藤原啓治のはなし

ほし×こえ盛岡の第2部を観て参った、というブログを書こうとしていたのだけど、おさけを飲んで帰ってきてアニメを見ていたらピーンときてしまったことがあったのでそれを書かざるをえない。

いいか、ここからは曖昧な記憶だ。
公演後はカテコがあって、そこで小野大輔と桑島法子はなんかいろんな話をしてくれた。
これは1部でもあったらしいんだけど、藤原啓治から手紙がきててそれを小野大輔が読むというイベントがあって、それはそれは笑うとこばっかりだったけどそれはたぶん他の人がもうレポに書いてると思うのでそっちを見てください。

先程も言ったようにおれは2部が終わって酒飲んで帰ってきて、1週間分の溜まったアニメを見ていた。
青の祓魔師を見てたら、藤本獅郎が出てきて喋った。

CV平田広明、まあもうマジで格好良い。
だが、おれはどうしても幻影をみる。
世界の果てを見るような感覚だ。愛おしく、どこか遠い。知っていたような、知らない感覚。

ほしこえカテコで語られた内容はかなりの曖昧な記憶によるとだいたいこんなかんじだ。
‪今回の「ほし×こえ」は、1年前に石田彰と大原さやかに読まれたものに加筆したかたちで、小野大輔と桑島法子が再演する、というかたちをとる。
藤原啓治は、そこに意味があると言っていた。色んな人が演じることに意味がある、と、そういうことを言っていた(ような気がする)‬。
‪言ってることわかりますか、今回、藤原啓治がこんなことを言うってほんとうになんていうか深い感慨がある‬とおれはおもう。

‪おれはいままで声優の総入れ替えだとか、声のイメージが変わるだとか、そういうことでマイナスに思ったことが全くなかった。そして今もそれはない。こっちはこっちでまた違ったよさがあるなあとか、むしろこっちのほうが原作のイメージでいいなあとか、そういうことを思うし、感じる。

‪そしておれは平田広明がめちゃくちゃ好きだ。めちゃくちゃ上手いしめちゃくちゃキャラクターを生かすから超好きだ。‬
‪だけどさあ、やっぱり藤原啓治なんだよな。‬
藤原啓治の声をその背後に聴いている。
平田広明の獅郎ほんと超かっこいいよ。キャスト発表されたとき喜びすらしたよ。
だからわかった。声優が変わることについて意見をするひとたちは、それを否定したいんじゃなく、寂しいとか、愛着とか、そういう情、たとえばじぶんのいちばん大事なひとが、ある日突然、姿形は何も変わらないのに中身が変わってたら、まずとてもびっくりする。なんかそういう感じだ。目の前にいるおまえは偽物だ、おまえはあのひとではない、とか言いたくなる気持ちがわかった。理解して実感した。でもやっぱりそれは一種の否定にきこえることがあるし、インターネットには切り取られた情報しか浮かんでいないので、そういう意見をみかけたときに変更後キャストのファンはすごくかなしいきもちになるということはほんとうだ。留意。
いやそんなのわかってはいたけど、やっぱり改めてピンときたので書いておいた。

いま代役を立てていろんなひとに声を担当してもらわねばならない状況にある藤原啓治の口から、そんな言葉が出るなんていうのは、ものすごく胸にくるものがある。
いろんなひとの、いろんな文体で、ひとつの物語を語ってもらうといい、なんてそんなこと、本人に言われてしまったら、とか思うところがいっぱいあるけどカットした。
記憶が定かでないのが残念すぎるけど、屍者の帝国のアニメ映画公開当初に、円城塔が寄せた文章にある思いと似ている、と思った。伊藤計劃もそうだけど、言葉に自覚的であるひとはみんなそうだ。「これが僕の物語だ」。
こういうことを意識的に言葉にできるようなひとが声優をやっているということは最高すぎるし、ほんとうにげんきになってほしいものだ。はやくまたあなたの言葉を聴きたい。

黄昏かげろう座





“お前が世界を見たいなら、
眼をお閉じ、ロズモンドよ……”
ー『シュザンヌと太平洋』








スペースFS汐留にて「黄昏かげろう座」観てきました。

演目は、江戸川乱歩『屋根裏の散歩者』と『人でなしの恋』。それぞれ2公演ずつ。
感想書きつつ思ったのは、朗読劇、難しいなー!ということ。正しい芝居なんてなくて、すべては好みの問題なんだけど、一本の作品としてのおもしろさを、どこに委ねたらいいのかわからない。原作、脚本、演出、俳優、それらのバランス。

まあ今回も三木眞一郎につられて行ったやつなのでとどのつまり三木眞一郎はスゲエってことを書くと思います。

あとは、女優と声優というキャストであったことで、その差異について見えたものがあったのでそれを書きます。



屋根裏の散歩者
200に満たない座席。
舞台は真っ黒。上手、下手に机と椅子が1セットずつ置かれている。それぞれの机上には切子のペアグラス、青と赤。下手、青いグラスの隣には黒いハット。その向こう、最下手には椅子がもう1つ、久世光彦エッセイ朗読のアクトスポットとして置いてある。
そこに黒ずくめの演者2人。物語は久世光彦のエッセイから始まる。

久世光彦のエッセイの混ぜ方、おもしろかった。この久世光彦というひとの、「劇場」というものについての思想には頷ける気がする。劇場は春の日の陽炎のようなもの。考現学、とか言ったらいいのかな、劇場というものは、それこそわたしたちの暮らす街でもいい、眼前にある光景、それが立ち上がる「場」が「劇場」であり、その現象は、演劇である、という感じ(多分)。生活をしていてもときどき我に返って、はっとする。そういうとき、そこには詩がある。生きていても、白昼夢を見ているみたいに、ずっと実感がないことのほうが多くて、そうやってわたしたちが普段ぼんやりと眺めて通り抜けているだけの日常、現実に、一瞬の閃光のような何らかのきらめき、ロマンみたいなものを感じるとき、それははっきりとした輪郭をもって迫ってくる。ここは劇場である。そういう幻想のほうがどうにもしっくりくるというか、すごくわかる。夢のほうが、ずっと現実だ。

倉本朋幸の演出はさっぱりしてた。この演出家、知らなかったんですが「三月の5日間」「好き好き大好き超愛してる」「書を捨てよ、町へ出よう」などを手がけておられるらしく、なんというか、アングラ、ではないんだけど、激情系、みたいなのが好きなんだろうなーという印象。岡田利規、舞城王太郎、寺山修司、江戸川乱歩、っていうとなんとなーく繋がるものがある。

演者レビューとしては、まずは田畑智子。知ったのは朝ドラですけどオッと思ったのは「ふがいない僕は空を見た」です。まあ原作が好きだっていうのがでかいけど。今回は朗読劇だったがやはり、適材適所というのはあるんだなーという感想だった。彼女は美しいよ。けど朗読ではない。舞台にいる彼女の表情とか、佇まい、そういうものはやっぱ女優だなー!と思ったけど、発声とか読み方とかは、映えない。これ朗読劇じゃなく演劇なら光っただろうなと思った。勿体無さすぎる。「ただ、そこにいる」ということ。ただ、人間が、そこに立っている、それだけで、細かい演技のテクニックとかは、どうでもいい。だから彼女は「女優」だし、勿体無いというのは、朗読劇という領域で足掻く彼女を見たいわけではなかったからです。見るのであれば、彼女のなかにもともとあるものを、テキストに縛られずにいる彼女を、見たかった。においがしなかった、といえばわかるかもしれない。
1日目は夜公演がよかったですね、初回は緊張してらしたとみた。2日目はやっぱり女をやるということで、しっくりきたし、素敵だった。

一方、三木眞一郎である。改めてマジですごい。それと、完全に演劇の畑に居ていい人じゃんと思いました。2日目は特にすごかったのでまずは1日目に思ったこと。

声優なので、書き言葉を話すのはお手の物なのはまあそれはそう、それでも、この引力はなんだろう。書き言葉の文章に浸透力を持たせる力がある。
朗読劇なので、やっぱりテクニックは必要。それは演劇と違って、演者から発されるただの言葉を、観客が聴き、脳内で風景を描いていかなくちゃいけない。だから物語がうまく進行していくかどうかは、発信される言葉と、それを受け取る観客の想像力に委ねられる。朗読劇は演劇よりも、視界で受け取る情報がずっと少なく、想像するためには、言葉を聴かなくちゃいけない。でもこれがなかなか難しい。

相手に伝わる情報の割合は、話の内容、言葉そのものの意味から7%、声の質・速さ・大きさ・口調から38%、そして、見た目・表情・しぐさ・視線からは55%で、視覚的情報を奪うと半分以上の情報を削がれる(そう考えてドラマCDとか聴くとすごすぎる)。さらに今回の公演は90分、人間の集中力が続くのは15分。どうやっても飽きる。
なのにどうしてか、飽きない。勿論、視覚的な効果は、演出として入れられている(例えば、猿股の紐に模した真っ赤なゴム紐を、2人の間に繋ぎ、シーンの流れの途切れる台詞の狭間で、離す、といった文章構造の可視化など)んだけど、緩急、とかそういうのだけではないなにかがある。どうすれば文は伝わりやすいか、というと、文章の構造をきちんと把握して、どこで区切るか、どこを目立たせるか、どの語に重きを置けばいいのか、そういうのを大事にすれば話す文としての正解は出る。

(前にこういうpostをしたけど、三木眞一郎みたいな声優がこういうのをパッと言うっていうことに怖さを感じました。もう基礎とか忘れてていいくらいなのにな、先生かよ)
(たまごの声という声優のたまごの人がやってるらしいラジオにゲスト出演したときの発言)
だけど、この正解だけではない、それ以上に、言葉にあらゆる感覚が伴っている、と思う。

三木眞一郎の朗読は、文章の向こうに湛えてある感情とか魂みたいなものをインストールして喋っているような感じがする。書かれたものを読み取ることで再び風景や感情を立ち上げるのではなく、書いて平面に落とし込む前の原風景を、そのまま発話にのせている感じだ。

そしてそれだけではなく、演劇人じゃん、と思ったのは、存在感そのもの。あの長身。舞台に立つ人間は手が大きくなきゃ、みたいなのを読んだことあるけど、そういうこと。やっぱり舞台上で映えるためにはタッパがないといかん。スーツにハットの姿もさることながら、なんていうか、身ひとつで立っていても舞台が余らない。そして一個一個の仕草のためらいのなさ。朗読劇に丁度良い塩梅の身振り。指パッチンのち天井を指差すとか、顔を上下(かみしも)に向けるとか、強調する部分で人差し指を立てるとか。役とか地の文ごとに声色を変えるのは勿論、明智小五郎をやるときは背凭れにもたれて足を組んだり、身体も変えていた。声色でも十分わかるのに。すごいな。そうそう、これを観聴きしながらなんとなく落語のことを考えていました。

あと身体のことでいうと、声を出すときの姿勢。
いままでは、三木さんは「姿勢を正して」というよりも「自然体で」というひとだと思っていて、それはあながち間違いではないと思うのだけど、今回の朗読劇見て思ったのは、肺を開いている、ということだった。

演技って「いい身体」「いい声」で観客のほうを向いて大声で叫ぶ、というのが正しいわけではなくて、べつに腹から声が出てなくていい、背筋が伸びていなくていい(かといって仰々しくない自然さがいいというわけでもないんだけど)。三木さんは普通に立つし、無闇に声を張るわけでもないし、やたらと滑舌良く喋るわけでもない。むしろ声を裏返すことだってある。こういう「自然さ」。

今回の朗読劇、演者2人はほとんど座って読む。だからわかったことがあって、三木さんは、みぞおちあたりから肩までが、なんというか、ひらけて、立っているのだった。声の通り道と、その響く部位を確保しているという感じで。背中が丸まっていると声はこもる。喉も詰まるし呼吸も浅くなる。いままでは立って演技しているのしか見たことがなかったけど、座るとなんとなく、どういうふうに身体を使っているのかが見えて、ヘェーってすごく興味深かった。
あとこれは姿勢のはなしとも繋がるかもしれないので書いておくんだけど(マイクの付ける位置にもよるとは思う)、三木さんだけマイクをふかないんですよね。発声の問題なのかはわからないけど、ボッ、ていうあれがない。それもなんかヘェーってなりました。





人でなしの恋
昼公演、見終えた直後、放心してた。何も書けない、何も言えない、泣くこともできない。ただ痺れるてのひらを握ったり開いたりしながら、この静かな興奮を振り払うように頭を振りながら、足早に劇場を出た。

どうしよう。どうしようもない。
もっとこの人の芝居が見たい、と思った。

三木さんには一言の台詞もない場面。
なのに、だんだん、唇がわなわな震え、息が上がり、一気に、静かに、彼の纏っている空気だけが濃くなり、高まっていく。その一点だけに、視界が絞られていく。ネクタイを解き、ボタンをひとつ外す。赤みのさした首筋が露わになる。
そして、すっくと立つ。見開かれた目、その鋭い眼光。真っ赤な紐を唇に咥え、そこからするすると長い体躯に巻きつけていく。少しでも動けば血の出そうな緊迫感。あの赤い糸に劇場全体が雁字搦めになって、動けない。

腹の底から、言いようのない感情、そして熱が、ふつふつと湧き上がるのがわかった。内臓が熱い。呼吸が出来ない。裏腹に、皮膚の表面はへんな汗をかいて、冷えている。掻痒感にも似た、ひりひりとした感覚が、心のやわらかい場所を貫いていく。

こんなに揺さぶられたことはなかった。

自分の人生のなかで興奮の閾値を超えたものなんて3つの出来事ほどで、それらはすべて10代のとき、田中泯のフランシス・ベーコンの舞踏、滋賀の女子高生ろろちゃんの自殺動画、クリスティーン・バタースビーの『性別と天才』を読んだとき。なにもかもに慣れてきて、感覚も鈍ったいま、20をこえてから、こんなに揺さぶられたことなんて、なかった。

形容しがたいよ、こんなの。すごすぎる。何度も溜息を吐いて、思わず手紙を書いた。

かげろう座2日目は、下手に田畑智子、上手に三木眞一郎。きのうと交代のかたち。最初と最後の久世光彦のエッセイ朗読も、きのうは田畑智子がやっていたところを三木眞一郎が読む。
衣装は白の分量が増えてた。田畑さんは白いカットソー、三木さんはスーツのジャケットなしでシャツ+ネクタイ。

冒頭、素晴らしい引き込み方だ。空気を多く含んだ柔らかい声で、聴かせる。
なのに最後、雷に打たれたようなわたしたちを横目に、あんな緊迫感を解きほぐすように、はじめと変わらないトーンで、震えもない、落ち着いたあの声で、諭すみたいにまた、観客に語りかける。

すごいよ、三木眞一郎。一体なんなんだ。
声優の域を越えてる。俳優でもあんな演技ができるかわからない。
ドラマCDとかのフリートークとかでよく共演者は三木眞一郎に対して「緊張感」というワードを出すけど、その意味がやっと分かった。纏う空気が、飄然と張り詰めている。

冒頭のエッセイから乱歩の物語に切り替わるとき、三木さん、目を閉じるんだよ。その幻想に身を浸して、ひとつひとつの言葉の向こうの原風景を、かげろうのように立ち現れる瞼の裏の劇場を、じっ、と見つめるみたいに。

素晴らしかった。それだけ。もう何も言えない。すごかったんだよ。動悸がおさまらない。

さよならソルシエ


SOUND THEATRE × さよならソルシエを観てきました。音楽朗読劇ということで観る前はどういうこと?と思っていたんですがドラマCD一発録りみたいな感じです。生でこれができちゃうのすごすぎる。加えて、舞台なので、視覚の楽しさをつける感じ。ライブペインティング、照明、舞台の演出、衣装など。レポではないです。個人の主観入りまくりの感想。

ここで原作についても語ってしまうとかなりとっ散らかってしまうので基本的に演出と演者について。この12/3の公演はPLAY BUTTON(プレイボタンはバッジ型デジタル・オーディオ・プレーヤーです。バッジ型の本体にイヤホン / ヘッドホンを差し込むだけで、いつでも、どこでも収録された音源を楽しむことができます、とのこと)に録音されているけど、記録媒体からはみ出してしまうものがやっぱり生の舞台にはある。その劇場のダイナミズムとかについて。
以下原作の漫画の題です。舞台脚本ではすこしずつ入り組んでこの区切りを越えて行ったり来たりもするし台詞がつけたされているところもある。

1話 パリの魔法使い
2話 夜の住人たち
3話 草原の兄弟
4話 アンデパンダン展
5話 夜明けのパーティー
6話 冬の草原
7話 才能
8話 絶望と希望
9話 彼の宿命
10話 手紙
11話 炎の画家
12話 au revoir, Sorcier

演者は下手から、三木眞一郎、浜田賢二、諏訪部順一、内田雄馬。中心2人には立ち台がついてる。(ちなみに自分のスタンスを話しておくと、三木眞一郎が超すき、浜田賢二と諏訪部順一はものすごい推し、内田雄馬は気になるキャラ居てエンドロール見るとまたこの人だったか、というタイプで好きな役いくつかあるけどノーマークだった)

ちなみに衣装と髪型はこう。左がフィンセント・浜田・ゴッホ、右がテオドルス・諏訪部・ゴッホです。浜田賢二髪の毛モフモフ、諏訪部順一外ハネ茶髪(ありがとうございました)、もうこの画像だけでつらくないですか、ほんとにまんまなんですよ、これがステージにいたんですよ

内田雄馬はビビットめな色でかっちりはしてない若者めいた格好にさらっと下ろした黒髪、三木眞一郎はベージュのロングコートっぽい羽織りに茶髪グラデ外ハネロン毛です

会場には照明を映えさせるための霧が立ち込めている。ステージには描きかけのキャンバス。波を通り抜けてきたような光の網が虹色に光って、ステージの輪郭の外まで広がっている。開演と同時にその網は青く染まり、観客は物語のなかに潜水する。

再構成された物語。戯曲家ジャン・サントロと画家アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレックの再会から、回想譚として語られていく。

・物語は『2話 夜の住人たち』の一部から始まる。
プロローグのあと、物語の冒頭で容赦無く観客を引き込む諏訪部順一。諏訪部さんの声には説得力があるなあと思う。カリスマ性のある、というか、有無を言わさず相手を説き伏せる力。安心して聴けすぎる。地に足がついている。
・マルクスが路上でパンの絵を売る場面。
「さて、お立ち会い!」暗転後まで往来に向かい商売をするジェスチャー、観客の想像の解像度を上げてくれる三木眞一郎…
三木さんはこういうふうに意識的にパフォーマンスをすることもあるけど無意識のうちに出る動きも多い、逆に諏訪部さんは身振り手振りは全て自覚的にやっている気がする、憑依するか、引いて見ているかどっちと言われれば、前者三木、後者諏訪部と思います。三木さんも客観人間とは思ってたけど思ってるよりこれは感覚というか右脳派の人間なのかもしれない…最高…

・ここでフィンセント・浜田・ゴッホ登場なんですけど、ひたすらあどけなく、善人で、穏やかで、無垢な感じの声色。浜田賢二の声って額に細く当たって響くんじゃなくて、喉の後方から鼻腔にかけてボワーと広がるような声ですよね、最高。(基本的に)諏訪部順一は鼻から喉にかけて(おとがいあたりも)、内田雄馬は喉かな(勉強不足)、三木眞一郎は胸(肺のあたり)に響く。個人的に浜田賢二と三木眞一郎は聴いてて心地好い系で声自体が好きすぎる。

・3話、幼少のふたり。諏訪部順一のショタ声がレアなのかはよく知らんが、高い。そして諏訪部氏、子供をやるときは休めの姿勢になるみたいだぞ!身体を変えることで胸に立ち上がってくる心持ちが違うということを知っておられる…
ここでの三木さんまさかのゴッホ兄弟の母として登場。こういう声色も違和感なく出せるの、流石すぎる。この撫でるような色気。
そしてジェローム殿も登場。ウオーッ!三木眞一郎の、振れ幅〜…!コメディもシリアスも女も悪役もできる!すごいぞ

・振れ幅で言うと、内田雄馬もすごかった。5役?もっとか?チャンネルの使い分けに唸る。シリアスな場面に迷いもなくおもしろいトーンを入れてくる。内田さんのそういう台詞のあと、音源からはあまり感じられないけど会場の空気がざわっと揺れるんだよな。そして内田雄馬、身体性まで自在なように見えた。なんていうか、今にも走り出せそうなって言ったら変だけど、腰が落ちてないというか、とにかく身軽で、自由で、楽しそうだった。緊張している様子もなく、スゲー人間だ…

・内田雄馬、6話では老婆もやる!ここが泣かせるシーンで、演技がうまくないとそっちに気を取られちゃうリスクあるところなんですけど、見事に老婆だったので、会場がめっちゃ泣いた。
冬のパリで、40年前の夏の草原の風景を描くシーン。
浜田賢二の、純粋で無垢で真っ白なやさしさが、人間の持っている狡猾さ、意地の悪さを、抉ってくるようなまでに真っ直ぐで、たまらなく胸が締め付けられる。
大袈裟になることもなく、格好付けることもなく、そこにある人物の感情にぴったり寄り添うように話す。目の前に、その光景が見えているように、穏やかに微笑みながら。童話の世界のひとのようだった。佇まいに不思議な引力がある。

・7話、第一部の終幕。
絵を選んでいるときの「どれにしようかな〜」のあとにテオドルスに呼びかけられての「う〜ん?」がほんとうに夢中になってて上の空返事でめちゃくちゃかわいい(死)
・一幕ラストの演出が素晴らしい。テオドルスの激昂。赤い照明。はやる音楽。諏訪部順一担当のお姉様方でこの公演観てないひとはシビれる台詞かなりあるので原作読んでみてください。脳内再生容易に可能だと思われる。

・第二部は8話から。
フィンセントが教会へ連れ去られる。浜田賢二、後ろ手に縄をかけられているように台本を持っていないほうの左手を背後に回している。
・「死ぬのは、俺のほうだ」拳銃のかたちにつくった左手を自分のこめかみに当てるエンターテイナー諏訪部順一…

・9話は8話からほぼ地続き。フィンセントの、弟を信じたい、そういう祈りみたいに、嘘だよねテオ、って縋るような声、繰り返される「いやだ」「やめろ」がどんどん涙ぐんで小さくなっていくのに胸が締め付けられるように痛い…
浜田賢二、沈黙を操れるひとだと思いました。声優だけなんて勿体無いよ〜!このひとにあるテンポは演劇とかに持ち込まれるべきだよ〜!

・兄弟のこの長いやりとりの最中、明転中なのに三木さんが座ったんですよ。いままではきちんとスポットが絞り切られるまで立っていたので、(えっまだスポット付いてるよ!)と思ったんだけど、これ、ちょっと待って、あれ、なんか、そこにいらっしゃるのは…ジェローム…?
いままでの暗転時の座り方は普通にむしろ猫背めで座ってたのに、このときは崇高な芸術家ジェローム殿らしく、踏ん反り返って見事に「偉そう」な座り方なんですよ…えっすごい…兄弟が魂をひっくり返してぶつかり合ってるときに、やっぱり3人立っているのは気が散る、かといって明転暗転を繰り返すのも気が散る、となれば、2人を舞台に残しつつ、自分は傍観者を「演じる」というのが、三木眞一郎、さ、策士〜…!

・この場面ではじめて怒りの感情をあらわすフィンセント。いままでの穏やかさとは裏腹に鋭く低い声、静かな激情。ここでまたライブペイント、なんですけどその前に炎が!19列目でもけっこう熱いくらいの。描かれた絵はこれ。これは終演後ロビーに飾られていたもの。この公演のじゃないのでたぶんゲネのものとかだと思う。

・とまあとにかく、この教会のシーンはけっこうな見せ場であり、いちいち心を動かしている暇がないくらい、めくるめいている。目が足りないと思ったことはあるけど心が足りないと思ったのははじめてだ…
浜田賢二の沈黙の使い方、ニュアンスのシンプルさ、それでいて豊かな感情のブレンド比率に唸り、諏訪部順一の音楽感覚、迷いのない声色の選び方で唸り、三木眞一郎の「追いかけるな、くだらん」で唸る!
このシーン全体の抑揚、見事すぎる。

・10話、手紙を読む浜田賢二、つらい。こんなにいい手紙はないよなと思う。
「ごめん、テオ…」その余韻とともにフェードアウトして絞られていくスポットのなかに佇む浜田賢二の姿が妙に目に焼き付いている。哀しそうというより、悔しそうというより、ひどく寂しそうだった。

・フィンセントの訃報を知らせにきたマルクス。息急き切ってドアを開けた彼が口にする、フィンセントが、「亡くなったと」。この一言に表面張力するニュアンスは膨大だ。衝撃、焦燥、狼狽、痛惜、後悔、悲嘆がすごい速さで流れながらこの一言に込められている。嘘だろ、信じられない、いやだ、信じたくない、けどこれは事実で、早急に伝えなくてはいけない、っていう感じが詰まりすぎてる。拒絶してた事実を受け入れたときに哀しみがどっと押し寄せてくるような。
こんなにハッとする瞬間にはなかなか出会えない。ほんとうにすごい一言だった。一言というよりも、一撃に近かった。

・そのあと、暗転後に三木さん、泣いてたんですよ…oh…汗かなと思ったけど、タオルを顔に当てたあと、台本を観客にかざすように持ってきて、そんなことしなくてもスポットは当たっていないのに、本人の心理状態がそうさせたってことはほんとうに…えっ…でもタオルを置いたあと鼻を啜ってたので、やっぱり…って、思ったけど、三木さんは泣いていることを恥ずかしがってたわけでは決してなく、演者のマナーとして、客にそれを見せない、という配慮だったんだろうなと思いました。紳士…

・幼き日の幻想を見ながら、兄に想いを馳せるテオドルス。「待ってくれ、行かないでくれ、兄さん」。「く」が丸い感じの発音で、すごく幼い。不敵に笑って何事にも動じない男が、そうやって泣くことが、どれだけ異常なことか。声を詰まらせながら泣く、その、声をあげてわあわあ喚いてしまえたら楽なのに、どうしようもなく、抱え込むしかない悲しさ、悔しさ、そういう青い感情が内臓に爆発しそうなくらい渦巻いてるんだけど、ぜんぜんそれが出て行く量に追いついてなくて、苦しんでる感じ。
諏訪部順一、空を仰いだんだよな、ここで。心を抱え込むような絶叫を想像していたんだけど、祈るように、神を責めるかのように、顎を上げて泣くテオドルス・諏訪部・ゴッホ…ちなみに原作でもこうして泣いています…

・そんなシーンのあと、弟・テオドルスへ書いた手紙を読む浜田賢二の、痛いほどやさしくまっすぐな演技が、泣けすぎる。おだやかな希望を湛えて、ひたむきに、つよく、見据えている。決意に満ちているのに、静かで、心は凪いでいる。この声に、会場の空気が一気に、静かに、泣いたのが分かった。「テオ」と何度も呼びかけるその声がやさしく、あどけなさすぎる、兄なのに、すべての信頼を弟に寄せるみたいに…いとしすぎる…
弟に、久しぶりに会えるのを楽しみにしている、と書いた手紙の〆に、「フィンセントより」って自分の名を言うんだけど、これがほんとうに心から嬉しそうに弾んだ声で言うもんで、情緒が、崩壊した…

・11話。テオドルスは兄の人生のシナリオをある戯曲家に依頼する。ジャン・サントロ。フィンセントの絵を見た瞬間、「どうした、サントロ」泣いてるぞ。ここの演出もまた最高だった。演劇の、生の舞台のダイナミズム。琴線、という言葉を思いながら観てた。バイオリンに乗って加速する物語。衝撃からくる様々な感情が入り混じり、叫びだしたくなるような激情が、静かに執拗に、サントロのなかに熟していく。
「金なんかいらねえよ」「こんな面白い仕事はない」
目に浮かぶ涙を振り払うように、鮮明に見たいその絵を滲ませる視界を悔しがるように、慟哭を抑えながら、感動を口走る。台詞を紡ぐ、なんて穏やかなものではない、情動の乱れ。
三木眞一郎の憑依の仕方は凄まじい。ここでも暗転後目頭を摘まんでいたよ…
そして諏訪部順一の音楽感覚はやっぱり素晴らしすぎる!バイオリンが鳴り、あのタイミングで入ってこられるの、なんていうか、長縄跳びがうまい、みたいな(伝われ)、サントロにフィンセントの絵を見せるシーン、「天才の絵だ」からの、バイオリンが入り、「人々の興味を引く画家の人生は〜」のところ、ほんとうに気持ち良すぎる…この三連符めいたテンポ、走り出した音楽とともに歌うように前のめりな加速!
あの加速あった後の高揚に三木眞一郎の演技がハマったような気がして、気が気を呼んだ感じで、すごかった…

・ラスト、12話。
「行こう、テオ、僕と一緒に」
「ああ、ずっと一緒だ、兄さん」
幼き日の兄弟の記憶。男の勲章だと言って背中に傷をつくったテオドルスの隣に、すこし背の高い、兄・ゴッホが描き足されていく。

ステージ奥の絵画に描かれる”FIN…”の文字を4人の演者は振り返ってまなざす。弦の余韻が終わる。暗転。

『かなしみはちからに、慾りはいつくしみに、いかりは智慧にみちびかるべし』
宮沢賢治は言ったけど、そういうふうに、暗がりまで愛せるひとが好きだ。孤独や悲哀までうつくしく、絶望を原動力にできる。ゴッホもまたそうだったんだと思う。この作品に出会えてよかった。ありがとう。
R.I.P. to “bon,au revoir Sorcier”.

マーシー・シート

舞台『マーシー・シート』を観てきたので詩情がダダ漏れになって書いた、しっちゃかめっちゃかなとても長いブログです。一応書いとくとこれはレポートではないし、括弧内はまったく台詞通りというわけではないのであしからず

ここに記すのは、書く者や演ずる者のこころではなく、わたしのこころのはなしであって、この舞台がどんなことを描いたものかとか、そんなのはわからない。観て、感じたことの羅列であって、決定的なものじゃないです
鏡のような舞台だった。いま、この4月の五日間に、なにが上演されたのか。

いやな物語。風景。灰色の雪。
「ねえ、2月みたいだ」
全部が終わって、目が覚めて、外を見たら、まるで真冬みたいなんだ。
ワールド・トレード・センターの亡骸を眺める2人は、偶然、あそこに居なかっただけである。

この舞台は最高に演劇的だった。
この舞台には、「演劇をやっている身体」以外に、「演劇をやっている行為をやっている身体」が発生していた。
というのも。公演期間中に地震が起きました。
熊本、震度7。
これを今、観るということが、この作品が、上演されるということが、どれだけ演劇的なことなのか。
そして、それだけでなく、「声優」がこれをやるということ。舞台に居たのは「俳優」でした。紛れもなく。「声優」という記号がうまく使われていて、だからわたしは身体のことについて考えざるを得なかった。見事に記号に踊らされて、たまらなく演劇的だと思いました。興奮した!

この舞台について、三木さんのインタビューがある。

舞台も声優の仕事も、「役を借りる」部分に関しては、肉体の使い方は全く同じだと三木眞一郎は言うが、しかし、それらは「似て非なるもの」であるとも言っておられる。
曰く、声の仕事のときも当然肉体を使ってはいるが、声優の演技と俳優の演技について、図像の見た目通り自分の肉体を動かして使えるかどうかという違いがある、とのこと
声優が使う肉体の使い方は、声を任された人物の動きを「再現する」ための肉体であり、いわば容れ物である。舞台では役の人物の動きをそのまま再現するが、声優はマイク前では実際にそれをする動きをそのまま再現できない。よって声優は、その状態を再現する筋肉を、マイク前で台本を持っている状態で動かせれば、止まった状態でよりリアルな声が発声できる。それが声優と、映像とか舞台の人の肉体の使い方の差、だと

ここで思うのは、俳優でも声優でもやっぱり三木さんは自身の「内面」を演技に持ち込まないということだ。仕事のスケジュールもきちんと声優業を優先にしつつ、「役を借りる」と言い切る彼は、とても声優という感じで最高ですかよ……

三木眞一郎は境界に居ない。
三木眞一郎が三木眞一郎であることは「声優」にとっては必要なく、キャラクターと自己の比率は100:0に近いんだろうな。たぶん。自分がキャラクターになるのではなく、キャラクターを自分にするのでもなく、それらに折り合いをつけて中和するのでもなく。そのどれをとったところで虚構の純粋さは保てない。それを知った上で、三木眞一郎の在り方がある。「借りる」という言い方は、その主体が自分になるということだ。しかし「役を借りる」と言った三木さんは自己をキャラクターに押し付けない。むしろ退こうとする。このように押しては引いたところで中間に立つこともなく、この複雑な乖離を大事に抱えたまま三木眞一郎の声のある虚構は成立する。この不可能性に満ちた曖昧な駆け引きが虚構を虚構として違和感なく成り立たせているのだと思う。なかなか難しい闘争だ。

ただ、言葉の定義の難しさというのはあるんだけど、再現するための肉体、というのは俳優においても言えることである。俳優もカメラの前、舞台の上などで役の再現をするわけである。ただ、やっぱり明確に違うのはそこに自己があるかどうかということだ。声は肉体がなければ存在することのできないものである。役が黙ったとき、目の前にいるそのキャラクターは果たして誰なのか。俳優は黙る。黙ればその空間には静かに肉体がある。声優が黙るとき、その肉体は声を取り戻し、完全体になるとして、空になるキャラクターのどこにしがみつけばよいのか。
(でも三木さん、沈黙が上手かった…「沈黙がうるさい」というあの状態が続いたときめちゃくちゃグッときた…)
声優における演技というのは、たぶん、その場面における肉体の在り方のアイデンティティを増幅すること(よりそれっぽくする、声からその場面における肉体の在り方を想起できる)であるのに対して、俳優においては、声の表情は二の次で、その場面における肉体をありのまま、存在させることなんだろうと思う。でもまあ、キャラクターに声をあてることはそこに感情を込めるということなので、声を持つ本人が見えているか見えていないか、どこに立っているかの違いだけだとは思うんだけど。要するに感情の分配のはなしということかな、どこに比重を置くかによって表現を考える。だから舞台の上では、自由な身体を手に入れたはずなのに、持て余す。見られる身体・客体であることを意識をすることで、ソファから立ち上がるたびに無意識にシャツの裾を直す。何度も腕を捲る。
あ、不自由だ、と思った。
だって身体の動きは不随意的なものなので。例えば、いま、あなたの身体を隅々まで点検してみてください。足の指が丸まっていたり、腹に力が入っていたり、脚をぶらぶらさせていたりする。これは考えてやってることじゃないというのがわかる。だから考えると、自分の身体がめちゃくちゃ邪魔なことに気付く。どうやって歩くか、走るかなんて考えないし。本来反射的に脳からきてる指令を、無理やり演じるということは、なかなか難しいことだと思う。
このシャツの裾を直すとか腕を捲る仕草たちは、例えば女の子がスカートの裾を気にするみたいに、食い込んだパンツのゴムをパチンとやるみたいに、自分にとっての不快感を解消するという行為で、だとすれば、こういう仕草がこの居心地の悪い舞台にあるということが、なかなか必然に思えてくる。この不自由さをベンは持っている。だから三木さんは演じようとすることで「ほんとうになる」っていうことになる。発話が自由だから、尚更。見事に役がハマっている…

そして、ベンは窓の外の出来事を見て、言う。
「言葉にならないよ」
「わかってるわ。でもしなきゃ。言ってみて」
言葉って記号だから、例えば「愛」という言葉に思う風景がみんなそれぞれ違うように、ラブレターを書くときに「好き」って言葉なんかいらないように、きちんと自分の言葉で話すことは、難しい。
「ニュースみたい。それは定型文でしょう」
感情が当てはまるからといってクリシェを使えば、どうしてもどこかを省略してしまう。

三木さんの持つ言葉は独特で、だけど、だから、カーテンコールの言葉がきちんと自分の言葉で、たまらなかった。みなさんと空間を共有して、吐き出した呼吸をもう一度吸ってここ(胸)に落とし込んだときに現れる感情がある、と。

というわけで、「ベン・ハーコート」は、声優:三木眞一郎にしかできないんじゃないかと思いました。

っていうのは、この身体と中身の乖離感みたいなものについて演劇的な効果だけでなく作品自体からも考えることができるし、作品自体についてもたくさん考えてしまった

「あなたはいつも後ろから私を愛する。あなたはいつも愛し合ってるとき、そうやる、やられてる、そう、私そういうふうに思っちゃうのよ」
「あなた愛し合ってるとき一度だって私の目を見てくれないの」
「絨毯の品質表示のタグを見ながら、あとはね、リストをつくるの。あたしあの別荘でクリスマスの予定ぜーんぶ立てちゃった。それから、あなたの奥さんにいたぶられることを想像しながら、私あなたに入られてるの」
そう言うアビーに対して、だって俺たち、身体の相性は最高じゃないかって、ベンは言う。
「愛してる。大丈夫」
この関係は不倫である。後ろめたさも感じてる。ときどき、うんざりする。でも、この言葉は嘘じゃない。
「俺が欲しいのは君だよ、アビー」
「俺たちは、同期で会社に入って、狙ってたポストに君が就いた。ただそれだけのことだろう」
「それと、俺は、後ろからするのが、好きなだけ。こう、なんか、近くなれたような感じがするから」
たまたまそうだった、というだけなのに、他人から見たらいろんな偏見になる。ベンは彼女の身体だけで、内面を求めていないのか。そうじゃない。セックスの最中一度も目を合わせなくても、自分はできるだけ何も捨てたくなくても、アビーのことを愛しているのはほんとうだ。
「けどここでは君が男だ」
「だからって君が支配欲にまみれたクソアマになる必要はない」
2人にとっては特別な関係でも、他人から見ればそれは犯罪かもしれない、不倫であり、パワーハラスメントであり、ただならぬことであり、どうでもいいことである。
「実際どうかはわからないけど、彼女、レズビアンに見えるよ。それだけで十分だ」
わたしたちが見るのは、好きなことも嫌いなことも、気持ちよさや、いやな感じも、すべて事実である。だけど、事実は、絶対じゃない。女はどうやっても女だし、男もどうしたって男で、だけど、例えば女がズボンを履くように、男だってスカートを履いてもいい。わたしたちは抗うことができる。事実はいつでも変えられる。
「あなたは、私があなたを愛していると思う?」
「僕は、君を愛してる」
「私はあなたに訊いてるのよ。そうやって他人のことを自分のことにすり替えないで」
例えば、肉体に、正しくセクシャリティや、魂自体が宿っていないこと。自分が自分じゃないような感じ。誰かに深く共感するとき、その人のことを分かったような気になって、まるで、わたしはあなたであるみたいな気になって。
「窓には近づかないほうがいいわ。この辺じゃあなたのことはみんな知ってるんだもの」
「知ってるけど、あなたを、ほんとうに、知っているひとがいると思う?」
「わたしの言ってること、わかる?」
わたしはあなたを愛している。だけど、全部だとは限らない。
どんなことがあっても、わたしたちは無傷な別人である。どんなに干渉しようとしたって、結局は、お前に何がわかるんだってことになる。物理的に身体を繋げたって、結局は、わたしはあなたではない。
「わたしはあなたのために灰を被りながらチーズを買ってきたの。だから食べて」
今、わたしのことを考えていてほしい。とか、その思いは傲慢でしかない。いちばん大変なときに、いちばん大切なことを考えているとは限らない。
当事者/傍観者として、わたしたちは境界にあぶなく立っている。
自我境界の曖昧さ。「演じる」という消極的な服従。この舞台では、そういうものを「声優」が担うことでまたひとつ別のレイヤーが生まれていたと思う。
わたしはあなたではない。
あなたもわたしではない。
わたしたちは互いに他人であり、本来は、ただ等価なはずだった。だけどそこに権力が生まれたとき、崩壊する。それは性別だったり、職位であったりするのだけれど、これらはすべて仕方のないことで、誰が悪いわけでもない。
だからこそ。
「こういうことが起きて、いちばん初めにあなたが言ったのは、これはチャンスだっていうことだったのよ」
「これが素晴らしいって言ってるんじゃないよ。ただ、これは事実だ」
真実は汚い。例えば、悪意のない悪意や、災害、その他諸々理不尽なわけのわからんことがこの世界には平然と存在していて、愛し合ってる2人だとしても毎日がうまくいってるとは限らないし、どうにか今日を、明日を、過ごさなくてはいけない。それがどんなに最悪でも、とりとめがなくても、どうにかしてやっていかなくてはいけない。それはクズでもヒーローでも同じこと。ときどき外で鳴る救急車、突然かかってくる電話の音に、はっと我に返って、思い出す。この隔離されたアパートの一室は、外の世界に繋がっている。目の前にあるこれらは紛れもない事実で、これが生活というものだ。
いくら悲しくてもやりきれなくても、最後にはいつもの夜が来て、いくら今が大変だって、恒例行事は執り行われる。
「ヤンキースが勝って、そしたらアメリカは立ち直るんだ」
「これがアメリカのやり方なんだ」
例えば2020年。ニッポンの栄光にはきっと震災が持ち出されて、悲しみはすり替えられる。
「わたしたち、いま何の話をしているの?」
いろんな出来事が複雑に絡みついて見えなくなってしまった本質。はっきりと理由は言えないけれど、なんとなく、目の前で鳴っている電話にいつまでも出られない。この不安さ、心もとなさ、そこに誰かがいるならば尚のこと。
結局、人間は自分で生きるしかない。ベンはいつか電話を取らなくてはいけない。人生を選ばざるをえない。どんなに酷いやり方でも、その選択が不満でも満足でも、人はそれを自らの意思として引き受けなくてはならない。過去は変えられないし、死ぬまでは未来がある。罪を背負っても、生活は続く。
「そうすべきだ、って言ったんだ」
過去は過去として事実である。変えたり、捨てたりはできない。
“過去によって変えられるものは、今の自分の気持ちだけだ……他人の気持ちや、ましてや命は”
そういう言葉を吐いたことのある身体が、あの舞台に立っているということ。
「芝居をしてるんだ」
ベンはそう言った。
「ラストが台無しになるから」
「これは映画じゃないのよ」
過去を変えようとするとろくなことがない。わたしたちはいくつものフィクションを通り抜けてきたはずなのに、何の教訓も得られない。結局どうなったところで完璧な幸せなんかどこにもないのだ。宮沢賢治は世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ないと言ったけど、それはほんとうにそう。これは愛おしい逆説である。
皆が心地よく暮らすっていうこと。誰もが居心地の悪さを感じている。それはたとえどんなに幸福なセックスのあとでも。2人は不和を抱えている。
誰かがわたしの幸福であるように、わたしが誰かの不幸であるということ。
「わかってる」
「でも、そうじゃない」
「ぜんぶじゃないよ。ときどきだ」
I know that/but/sometimesはすべてがほんとうで、いつでもそのときはそれが正しい。ひとつの質問の答えはイエスのこともあればノーであることもある。ここでイエスを選んだときにノーはただ存在するだけで、否定されるわけではない。アビーは真実を見たがって、その場に留まろうとするベンを連れていこうとする。
「わたしがこう、四つん這いになって、ときどきあなたは、下に降りてくる。自分では上手いと思ってるでしょうけど」
「あなたのやり方が下手って言ってるわけじゃないのよ、でも上手くもないわ」
選択をすれば、選ばなかった道は、まるでなかったみたいになる。ほんとうはそこにあるのに。わたしたちはすぐに忘れてしまう。生きていくために鈍くなる。自分がかわいくなっていく。
「俺は自分を守ってた。これでいい?」
保身をする。逃げる。ときには逃げることすら選ばずに目の前の選択を放棄してしまう。Y字路の分岐点に佇んで、動かない。停泊する。
「チーズ、買ってきたわよ。少し食べる?」
「いや、今は、いい」
またあとにする。そう言って幽霊みたくなってしまったいくつもの他愛ない出来事。
「逃げるんじゃない。ただ立ち去るだけ。俺たち2人が、ただ歩み去るんだ」
「今なら出来る」
突然、誰にも責任のないことが起きて、誰もがその災厄を素直に恨んだ。だからこれはチャンスなんだ。こんなのはいつでもできたはずのこと。それを、いまなら、なにかのせいにできる。2人の関係ないところにある、なにかに。選択すべきことはもうずっと前から分かっていた。だけど、それ以外のこと。なにかを選べば、なにかは捨てられる。これは2人だけのこと。君と、俺と、でも、それ以外のあらゆることが、罪悪として2人に覆い被さるのだ。そうしたい。だけど、できないのは、重要でない他愛もない「事実」が、どうしても胸の柔らかいところから入り込んでくるからだ。麻酔が切れたとき、それらは否応なく心を刺してくる。

どうして皆、笑えるんだろうと思った。
わたしには他人事じゃなかった。この居心地の悪さ。身に覚えのある罪悪。
客が笑っていること。
それはこの物語が自分の身に降りかかるものではないからだ。他人のことだから。
遠くでサイレンが響いている。
2人は当事者であり、無関係である。

ヘッドフォンの向こう側に救いはあるのか

よく声のことを考えることがあって、それは不思議だと思う。身体とは乖離していないけど、していないからこそ、声というのは身体を取り去ったときに残るはずはない。なのにそれ単体だけで存在するように思えることがあって、例えばスピーカーとヘッドフォンをすればそのようになる。
声はかたちがないのに思い出すことができる。感触を知っているような気がする。ことばではなく科白でもなく人格でもなく喋り方でも感情でもなく「声」 その色とかたち 感覚 これはなんだろうって気分になる。クオリアみたいなもんだけど、肉体がなかったら声は存在できないのだし心がなくても発される必要性があまりない。伝えるためのもの、もしくは自分を守るためのもの、相手と関係するためのツール、云々。もちろんそんなことは絶対にないんだけど、アニメとかであれば人間が演技して魂を吹き込んでいくので第六感的なものはやっぱりついてまわるのだけど、最終的に残るのは「声」であってそのとき役者の身体はやはり余ることになる。肉体が余る。その身体性についてどう考えればよいのか。ということを知りたくて舞台「マーシー・シート」を観に行くことを決めました

以前、三木眞一郎さんが自身のサイトに以下のように書いていたことがあってそれにわたしはめちゃくちゃ感動した
舞台「奇跡の人」観劇後の文章である。この舞台の内容はウィキでどうぞ ヘレン・ケラーとサリバン先生のお話である

わたしは小学生のころ朝読書でそれについてのを読んでいたことがあったので舞台の内容はなんとなく分かるが、彼がこの物語をまっとうに感じ、こういう文章をしたためたことがものすごく重要であると思う。

なんで台詞を読みたがるのだろう
そんなもん無駄なんだ
オイラたちが言葉を手に入れた瞬間に失ったモノのなんと多いことか。
伝えるんだ
自分のやりたいコトではなく
声帯を任された人物の言いたいコトを。
聞き取るんだ
くだらない雑談ではなく
記号になっている人たちの言いたいコトを。

誰かに声を付与する という行為への文章としてなにをどう説明してもこの何行かを越えることはできませんでした。あーこれはほんとうにそうだなって心から思った。いいなとか好きだなとか最高だなというよりもなんというか、うわーっていう、嘘だろ、というような静かな衝撃みたいなものがあった

彼は自覚的に記号という概念を持ち込んで作り手がそこに投影した思想を自身へと逆輸入しようとしている。
ほんとうに言葉って邪魔で、例えばそれは椎名林檎が「太陽 酸素 海 風 もう充分だった筈でしょう」と歌うように かたちを与えてしまうから見えなくなるものがたくさんある。Le plus important est invisible. 大切なものは目に見えない。そういうふうに覆われてしまった本質をどれだけ読み取ろうとするか どれだけ伝えようとするか そういうことをこの人はわかっているんだと思った。

声優はキャラクターに声を吹きこむとき「見られる」身体を持たない。どうしても身体はあるのにその肉体が余るという現象が起きてしまう。なぜなら、「声」はキャラクターとは切り離せないものであり、その「声」は肉体をもつ「身体」から発されるものであり、その「身体」はキャラクターが持つものである(ということに最終的になる)からだ。このとき「身体」は容器、容れ物のようなものだと言ってもいい。「声」は容れ物が所有することになっているし、そういうことになってしまうのだが、そのとき演者の肉体が余るのである。と、こういうことをずらずら書いているうちに、あるインタビューを読んだ。2009年のものらしい

三木さん曰く”肉体はいらない”という。皮(がわ)には価値がないのだと。

僕たちは肉体という器に住まわせてもらうことを許されているだけの存在なのかなって思うんです

彼も「器」というけどわたしもすごくこの感覚がわかって、もう二元論として、肉体と精神はばらばらな感じがずっとしてた 流転とかがらんどうっていうことばを信頼してた

自分の肉体と精神が離れそうになることがありますね。意識的に笑顔にしていないと、誰かが僕の中に入り込んできて、ぼくは追い出されてしまう

この乖離感覚。こういうふうに落ち込んだときに肉体を皮(がわ)として意識するようになったという。

三木さんは「演じる」という言葉を使いたがらないらしいが、彼は声優という仕事をパーツだというが、それはやはり「演じる」というと主導権がこちらにあるので、キャラクターを役者に引き寄せる感じになるけどそのニュアンスよりも彼はたぶん役者側がキャラクターに取り込まれる というような感覚を持っているのだと思う。「演じる」よりも「ほんとうになる」という感じなのかな とにかく彼のなかでキャラクターと役者どちらもが完全体であることはなさそう
役者とキャラクターは一見50:50で(というか100:100で 同じ比率で もしくは比較関係ですらなく)存在する。けれど声を付与するとき、中身は、その精神の内訳は、0:100あるいは100:0という配分になっていると思う。

キャラクターへ没入/孤立すること つまり声を主体としてどちらの肉体に立て籠もるのか、みたいなはなし。まあどちらに傾くにせよ、どちらかには傾くのだ。声優というひとたち全員がこういうふうに自分とキャラクターの境界が柔らかいわけではないだろうけど、この細胞壁みたいな境界が不随意に作動してしまうことはなんだか恐ろしい。また必ずしも声優でなくともこういう感覚をわたしは分かるし、あやふやな怯えのようなものをいつも持っている。

ともかく、こういう感覚をきちんと自覚的に持っている人が声優にいるということがどんだけ素晴らしいことなのか。とてつもなくいいなって思ったしそういう精神性ってやはり演技に出てくるものなのだと思う。本当に最高だ
(この乖離感覚というのはBLの諸々にも通ずるところはあるんだけどそれを話し出すとほんとうに混沌とするので、なんかわかるな と思った方、詳しくはとりあえず『大人は判ってくれない』という本を読んでください。これは一般論ではないのかもしれないけど少なくともわたしはめちゃくちゃ共感し、深い感慨を持っているので、この乖離感覚 こういう精神性をもつひとが、腐女子がボーイズラブにはしる感覚に近いものを持ったうえでBLには心があるとか言ってたくさんドラマCDなどに出ておられると思うとほんとうに感動する)

さて 声を吹き込むという行為は、魂を与え、キャラクターを生かすということですが、なにもかもきっぱり分断できず、だからといって同一化するのも間違っている状況ではありますが、ではフィクションという虚構のなかで演じられる(または本物になる)現象について、なにがほんとうなのか。なにをどのように真実にすればよいのか。本物にしてよいのか。フィクションであることのほうがリアリティを濃くするのではないか。という詭弁っぽい疑問について。

アニメという場所でいえば声優はたぶん「自然さ」よりもきわめて演技的な演技を求められているのだろうけど、そりゃ演者のタイプも様々 技術で声をつくるひともいれば演技をすることで人格をつくるひともその他も諸々あるというのは承知の上で、技術だけが必要なのではないというのはわかる。知らないけど。という予測を立てるのは、先述したように声を吹き込むという行為は魂を与えることだからです、感情そのものを投影する行為だから

そのなかで、演者はどこへ向かうのか。

虚構という場所のなかでまず発見するのは、演者が不自由な身体であるということ。決められた台詞と絵が既にあるなかで、演者に託されるのはその記号内容です。声そのものとか喋り方というのはキャラクターの人格を決定づけるものであるから勿論のこと、その言葉のニュアンス、間の取り方 つまり感情というやつですね。演者はそのときやはりキャラクターそのものを任されるのではないか。というとかなり演者が自由なように見えるが、やはり演者自身で動かせるのは決められた記号の範囲内に限られる。そのように演者は、自分の知らない「身体」を新しく与えられることで、否応なしに不自由な身体を持つことになる。

キャラクターに声を入れるという行為において、演者は自分の意識から半ば身を引き離すことになる。それはつまり客観である。キャラクターにログインしつつ乖離する。難しい両立だ。これは無知で頭の悪いわたくしという人間が書いているので尚更、この闘争が可能であるのか、またこの闘争が存在しているのかはともかく、客観するということは没頭しないことであり、それはやはり真実を見ようとすることなのだと思う。ここで完全に切り離してしまうと、それは客観ではなく無関係になる。無関係ではなく客観。鳥瞰。こういう関係を浅田彰は「シラケつつノる」と言ったがそういうことだろう。この行為そのものが問いかけなのであり生きるということだとわたしは感じ、これはれっきとした「表現」である、そしてこの行為をとりまくものすべてひっくるめて「思想」であるのだなと考えた。

「声」というのはなんだろうか。「声」をあげるひとたちというのは何者だろうか。そしてそこにある意図とは、そこに暗渠になっているものとは。
いままでまったくよく知らなかった世界のうえにわたしは立っている。なにも知らない。アニメは小学生が見るものだと思ってた。それなのにいま、ただ2次元という虚構がひたすらに愛おしい。例えば、三木眞一郎という人が好きなのか三木眞一郎の出す声が好きなのか三木眞一郎の声をしてるキャラクターが好きなのかわたしはわからない。けれどそこに断絶がないように、友情とか恋情とか依存とか執着が似ているように、好きなのか嫌いなのかよりもなにか特別であるといった感情をうまく説明できないように、ただしさは据え置いて、こういう在り方が、ただ、あるのだと思う。彼の声をわたしの意識下から浮上させたのはBLのドラマCDだけど、その水面に見たのは、愛おしい声の、知らない誰かの姿だった。

人が出会うときというのは普通、知らない顔を見て「はじめまして」という通過儀礼をやるのだろうが、そのとき内面は白紙である。まあそれはだいたいの場合のはなしで、インターネットであればまだ顔を知らない、声を知らない、本名を知らない、ただ中身だけは深く知ったつもりになっている他人が画面の向こう側に居るみたいな感じがしている。気のせいかもしれないけど。

「しなやかな熱情」というドラマCDで声に出会った。出会ったっていうのかな、まあわたしはその人の名前も顔も思想もなにもかも知らない状態で声だけを知ったのである。

その物語はたいへん素晴らしく、シリーズとしてもめちゃくちゃよいのですが、レビューをし出すと止まらないくらい最高としか言いようがないので、ここではひとまず言わないことにする。

最初は物語にばかり気を取られていたのだが、ふとその声を思い出し、その残滓みたいなものが胸に留まった。低い声のひとってあんまり記憶に残らないのですけどこの声だけはなんというか確実に違って、よくかっこいい声のひとがやる腹から声出してる的発声でもなく、クリアでも甘くもダークでもなく、演技くさいのでもないしかといって癖がないわけでもないのだけど、なんだかとても引っかかってしまって、その声が三木眞一郎というひとのものだと知った。

それから何を聴いてもこの声が恋しくなってしまうのですが、この声を聴いたら「しなやかな熱情」が恋しくなってしまう。というかこのシリーズが。このシリーズの「慈英」というキャラクターが。その声が。

なんか上手いよね、とかじゃなくてもうそういうことではなくて、味があるとかじゃ全然表せなくて、うまいこと言えないけどマジで最高なんだ、ということだけはわかっている。いままでまあまあドラマCDを聴いているけど、それはインターネットの海に潜水して聴いたものなので、誰の声であるとか、誰がつくったとか、書いたとか、そんなことを知らなくても別に全然支障はなかった。知ろうとしなかったのは、わたしは構造フェチなので、そういう名前 つまり記号を知ったらハマってしまうのがわかっていたからで、また物語の純度が失われてしまうのが分かっていたからです。

勿論、声のひとって声が商売道具であることは、無知なわたしにも分かるので、あんまり深くは調べないようにしているんだけど、というのもわたしは人が好きなので、知りたくなってしまうし何より検索がうまいので色々知ることができてしまうからなのだけど、やんわりとこの人について知っていくうちに、わたしが共感できる哲学を持っているひとであるということをを知り、記号を知るのを許しました、自分に。

そしてわたしは演劇が好きだったり、じぶんのいろんな居心地の悪さを感じていたり、諸々の理由で身体性について考えることが多くあり、この期に「声」について考えてみることにした