく言葉や行為をポーンと直球で投げれてしまう、そういう無垢さ、朴訥さがあった。
どっちも良い奴で、でも愛嬌の在処がちがうっていうか。瀬戸ラッコは愛嬌が内側に、塩崎ラッコは愛嬌が外側にある感じ。
たとえば『本人は気にしていない様子』のくだりあるけど、塩崎ラッコはほんとにそういうの気にしなそうに見えた。「おれはおれ。あとは言わせとけ」みたいなカタさがあって、けっこうつよい。でも瀬戸氏はどっかよわさが見える。よわさっていうのは他人に自分を明け渡してしまうような、壁の薄さっていうか。
それは末原氏との対談の話にもなるけど、末原said〝脆さ〟のことでもあると思う。
瀬戸ラッコは『本人は気にしていない様子』にたいしてまっすぐにそうね!って思わない。気にしたうえで、まあどうにもならんわい、って感じ。塩崎ラッコはマジで気にしないっていうかそれがどうした?みたいな感じ。現実を認めて受け止める皿のかたちが違う。
瀬戸氏のラッコはかなり塩崎氏にくらべてほどかれていると思った。だからこそハートが伝わってきてけっこう胸痛かった。

っていうことを具体的にどこで感じたん?というのが以下。

『なんでだろうな』

まず登場して答えの4をおしえてあげるまでの場面。
塩崎ラッコはすっとぼけ・ハードボイルド・坊っちゃんという感じでかなり「粗忽者」度が高い。ボケ方が「目に意思がない」というタイプの、真面目にやればやるほど面白くなるタイプのやつ。真顔であるほど笑ってしまう的な。無言爆死のオチをやるタイプのやつ。伝われ。
瀬戸ラッコは茶目っ気・やんちゃ・ボーイという感じでこっちは愛で笑ってしまうタイプのやつ。微笑ましい、みたいな。
いずれネコを見て笑うかイヌを見て笑うかの違いっていうか(ラッコをネコやイヌで例えるな)。
そこで『なんでだろうな』というせりふの出力よ。
塩崎ラッコはなにも含ませない。でもなにも含ませていないのにちょっと間があるために客はすこしそこで立ち止まる。ほんとに「なんでだろうな?」くらいの引っかかり。こっちはこの言葉自体に立ち止まる。塩崎ラッコのこのせりふはトノキヨに「はいはい」っていう、なんも気にすんな、あんま聞いてくれるな、というなおざり感。やっぱこっちのほうが朴訥としてるよな。
だが瀬戸ラッコはわりと含みありめ。なんでだろうな?っていうあとに「なんでなのかな?」の理由に思考がちょっと接続される感じ。「なんでだろうな」の言葉をこえてその先にちょっと思いがいく感じ。瀬戸ラッコの『なんでだろうな』茶化すニュアンスがあり、朴訥さはない。答えにくいな〜のニュアンスもあるね。この茶化し加減はのちの『怖い目合わなかったか?』にもつながります。マジでせりふに人が出るね。

『おれだよ』

瀬戸ラッコはキヨ・ふなの・憲宗で〝悪友〟って感じがあり、一緒になってウェーイしてる感がある。やーいやーい!ばーか!おれだよ!っていう。「よっ」て感じね。街中で人を見つけたときに後ろから無言でどーんっていくタイプのほうね(知らん)。
塩崎ラッコはンっとにしゃーねーな、ばかだなあ、おれだよおれ、っていうやれやれ感がある。この「傍からみている感じ」がラッコの立ち位置っぽいなあというのが筆者的に解像度高かった。

『あ、おれだ』『シジミ』

これ「まさのり」って言って伝わるかわかんないけど錦鯉みんな見たことあると思うからまさのりで通すけど、塩崎ラッコのはまさのりなんだよ。まっすぐ勢いよくでかい声で言うっていう。こういうボケ方するときの照れがゼロな感じ。ここでも粗忽者度高いなあという。
瀬戸ラッコはシャイボーイなとこがほんとうに出てるなと思う。いや本人がどうかは邪推でしかないんだけど、末原氏の対談の「いろんなことへの怖さ」とか、瀬戸氏をみてるときの奥ゆかしみというかギラギラしてない感じ、俺が俺がってしない感じ(それがすきなんだけど)が出てるっぽく思う。つねにちょっとてへぺろ感というか、茶化してる感じがあるのよ。
ここまできてもう何回も言ってるからわかるけど瀬戸ラッコは照れ隠し的な出力が多々あるんだよ。
そこで次です。

『手当てしてやる』・『怖い目合わなかったか』

前者はキヨへのせりふ。後者はトノキヨへのせりふ。ここ戯曲では『怖い目に合わなかった?』でぜんぜん違うよね。これは2人ともだったと思う。『怖い目に合わなかった?』はけっこうへりくだるニュアンスじゃん。だいじょうぶ?っていうの慮り、心配がある。でも2人ともそれは違った。でも心配してないわけじゃないんだよ。
塩崎ラッコの『手当てしてやる』は(しゃーねーな)という愛とマセが入ってる。ここでも小学5年生なりの範疇での最大限の背伸びがある。これもなかなか好きだ。子供なりのはりきりってあるじゃん、あの感じよ。
だけども瀬戸ラッコは本意気の「手当てしてやる」に聞こえる。ほんとにまっすぐのニュアンスでさらっと言う。
でも瀬戸ラッコ、『怖い目合わなかったか』はやっぱりちょっと照れ隠し的要素があるんだよ。映像でちゃんと顔と身体の表情見ると若干の人見知り感というか初対面感も感じて(トノキヨに会うのは初めてだから)、ほんとに人が出るなあ(2)。ここをポーンと言わないのが瀬戸氏の感性だなと思う。『手当てしてやる』はまっすぐ言えるのに『怖い目合わなかったか』はまっすぐ言わない、言えない。相手が傷ついていることが自明なら躊躇なく手を差し伸べる/相手が無事だったらちょっと恥ずかしいから置きにいく。このひとは善人のシャイボーイだなあっていう。邪推がすごいってのはそうなんだけども。
一方の塩崎ラッコの『怖い目合わなかったか』は純粋に自意識ゼロでまたまさのりで言ってる。どーんて放る感じ。怖い目合わなかったか!(目が二重丸)っていう。こっちのがコミュニケーションとしてはシンプルだと思うから筆者はすきでした。瀬戸氏のはコンテクストがある反応なのでもうすこし複雑だ。

『トノキヨ 待て』

これはせりふというよりもここからのくだりのはなしをする。せりふにかぎって言えば、塩崎ラッコの『待て』はまず「声をかける」だ。あんまり声を荒げることはなくて、やっぱりラッコは聡い子だから「説得する」んだよ。わかってもらおうとする。だからキヨとの出会いのことを喋る。そういう理由のある流れにみえた。塩崎ラッコはわりと冷静に喋る。パッションとか想いで伝えるというより、情報を伝える。これがラッコ、もとい憲宗っぽいなあと思う。
このあとの糸電話のとこにいく流れも、塩崎ラッコだとその前のシーンと段差がほとんどない。ここまでが一続きの括弧で括れる「シーン」だ。
一方瀬戸ラッコはかなりハートでいく。だから『待て』も「待て!」だ。説得する、ではない。引き止める。トノキヨとの出会いを話すのも、情で話している。トノキヨが「キヨは最強だったし俺なんかが助けなくたって」と言うことに対して、「俺なんか」じゃない。「キヨは最強」じゃない。言葉の裏に触れるように話す。キヨは弱いとこもある。トノキヨはキヨを救うに値する。そういう感情にはたらきかける。情報じゃなくハートで伝えるというシーン①だ。それから糸電話はわりとがらっとトーン変えてシーン②になる。
そういう意味で瀬戸ラッコのこのシーンは一続きじゃなく、塩崎ラッコとちがってここに段差がある。塩崎ラッコは「勉強をおしえる」に近い伝え方だけど、瀬戸ラッコは「悩みをきく」みたいな。うまく言えないけど。
塩崎ラッコはトノキヨをあの日の記憶へと向かわせたい。貝のなかの秘密をみせるということを背負ってるというか。背中が広い。ひどい記憶を見せたのはおまえのせい、って言われたっていい。そういう毅然とした態度に見えて、憲宗ってこうするだろうな、と筆者は思う。でも自分はけっこう道徳より倫理、論理より感情派なので、瀬戸ラッコのこともたいへん沁みる。

『安心しろ。その秘密のなかに俺たちも居る』

これもさっきの場のなかのせりふではあるけど、2人でけっこう違ったので抜粋。
塩崎ラッコのこのせりふは妙に心強く響く。瀬戸ラッコは先述したようにハートで寄り添う。トノキヨが「どうやってこの貝を開ければいい」と訊いたときに、もう目的は達成される。だからトノキヨに貝を渡して行くとき、瀬戸ラッコはもう去る。貝のなかの秘密に実感をもっているから。ほんとにその秘密のなかにおれたちもいるから。安心しろ。心配すんな。でもトノキヨはそう言われても尚まだ彼が去ってしまう心細さがある。まって、置いてかないで。
だが塩崎ラッコはもうこれ以上指南してくれることはない。その秘密のなかに俺たちも居る、それはトノキヨへのバトンだ。俺たちもいる。だから託す。しっかり向き合えよ。その突き放し方は彼のトノキヨへの思いだ。寄り添うのではない。過保護ではない。手放すという信頼がある。だからトノキヨは置いてかれても進まなきゃっていう永訣のような別れを受け止めて一人になれる。
特筆すべきなのが戯曲では『安心しろ』というところを塩崎ラッコは『大丈夫だ』と言う。せりふは一言一句の役者とイメージ記憶の役者がいるが、瀬戸氏はわりと一言一句だと思う。『大丈夫だ』と『安心しろ』はだいぶ違う。これは『なんでだろうな』に近い。安心しろ、は落ち着け、とかの部類だ。相手の状態をフォローする言葉。けど『大丈夫だ』は違う。大丈夫かどうかは相手によるからだ。大丈夫かどうかは当人にしか決められない。それでも塩崎ラッコは『大丈夫だ』と言う。『なんでだろうな』がニアリーイコール「これ以上聞いてくれるな」だったように、『大丈夫だ』は信頼とともに「おまえ一人で行くんだ」でもある。そこに俺たちもいるから。だから行け。進め。覚悟せざるを得ないつよさがある。強くあれ、という言葉。塩崎ラッコのこのせりふを受けたら「まって、置いてかないで」とはなれないだろう。頼ろうとしていた自分にはっとして、ああ、行かなきゃ。キヨを救えるのは自分だけなんだ。そう思い直すような気がする。

『傘が必要だって言ったろ』

塩崎ラッコのがマセてて笑える。これも小学5年生の背伸びだ。言ったろ、へへん、っていう。そのあとの「いやそれならさっき傘させよ」「ああそれもそうだな」ってやりとりもやっぱり基本的には小学生だなっていう、思い至ってない感じがあって、あーやっぱこっちだねってなる。
瀬戸ラッコはそのまえの「感動している!」の地続きの嬉しみで言ってる。子供がテンション上がっちゃってるときのあの感じ。得意になって言ってることには変わりはないんだけど、瀬戸ラッコのは「傘が必要だ」っていうその自分のアイデアが御名答だったことへの感動の言葉だ。塩崎ラッコは「傘が必要だ」っていうアイデアそのものを得意がってる。やっぱり瀬戸ラッコのほうが感情が入り組んでいる。だからといって大人びているというわけではなく、感情のレイヤーの枚数が多いのだ。筆者は瀬戸氏の分断できなさ、カテゴライズできなさがだいすきなので、ここでもそれが見られてかなり嬉しかった。2.5とかのキャラが一本通っているタイプの芝居で氏の芝居が面白く感じるのはそういうことだと思う。キャラにすっとはまってわかりやすい、というのが一般的には受けるのだろうけど、瀬戸氏の芝居には奥行きがあって、容易には掴めない。かといって塩崎氏の芝居がそうではないというわけではまったくなく、ベクトルというかもう位相が違う。たとえば塩崎ラッコの「ツッコミでいるようで存在的にはボケ」とか、ノってしまいそうな芝居をあっさりやる、とか、(まあこれは自分の感性が瀬戸氏寄りなだけだとは思うのだが)なかなかできないことであるなあ(詠嘆)。

この2枚目の顔。心がきらきらしていることは確かだけど、そういうときに瀬戸氏はこういう顔をすることがある。覇気のほうにいかない。あどけなさ。たよりなさ。 こういう表情が出ることに、末原氏との対談の陰キャのくだりが勝手にすごく腑に落ちる。そっちなんだ。よわくなるんだ。
今回は小学5年生だからほんとに「こども」だけど、こういう「こども」になるときの瀬戸氏が結構すきだ。一見、硬派な芝居をするなという印象がある役者だが、こういう心のやわらかさ、存在のひらけているところ。先述したことと被るけど。対談での末原氏のいう「脆さ」ってこのへんだと思う。そんなに見せてくれていいの、そんな部分さわらせてくれていいの、ってところがみえる、芝居、というより、佇まい。
ツイートの2枚目の場面のみんなとの表情の差異。だいたいのみなさんは琴線というか感情の源泉とか核みたいなものがみぞおちより高いところにある感じがする。でも瀬戸氏はけっこうそれが低くある。みぞおちあたり、もしくはそれより下、身体の深いところ。この深さに感情の在り処がある。そこから声も出てくる。喉の下のほうから。「喉から手が出るほど」っていう言葉がある。ヲタクならみんな身に覚えのある感覚だと思うけど、推しをみるときに喉が締まる感じ。あたらしい驚きとか、外から入ってくるものではなくて、内側からこみ上げる感慨のようなもの。
みんなはクジラについて新鮮な反応をしてるけど、憲宗にかぎってはここはあらかじめ想像してたことが具現化されて「感動している」。その地続きの感情なのでこみ上げる感のある表情と声のことを、すごくわかるって思う。
この感情の位置について、たとえば怒りだ。あらわすのにいろんな言葉があり、「腹が立つ」「むかつく」「キレる」。あとにくるにつれて新しい言葉だと思うけど、どんどん怒りの位置は上にきている。
瀬戸氏がdoじゃなくbeでリアクタータイプ、というのを勝手に思ってるということは詳しく後述するけども、もともと当人はあんまりゴリっと感情出ないタイプなんじゃないかなあと思ったりする。一回呑み込むっていうか。感情が本来わりと奥の方にある人にみえる。
『朝日、楽しみだ!』とかの喉声もそう。人ってたのしみなときそういう身体になるよね、だからそういう声になるよねって思う。

『何時だと思ってんのさ、大丈夫だよ』

先述したけど、これ、どんな気持ちで言ってる?と思うせりふだ。言う度に心のどこかが痛むかもしれない。演劇は生の時間のうえで上演されるので、この「場面」での5人の「役」がこれから起こることを知らなくたって、客はその5人の「役者」が地続きでこれをやってるのを知ってるわけだから、こういうのは背負い方がむずかしい。どうやって自分のUIを整えるか。こういうのに人が出る。
塩崎氏はとにかくプレーンにうまいので、ここもプレーン味だ。なにも背負わない。「ここではまだなにも知らないという演技」は決してしていない。さらっと屈託なく居るだけだ。
一方瀬戸氏だ。ところで筆者は瀬戸氏の芝居はUIがマジで整っているなあと思っている。こうなってそうなるよな、みたいなのがうまい。芝居そのものというより、芝居と芝居のあいだとかにそれが出ている。間が豊穣だとか、動線が気持ち悪くないとか。
その自分用UIの整い方はここでも見えた。瀬戸氏の解は「地図に気を取られててなんとなく返事してる」だ。それだと背負わなくて済むし、言いやすい。筆者はこれをみて、身に覚えがある、と思う。嘘をつけないから、うやむやにする、茶化す、はぐらかす。芝居の表面のことではなくて、表出する行為の理由、その源流にある本音として。言い方アレかもしれないけどこれはまずもって自分のことだからいいだろう。罪悪感がみえる。まあこれは自分がそう思うからそう見えるだけのはなしだが。そういう罪悪感を「役者」としてもちつつ、「役」としてはケロッとこのせりふを言わないといけなくて、どうやって踏み切り板を設置するかといえば、踏み切り板をあらかじめ壊しておく、みたいな。踏んだときに飛べなくとも、自分のせいではない。急に書いてて出てきた例えなんだそれすぎてビビってるけどまあそんな感じだ。
要するに、あたりまえなんだけどちゃんとどうにか腑落ちさしてやってるよなあってのが見えるようでよかったなというはなし。

夢が崩れはじめるところ

これもせりふではないけど、そのときの行為が違う。とくに塩崎ラッコ。
だいたい、というかみんなはこの状況に呑まれながらもキヨのこと、舞台中央で起きていることを見てる。けど塩崎ラッコはこの状況に呑まれるよりも、いま、どうなっている?ということを気にしている。叙情より叙事。周りを見て状況を把握しようとしてる感じだ。「憲宗」っていう子はこうだろうなあ、と思ってけっこうおおっと思った振る舞い。
瀬戸ラッコはやっぱりキヨを、自分以外の「人」を気にする。憲宗が友達想いなのは2人ともそうだけど、瀬戸ラッコは友達想いをこえてなんていうかもはや「人情」がすごいある。自分がどうなったって、みんなのことを見てる。塩崎ラッコはみんなを「想ってる」のがすごいわかるけど、瀬戸ラッコはそれが表面的にもみえる感じ。『その秘密のなかに〜』のくだりでも書いたけど、友達にぶつける想いがとてもつよいし、ハートを感じまくる。
塩崎ラッコはみんなのことを自分の手の届く範疇に置けなくなった時点ではじめてその想いが見える。それはキヨの黒い影から生じた闇の波に呑まれてからだ。常に4人の名前を呼んで、「大丈夫か」「しっかりしろ」って言う。
そしてキヨの様子がおかしい、ってなったとき、得体の知れない影をこえて、躊躇なくぜんぶ投げうってキヨのもとへいく。そこでキヨと言葉を交わすときの瀬戸氏の反応がすきだった。憲宗のほうがぶつける感情はつよい。キヨはもうなにも聞き入れられないからだ。その拒絶に立ち向かう。末原氏との対談のとこでも触れたけども、筆者は瀬戸氏について板の上でもフラットでひらいているというか、オープンマインドな印象があり、その居方は基本的にデフォルトで〝be〟だ。〝do〟ではない。感情をぶつける〝act〟と同時に、おなじくらいの〝re-act〟もある。瀬戸氏はすぐれたリアクターだ。だからここでも、めちゃくちゃキヨのエネルギーを受ける。人のもつエネルギーみたいなものは目にみえないけれども、圧される、とかってたぶんみんなわかると思う。そんなふうにここではキヨの影につられるように呑まれ、キヨのすがたに狼狽える。



瀬戸氏について

ここからは比較ではないので自分用瀬戸感想です。まあぜんぶそうだが。

今回はけっこうコンセプチュアルな作品だし、白塗り(トノキヨだけ白塗りじゃない、かつ5人とも涙のペイントってことで演劇的にいえば道化だ。常ならぬ者、人ではない者、みたいな記号としてある、という意味での白塗り。関係ないけどこのキャラデザの時点でこの作品の展開と役の関係値はほぼ読めていた)ということで原作モノ(2.5次元という意味で)ではないにしてもわりと制御系の芝居をしてくるだろうなと思っていた。でもぜんぜんちがった。まず開口一番の声におどろいた。いつもの深めの発声なんだけど、高め柔らかめでくると思っていたので自分はここで一旦もうまっさらになりました。

でも期待していた部分はちゃんとあって、まずやわらかいこと。瀬戸氏は先述したとおりハイコンテクストな役をあてられることが多いし、アダルトに技巧をつかう役、どちらかといえばクールな、ダークな役どころが多いような気がする。なんていうか、そこに必要なのは「隠す」芝居だ。けれども彼のほんらいの魅力は、本人の持つフラとか、飾らなさとか茶目っ気だと自分は思っている。クールといえどもあったかみのあるクールさ。力の抜けた感じ。笑っちゃうような愛嬌。だからそういう部分、彼のもつほんらいのやわらかさが持ってこられるとうれしいなと思っていた。

リュズ夢でそれは板の上にちゃんとのっていた。フラットに、まっすぐに、ほとんど制御してなくて、けっこうナチュラルに芝居をしていたと思う。憲宗くんというのはああでこうで、ではなくて、じぶんの肚でやる。そういう純性をもってそこにいた。

またあんなにハートのある芝居をするのに、背負わないところ、ナイーブにならないところがほんとうに最高だ。キヨとの出会いをトノキヨに話すところとか、ラスト前とか、ともすれば「悲劇」に傾きがちなシーンをぜったいにそうしない。それは塩崎ラッコも同様なんだけども。こういうとき、あ〜〜〜「連獅子で勘九郎に手を握ってもらえなかった鶴松に稽古をつける七之助」のエピ全人類が知ってたらな〜〜〜と思うんだけど、見てないよね…ちゃんと書きますが、こういうときにね。こういうときに、泣きに入らないのだ。縋らない、被らない、なにも悲壮じゃない、涙は感情の高揚としてそこに表出し、パーっと上昇してくエネルギーがそこにある。これでいうと『リュズ夢』はたしかに「泣ける」話なのかもしれないけど、「泣ける」なんて指標はほんとにどうでもよすぎる。簡単だからだ。生きてる人間で泣いたことない人はたぶんいないように、泣くことは簡単なのだ。泣かせることも。だからここに〝安易に〟寄りかかる役者は見ていて冷める。だからわりと筆者は物語自体には冷めながら観ていたところもある。でもやっぱり目の前で嘘のない芝居をしている役者たちの姿には胸を打たれるし、グッとくる。この嘘のなさも末原氏は対談で言ってたけど、瀬戸氏の姿にはほんとうに嘘がない。嘘があったとして、そこには理由がある。話は逸れるけど俳優が泣く、という現象には役の感情を追って、という他に「高揚」がある。マームとジプシーという劇団があるけれども、主催の藤田氏が発明(発明)した「リフレイン」という手法がある。くりかえしくりかえしやることでエネルギーが折り重なってそこで表面張力する。そういう「昂り」で泣くことには嘘がない。たぶんみんな経験あると思う。大きい声を出してて泣いてしまうこと、本音を話そうとして泣いてしまうこと。リュズ夢の涙は私にとってはそういうエネルギーからくるものだった。舞台に立っている、5人ずつの俳優たちのエネルギーそのものがよかった。あれはでかい声で口にしていると泣いてしまう言葉たちだと思う。それはせりふの力でもある。人の再生する姿。光を見ようとする力。失う姿のほうにフォーカスしてしまったら『リュズ夢』はほんとうにナイーブな作品になってしまってただろうなと思うけども、闇は闇として、乗り越えるものとしてある。光をひたすらに信じて描くという、共感はできなくとも、ものすごく好感を持った。あそこにあったのは孤独でも死でもなく、純度の高い生の挙動だ。屈託なく眩しくて、でもそれがとてもよかった。

瀬戸氏の芝居のはなしに戻る。

これは20日夜に限ったはなしになるしこれは芝居そのもののはなしでもないんだけど、特筆したいからする「キヨん家に来てタッパー渡してから屋根裏上がってく」とこ。
下手の移動階段のストッパ止まってなくて、瀬戸氏が3段くらい上がってからン?なんか足場揺らつくな?って降りてきて、とりあえず片方、上手側のストッパー(移動階段の両脇、左右にストッパーがついてる)だけ止めて階段上がってった。
んでここで筆者は(ン?もう片方はなんで止めてかなかったんだ?まあここで完全に降りてきてってのもお客さん気になるし応急処置として片方でもたしかに問題はないかなあ)みたいな例によって邪推を繰り広げていた。
そしたらですよ、ラッコが地図とりにくるターンがあり、それか〜!っていう。いまからわかりづらい説明をする。
一回屋根裏に上がってったじゃん。んで、もう一回降りてきた。地図をとりに。地図はランドセルのなかにあるんですよ。んでそのランドセルは移動階段の下手側、つまり、さっき瀬戸ラッコが止めて行かなかったストッパー側にあるんすよ。
お分かりいただけただろうか。つまり、階段上がっていく段階で、「このあとランドセルを開けるタイミングがあるから、そこでもう片方は止めればいいか。」っていうのがまずあの段階で脳内にあったわけじゃんか。しかも地図はランドセルのなかにあるので「ランドセルに触れる」があることを見越して、先にランドセルがない側である上手側のストッパーを、客が気にならんように脚で止めていった。
ということを、地図をとりにきたラッコが「階段を降り切ってから」「階段の下手側に置いてあったランドセルを開ける流れのなかで」「手で」止めていったときに気づいて、めっちゃボエ〜〜〜〜〜〜となった。瀬戸氏はほんといつもフラットだなあと思っているけれども、マジでこの役者はほんとに板の上でもフラットだなあと尚信頼した。
こういうことが芝居のなかでできる役者はいい役者だと思っている。なんかゴミ落ちてんな、とかペットボトル倒れたな、とか。それの上級編になると噛んだとこにつっこむとか軌道修正にアドリブ入れるとか。要するにお客さんが気になってしまうところに触れられるかどうか。どう触れるのか。
階段ぐらぐらしてんなあぶねーな、ってのが解消されれば(これはお客さんへの目配せというより役者がまずあぶないし)よかったものが、瀬戸氏はそれを「どう」解消するかっていうことまで一瞬で考えていったわけですわ。おれが上がってったあとにここを走ったり飛び降りたりするやつはいないなあ、っていうのまで考えられるものかね。考えてないかもしんないけど。少なくともこの「一度目は脚で」「二度目は手で」に自我をかんじるよ。


あと20夜と21昼で瀬戸氏以外は全員テレコで対(塩崎ラッコ以外になるけど)全キャストをみれたこと、とくにトノキヨを男女でみれたのはよかった。男女、というのは、安易で申し訳ないが「わかりやすいから」です。誰だって相手が変われば自分も変わる。人間はみんなそうなので、わかりやすく変わるのはそこだよねという指標。歳上/歳下もわかりやすめだけども、今回「2」の関係(人は3人以上のコミュニティになると客観性が高くなっていくと筆者が思ってるため)があったのは対トノキヨくらいだった。シジミ渡すとこ。
対さひがし氏にはパッションがつよかった。どちらかといえば、感情をぶつける、といった感じ。
対わかばやし氏にだと想いを制御しつつもあふれるという感じがみえた。どちらかといえば、説く、っていう。言葉の掛け方が違った。そりゃ(一般的なのセクシャリティにもとづけば)女の子にたいしてはちょっとやさしめにいくのはそうだし、男の子にたいしてはガッツリいくよねと思う。一方でトノキヨの役者は2人とも瀬戸氏にとっては先輩なので、そこにはやっぱり敬意というか、誠実さがある。歳下なら「諭す」「伺い見る」「寄り添う」みたいなニュアンスもはいってきたんじゃないかなあ。身を預けられる役者が相手だから、真っ向からけっこうなエネルギーで言葉を掛けられるんだろうな、と思うなどした。


さいごは、あの最高のラスト前。ここのことを言いたくていろいろ書いてきた感がある。そのくらい、これがみれてよかった、と思ったところだ。

キヨが想像力を取り戻し、ひとつ、またひとつ、話し始める。
『憲宗が、海の魚と川の魚の味の違いについて、誰にも聞かれてないのに、話していました』。
末原氏は、それを「独りごちる」。虚空に視線を預けながら、自分のなかで想像が膨らんでくるのを感じながら、ぽつり、ぽつりと言葉を落とす。だからそれを聞くみんなはキヨの落とす言葉をこぼさないように、ぐっと前のめりで、頷きながら聞いている。
橋本氏は、それを「語りかける」。想像が膨らんできたことになかば驚きながら、みんなにそれを見せるみたいに、伝えようとするみたいに、一人ずつと目を合わせて、訴えかける。『憲宗が、海の魚と川の魚の味の違いについて、誰にも聞かれてないのに、話していました』。
そのとき瀬戸氏から、「ああ、」って声が聴こえた。
えっ、と思った。
やわらかい声だった。息の多い声だった。笑い泣きの混じるような。キヨの呼びかけに、その声をもって頷いた。
この景色にかなりギュってなった。ああ、って。それはきっと反応だったんだろう。まっさらな反応。戯曲にも書かれていない、橋本氏の行為に、フラットに反応する。目を合わせられて、あの先にあったかもしれない時間のことを、信じたい、そうありたい、その祈りを向けられて、そうだよ。未来はきっと、そうだったよ。ゼロの身体で立っているからこそ表出した、美しい反応だった。


リュズ夢は演劇としてはたぶんイレギュラーな作品だ。でも生の身体が、役者のエネルギーが、芝居がちゃんとそこにあった。だからよかった。この作品を、この作品に出ている瀬戸氏を観れてよかった。

みんなの海はどうですか




おぼんろの『瓶詰めの海は寝室でリュズタンの夢をうたった』を観た。

夜公演を観終えて劇場を出たら、池袋は雨が降っていた。天気予報をわざわざ確認して、わざわざ傘を置いてきたのに。
いつもわりとそう。備えてもその通りにはならなくて、たとえば膝の上に置いていたハンカチは使わなかった。でもなぜかすがすがしい心地で、街の明かりを吸い込んだ重い空を見上げる。雨はしょっぱくない。この雨は河に流れる。河は海に向かって流れる。私はひとの流れに逆らってずんずん歩く。歩けば夏の湿気に汗をかく。汗はしょっぱい。汗と雨が肌の上で混じる。そのぬるい雫が指先に伝う。この雨はいつか止むし、雨で街が没することはない。さっき飲んだソルティライチは私の身体にながれている。ぜんぶ流転してる。あの物語に暗渠になって流れている、そのことを思う。始まれば終わる。終われば、始まる。だからまたいつか会える。終わらないものはない。なくならないものはない。約束された終わりは確実にあって、夢は覚める。人は死ぬ。私はトノキヨの言ってることが死ぬほどわかる。『生きていたってどうせいつか死ぬだけだ。何をしたところで意味がない』。ずっとそうやって生きてる。今もそう。それはリュズ夢をみたあとでも変わることはない。トノキヨの、5人のあの表情を思い出しながら、ホテルまでの道を濡れて一人で歩いた。

いつも一人でいい、と思ってるけど、喪失がこわいからだ。数年前に祖母を亡くした。はじめて人が死ぬところを目の前でみた。もうずっと眠っていて、泣いたり、苦しんだりはしていなかったけれど、それでも悲しかった。夜。いま、何時ですか?と医者が言う。姉がiPhoneを取り出して、時間を告げる。いやご臨終の時間確認iPhoneかよ、と思ったこととか、ばーちゃんのまるい背中、もう亡くなったというのにカイロ貼りすぎてめちゃめちゃ熱すぎたこととか、お化粧をしてあげようと思ったらみんな持ってる化粧品が若すぎてわりと死に顔がイケイケな表情になってしまったこととか、そんなことばかり覚えている。亡くなった翌日、実家の庭に赤い彼岸花が一輪、急に咲いていたこととか。

だからほんとはすきなものを増やすこともこわい。この公演をみるまえもこわかった。大事なものが増えること、しかもその大事なものが消えてしまう(記録映像はあっても、その公演は一度限りで本当の意味でこの世に残ることはない)とわかっていて、それでも観に行くことはけっこうこわい。記憶は完全じゃない。毎回そういうこわさを持って劇場の椅子に沈んでいる。でもやっぱり観たら楽しい。楽しいし、心の水面に宝石を投げ込まれて波紋がおきる。そういうきらきらを抱えて何個もの夜を過ごしている。意味がなかったはずの夜を、やり過ごすんじゃなく、ちゃんと過ごせる。

大切なものを喪ったとき、もう立ち上がれないんじゃないかと思う。夜もあんまり眠れないし、ごはんもあんまり食べれない。もう何十年も、死ぬまでこんな気持ちを抱えて生きていくのかな、とか絶望する。
でも時間が経てばいつか大丈夫になる。人は忘れてしまう。思い出せなくなる。でも、忘れたいこともたくさんある。それでいて、思い出すこともできる。

作中でリフレインされる『かもしれない』の力を私はほとんど信じていない。トノキヨの言うように、期待したところで、そうならないことのほうが現実には多いからだ。
けれど、『それでも』の力を私は信じている。もうみんなはいない。あの時間は、もう戻ることはない。それでも。あの記憶を取り戻してよかった。悲しかったけど、苦しかったけど、あの記憶と向き合えてよかった。そう思う。
深海を歩くような、暗くて、つめたくて、長い孤独があり、それでも生きていかなきゃいけない、途方に暮れるような生がある。
だからこそ、さいごのあかるい照明のなかで、みんなの存在がきちんと証明されていくこと。
夜と朝は円環になって繋がっていて、きちんと朝日が昇ってくること。
生きることをやめたくなるときに、希望がきちんと希望としてひかること。

海をみようよ
最高の夏休みの思い出にしたいじゃん


トノキヨの口から、この言葉が聴けてよかった。

現実は現実として、ただそうあるだけだ。けれど、それをどう捉えるか。どう自分の心に定着させるかは、自分で決めることができる。なにかの喪失を、だれかの死を、どうやって携えて歩いていくか。

かなしみはちからに
欲りはいつくしみに
いかりは智慧にみちびかるべし

宮沢賢治 書簡

海が見たい、という欲求は、人それぞれのかたちをしていると思う。海を思うとき、あの舞台の上にあった海のことを、この5人が盗んできた海のことを、きっと思い出すんだろう。

胸のなかにある瓶を割る夜。この海はもう私のなかにある。

きらきらと明けていく夜。朝日を乱反射して眩しくなっていく海。未明の明るさ。見えていないのに、そこにある海。

みんなの海はどうですか。

『シャイニングモンスター 2nd Step 〜てんげんつう〜』を観た




なんかもはやもう特筆することがあんまりない、もう手放しに「おもしろい!!!」って言える舞台だった。言うことなし。全部通いたかった…。高級料亭のコースではまったくないんだけど日常的に超通ってしまううまい定食屋みたいな舞台だったよ。
いつも舞台みたあとはTwitterの感想まとめて幻覚ポエムを語るんだけどそれがもう野暮というか、一周まわってきた人たちのカラッとした舞台だったのでもうなんかそんな必要ない。感想は演算子でツイッター検索(@so_lar_is since:2022-07-30 until:2022-08-06(あたり))でいいかなっていう。

まあ何個か自分用に引用しとく。あとはニッキ氏の演出について語るのみのブログです。

あと以下は舞台そのものの感想ではないけど制作のツイッター、たぶん抗原検査とか毎日してんだろね、そういう意味で書かれるんだけどああいう笑える舞台だったからなんか情勢とのあれで毎回泣けたげんきなツイートです

『みんな元気です!』
『全員元気です!』

みんな毎日撃沈で声出なくなるレベルの爆笑してたから免疫爆上がりしてたんじゃないかなと思います

あとはやっぱりなんか泣けた千秋楽後の瀬戸氏のツイート

『このご時世、毎日色々なことに怯えながら生きていたので、
唯一本当の自分になれるのは舞台上だけでした』






はい。それでは特筆すべき錦織一清氏の演出について語っていきますが。

ニッキ、やっぱりこの人は「わかっている」。演劇のなんたるか、エンターテインメントのなんたるか。ジャニーズっていう商業主義最前線をずっと走ってきたひとの、ショービジネスの世界のなかで生きてきたひとの最適解。

観客はもちろん女性が多い(観客の大多数が一般的なセクシュアリティを持っているとすれば)。そのNLベースの観劇をどうデザインすれば需要に応えうるか、というのをほんとうにわかっている。歌あり、ダンスあり、参加タイムあり、役者はぜったいに「かっこいい」ことを魅せたほうがいい、という要素をかんじるし、そしてやっぱ芝居もきちっと見せる。なにより、演劇を知っている。

筆者は「若だんなと屏風のぞき」「若だんなと仁吉」のシーンの置き方でそれを感じまくった。

「対照的」な2人(屏風のぞき/仁吉)を「同じ画」(中央ベンチで若だんなが下手寄りに座る)で見せる。場が記号的につかわれている。同じ画であることで、ここで起きたこと、ここで起きていることを観客は同時に想起する。

屏風のぞきにたいして若だんなは本音を吐露してしまう。屏風のぞきは若だんなをロングショットで(お腹の中にいる頃から)見ているから、若だんなを気にかけはするけれども人間にたいする「信頼」によって手放す。
それは劇中のせりふでも語られる。若だんなももう子供じゃないから、身体は万全でなくともすこしくらい仕事をさせてやったって良い。てんげんつうを今懲らしめなくとも、話くらい聞いてやったらいい。「目ん玉がそのへん転がったりしたら、若だんなが気絶しちまうぜ」。べつにこのせりふは言葉面はなにもいっていない。でも観たひとはわかると思う。直接言わずとも、それは愛だった。ぜんぶを守り切れるはずという信用ではない、抱えているだろう隠し立てを悟っていながらそっと見ぬふりをできるという、途方に暮れるような信頼のうえに立つ愛だった。

仁吉は若だんなを守りたい。「ずっとお傍におります」、それは屏風のぞきと同様の愛ではある。けれど、どこへでも勤められるはずなのにもっといい奉公先がありつつもここにいる、という、そこにあるのは〝情〟だと思う。恩とか、いろいろあるのかもしれないけど、やっぱりそれはエゴも混じった愛だ。でもこれが仁吉の〝御大切〟だ。どちらかといえば「愛」というより「恋」に近い。若だんなに「本当は何を訊こうとしたんですか」、ときいて、その答えに絶句する。仁吉は若だんなを守りたい気持ちがありすぎるゆえに、リスクは取れないんだ、という。たとえば無理をさせずに休ませる、は安全な信用ではあっても信頼ではない。過保護は親のためであり子供のためではないように。
屏風のぞきは若だんなが若だんなの道を選ぶ、ということを傍からあくまで「のぞいて」いるけれども、仁吉はどうしたって手を出したくなるし、口も出してしまう。でも結局は「かならずお守りいたします」という仁吉の信念が、若だんなの一歩後ろから守る、という道を選ばせるんだろう。

というわけであの場の見せ方はこの2人の若だんなにたいする〝御大切〟の対比がかなり効いていてよかったという具体例です。

ニッキは芸術としての演劇と、ビジネスとしてのショーの両方の手綱をつねに握ってる。脚本を舞台に立ち上げたときにはじめてあらわれるもの、役者の魅力を最大限引き出せるための口立てで整えなおしたせりふ、芝居を魅せるための効果的な演出。すべてが行き届いていて、ファンが「見たい」と思う姿を舞台の上に載せてくれる。それはやっぱりニッキ氏がアイドルをやるうえで身につけたバランス感覚であるのだろうなあとおもう。

だって『星屑のスパンコール』なんて曲を歌ってきたアイドルだもん。こんなのアイドルに与えていい言葉なのかよ、と思いつつアイドルにしか歌えないような曲だ。
もちろんその作詞はニッキ氏がしたわけでもないけれど、こういう言葉を彼らに委託してファンに夢を見させてしまうという構図が、ああいう商売にはある。だけどそれを引き受けたうえで、その夢をほんとうにファンに見させる。そういうことをやってきた人だから、こういう舞台がつくれるんだと思う。

開演ベル 光の渦の中で
知らない間に 君を探してる僕さ

星屑のスパンコール/少年隊

筆者がニッキ氏の演出をはじめて見たのは2014年の 『出発』だ。これを観たことで、演劇の見方をひとつ知ったみたいなところがある。

そうか、と当時思ったのは、主人公・一郎の嫁、明子がキャリーケースを引いて家を出ようとする場面。明子が、「この一家はみんな優しくていい人たちなんだけどやっぱり私お母さんになれそうにない」と言って泣いている。そこで主人公・一郎は「俺はスーパーマンだったんだ!」って明子を笑わせようとする。「笑え!笑えって、笑っていれば大抵の事は乗り越えられるんだ!」。

ここまではあきらかすぎる荒唐無稽さに、筆者はなかば笑いながらこの場面を見ていた。でも、一郎の言葉や姿をみているうちに、自分の頬がだんだん下がっていくのがわかる。

「な?飛べるんだよ!俺飛んだことあるんだから、あれおかしいな?」。一郎は言葉通り飛ぼうとする。けれど飛べるはずがない。これはべつに異能力系でもなんでもない、ただの人間がただの人間として生きている、つかこうへいの作品だ。「受け止めてやるから、お前の故郷も、お前が生きて来た歴史も、お前が何に痛んでいたのかも受け止めてやるからさらけ出せって。笑ってればいいわけよ、その笑顔を家族のきずなって言うわけ!」

それでも明子は笑わない。「その優しさが怖かったの。好きになるほど、怖くてしかたなかったの。母に捨てられて人を疑う癖がついてるのに、こんな優しく家族に受け入れられて、こんなに幸せでいいのかなって怖くて仕方がなかった。」

一郎は手放しで、そんなの関係ない、家族になればいいじゃないって歓迎してくれる。 でも明子はそんなのいいのかな、って思う。

「どうして飛べないんだろう、こんなに愛しているのに」。

「あなたの優しさが怖かった」。

一郎はどれだけ明子のことを愛していても、飛べることはない。
愛があっても、不可能なことは不可能なまま。

この場面の喜劇と悲劇の反転よ。演劇というのはこういうことができるんですね。叙事をひたすら一次情報として描いていく。叙情は観客の胸の裡にうまれる。言葉は確かではない。姿は確かではない。目に見えていない、耳に聞こえていない、形のないものに意味は宿っている。

だから屏風のぞきのせりふ「目ん玉がそのへん転がったりしたら〜」とかは、言葉以外の意味が豊穣だ。このせりふは、仁吉と佐助は若だんなのためだったらその手を止めてくれるだろう、というふたりの〝御大切〟を突いているし、若だんながてんげんつうの話を訊こうとしている、若だんなの〝御大切〟を汲んでいる。せりふそのものではない、ダイアログとして、それぞれのキャラクターの背景や文脈をとった、物語をきちんと90分辿らないと意味をもたない、演劇として語られる甲斐のある言葉になっている。

まあこれは本のうまさであって演出のうまさだけのことでは決してないと思うんだけど、やっぱり演出家の、脚本家の、演者たちの観客への信頼があるからできることだとおもう。いまはなんでも二次情報がないと見れないひとが増えてる。演劇でもわりと説明しまくってしまうものがあったり、ネタ番組でさえワイプのツッコミがあったりな(千鳥のクセスゴとか)。

だからシャイモン、浅草で、大衆小屋にいるような気持ちになり、「みんなの」「日本人の」「エンターテインメント」ってこれだよな、って思って、ものすごくしみじみとよかった。演劇は「芸術」でありつつも、「芸能」でもある。硬派な舞台もたしかにいいけど、そういうのは1回みたらもうその1回を後生大切にしまっとく、みたいになりがちだ。でもニッキ氏はやっぱりつかこうへいに演劇を仕込まれた人間で、70年代の初頭に演劇論とは無縁のエンターテインメントをやってきた演出家の血を確実に引いている。演劇論と無縁、というのは、つかこうへいがそれをそうと描かなかっただけで、じつはそれは戦略だったんだけど。劇構造にはずっと悪意の笑いがあった。あの喜悲劇の反転のように。ああいった狂騒のなかで、ほんとうは人間にたいするシニカルな目線がそこにある。荒唐無稽にみえて、骨はしっかり太い。それはシャイモンにもやっぱり引かれていた、見事な逆説だ。

でもニッキ氏にその悪意は引き継がれていない。死ぬほどエンターテインメントをみてきたひとの、やってきたひとの思いがそこにある。生の舞台をやるということがどういうことか、その意味が、甲斐がある。演者がまず楽しむ。それを見てお客さんも楽しい。いろんな意味での「赦し」が劇場に満ちていて、それは他ならない〝御大切〟だったなあ。

そういう感慨をかかえて、夜、閉園後の遊園地を通り抜け、劇場を出た。人もまばらな浅草で、手を合わす人々を横目に観ながらかんがえる。一度形骸と化したあの町の、でもいまもある、じぶんがうまれてくるまえからの長い時間を参照せざるをえない人間への包容力みたいなもの。そしてあの劇場に満ちていた、あの作品にあった、妖、付喪神、人間のなかにある〝おばけ〟。そして娑婆気。目に見えないのに、たしかにある。そういうもののことをじんわり想った。

薔薇ステ脳直感想



ネタバレしか含まない薔薇ステ感想です。わりとツイに書いてたことをまとめたやつ。配信という文明のリキがあるにもかかわらずいまのところ記憶だけで書いてるので間違いいっぱいあるとおもう…。

以下舞台全体の感想と、キャスト別感想です。
(個々の分量がめっちゃちがうんだけど、よかった、ってときってもうなんも言うことないよね!みたいな感じの役者もいっぱいいる。なんか立ち止まったり、違和をかんじたりするときのほうがいろいろ考えてしまうよな…っていうことをふまえておよみください)

🌹舞台のかんそう

まずなんかテーマどうこうとかじゃなく、設定が、史実が、動機が、そんなことでもなく、もちろん説明はするけれども、人の行為を、人が(時代の呪縛である)神に翻弄されている状況を描いていたのでよかった。

演出家の松崎氏が観客を信頼していること、演劇を信用していることがわかる。物語を語ること、観客にわからせること、を優先しない。容赦なく物語を進めていき、人の営為を見せていくことで客はついてくる。そういう上演だった。

ゲネのインタビュとかで両性具有ってだけで現代的なテーマも…みたいな話を記者とかがよく出してたけどなんかぜんぜんちがう。両性具有っていうのは「悪魔だよ」のポーズでしかないというか、リチャードが翻弄されるための装置でしかない。その設定じたいはべつに物語を推進しない。マクガフィンは王冠だと思うし 、「魂と信念」そして「愛と欲望」がキーワードだ。自分にとっては。
「魂と信念」のひとたちは安定しており、「愛と欲望」のひとたちは不安定である。前者は一方的、後者は相互的でないと成立しないので結局「自ら選び取る」ができない人間は孤独になる。自ら選び取れないとは神のせいである。時代の呪縛としての神。エドワードは自ら選び取ったようにも見えるけれど、エリザベスも結局ほんとうの偶然の出会いではないし、神に「選ばされている」(エリザベスは夫を殺されて復讐のためにエドワードのまえにあらわれた)。
「魂と信念」のひとたちは、ヨーク公の不在によってそれがまた「愛と欲望」フェーズに戻ってしまう。ウォリックが顕著。ヨーク公の不在に向き合おうとはするものの、結局一方通行のやり方で「魂と信念」をやろうとするから結末は悲劇になるという。

観ているあいだずっと、泣きたい、というきもちが胸のなかにあった。悲しい、とも、苦しい、とも違う、(ああ、このひとはこうなるんだな、こうしかならないな)という、諦観にも安堵にも似た泣きたさ。自分が呪われていることを知りながら、あるいは自分がいつのまにか呪縛されてしまった(信念や約束が呪いに変わる)ことを知らないまま、その過程を通り抜けるしかない(死ぬとわかっていて戦に出るとか、相手が愛した人だとしても殺さなければならないとか)その信念、みたいなものに胸を打たれて、ずっと泣きたかった。『君のために祈りたい』。ぜんぶのキャラクターにほんとにそう思いながら、祈りながらも、この祈りは叶わないと分かっている、そういう痛みをずっと感じていた。

薔薇ステでいちばん心が震えるのは一幕終わり手前の薔薇が降るところ、いちばん胸にくるのはウォリックがヨーク公の幻影をみながらたたかうあの眼、泣けたのはマーガレットが子を庇う気高さ、寄り添ってしまうのはヘンリーのやさしいこころ。

一幕ラストの、音楽と、照明の明るさと、薔薇が降るという画だけでぐわーっとなる。ていうか舞台においてなんか降ってくるやつ好きすぎる。筆者がみたなかでは歌舞伎『花魁草』のやつが史上最大にきれいだったけどあの息を呑むような静謐さとはまた違う、深すぎる溜息が出るような光景だった。舞台装置が回転して中央にうねるエネルギーみたいなもの、それとあいまって圧巻の景色を生み出していたとおもう。幕がおりて、タイトルが出て、いや改めて『薔薇王の葬列』っていうタイトルすごいな、と思った一幕のおわりだった。

松崎氏の演出はやっぱりめっちゃいい。まず場を記号としてきちんと使うじゃんか。いや勝手に自分がそう感じただけかもだけども。上手下手の舞台作法はもちろんのこと、たとえばウォリックの忠誠を誓う図であれば場は違えど画としては同じじゃん、ひざまづいて手の甲にキスするという。あれは劇中に3回あるんだけど、①ヨーク公へ②エドワードへ③マーガレットへ。③だけ向きが違うんですね、①と②はおなじであることに加えて、演劇という生の時間をかけて順番に辿っていかないといけないツールをめっちゃちゃんとした意味で使っている。物語を辿ってきた観客は、②のときに①とおなじ構図であることで①の場面を思い出す。つまり①ヨークに②エドワードが代入される。この哀しい代替……。公がもういない、ということを尚感じさせられてめちゃめちゃよかった。いやよくはないんだけど胸にきた、というはなしです。

あと距離と触れ方。それで人の関係値がわかるなあって思った。それは〝演劇〟にほかならないよなあ。わりとキス(してないが)だったりハグだったり、肩に触れたりとかも薔薇ステは多いんだけど、若月氏(リチャード)がインタビュで言ってた「父上に駆け寄る動機」みたいなものが誰と誰の関係においても丁寧に施されているように思った。

ただ一個だけ、これも自分が幻覚見過ぎがちなヲタクなだけだとは思うんだけども、演出について、モノにたいするアンテナがちょっと弱い。演劇におけるモノは記号として記憶が宿る。
そこでだよ、ウォリックが殺されるシーン、そのあとアンちゃんがマーガレットに「息子(エドワード王太子)を頼む」と言われて戦に出るシーン。原作ではみんな絵で描かれるのは鎧だからわかる、で、ウォリックを殺す人間は作劇上の都合で「謎の者」として甲冑(頭)を被らせるのはいい。だが、そのあとにすぐエドワード王太子に扮するアンちゃんに同じ(たぶん)甲冑を被らせるのはなんかアレ?って感じだった。他の人も甲冑被ってんならいいけども。いやいろんな都合があるとは思うよ?だがどっちも甲冑ってのはなあ。アンちゃんは顔だけ隠すために、そして戦場に出たという記号としても甲冑がほしい、だとすれば、ウォリックを殺す謎の者(バッキンガム)は、んーなんだろ、なんか印象に残るようにして、(カテコ挨拶後のシーンで観客があいつだ!ってピンと来なければならない)白薔薇の刺繍的なものを入れたマント着させて後ろ姿にしとく、とかでいいんじゃないすかね。わかんないけど。とにかく記号が重複するのはよくないと思ったぞ。ウォリックとアンちゃんは父と娘なわけで、関係性をいちばん勘繰りたくない部分だし。エドワード王太子に扮して死ぬ覚悟で戦に出てくれたアンちゃんの勇姿を気持ちよくかっこよく見せないといけない場面だから尚更だ。



あと他にすきなシーンを挙げていく。

ヨーク勝利という場。ここのシーンのやわらかさすきなんだよなあ。明るい照明たいてるだけのシーン。冬の日の朝っぽい。

リチャードとヘンリーが出会ってしまうところ。『僕はこの国の王だ』こんなに空虚なせりふがあるだろうか。表明ではなく絶望として言われる、茫漠、って感じの言葉だった。
またここをケイツビーが見てる、というのがこれまたすきだ。出会ってしまう場を見てる人(ケイツビー)を見る(観客)ことでそのシーンは後景化する。メッセージの伝わり方が変わる。没入しすぎてるとシリアスに痛切に見えるものが、ケイツビーを通すことで、すこし愚かさとか、諦めとか、ちょっと人間の業を省みるくらいまでは引いて見えてくるっていうか。ヘンリーとリチャードだけのぐるぐる閉じてった円環が、ケイツビーの存在によってひらかれる。(ああ、出会ってしまった)ていうのが、(ああ、時代に翻弄されているな)ってなるっていうか。

あとラストのジャンヌ。君、祈ってくれてたのか……。あろうことか配信のカメラが抜いてくれて気づいた。たぶんこれは青年館ホールの半分より後ろの席でないと気づきづらいんじゃないだろうか。でも気づかないくらいに置かれることで、逆に祈りってこういうものだよな、救いってこういうものだよな、とも思う。気づく人だけは救われる。救済の意味が残酷に描かれている、と捉えることもできるかもしれない。ルイス・ブニュエルの『銀河』を思い出す。

あとはやっぱりラストが好きだ。音楽がいい。起こってる事の少なさがいい。エレキが歪み始めて、シンセだけ不安定に半音震えながら響いて、始まりながら終わってくみたいだ。暗転後にはピアノだけ一滴ずつおちるみたいになって、『薔薇王の葬列』とタイトルが出る。ここがまあ〜〜〜きれいなんだ……。投影で、金色のひかりが闇を通り抜けて朗々と水面みたいに、波の刺繍みたいになって余韻を残す。あれは生でないとわからない奇麗さだ。あのさいご射してくる光をみるために劇場に行ってすらいいと思える美しさだった。

あとはもうきりがないのでキャストのはなししながら思い出したら書いていきます。


🌹キャストのかんそう

・リチャード

若月氏と有馬氏の差異についても語りたいので分けずに一緒に語ります。

若リチャは少年、有リチャは青年、という感じがした。若リチャだとシェイクスピアだ!ってかんじがしたね。外へのエネルギーがクリアに、でも型としてはノイジーに出る。有リチャは内へのエネルギーなんだけど、内面がノイジーで、型はクリア。この違いがまあめちゃめちゃ面白(interest)かった。

若リチャはド攻め様だったし有リチャはド受けちゃんだった、って言ったら語弊あるけど、属性としてね?いやでもアンちゃんとのとこの若リチャは他ならぬド攻めだったな……。アンちゃんが、あなたは他の人と違う、って言ってしまったのごめんなさい、って言ったときのさあ、『忘れました』の言い方よ…。あはは、ってちょっとやれやれめに笑ってから『わすれまし、た…♡」っていう弄ぶ感。わたくしのことももてあそんでくれ。そのあともアンの脚をお気遣いするリチャ、若リチャはやはり手つきが自然だった。女の子に触れ、「スカートを捲る」よりも「傷を探す」というモーション。アンを座らせるときのアシストと目線もド攻め様だったなあ。アイドルってみんなこんなもれなくおそろしい子なんですか?おしえてくれ…いややっぱいいや…こわいよお…。

若リチャのほうが意識が灯っていて、有リチャのが自我がある。若リチャは世界の広さとか真実のことまだ知らずに「今」にいる感じ。有リチャは知ったような顔ですべて諦め切って「果て」にいる感じがする。どっちもすごくいい。こんなに違うのに。

有リチャはなんていうか、人あらざるもの、みたいな出力だったなあ。父上に戦えと囁くところとか、若リチャとぜんぜん違った。わりと有リチャの内向エネルギーというか「籠ってる」感じ、神経性の痛みばかりな感じのとこすきだなあと思いながら見てたんだけど、やっぱ身体が男性だからそう見てしまうんだろうか。だって身体はやっぱ男だから、肉体を呪う必要がない。父上が「俺」を「息子だ」と言った、んだもん。などということを思い、自分の目線を残酷だなって感じたよ。ごめんね、リチャード。

有リチャは怒りが身体まで灯ってない。頭の中だけでぐつぐつ、ぐるぐるしている感。若リチャは全身で震えるみたいに怒っている。

だから『涙などいらぬ』のあとの『〜焼き尽くす』までを一息でいく有リチャがよかった。身体が物理的に追い詰められるのが心理とリンクする。神経性の痛みが、肉体まで広がっていく、実感が伴っていく。ずっとずっと内に籠ってた感情がここで堰を切って爆発するように見えた。父上の亡骸を携えて剣を振るうとき、自失している、と思う。殺しきって、その濁流みたいな感情が止んできて、心がもう充電1%みたいになったとき、そこから仰ぐぎらぎらした照明、尚も降っている薔薇、の上にばたーんと倒れる感じ。ものすごくかっこよかった。

あと気になったせりふの差異。せりふの聞こえ方マジで超違っててほんとにほんとに楽しかった。

『俺の光はこれじゃない』、若リチャは「俺詳〜♪」て感じでこれはこれでいいなあ 有リチャは(あ、違うや……これじゃないわ……)の内向感情。

『口に出すのも嫌な名だ』については舞台/アニメでの違いが面白かった。若リチャも有リチャもジャンヌに図星〜!されてハ!ちげえし!そんなんじゃねえし!のベクトルで発話されてるけど、アニメだとわりとツンデレの「嫌な名なのに……なぜこんな気持ちに……」みたいな感じで、これが自分としてはしっくりくる。でもあの流れでリチャードの気持ちでいたら怒るベクトルになっちゃうと思う。ツンデレベクトルにするにはやっぱ「夢が覚める」みたいな、ハッ!ていう異世界から戻ってきた安堵、あと1人でいること、が必要かなあ。ジャンヌがまだそこにいて、ヘンリーもそこにいて、それだと照れ隠しみたいにしておまえなんかすきじゃねーし!みたいに言っちゃうよ。何より自分のことを戒めるために。これが芝居だなあと思いものすごくたのしかった。

あと身体について。若リチャの身体性はだらっ、と脱力がみえて、男の子だ、という気がする。有リチャの身体性は、とにかく重心が高めで、身体が閉じている。このからだの差異がけっこう影響して、異なるリチャード像を板のうえに出現させていたと思う。殺陣とかいうことでなくてね。佇まいとして。でも若リチャのゆっくり殺陣は痛そうでえっちだったなあ

薔薇の扱い方は有リチャのが好みだった。白薔薇はやっぱヨークの象徴なわけで、繊細に、ほぼ触れないくらいのきもちで扱うのが最適解だと思う。

さいごのほう、ヘンリーが自分の母のことを独白するシーン。
ここが若リチャだとものすごくものすごく切なかった。
『僕の母は悪魔だった』、そう訥々と独白するヘンリーを見ている、若リチャのみずみずしい表情よ。ピュアに聴いている。目線がうつくしい。言葉を聴いて、入ってきたその言葉に心が揺れていることが分かる。ヘンリーの空っぽな身体の感じもあいまって、なんて虚ろで澄んだシーンなんだろうと思う。
ていうかここのシーンのリチャードとヘンリーの距離感もぜんぜん違うことで関係値も違く見えてよかった。内面の表出としてのからだがある。若リチャは当事者、有リチャは傍観者として聴いてた。
『でも恐れているのは女性じゃない、欲望だ』その言葉から動揺し始める若リチャ。心は通っていないのに、ヘンリーに言われる『君は僕の天使』というせりふが、若リチャだと救いじゃなく、とどめに聴こえた。違うんだ、神様、違うんだ、っていう感じ。秘密と欲望を抱えたリチャードの身体の苦しみが見えるような気がして、切なかった。
『俺は女じゃない、それなのに、俺はヘンリーを、愛してる』のせりふも、若リチャはヘンリーに刺すように言う。そうすることで、「愛してしまった、こんなにも愛しているのに、告げても、聴こえない、届かない」様に見える。
 若リチャの「愛してしまった」という切なさにたいして、有リチャは「異性じゃなくても、愛せるんだ」という希望に聴こえる。
だからヘンリーの『君は僕の天使』というせりふは、若リチャには「遠景から被さってくる呪い」だったのに対して、有リチャには「前景として射してくる光」のように聴こえる。なんでこんなにもちがうんだろう?感動する。しかも和田氏(ヘンリー)と若月氏(リチャード)の男女コンビでやったほうが禁忌っぽい関係になるのはすごく不思議。いやわかるけどね。よくない言い方するけど、冗談で済むかどうかっていうか。

あとラスト。『おれは大丈夫だ おれとおまえは、大丈夫だ』。若月氏の「ヘンリー、」と呼ぶ声は語尾が上がっていて、呼びかけではなくて、応答を求める、そういう切ない希求を含んだ、でも「どうか」っていうつよい祈りを含んだ声だった。

ほんとうのラスト(ラストいっぱいある)で、『黙れ!』でヘンリーを既に投げ飛ばす有リチャと、しばらく喋ってから投げ飛ばす若リチャ。振り払う動機が『黙れ』の時点で身体にあるかどうかっていう、ほんとうに芝居がみえる作品と役者が揃っていて3時間ずっとずっと嬉しかった。有リチャ、初日あたりだとヘンリーに跨ったままナイフを振り下ろしていたから、幻覚見まくりヲタクである自分は(自死したのかな、)とすら思っていた。ヘンリーを刺したのか、自分を刺したのか。そのマスキングを暗転でかけていたのがすごく好きだった。
でも有リチャ、大楽ではラスト立ってナイフを振り下ろした。立ち上がってから。若リチャは跨ることなくって感じだったけど、膝ついてた回もあったりするのかなあ?

一旦暗転してからのラストの「画をみせる」みたいなとこもまたすごい。
ここのラストのリチャードの立ち姿が有リチャと若リチャでぜんぜん違う。
有リチャは「画」だった。すこしだけ振り返るような立ち姿で、その停泊した空間にはらはらと降る薔薇の印象がつよかった。
でも若リチャは「感情」だった。肩でおおきく呼吸をしていて、手が剣先まで震えていて、その切っ先にあたる赤い照明がすごく印象的だった。
2人ともただ立っているだけなのにね。こんなにも違うのがほんとにうれしかった。


・ヘンリー

アニメのヘンリーとはまったくちがうんだけど筆者はものすごく和田ヘンリーがすきだった。こんなに奇麗なひとがいていいのか?という奇麗さだった。美術館来ちまったのかと思ったもん。落ち着いた佇まい、輪郭の淡い声。あたたかいのに、青い、というかんじがした。

すきなせりふありすぎ。「君がおいで」「傷ついていないなら、どうして泣いているの?」「捨てられ〝ている〟」「自由が敗北によって手に入るなんて」「好きな色は?好きな食べ物は?」「約束」「それでも」「君に会いたいよ」。王のせりふとは思えないせりふ。優しくて大好きだった。

和田氏、身体の扱い方が丁寧だ。直接触れないところも、たとえば手のひらで人を示す、とかいう触覚を延長するような所作のところまでひとつも雑じゃない。手からうまれる印象がとても硬派。誠実な手だとおもった。
また人に触れられているときの身体のフラットさのわりに物質感すごくなるのが印象的だった。彫刻みてるときみたいだったなあ……ほんとにきれいだった。

あとリチャードとの芝居がきちんと「反応」として違うことがうれしかった。有リチャとの芝居の方が「ひらいている」気がする。たぶん有リチャが閉じているから、その心を開きたいみたいな感じが作用してエネルギーがちょっと相手まで潜ろうとする。若リチャは闇を抱えつつもわりとオープンマインドだから、ヘンリーも歩み寄るというよりはただそこに「居る」。相手に潜ろうとするよりも、相手と自分との一線は保ちながらする駆け引きみたいなものがちょっとみえるような気がした。
有リチャとのやわらかいヘンリー、自分はなんとなくこっちのほうがすきだった。柔らかいところ曝け出しすぎてちょっと自棄にすらなってるくらいの感じがあって、ヘンリーの闇もまたけっこう深いという見え方になる気がしてとてもよかった。

さいご、独白のシーン。2人だけ取り残された世界みたいだった。ほんとうに。雷鳴も響いているのに、その音はすごく遠い。稲光からフラッシュバックする悪魔たる母の幻影はもう「思い出されるもの」ではなく、「いまここ」を覆っている闇そのものだ。雷鳴が聴こえるたびに、ヘンリーの昏いままの眼を見ては、ああ、ヘンリーはもうヘンリーじゃないんだ、と思った。切なかった。

ラスト。暗転してからの、手先にスポットがあたるとこ。わだくま氏のここの一瞬「灯る」ような手のことすごくすごくすきだった。灯るには激情すぎるような一瞬のエネルギー。それがまた凪いでいく様。きれいすぎた。

あと関係ないしそういうとこ見ててほんとうにもうしわけないんだけど配信実況ツイに『ヘンリーわりとちゃんとした肌色のインナー着てるな GUNZEですか?』って書いてあって笑った。グンゼかどうかはしらん。

・エドワード

稀有だと思うんですよ、たとえばアイドルとかを見て、ばっちり照れもなにもなく甘い言葉を吐いてウインクで星が飛ぶ、みたいなやつ。そういう、行き過ぎててもはや笑っちゃう、という存在には誰でもそうなれるわけではないよね。『配信のカメラ オーラでぶち破ってくる(君沢氏のツイッターより)』じゃないんだよ。ほんとセクシー枠をやらせたら天下一品。喜んで甘々な仕上がりにしてくれるじゃん。『君とこうしていると♡国のことも忘れてしまいそうだ♡』じゃねえんだよ、マジで。ほんとうに華があって最高です。この役者のサービス精神はほんとうにありがたいね……。

君沢氏のせりふ、覚えているものがすごく多かったし、ハッとすることが多かったんだけど、たとえばヨーク公が「もういない」、あの言葉もアニメより舞台上のほうが虚しく、でも熱く響いていた。

・ジョージ

なんかお写真とかみてる限りできれいめクール系のひとなのかなと思ってたんだけど、高本氏の持っている茶目っ気と抜けの良い明るさがめちゃめちゃにジョージだった。どっか残念キャラなんだけど憎みきれない感じのいい奴、に見えすぎる。もうなんかジャスト、ジャストだよ!って感じだった。いちばん人間味あって、いちばん(時代の呪霊としての)神から遠かった。フラットな思考ゆえに、板挟みになって壊れていくという。薔薇王の世界のなかではいちばん空回り感あるように見えてしまうんだけどやっぱりまともなんだよ。現代に生きてたら幸せだったんじゃないだろうか……まあみんなそうか……いやそうでもないか……。ただみんなで幸せでありたい、という願いを持ってる。彼がヘンリーと出会っていたらどうなってたかなあ、みたいなことを考える。

・ケイツビー

いちばんエモキャラ。みんなが自分にとっての信念にたいして殉教していくなかで、さいごまで、いちばん誠実に、踏み外してしまうことなく心を捧げてた。切ね……。

1幕ラストのケイツビーのモーション完璧だと思う。暗転前、リチャードを抱えてから立ち上がる、ってとこがギリ見えないんだよ。彼によって一幕の余韻は残るような気すらする。完璧な余韻……。

あとさいごの雨音だけのシーンもすき。『永遠に思いを伝えずに ただ傍に』。いつもリチャードのすこしうしろに静かに佇んで、思ってることはたぶん膨大なのに、なにひとつ語ることなく、リチャードを見守っているケイツビー。永遠に思いを伝えずに、ただ傍に。そのせりふが雨音のたびに自分のなかに波紋を立てて、反芻される様。その感じそのものだった。マジで切ね……。

・ウォリック

一幕終わり、筆者が幕間にしたツイートが以下。

『ウォリックはたしかに実直な奴だと思った 忠誠、そして殉教 捧げるとはこういうことだと思う まっすぐな信念 信頼というより、信念だったと思う でもそこには愛がある』

そして二幕終え、終演。

『せりふのうえで詩情が表面張力して心がぶるぶると震えた 魂をつかまえておく(※筆者注 ただしくは〝おさえておく〟)この言葉がずっと身体のなかに響いていた』

そしてその公演後、瀬戸さんがツイートしたのが以下。

『原作者の菅野さんがツイートされてましたが、エドワードとの魂と信念の対話は仲良しの君ちゃんとだからできた特別なシーンだと感じています!』

これさあ、「魂」はせりふで言われてたけど、「信念」だってよ。せりふでもしかしたら言ってたかもしんないけど、それがこんなにジャストに伝わることってあるんだろうか。

役者の投げるべき「的」は台本が完成した時点でだいたい正解があると思う。2.5でアニメ化とかしていればなおさらだ。けどその的に当てるフォームとか投げ方は誰一人として同じにはならないと思う。今回のWキャストとかまさにそうだ(リチャードは「的」すら違ってたのにどっちもものすごく正解でほんとにほんとに面白かったし感激した)。けど瀬戸氏のフォーム、すごくないですか。あそこに投げたいんだな、ってわかるってことじゃんか。だからこそ、これから話すようなことが起きる。キャラがキャラを裏切ることとはまた別に、役者が観客を裏切る、というか、観客の信頼が揺らぐ瞬間があったということ、でもそれはまっとうな揺らぎだったよ、ということを行ったり来たりしながらはなしていきますが。的はみえてる気がするのにぜんぜん捕まえられなくて、でも結局みえてた的で合ってたんじゃねえかよ!みたいな。コロコロPKかよみたいな。いや違うか。わかんないけど。

ウォリック、キャラ的には感情を表に出さないがちだとおもうんだけど、やっぱウォリックにとっての「王たる王」像はもうヨーク公しかいないんだ。まったく代替可能じゃない。「王たる自覚のない男(エドワード)」、「王たる資格のない男(ジョージ)」、そのどちらも、ヨークの血はひいているのに、やっぱ玉座に相応しくない。その息子たちの折に触れて絶望するたびに、やはりだめだ、これではだめだ、という苛つきとうんざり感が身振りとして出ていてすきだった。ヘンリーにたいしてもやっぱ「ああ、だめだ、王ではない」みたいな感じ。ウォリックにとって、いかにヨーク公が「王」の理想像だったのかと思う。そしてその「王」たる理想像が明確にありすぎることで、王の幻影を追いすぎる。これはキングメイカーの矜持だよ。だがそれも行きすぎるとやっぱり呪いになるという。ウォリックのカタいまでの実直さがやっぱ死を招いたよなあという腑落ちのあるキャラ造形だった。すごく人間の業を感じる。ヨークのことをずっと心に抱いていて、この人に玉座からの景色を見せたい、みたいな無垢な欲がある。
公の前で剣を右手に持ち替えるのも印象的だったなあ。いや作法として基本ではあるんだが。あんま2.5でやってる人見たことない。

あとエドワードとのあのシーン。エドワードが弱く、ウォリックが「私が立っていなければ」みたいな力のバランス感。ウォリックがエドワードを奮い立たせんとする気が見えた。君沢氏の狼狽は内向きの憔悴ではなくちゃんと縋るような外向きの慟哭で、瀬戸氏が毎回それをきちんと受けて、心が動いているんだなってのが見えた気がしている。
『貴方があの方の子なら』、ってあと、12日の公演かなあ?エドワードの手を取るその力強さが印象的だった。「手を取りキスで忠誠を誓う」図ではあるんだけど、それって捧げるように手を取るはずなんだよ。でもそうではなかった。一度ぐ、って握って、力強く託すみたいにした。その姿がすごくよかった。涙に暮れている暇はないよなって。

後半はけっこうヒールのような役割にも見えてしまいそうな立ち位置になる。裏切った、といわれるウォリック、だが裏切られた側でもあるよなという悲哀が滑稽にスライドしていくのは見事だった。なんかイマイチ締まんないな〜、みたいな戦の指揮、それはウォリック自身には「王たる資質」がないからに他ならない。だってウォリックが王たる資質を持っていたら「いや別にエドワードもジョージも差し置いてウォリックが国おさめたらよくね?」ってなるもんな。
けど、ウォリックが良いキャラすぎるから、なんでこうなった…の感じは滑稽とはいえども悲哀が消えるわけではない。ずっとそういう切なさを抱えながら、ウォリックが力(権威)を持っていくのをみてた。裏切るわけがない、と思いたい。堕ちるわけがない、と思いたい。でもあの聡明な慧眼をもつひとがそうなってしまったという事実は、やっぱいかに心の支柱がヨーク公だったか、いかにヨーク公を喪った代償がデカいのか、ということを裏づけてしまう。憧憬が執着に変わるのは最悪な恋をしているときみたいだよね。分かっていても別れられない。それもまた呪いになってしまった。

だから『死神のヴェールに目を覆われたか』『この世のどんな逆謀も看破し得たというのに』このエドワードのせりふに救われた。ウォリックが〝眼〟のひとだったなってことがわかるせりふだ。時代を見極めて、推し測る。見る人は主役にはなれない。我々観客のように。でも見る人がいないと世界は現れない。そのまなざしが永遠にうしなわれる。そういう「眼」が曇った、ということが言われ、ああ、そりゃダメだよなあ、ってここではじめて腑落ちできたというか。なんで自分が玉座にすわってしまったのか…そんな人では…みたいなのが、ここでもう納得というか、やっと諦めがついた。
この「諦めのつかなさ」みたいなのってみんな感じてたんじゃないかな、って思ったのは、アニメを見た時に『強くなったな(エドワードと剣を交えたときのせりふ)』がなかったからなんだよ。ああ、ウォリックというキャラクターに、こうあってほしい、みたいな創り手の祈りが見えた気がしてハッとした。

『忘れたかおまえに剣を教えたのが誰だったかを』のとこは舞台のがすきだった。アニメ伯は常にヨーク公に気持ちが向いてるけど、舞台伯は愛の対象がもうちょい広くて、ヨーク〝家〟を愛してる。ヨークの血を愛してる。『忘れたか』のこのせりふは、アニメは目の前のエドワードを挑発する感じがけっこうあったけど、舞台は嬉しそうにみえる。それは次の『強くなったな』のせりふが言われたときに確信になる。嬉しいんだな。昔のこと思い出して、ヨークのことも思い出してるんだな。心にずっとヨークがいるんだなって。切ねえ!だからあれは対敵としての決闘ではなくて、魂の交歓として交えた剣だった。演出よすぎるし、ウォリックがあのまま死んでくのは救いがなさすぎるから、幻影だとしてもヨークと共に戦場に居られたうえに、エドワードとも和解(まではしてないが)できたということがほんとうによかった。感謝した。

あとはもう、「最期」ですよ。瀬戸氏の表情。切羽詰まったあと、『魂をおさえておく』そうエドワードに言われて手を握られたときからあどけなくなる。ここアニメだとウォリックの幼少期にみたヨーク公への憧憬が回想としてさしこまれていて、ほんとにその頃に戻ったみたいにウォリックに心が微かにきらきらするのがわかる。配信の近さだから焦点もわかってつらかった。虚ろに彷徨ってた瞳が、はっ、と一度フォーカス絞られたあと、空っぽになるみたいに視線がひらいてく。表情筋やばかった ああ、ここだ、ここなんだ、って思った。あどけなさのなかに忸怩たる思いもあって、ぐっとこみ上げる様がわかる。ほんとうに悔いている。『この手には何も無い』、ほんとうにそういう虚無感に襲われる様だなって思った。恐れ。苦しみ。刺された傷口からずっとおさえていたマグマがぼたぼたこぼれるみたいだった。
『陛下』という最期の言葉には父と息子が重なる。やっぱヨーク公へ、なのかなあ、というふうに聴こえたけど、さいごのさいごにエドワードを王だと認めたんじゃないかな、とも思いたい。
あと前楽だったか配信のどっちかで、逝ったあとに左手がだらっ、て落ちて、その肉体の物質感が、なんかぎゃくに魂がそこにはもうないって思って実感すごかった。このひとはまだ腕のなかにいるのに、もういないね、エドワード……。

なげえよ。あともうちょいウォリックのすきなとこ抜粋な。

ウォリックがアンの背中に手を当ててエスコートしてってあげたあとにぐるーってまわってきてこの席に着いてるの萌えた。ただハケるだけなのだが、やっぱここで父娘なのに舞台の都合だけで最短距離でハケるのは心理的に気持ち悪いもんな。瀬戸氏の芝居のUIは整いまくっている。

あとモノの扱い方がちゃんと内実ある。イザベルを連れてきて『ジョージ、国王陛下』のとこ、あの瓶のなかにはちゃんと液体があるなあというマイム。あのゴブレットは磨かれていて顔がうつるだろうという想像力を客に使わせるモーション。ていうか瓶とゴブレット片手で持つそのセットの仕方よ。この役者はどんだけ丹念に映画を観ているんだろうな〜と思いました。わかんないけど。

あとみんな大好きマント捌きね。これ装飾としてやっているだけではなくて、瀬戸氏に「衣装を捌く」という意識が確実にあるなあと感じた。『リチャード様と結婚なんてしないわ!』→『聴かれてたか』のとこ、曲がんなきゃいけない動線多めでそのたびにちゃんと翻し直すのが見えたので。意識があるかないかってでかい違いだよ。

ていうかアンちゃんをくれってマーガレットに言われたウォリック、一回渋い顔して逡巡してから「仕方あるまい」みたいな感じなのすごい父。だし、あらジョージ〜ってマーガレットからチクチク言葉いわれるとこも、心無いことを言われて傷つくであろうジョージを庇ってるようにも見えるんだよなあ。ヨーク家がなんだかんだ大事なウォリック伯。忠実な奴ゆえに、ヨークの人間に情があって死ぬっていう。良いキャラだった。

・エドワード王太子

みんなのエドワード王太子!!!!!物怖じしない舞台度胸とその度胸に裏付けられたフラットな佇まいが超好感だった。

有リチャ初日だったか、市場で買ったブローチが服に引っかかってぜんぜん差し出せなかったときあったんだよ。あそこわりと緊迫感あるシーンだったのに、「ちょっと待ってくれ」って言ってちゃんと差し出してた。客もふふってなってて、まあそのまえまでのこいつリチャードのことまじで大好きだな〜ってのがあるのもあるんだけど、シーンをぜんぜん壊さずに対応しててなんかスゲーッッッッてした記憶ある。
アドリブって「そのシーンになんかおもしろいことを無理矢理差し込む」ことではまったくないじゃんか。ちゃんと文脈があり、キャラのもつ背景や人格とか、シーンのもつトーンとか、そういうなかできちんと会話して「反応として出てくる」ものだと思ってるし。だからうまくできなかったら「ちょっと待ってくれ」って言う。アンちゃんと寝室にいるとこも、枕が落ちたら拾う。あたりまえのことをまっすぐできる。廣野氏は役者ってよりパフォーマーのイメージがつよかったけども、役者としての感性が完全にちゃんとあるなあって思った。

だがパフォーマーとしての感性も光っていた!殺陣が、剣がよかった。西洋の殺陣だった。リチャードに向けた短剣とかも、なんか刃を刃と思わないような手つきで身体の輪郭をいなすようなやり方。たぶん合ってるんだよな。フェンシングのひとが言ってたけど、刺すとか切るではなく、剣の先でいなす感じらしい。日本刀とか切れる刀だとたぶん違うんだけども、洋画とかで観る西洋の殺陣の感じだなあと思いながらみてた。殺陣に詳しくないからわかんないけども。

・アン

毎回毎回嘘みたいに良いんだよな。なんかよくわかんない例えするけど、きれいすぎる果物とかみたときに(嘘みたいだな)って思いながら寧ろそのモノとしての存在を実感しているときがあるんだけど、それだった。嘘みたいだなって。きれいで、かわいくて、でもしたたかで、やさしくてつよい。素直なこの子が笑える世界であってほしいなって思う。

・セシリー

アニメよりなんか救いのある描かれ方だったような気がする。アニメもそんな丁寧には見れてなくてアレなんだけども。リチャードそのものを憎んだり恨んだりという感じではなく、リチャードを産んでしまった自分を呪っている感。なんか死ねって言葉を吐く(機会そんなないけど)とき、いちばんそういう自分にたいして死ねって思うフシがあると思うんだけどそんな感じに見えた。彼女の弱さを藤岡氏は描いてくれた。

・ジャンヌ

開口一番は彼女なんですよ。そこで鳥肌が立った瞬間に(あっこれはもうこの作品勝ちました、優勝です)って思った。

冒頭でジャンヌの祈る姿の話を書いたけど、彼女の存在がでかすぎる。物語を物語にすべく彼女もたたかっている。でも現実(神)のまえでは結局折られてしまう。運命などなく、すべてはただそうある。その叙事を、3時間ずっと叙情で語ってくれていた。

あとさいごリチャードが戦場を駆け抜け掻き分けヘンリー王を殺さんとするところ、ここのジャンヌがまあ〜〜〜泣けるんだよ。「ほんとのきみを知っているのは僕だけだ!!!!!」この痛切な祈りのような、リチャードだけを思うかけがえのない声に胸があふれる。全身全霊で、そっちに行っちゃダメだ、って言ってる。しんどい。ほんとうにリチャードをずっとずっと見ていてくれてありがとう。

・マーガレット

言うことなくないすか?という良さ。観た人みんなそう思ってると思う。

マジですごかった。一気に引き込むというか、場がヒリッとする。筆者はわりと演劇を演劇として観るには引いてみれるかどうかが重要だと思っていて、あんまりのめり込みすぎないようにバランスとって観るようにしてるんだけど、どうやってもヨークとのあそこでグッと一回没入してしまうと思う。

声量のボリュームがもうほんとに絶妙で最高。ボリューム絞られるとグッと聴き入る。朗々とした語り口で説得力のある声。いや姿もすべてよかったけども。千秋楽だったか、アンちゃんとのシーンあたりでたぶんめっちゃ昂っていて、でもあそこはやっぱ淡々と毅然といたほうがいいシーンで、だから高揚を抑えるというその声と身体の感じがものすごくグッときた。こっちまで喉が詰まった。

・ヨーク公

芝居がマジですき。

公が王たる王でなきゃこの物語破綻しちゃうじゃん、でもマジで王たる王だった。懐がひろくて、包容力のある人だった。精悍だけど優しいし、聡いし、でも頭ばっかりじゃなくて肉体も伴っている。勇敢で野生みもある。寛大な笑顔とその奥の怖さみたいな。畏怖ってかんじだった。なんか存在感が山とかそういう次元の。

いちばん言いたいのは顔だよね。いやもともとハンサムな役者ではあるんだけど表情が、「良い顔してるなあ」っていう意味での顔がいい。もう殺されるところのさいごの顔がすごいのよ、ああいうときって苦痛に歪むか悲痛に泣きに入ると思うじゃん、でも違うんだよ、エッ、その顔を採択するんですかよ?!というこのセンス。もはや見得きってた。た〜っぷり、っていう。殺陣には華があるし。ヨッ、谷口屋。

『ジョージ、私の王冠はどこにある』って出てくるところ最高。怒ってはないんだけどきびしい顔で出てきて、諭すような、でもやべ怒ってんな…って顔で出てくるんだがジョージが抱きついたとこでパパ上の顔になるのが最高にすきだった。笑顔が最高。笑顔が最高なひとって最高だよな…すごい普通のこと言ってるけど…

あと公-息子-キングメイカーの図になるところ、ここはウォリックに見えてる幻影の公なんだけど、身体が「いま」じゃなくなるのがすごかった。アニメとかで回想のときにかかるフィルターみたいなのあるじゃんか、あれが肉体のうえで起きてるみたいだった。ここの谷口御大のお顔やばいんだよ。慈愛だった。でかい存在だったんだ、ってことを改めて思い知らされる。このときのヨーク公、これから起こることとか、起こってしまったことを背負ってないのがよかった。 ヨークがあの日のままでかいからみんな胸があふれる。もうただただ幻影としてあらわれる「ヨーク公」のお顔してた。







たぶん以上です…。明日BDが来い(特典付きの予約したよ〜!!!!!)(いやまず配信観ますわ〜!!!!! )!!!!!

🌹2022年10月18日までのキャスト座談会付きのBDは以下だよ( ⌒ ⌒)🌹
https://a-onstore.jp/shop/baraou-stage/

🌹配信は以下だよ( ⌒ ⌒)🌹

画餅『サムバディ』配信を観た




さっき配信観終えた。

画餅を知ったのはいすたえこ氏のインスタ。画餅のビジュ流れてきたときにエッ良〜、となって公演たのしみにしていた。

いやよかったしか言うべきことないんだけどツイだとめっちゃツリーになるしせっかく久々にちゃんとした(ちゃんとした)配信みたから書いとく。さいきんは2.5次元ばっかり見て推し俳優をなめまわして(なめまわしてはいない)3万字のブログを書く生活を送っています。

みなさまの身体がよかった。手とかよかった。手って個人的にめっちゃ気になるんだけど神経通ってるかそうじゃないかとかの問題じゃなくてなんなんだろうな。神谷さんとかもう達者の手。生実さんのなんていうの?全身の感情のなさみたいなのもいいしこれなんだろうなほんとに。感情なさすぎて叙事しかなさすぎて叙情になるよみたいな。「地の文」みたいな身体と言葉だとおもった。あとつかささんとかバッグについてるクマ持っちゃうよねみたいな。あのケロっと感とかな。あざとくなくてス〜(ごいごいす〜)。

あとカメラがおもしろかった。演劇の配信をみるときいつもその空間の切り取り方が気になる。切り取られた画をみながら、全景の画と、生でそれが起きているときの空間の感じ(雰囲気とか笑いの起こり方とか、けっこう現地にいるときに感じることが録画だと入ってないな、と思うことが多いため)を想像しながら観るようにしてるんだけど、この公演はその切り取り方に嫌味がない。っていうか、余計な提示がなかったっていう感じがしたっていうか、そこだよなみたいな観ててきもちよさあった。

以下はバストリオの配信を観たときのツイートな。

なんでツリーまで埋め込まれるんだ。まあいいか。

いやバストリオはほんとに公演の種類が違うし引き合いにだすべきじゃないから、上記のツイートはあくまで「演劇を映像に落としこむ」ときに起こること、そのときの感じ方としてこうなることがあるよなあっていう感想なだけ

ここをこう観てほしい、と思っているわけではなくても、カメラに視点を決められることでなんとなく主観がカメラの見せ方にもってかれてしまうことままある。この公演はそれがなかったわけではないけど、配信おまけのマルチアングルの9つの画角を比較して観てもあーやっぱそうよな、ここが取ってほしかったとこだよな、という画角が本編映像に使われている気がした。客の視線がここにあると尚おもしろいよなっていうか。

印象的なのは「誰か越しの、誰か」という映像。上手前と下手前にカメラ置いてあって、けっこう被写界深度が浅い。手前か奥かのどっちかはめっちゃボケる。だから生で一回しか撮れないのにそこにピント合わしてくるカメラさんすげーなって感じなんだけど。自分は演劇を生でみるときはけっこう被写界深度深めでジャックタチの映画みたいに全景を観ているつもりではあるんだけど、この公演においてはその舞台にいる具体的なモノもすくないしそこで起こっている一次情報としての叙事もすくない(2人が会話している、だけとか)から配信にスルッとみれたなあっていう感じもしたし、その叙事が叙情として映ってもむしろいいかもな、っていうケースだったかなっていう。



#1 トランポリン

なんかせりふで人間の関係値がみえてくるっていうのがふつうにウンマ〜…ってしたし、パパとママなんだよね、子供もいるんだよね、でもなんかそういうちょっと距離みたいなのが関係なんだよねっていうこととか、その板挟みになって「そういう成分が、成分表が」みたいにしか言えなくてもでも伝わってるっていうことが、これ文字で読んだらン?ってなるとこで平面でなく立体で人が会話してるあいだにしかうまれないコンテクストだよなみたいな、とにかくウンマってした。さいごの「トランポリンとんでるひと、をみてるひと」の視線で笑いが起きるっていう最高のやつをみせてもらって最高に笑った。あの音で遊ばないっていうのがコントとは線引きしてるとこだよなってなった。あのギシ、ギシ、て音の間隔のばしたりとめたりすればそ、そんな高く…?!みたいなことになったとおもうけどそれはしないよっていう。あくまでシメだし。それはラジオでするコントじゃんっていうか。人を見せているときにしか見えないあの視線。だいたいトランポリンとんでるひとのほうみるからそれをみてるひとを見るっていうのはこう、ここではそうだよねっていうか。


#2 イマジナリー

なんか途中までひととひとが近づいたり離れたりするっていうどっちかっていうとそう、少女漫画文法(超広義)のやつかもしれんな?ってみてたから、あの「ぼく見えるんですそういうの」っていうイマジナリフレンドがみえる男の子が、さいごあのすずちゃんだっけ?からゆみちゃんがみえなくなるところで、ああ、もしかしてその男の子もイマジナリーで、すずちゃんはその「見える」男の子の「主さん」と出会うことになるんかな、みたいな秒速の幻覚をみていたところでお医者先生が「ないですよ!!!!!」なのはめっちゃいいなあっておもう。恋愛カタルシスみたいなほうにぜんぜんいかないのがとても最高。だし名古屋さんのあのじぶんのなかにこもってる感じと八木さんの解けてる感じの身体性のちがいがすげーよかった。名古屋さんほんとはどういう声っていうか喋り方なのかしりたい。八木さん服かわいい。あと医者のペンがオレンジで(これ黒だとどうかな…いや黒だと「小物はあくまで小物です」感があるしオレンジのがなんかいいな…#1のママの鞄とか銀だったし…そういうディテールが多様って言うか演劇用みたいな感じじゃないのはめっちゃいいな…)っていう謎の逡巡タイムがあった。オレンジ正解かよ。


#3 お寿司食べいく

これは広角というか全景定点でいいんじゃね、と思うのにぜんぜんアングルあっていいってどういうことなんだ。でも引き画なべきっぽい「最高だなあしらんひとの通夜にもぐりこんで」とか「通夜に寿司である理由」あたりのとことか神谷さん越しのあのふたりっていう画めっちゃおもろくて笑った。でも寿司である理由の画は全景っていうそのバランス感っていうか。コソ〜っとiPhone出す様、とかはやっぱたぶん超引いてなのが正解ってなるのなんでかな。その、どう観さすとどうメッセージされるか、が違うよってことがかなり制御されて画面にうつっている気がしてなんかよかったなあ。浅野さんのあの顔は劇場では横顔しかみれなかったとおもうので配信最高じゃね。なにかを乗り越える様(爆笑)。
あと動線。「ちょっとあすこ座ってみてよ」のとこにあのふたりが行くとき、直線距離でいけるとこを一回下手の方いって座卓まわりこむ感じでその「あすこ」にすわりにいくんだけどその距離感っていうか。この通夜との距離感っていうか。なんか所在無げな人々のレイヤーとこの通夜の当事者の人々のレイヤーがあってお〜ってした。




っていう以上脳直のサムバディ感想。