薔薇ステ脳直感想



ネタバレしか含まない薔薇ステ感想です。わりとツイに書いてたことをまとめたやつ。配信という文明のリキがあるにもかかわらずいまのところ記憶だけで書いてるので間違いいっぱいあるとおもう…。

以下舞台全体の感想と、キャスト別感想です。
(個々の分量がめっちゃちがうんだけど、よかった、ってときってもうなんも言うことないよね!みたいな感じの役者もいっぱいいる。なんか立ち止まったり、違和をかんじたりするときのほうがいろいろ考えてしまうよな…っていうことをふまえておよみください)

🌹舞台のかんそう

まずなんかテーマどうこうとかじゃなく、設定が、史実が、動機が、そんなことでもなく、もちろん説明はするけれども、人の行為を、人が(時代の呪縛である)神に翻弄されている状況を描いていたのでよかった。

演出家の松崎氏が観客を信頼していること、演劇を信用していることがわかる。物語を語ること、観客にわからせること、を優先しない。容赦なく物語を進めていき、人の営為を見せていくことで客はついてくる。そういう上演だった。

ゲネのインタビュとかで両性具有ってだけで現代的なテーマも…みたいな話を記者とかがよく出してたけどなんかぜんぜんちがう。両性具有っていうのは「悪魔だよ」のポーズでしかないというか、リチャードが翻弄されるための装置でしかない。その設定じたいはべつに物語を推進しない。マクガフィンは王冠だと思うし 、「魂と信念」そして「愛と欲望」がキーワードだ。自分にとっては。
「魂と信念」のひとたちは安定しており、「愛と欲望」のひとたちは不安定である。前者は一方的、後者は相互的でないと成立しないので結局「自ら選び取る」ができない人間は孤独になる。自ら選び取れないとは神のせいである。時代の呪縛としての神。エドワードは自ら選び取ったようにも見えるけれど、エリザベスも結局ほんとうの偶然の出会いではないし、神に「選ばされている」(エリザベスは夫を殺されて復讐のためにエドワードのまえにあらわれた)。
「魂と信念」のひとたちは、ヨーク公の不在によってそれがまた「愛と欲望」フェーズに戻ってしまう。ウォリックが顕著。ヨーク公の不在に向き合おうとはするものの、結局一方通行のやり方で「魂と信念」をやろうとするから結末は悲劇になるという。

観ているあいだずっと、泣きたい、というきもちが胸のなかにあった。悲しい、とも、苦しい、とも違う、(ああ、このひとはこうなるんだな、こうしかならないな)という、諦観にも安堵にも似た泣きたさ。自分が呪われていることを知りながら、あるいは自分がいつのまにか呪縛されてしまった(信念や約束が呪いに変わる)ことを知らないまま、その過程を通り抜けるしかない(死ぬとわかっていて戦に出るとか、相手が愛した人だとしても殺さなければならないとか)その信念、みたいなものに胸を打たれて、ずっと泣きたかった。『君のために祈りたい』。ぜんぶのキャラクターにほんとにそう思いながら、祈りながらも、この祈りは叶わないと分かっている、そういう痛みをずっと感じていた。

薔薇ステでいちばん心が震えるのは一幕終わり手前の薔薇が降るところ、いちばん胸にくるのはウォリックがヨーク公の幻影をみながらたたかうあの眼、泣けたのはマーガレットが子を庇う気高さ、寄り添ってしまうのはヘンリーのやさしいこころ。

一幕ラストの、音楽と、照明の明るさと、薔薇が降るという画だけでぐわーっとなる。ていうか舞台においてなんか降ってくるやつ好きすぎる。筆者がみたなかでは歌舞伎『花魁草』のやつが史上最大にきれいだったけどあの息を呑むような静謐さとはまた違う、深すぎる溜息が出るような光景だった。舞台装置が回転して中央にうねるエネルギーみたいなもの、それとあいまって圧巻の景色を生み出していたとおもう。幕がおりて、タイトルが出て、いや改めて『薔薇王の葬列』っていうタイトルすごいな、と思った一幕のおわりだった。

松崎氏の演出はやっぱりめっちゃいい。まず場を記号としてきちんと使うじゃんか。いや勝手に自分がそう感じただけかもだけども。上手下手の舞台作法はもちろんのこと、たとえばウォリックの忠誠を誓う図であれば場は違えど画としては同じじゃん、ひざまづいて手の甲にキスするという。あれは劇中に3回あるんだけど、①ヨーク公へ②エドワードへ③マーガレットへ。③だけ向きが違うんですね、①と②はおなじであることに加えて、演劇という生の時間をかけて順番に辿っていかないといけないツールをめっちゃちゃんとした意味で使っている。物語を辿ってきた観客は、②のときに①とおなじ構図であることで①の場面を思い出す。つまり①ヨークに②エドワードが代入される。この哀しい代替……。公がもういない、ということを尚感じさせられてめちゃめちゃよかった。いやよくはないんだけど胸にきた、というはなしです。

あと距離と触れ方。それで人の関係値がわかるなあって思った。それは〝演劇〟にほかならないよなあ。わりとキス(してないが)だったりハグだったり、肩に触れたりとかも薔薇ステは多いんだけど、若月氏(リチャード)がインタビュで言ってた「父上に駆け寄る動機」みたいなものが誰と誰の関係においても丁寧に施されているように思った。

ただ一個だけ、これも自分が幻覚見過ぎがちなヲタクなだけだとは思うんだけども、演出について、モノにたいするアンテナがちょっと弱い。演劇におけるモノは記号として記憶が宿る。
そこでだよ、ウォリックが殺されるシーン、そのあとアンちゃんがマーガレットに「息子(エドワード王太子)を頼む」と言われて戦に出るシーン。原作ではみんな絵で描かれるのは鎧だからわかる、で、ウォリックを殺す人間は作劇上の都合で「謎の者」として甲冑(頭)を被らせるのはいい。だが、そのあとにすぐエドワード王太子に扮するアンちゃんに同じ(たぶん)甲冑を被らせるのはなんかアレ?って感じだった。他の人も甲冑被ってんならいいけども。いやいろんな都合があるとは思うよ?だがどっちも甲冑ってのはなあ。アンちゃんは顔だけ隠すために、そして戦場に出たという記号としても甲冑がほしい、だとすれば、ウォリックを殺す謎の者(バッキンガム)は、んーなんだろ、なんか印象に残るようにして、(カテコ挨拶後のシーンで観客があいつだ!ってピンと来なければならない)白薔薇の刺繍的なものを入れたマント着させて後ろ姿にしとく、とかでいいんじゃないすかね。わかんないけど。とにかく記号が重複するのはよくないと思ったぞ。ウォリックとアンちゃんは父と娘なわけで、関係性をいちばん勘繰りたくない部分だし。エドワード王太子に扮して死ぬ覚悟で戦に出てくれたアンちゃんの勇姿を気持ちよくかっこよく見せないといけない場面だから尚更だ。



あと他にすきなシーンを挙げていく。

ヨーク勝利という場。ここのシーンのやわらかさすきなんだよなあ。明るい照明たいてるだけのシーン。冬の日の朝っぽい。

リチャードとヘンリーが出会ってしまうところ。『僕はこの国の王だ』こんなに空虚なせりふがあるだろうか。表明ではなく絶望として言われる、茫漠、って感じの言葉だった。
またここをケイツビーが見てる、というのがこれまたすきだ。出会ってしまう場を見てる人(ケイツビー)を見る(観客)ことでそのシーンは後景化する。メッセージの伝わり方が変わる。没入しすぎてるとシリアスに痛切に見えるものが、ケイツビーを通すことで、すこし愚かさとか、諦めとか、ちょっと人間の業を省みるくらいまでは引いて見えてくるっていうか。ヘンリーとリチャードだけのぐるぐる閉じてった円環が、ケイツビーの存在によってひらかれる。(ああ、出会ってしまった)ていうのが、(ああ、時代に翻弄されているな)ってなるっていうか。

あとラストのジャンヌ。君、祈ってくれてたのか……。あろうことか配信のカメラが抜いてくれて気づいた。たぶんこれは青年館ホールの半分より後ろの席でないと気づきづらいんじゃないだろうか。でも気づかないくらいに置かれることで、逆に祈りってこういうものだよな、救いってこういうものだよな、とも思う。気づく人だけは救われる。救済の意味が残酷に描かれている、と捉えることもできるかもしれない。ルイス・ブニュエルの『銀河』を思い出す。

あとはやっぱりラストが好きだ。音楽がいい。起こってる事の少なさがいい。エレキが歪み始めて、シンセだけ不安定に半音震えながら響いて、始まりながら終わってくみたいだ。暗転後にはピアノだけ一滴ずつおちるみたいになって、『薔薇王の葬列』とタイトルが出る。ここがまあ〜〜〜きれいなんだ……。投影で、金色のひかりが闇を通り抜けて朗々と水面みたいに、波の刺繍みたいになって余韻を残す。あれは生でないとわからない奇麗さだ。あのさいご射してくる光をみるために劇場に行ってすらいいと思える美しさだった。

あとはもうきりがないのでキャストのはなししながら思い出したら書いていきます。


🌹キャストのかんそう

・リチャード

若月氏と有馬氏の差異についても語りたいので分けずに一緒に語ります。

若リチャは少年、有リチャは青年、という感じがした。若リチャだとシェイクスピアだ!ってかんじがしたね。外へのエネルギーがクリアに、でも型としてはノイジーに出る。有リチャは内へのエネルギーなんだけど、内面がノイジーで、型はクリア。この違いがまあめちゃめちゃ面白(interest)かった。

若リチャはド攻め様だったし有リチャはド受けちゃんだった、って言ったら語弊あるけど、属性としてね?いやでもアンちゃんとのとこの若リチャは他ならぬド攻めだったな……。アンちゃんが、あなたは他の人と違う、って言ってしまったのごめんなさい、って言ったときのさあ、『忘れました』の言い方よ…。あはは、ってちょっとやれやれめに笑ってから『わすれまし、た…♡」っていう弄ぶ感。わたくしのことももてあそんでくれ。そのあともアンの脚をお気遣いするリチャ、若リチャはやはり手つきが自然だった。女の子に触れ、「スカートを捲る」よりも「傷を探す」というモーション。アンを座らせるときのアシストと目線もド攻め様だったなあ。アイドルってみんなこんなもれなくおそろしい子なんですか?おしえてくれ…いややっぱいいや…こわいよお…。

若リチャのほうが意識が灯っていて、有リチャのが自我がある。若リチャは世界の広さとか真実のことまだ知らずに「今」にいる感じ。有リチャは知ったような顔ですべて諦め切って「果て」にいる感じがする。どっちもすごくいい。こんなに違うのに。

有リチャはなんていうか、人あらざるもの、みたいな出力だったなあ。父上に戦えと囁くところとか、若リチャとぜんぜん違った。わりと有リチャの内向エネルギーというか「籠ってる」感じ、神経性の痛みばかりな感じのとこすきだなあと思いながら見てたんだけど、やっぱ身体が男性だからそう見てしまうんだろうか。だって身体はやっぱ男だから、肉体を呪う必要がない。父上が「俺」を「息子だ」と言った、んだもん。などということを思い、自分の目線を残酷だなって感じたよ。ごめんね、リチャード。

有リチャは怒りが身体まで灯ってない。頭の中だけでぐつぐつ、ぐるぐるしている感。若リチャは全身で震えるみたいに怒っている。

だから『涙などいらぬ』のあとの『〜焼き尽くす』までを一息でいく有リチャがよかった。身体が物理的に追い詰められるのが心理とリンクする。神経性の痛みが、肉体まで広がっていく、実感が伴っていく。ずっとずっと内に籠ってた感情がここで堰を切って爆発するように見えた。父上の亡骸を携えて剣を振るうとき、自失している、と思う。殺しきって、その濁流みたいな感情が止んできて、心がもう充電1%みたいになったとき、そこから仰ぐぎらぎらした照明、尚も降っている薔薇、の上にばたーんと倒れる感じ。ものすごくかっこよかった。

あと気になったせりふの差異。せりふの聞こえ方マジで超違っててほんとにほんとに楽しかった。

『俺の光はこれじゃない』、若リチャは「俺詳〜♪」て感じでこれはこれでいいなあ 有リチャは(あ、違うや……これじゃないわ……)の内向感情。

『口に出すのも嫌な名だ』については舞台/アニメでの違いが面白かった。若リチャも有リチャもジャンヌに図星〜!されてハ!ちげえし!そんなんじゃねえし!のベクトルで発話されてるけど、アニメだとわりとツンデレの「嫌な名なのに……なぜこんな気持ちに……」みたいな感じで、これが自分としてはしっくりくる。でもあの流れでリチャードの気持ちでいたら怒るベクトルになっちゃうと思う。ツンデレベクトルにするにはやっぱ「夢が覚める」みたいな、ハッ!ていう異世界から戻ってきた安堵、あと1人でいること、が必要かなあ。ジャンヌがまだそこにいて、ヘンリーもそこにいて、それだと照れ隠しみたいにしておまえなんかすきじゃねーし!みたいに言っちゃうよ。何より自分のことを戒めるために。これが芝居だなあと思いものすごくたのしかった。

あと身体について。若リチャの身体性はだらっ、と脱力がみえて、男の子だ、という気がする。有リチャの身体性は、とにかく重心が高めで、身体が閉じている。このからだの差異がけっこう影響して、異なるリチャード像を板のうえに出現させていたと思う。殺陣とかいうことでなくてね。佇まいとして。でも若リチャのゆっくり殺陣は痛そうでえっちだったなあ

薔薇の扱い方は有リチャのが好みだった。白薔薇はやっぱヨークの象徴なわけで、繊細に、ほぼ触れないくらいのきもちで扱うのが最適解だと思う。

さいごのほう、ヘンリーが自分の母のことを独白するシーン。
ここが若リチャだとものすごくものすごく切なかった。
『僕の母は悪魔だった』、そう訥々と独白するヘンリーを見ている、若リチャのみずみずしい表情よ。ピュアに聴いている。目線がうつくしい。言葉を聴いて、入ってきたその言葉に心が揺れていることが分かる。ヘンリーの空っぽな身体の感じもあいまって、なんて虚ろで澄んだシーンなんだろうと思う。
ていうかここのシーンのリチャードとヘンリーの距離感もぜんぜん違うことで関係値も違く見えてよかった。内面の表出としてのからだがある。若リチャは当事者、有リチャは傍観者として聴いてた。
『でも恐れているのは女性じゃない、欲望だ』その言葉から動揺し始める若リチャ。心は通っていないのに、ヘンリーに言われる『君は僕の天使』というせりふが、若リチャだと救いじゃなく、とどめに聴こえた。違うんだ、神様、違うんだ、っていう感じ。秘密と欲望を抱えたリチャードの身体の苦しみが見えるような気がして、切なかった。
『俺は女じゃない、それなのに、俺はヘンリーを、愛してる』のせりふも、若リチャはヘンリーに刺すように言う。そうすることで、「愛してしまった、こんなにも愛しているのに、告げても、聴こえない、届かない」様に見える。
 若リチャの「愛してしまった」という切なさにたいして、有リチャは「異性じゃなくても、愛せるんだ」という希望に聴こえる。
だからヘンリーの『君は僕の天使』というせりふは、若リチャには「遠景から被さってくる呪い」だったのに対して、有リチャには「前景として射してくる光」のように聴こえる。なんでこんなにもちがうんだろう?感動する。しかも和田氏(ヘンリー)と若月氏(リチャード)の男女コンビでやったほうが禁忌っぽい関係になるのはすごく不思議。いやわかるけどね。よくない言い方するけど、冗談で済むかどうかっていうか。

あとラスト。『おれは大丈夫だ おれとおまえは、大丈夫だ』。若月氏の「ヘンリー、」と呼ぶ声は語尾が上がっていて、呼びかけではなくて、応答を求める、そういう切ない希求を含んだ、でも「どうか」っていうつよい祈りを含んだ声だった。

ほんとうのラスト(ラストいっぱいある)で、『黙れ!』でヘンリーを既に投げ飛ばす有リチャと、しばらく喋ってから投げ飛ばす若リチャ。振り払う動機が『黙れ』の時点で身体にあるかどうかっていう、ほんとうに芝居がみえる作品と役者が揃っていて3時間ずっとずっと嬉しかった。有リチャ、初日あたりだとヘンリーに跨ったままナイフを振り下ろしていたから、幻覚見まくりヲタクである自分は(自死したのかな、)とすら思っていた。ヘンリーを刺したのか、自分を刺したのか。そのマスキングを暗転でかけていたのがすごく好きだった。
でも有リチャ、大楽ではラスト立ってナイフを振り下ろした。立ち上がってから。若リチャは跨ることなくって感じだったけど、膝ついてた回もあったりするのかなあ?

一旦暗転してからのラストの「画をみせる」みたいなとこもまたすごい。
ここのラストのリチャードの立ち姿が有リチャと若リチャでぜんぜん違う。
有リチャは「画」だった。すこしだけ振り返るような立ち姿で、その停泊した空間にはらはらと降る薔薇の印象がつよかった。
でも若リチャは「感情」だった。肩でおおきく呼吸をしていて、手が剣先まで震えていて、その切っ先にあたる赤い照明がすごく印象的だった。
2人ともただ立っているだけなのにね。こんなにも違うのがほんとにうれしかった。


・ヘンリー

アニメのヘンリーとはまったくちがうんだけど筆者はものすごく和田ヘンリーがすきだった。こんなに奇麗なひとがいていいのか?という奇麗さだった。美術館来ちまったのかと思ったもん。落ち着いた佇まい、輪郭の淡い声。あたたかいのに、青い、というかんじがした。

すきなせりふありすぎ。「君がおいで」「傷ついていないなら、どうして泣いているの?」「捨てられ〝ている〟」「自由が敗北によって手に入るなんて」「好きな色は?好きな食べ物は?」「約束」「それでも」「君に会いたいよ」。王のせりふとは思えないせりふ。優しくて大好きだった。

和田氏、身体の扱い方が丁寧だ。直接触れないところも、たとえば手のひらで人を示す、とかいう触覚を延長するような所作のところまでひとつも雑じゃない。手からうまれる印象がとても硬派。誠実な手だとおもった。
また人に触れられているときの身体のフラットさのわりに物質感すごくなるのが印象的だった。彫刻みてるときみたいだったなあ……ほんとにきれいだった。

あとリチャードとの芝居がきちんと「反応」として違うことがうれしかった。有リチャとの芝居の方が「ひらいている」気がする。たぶん有リチャが閉じているから、その心を開きたいみたいな感じが作用してエネルギーがちょっと相手まで潜ろうとする。若リチャは闇を抱えつつもわりとオープンマインドだから、ヘンリーも歩み寄るというよりはただそこに「居る」。相手に潜ろうとするよりも、相手と自分との一線は保ちながらする駆け引きみたいなものがちょっとみえるような気がした。
有リチャとのやわらかいヘンリー、自分はなんとなくこっちのほうがすきだった。柔らかいところ曝け出しすぎてちょっと自棄にすらなってるくらいの感じがあって、ヘンリーの闇もまたけっこう深いという見え方になる気がしてとてもよかった。

さいご、独白のシーン。2人だけ取り残された世界みたいだった。ほんとうに。雷鳴も響いているのに、その音はすごく遠い。稲光からフラッシュバックする悪魔たる母の幻影はもう「思い出されるもの」ではなく、「いまここ」を覆っている闇そのものだ。雷鳴が聴こえるたびに、ヘンリーの昏いままの眼を見ては、ああ、ヘンリーはもうヘンリーじゃないんだ、と思った。切なかった。

ラスト。暗転してからの、手先にスポットがあたるとこ。わだくま氏のここの一瞬「灯る」ような手のことすごくすごくすきだった。灯るには激情すぎるような一瞬のエネルギー。それがまた凪いでいく様。きれいすぎた。

あと関係ないしそういうとこ見ててほんとうにもうしわけないんだけど配信実況ツイに『ヘンリーわりとちゃんとした肌色のインナー着てるな GUNZEですか?』って書いてあって笑った。グンゼかどうかはしらん。

・エドワード

稀有だと思うんですよ、たとえばアイドルとかを見て、ばっちり照れもなにもなく甘い言葉を吐いてウインクで星が飛ぶ、みたいなやつ。そういう、行き過ぎててもはや笑っちゃう、という存在には誰でもそうなれるわけではないよね。『配信のカメラ オーラでぶち破ってくる(君沢氏のツイッターより)』じゃないんだよ。ほんとセクシー枠をやらせたら天下一品。喜んで甘々な仕上がりにしてくれるじゃん。『君とこうしていると♡国のことも忘れてしまいそうだ♡』じゃねえんだよ、マジで。ほんとうに華があって最高です。この役者のサービス精神はほんとうにありがたいね……。

君沢氏のせりふ、覚えているものがすごく多かったし、ハッとすることが多かったんだけど、たとえばヨーク公が「もういない」、あの言葉もアニメより舞台上のほうが虚しく、でも熱く響いていた。

・ジョージ

なんかお写真とかみてる限りできれいめクール系のひとなのかなと思ってたんだけど、高本氏の持っている茶目っ気と抜けの良い明るさがめちゃめちゃにジョージだった。どっか残念キャラなんだけど憎みきれない感じのいい奴、に見えすぎる。もうなんかジャスト、ジャストだよ!って感じだった。いちばん人間味あって、いちばん(時代の呪霊としての)神から遠かった。フラットな思考ゆえに、板挟みになって壊れていくという。薔薇王の世界のなかではいちばん空回り感あるように見えてしまうんだけどやっぱりまともなんだよ。現代に生きてたら幸せだったんじゃないだろうか……まあみんなそうか……いやそうでもないか……。ただみんなで幸せでありたい、という願いを持ってる。彼がヘンリーと出会っていたらどうなってたかなあ、みたいなことを考える。

・ケイツビー

いちばんエモキャラ。みんなが自分にとっての信念にたいして殉教していくなかで、さいごまで、いちばん誠実に、踏み外してしまうことなく心を捧げてた。切ね……。

1幕ラストのケイツビーのモーション完璧だと思う。暗転前、リチャードを抱えてから立ち上がる、ってとこがギリ見えないんだよ。彼によって一幕の余韻は残るような気すらする。完璧な余韻……。

あとさいごの雨音だけのシーンもすき。『永遠に思いを伝えずに ただ傍に』。いつもリチャードのすこしうしろに静かに佇んで、思ってることはたぶん膨大なのに、なにひとつ語ることなく、リチャードを見守っているケイツビー。永遠に思いを伝えずに、ただ傍に。そのせりふが雨音のたびに自分のなかに波紋を立てて、反芻される様。その感じそのものだった。マジで切ね……。

・ウォリック

一幕終わり、筆者が幕間にしたツイートが以下。

『ウォリックはたしかに実直な奴だと思った 忠誠、そして殉教 捧げるとはこういうことだと思う まっすぐな信念 信頼というより、信念だったと思う でもそこには愛がある』

そして二幕終え、終演。

『せりふのうえで詩情が表面張力して心がぶるぶると震えた 魂をつかまえておく(※筆者注 ただしくは〝おさえておく〟)この言葉がずっと身体のなかに響いていた』

そしてその公演後、瀬戸さんがツイートしたのが以下。

『原作者の菅野さんがツイートされてましたが、エドワードとの魂と信念の対話は仲良しの君ちゃんとだからできた特別なシーンだと感じています!』

これさあ、「魂」はせりふで言われてたけど、「信念」だってよ。せりふでもしかしたら言ってたかもしんないけど、それがこんなにジャストに伝わることってあるんだろうか。

役者の投げるべき「的」は台本が完成した時点でだいたい正解があると思う。2.5でアニメ化とかしていればなおさらだ。けどその的に当てるフォームとか投げ方は誰一人として同じにはならないと思う。今回のWキャストとかまさにそうだ(リチャードは「的」すら違ってたのにどっちもものすごく正解でほんとにほんとに面白かったし感激した)。けど瀬戸氏のフォーム、すごくないですか。あそこに投げたいんだな、ってわかるってことじゃんか。だからこそ、これから話すようなことが起きる。キャラがキャラを裏切ることとはまた別に、役者が観客を裏切る、というか、観客の信頼が揺らぐ瞬間があったということ、でもそれはまっとうな揺らぎだったよ、ということを行ったり来たりしながらはなしていきますが。的はみえてる気がするのにぜんぜん捕まえられなくて、でも結局みえてた的で合ってたんじゃねえかよ!みたいな。コロコロPKかよみたいな。いや違うか。わかんないけど。

ウォリック、キャラ的には感情を表に出さないがちだとおもうんだけど、やっぱウォリックにとっての「王たる王」像はもうヨーク公しかいないんだ。まったく代替可能じゃない。「王たる自覚のない男(エドワード)」、「王たる資格のない男(ジョージ)」、そのどちらも、ヨークの血はひいているのに、やっぱ玉座に相応しくない。その息子たちの折に触れて絶望するたびに、やはりだめだ、これではだめだ、という苛つきとうんざり感が身振りとして出ていてすきだった。ヘンリーにたいしてもやっぱ「ああ、だめだ、王ではない」みたいな感じ。ウォリックにとって、いかにヨーク公が「王」の理想像だったのかと思う。そしてその「王」たる理想像が明確にありすぎることで、王の幻影を追いすぎる。これはキングメイカーの矜持だよ。だがそれも行きすぎるとやっぱり呪いになるという。ウォリックのカタいまでの実直さがやっぱ死を招いたよなあという腑落ちのあるキャラ造形だった。すごく人間の業を感じる。ヨークのことをずっと心に抱いていて、この人に玉座からの景色を見せたい、みたいな無垢な欲がある。
公の前で剣を右手に持ち替えるのも印象的だったなあ。いや作法として基本ではあるんだが。あんま2.5でやってる人見たことない。

あとエドワードとのあのシーン。エドワードが弱く、ウォリックが「私が立っていなければ」みたいな力のバランス感。ウォリックがエドワードを奮い立たせんとする気が見えた。君沢氏の狼狽は内向きの憔悴ではなくちゃんと縋るような外向きの慟哭で、瀬戸氏が毎回それをきちんと受けて、心が動いているんだなってのが見えた気がしている。
『貴方があの方の子なら』、ってあと、12日の公演かなあ?エドワードの手を取るその力強さが印象的だった。「手を取りキスで忠誠を誓う」図ではあるんだけど、それって捧げるように手を取るはずなんだよ。でもそうではなかった。一度ぐ、って握って、力強く託すみたいにした。その姿がすごくよかった。涙に暮れている暇はないよなって。

後半はけっこうヒールのような役割にも見えてしまいそうな立ち位置になる。裏切った、といわれるウォリック、だが裏切られた側でもあるよなという悲哀が滑稽にスライドしていくのは見事だった。なんかイマイチ締まんないな〜、みたいな戦の指揮、それはウォリック自身には「王たる資質」がないからに他ならない。だってウォリックが王たる資質を持っていたら「いや別にエドワードもジョージも差し置いてウォリックが国おさめたらよくね?」ってなるもんな。
けど、ウォリックが良いキャラすぎるから、なんでこうなった…の感じは滑稽とはいえども悲哀が消えるわけではない。ずっとそういう切なさを抱えながら、ウォリックが力(権威)を持っていくのをみてた。裏切るわけがない、と思いたい。堕ちるわけがない、と思いたい。でもあの聡明な慧眼をもつひとがそうなってしまったという事実は、やっぱいかに心の支柱がヨーク公だったか、いかにヨーク公を喪った代償がデカいのか、ということを裏づけてしまう。憧憬が執着に変わるのは最悪な恋をしているときみたいだよね。分かっていても別れられない。それもまた呪いになってしまった。

だから『死神のヴェールに目を覆われたか』『この世のどんな逆謀も看破し得たというのに』このエドワードのせりふに救われた。ウォリックが〝眼〟のひとだったなってことがわかるせりふだ。時代を見極めて、推し測る。見る人は主役にはなれない。我々観客のように。でも見る人がいないと世界は現れない。そのまなざしが永遠にうしなわれる。そういう「眼」が曇った、ということが言われ、ああ、そりゃダメだよなあ、ってここではじめて腑落ちできたというか。なんで自分が玉座にすわってしまったのか…そんな人では…みたいなのが、ここでもう納得というか、やっと諦めがついた。
この「諦めのつかなさ」みたいなのってみんな感じてたんじゃないかな、って思ったのは、アニメを見た時に『強くなったな(エドワードと剣を交えたときのせりふ)』がなかったからなんだよ。ああ、ウォリックというキャラクターに、こうあってほしい、みたいな創り手の祈りが見えた気がしてハッとした。

『忘れたかおまえに剣を教えたのが誰だったかを』のとこは舞台のがすきだった。アニメ伯は常にヨーク公に気持ちが向いてるけど、舞台伯は愛の対象がもうちょい広くて、ヨーク〝家〟を愛してる。ヨークの血を愛してる。『忘れたか』のこのせりふは、アニメは目の前のエドワードを挑発する感じがけっこうあったけど、舞台は嬉しそうにみえる。それは次の『強くなったな』のせりふが言われたときに確信になる。嬉しいんだな。昔のこと思い出して、ヨークのことも思い出してるんだな。心にずっとヨークがいるんだなって。切ねえ!だからあれは対敵としての決闘ではなくて、魂の交歓として交えた剣だった。演出よすぎるし、ウォリックがあのまま死んでくのは救いがなさすぎるから、幻影だとしてもヨークと共に戦場に居られたうえに、エドワードとも和解(まではしてないが)できたということがほんとうによかった。感謝した。

あとはもう、「最期」ですよ。瀬戸氏の表情。切羽詰まったあと、『魂をおさえておく』そうエドワードに言われて手を握られたときからあどけなくなる。ここアニメだとウォリックの幼少期にみたヨーク公への憧憬が回想としてさしこまれていて、ほんとにその頃に戻ったみたいにウォリックに心が微かにきらきらするのがわかる。配信の近さだから焦点もわかってつらかった。虚ろに彷徨ってた瞳が、はっ、と一度フォーカス絞られたあと、空っぽになるみたいに視線がひらいてく。表情筋やばかった ああ、ここだ、ここなんだ、って思った。あどけなさのなかに忸怩たる思いもあって、ぐっとこみ上げる様がわかる。ほんとうに悔いている。『この手には何も無い』、ほんとうにそういう虚無感に襲われる様だなって思った。恐れ。苦しみ。刺された傷口からずっとおさえていたマグマがぼたぼたこぼれるみたいだった。
『陛下』という最期の言葉には父と息子が重なる。やっぱヨーク公へ、なのかなあ、というふうに聴こえたけど、さいごのさいごにエドワードを王だと認めたんじゃないかな、とも思いたい。
あと前楽だったか配信のどっちかで、逝ったあとに左手がだらっ、て落ちて、その肉体の物質感が、なんかぎゃくに魂がそこにはもうないって思って実感すごかった。このひとはまだ腕のなかにいるのに、もういないね、エドワード……。

なげえよ。あともうちょいウォリックのすきなとこ抜粋な。

ウォリックがアンの背中に手を当ててエスコートしてってあげたあとにぐるーってまわってきてこの席に着いてるの萌えた。ただハケるだけなのだが、やっぱここで父娘なのに舞台の都合だけで最短距離でハケるのは心理的に気持ち悪いもんな。瀬戸氏の芝居のUIは整いまくっている。

あとモノの扱い方がちゃんと内実ある。イザベルを連れてきて『ジョージ、国王陛下』のとこ、あの瓶のなかにはちゃんと液体があるなあというマイム。あのゴブレットは磨かれていて顔がうつるだろうという想像力を客に使わせるモーション。ていうか瓶とゴブレット片手で持つそのセットの仕方よ。この役者はどんだけ丹念に映画を観ているんだろうな〜と思いました。わかんないけど。

あとみんな大好きマント捌きね。これ装飾としてやっているだけではなくて、瀬戸氏に「衣装を捌く」という意識が確実にあるなあと感じた。『リチャード様と結婚なんてしないわ!』→『聴かれてたか』のとこ、曲がんなきゃいけない動線多めでそのたびにちゃんと翻し直すのが見えたので。意識があるかないかってでかい違いだよ。

ていうかアンちゃんをくれってマーガレットに言われたウォリック、一回渋い顔して逡巡してから「仕方あるまい」みたいな感じなのすごい父。だし、あらジョージ〜ってマーガレットからチクチク言葉いわれるとこも、心無いことを言われて傷つくであろうジョージを庇ってるようにも見えるんだよなあ。ヨーク家がなんだかんだ大事なウォリック伯。忠実な奴ゆえに、ヨークの人間に情があって死ぬっていう。良いキャラだった。

・エドワード王太子

みんなのエドワード王太子!!!!!物怖じしない舞台度胸とその度胸に裏付けられたフラットな佇まいが超好感だった。

有リチャ初日だったか、市場で買ったブローチが服に引っかかってぜんぜん差し出せなかったときあったんだよ。あそこわりと緊迫感あるシーンだったのに、「ちょっと待ってくれ」って言ってちゃんと差し出してた。客もふふってなってて、まあそのまえまでのこいつリチャードのことまじで大好きだな〜ってのがあるのもあるんだけど、シーンをぜんぜん壊さずに対応しててなんかスゲーッッッッてした記憶ある。
アドリブって「そのシーンになんかおもしろいことを無理矢理差し込む」ことではまったくないじゃんか。ちゃんと文脈があり、キャラのもつ背景や人格とか、シーンのもつトーンとか、そういうなかできちんと会話して「反応として出てくる」ものだと思ってるし。だからうまくできなかったら「ちょっと待ってくれ」って言う。アンちゃんと寝室にいるとこも、枕が落ちたら拾う。あたりまえのことをまっすぐできる。廣野氏は役者ってよりパフォーマーのイメージがつよかったけども、役者としての感性が完全にちゃんとあるなあって思った。

だがパフォーマーとしての感性も光っていた!殺陣が、剣がよかった。西洋の殺陣だった。リチャードに向けた短剣とかも、なんか刃を刃と思わないような手つきで身体の輪郭をいなすようなやり方。たぶん合ってるんだよな。フェンシングのひとが言ってたけど、刺すとか切るではなく、剣の先でいなす感じらしい。日本刀とか切れる刀だとたぶん違うんだけども、洋画とかで観る西洋の殺陣の感じだなあと思いながらみてた。殺陣に詳しくないからわかんないけども。

・アン

毎回毎回嘘みたいに良いんだよな。なんかよくわかんない例えするけど、きれいすぎる果物とかみたときに(嘘みたいだな)って思いながら寧ろそのモノとしての存在を実感しているときがあるんだけど、それだった。嘘みたいだなって。きれいで、かわいくて、でもしたたかで、やさしくてつよい。素直なこの子が笑える世界であってほしいなって思う。

・セシリー

アニメよりなんか救いのある描かれ方だったような気がする。アニメもそんな丁寧には見れてなくてアレなんだけども。リチャードそのものを憎んだり恨んだりという感じではなく、リチャードを産んでしまった自分を呪っている感。なんか死ねって言葉を吐く(機会そんなないけど)とき、いちばんそういう自分にたいして死ねって思うフシがあると思うんだけどそんな感じに見えた。彼女の弱さを藤岡氏は描いてくれた。

・ジャンヌ

開口一番は彼女なんですよ。そこで鳥肌が立った瞬間に(あっこれはもうこの作品勝ちました、優勝です)って思った。

冒頭でジャンヌの祈る姿の話を書いたけど、彼女の存在がでかすぎる。物語を物語にすべく彼女もたたかっている。でも現実(神)のまえでは結局折られてしまう。運命などなく、すべてはただそうある。その叙事を、3時間ずっと叙情で語ってくれていた。

あとさいごリチャードが戦場を駆け抜け掻き分けヘンリー王を殺さんとするところ、ここのジャンヌがまあ〜〜〜泣けるんだよ。「ほんとのきみを知っているのは僕だけだ!!!!!」この痛切な祈りのような、リチャードだけを思うかけがえのない声に胸があふれる。全身全霊で、そっちに行っちゃダメだ、って言ってる。しんどい。ほんとうにリチャードをずっとずっと見ていてくれてありがとう。

・マーガレット

言うことなくないすか?という良さ。観た人みんなそう思ってると思う。

マジですごかった。一気に引き込むというか、場がヒリッとする。筆者はわりと演劇を演劇として観るには引いてみれるかどうかが重要だと思っていて、あんまりのめり込みすぎないようにバランスとって観るようにしてるんだけど、どうやってもヨークとのあそこでグッと一回没入してしまうと思う。

声量のボリュームがもうほんとに絶妙で最高。ボリューム絞られるとグッと聴き入る。朗々とした語り口で説得力のある声。いや姿もすべてよかったけども。千秋楽だったか、アンちゃんとのシーンあたりでたぶんめっちゃ昂っていて、でもあそこはやっぱ淡々と毅然といたほうがいいシーンで、だから高揚を抑えるというその声と身体の感じがものすごくグッときた。こっちまで喉が詰まった。

・ヨーク公

芝居がマジですき。

公が王たる王でなきゃこの物語破綻しちゃうじゃん、でもマジで王たる王だった。懐がひろくて、包容力のある人だった。精悍だけど優しいし、聡いし、でも頭ばっかりじゃなくて肉体も伴っている。勇敢で野生みもある。寛大な笑顔とその奥の怖さみたいな。畏怖ってかんじだった。なんか存在感が山とかそういう次元の。

いちばん言いたいのは顔だよね。いやもともとハンサムな役者ではあるんだけど表情が、「良い顔してるなあ」っていう意味での顔がいい。もう殺されるところのさいごの顔がすごいのよ、ああいうときって苦痛に歪むか悲痛に泣きに入ると思うじゃん、でも違うんだよ、エッ、その顔を採択するんですかよ?!というこのセンス。もはや見得きってた。た〜っぷり、っていう。殺陣には華があるし。ヨッ、谷口屋。

『ジョージ、私の王冠はどこにある』って出てくるところ最高。怒ってはないんだけどきびしい顔で出てきて、諭すような、でもやべ怒ってんな…って顔で出てくるんだがジョージが抱きついたとこでパパ上の顔になるのが最高にすきだった。笑顔が最高。笑顔が最高なひとって最高だよな…すごい普通のこと言ってるけど…

あと公-息子-キングメイカーの図になるところ、ここはウォリックに見えてる幻影の公なんだけど、身体が「いま」じゃなくなるのがすごかった。アニメとかで回想のときにかかるフィルターみたいなのあるじゃんか、あれが肉体のうえで起きてるみたいだった。ここの谷口御大のお顔やばいんだよ。慈愛だった。でかい存在だったんだ、ってことを改めて思い知らされる。このときのヨーク公、これから起こることとか、起こってしまったことを背負ってないのがよかった。 ヨークがあの日のままでかいからみんな胸があふれる。もうただただ幻影としてあらわれる「ヨーク公」のお顔してた。







たぶん以上です…。明日BDが来い(特典付きの予約したよ〜!!!!!)(いやまず配信観ますわ〜!!!!! )!!!!!

🌹2022年10月18日までのキャスト座談会付きのBDは以下だよ( ⌒ ⌒)🌹
https://a-onstore.jp/shop/baraou-stage/

🌹配信は以下だよ( ⌒ ⌒)🌹

舞台『薔薇王の葬列』を観た

この世界で、愛はどのようなことができると思いますか。

傷つくひとが少なければいいなと思ってしまう。泣く人が、苦しむひとがいなければいいなと思ってしまう。けれど具体的には何もできなくて、誰かを救いたくとも、差し出したその手が傲慢なのかもしれないと、短絡的な偽善なのかもしれないと、黙ってその手を差し出すことをやめてしまうことがある。

沈黙して、なにも言えなくなって、そのうち自分のかなしい、と思うきもちや、いやだ、というきもちのことを、無意識に無かったことにしてしまうこともある。

だからなんなんだろう、と、思ってしまう。何かしたって、だからなんなんだろう。そうやって演劇を観ることをやめてしまったこともある。観て、だからなんなんだろう。1人で新幹線乗って、1人で感動して、1人でごはん食べて、ホテル泊まって。感動しても、ずっと1人で。

でも、音を立てながら降る薔薇をみて、きれいだ、と思った。

きれいだ、と思って、気付けば泣いていた。

知っているのに、すぐに忘れてしまう。みんな純粋なこどもだったこと。傷付いたら痛いこと。悲しかったら涙が出ること。自分のきもちが自分のものであること。それが間違っていたとしても、自分にとってはほんとうであること。

それをいつのまにか、無意識に胸の裡に葬っていること。

愛は役に立たないものだ。愛していたとして、だからなんだっていうんだろう。でもほんとは違うと思う。愛が役に立たないからって、だからなんだっていうんだろう。

そうしたい、って思う。

なにかを見たい、って思う。

それが自分に向けられた愛じゃなくても。

誰かが誰かを愛する、その魂の交歓。やり方が間違っていたとして、血に塗れていたとして、その姿はとても奇麗だ。

誰かを愛するということ。

何かしてあげたいって思うこと。

愛は傲慢でよくて、有用じゃなくてよくて、なにかを手に入れるためには対価を支払わなければいけないことなんてない。 愛は地位じゃない。愛は名誉じゃない。薔薇はただ咲く。そして散る。それはただそうあるだけだ。

みんながみんなの本懐を遂げたくて、それは自分の欲望と向き合うということで、いつまでも背いていたって、欲望が消えることはない。生きているから。人間として生きているから。

誰も自分を獲得せずにいる。そのなかでも、誰もが手放さずに、手放せずにいるもの、それは情だ。欲望だ。身体の奥底に眠るそれらがみんなの命だ。形式から、肩書きから、権威から、呪縛から抜け出してその人の心が見えたとき、絶望は消えないが、居場所は現れる。幻影ではない。幽霊ではない。それはそのひとにとってはほんとうで、それはなんの因果でも、対価でもない。

〝ああ 最早栄光も塵芥か この手には何も無い 私には もう何一つ〟

この世界で、愛はどのようなことができると思いますか。

傲慢かもしれない、と、作中のキャラクターが、演出家が、そう言っている。けれど私は思う。愛には、世界を変えることができるのだと。

幕が降り、劇は終わる。劇場を出て、私はマスク越しに6月の空気を吸い込む。雨だった。夜に降る雨が、止まなければいいな、と、ヘンリーの纏う儚い光を、約束、というあのやさしい声の輪郭を反芻しながら、すこし思う。

約束と呪いは異なる。その選択が自らの意思によるという点において。約束だったんだ、みんなが守りたいのは約束で、生き残れなかったとしても、なにも守れなかったわけじゃない。

演出家曰く、『薔薇王の葬列』はリチャードにみえている世界だ。私もそう思う。どこまでも孤独で、どこまでも救いがない。けれど彼は一瞬だけ、戻ってくる。自分の肉体のなかに。愛のまえで、きらきらした光のなかで、一瞬だけ。死の前に一度自分が自分であるということを認め、選び取る。

〝俺を、愛してくれ。〟

それは欲望だ。また会えた、その約束のなかでたったひとときだけ叶う。あまりに切なくて、けれどあまりに短くて、涙を流す隙もない、たった一瞬の生還。

劇はかならず終わる。薔薇は散る。たんなる事実として。劇は虚構だ。でも目の前で役者が生きている。息をしている。そのことはほんとうで、私が鞄に仕舞っているチケットとはなんにも関係がない。嘆かわしいまでに。

劇場を出て、耳を掠めた雨音、夜の闇で見えなかった雨、身体が濡れて気付いた、雨。

傘がなくて、ホテルに戻った。濡れるのは嫌だったから。

でも、雨も夜も、もうすこしは、明けなければいいね、止まなければいいね、リチャード。

演劇なんてうそで、具体的にはなんにも役に立たないのかもしれないけど、薬みたいな効用はないのかもしれないけど。そこに心はある。愛がある。そして愛には、何もできなくていいのだと思う。心があるから。心は勝手に感じ取るから。生きているかぎり。

観るまえと観たあとで、世界が違って見える。ひとりずつにみえている、ひとりずつにしかみえていない世界のこと。その景色を変えることは、世界を変えることに他ならないんじゃないか。それを救いだとは、呼べないんだろうか。

岡本悠紀 円盤 で検索をかけてもまとめが出てこなくて落ち込んだヲタクたちへ

もうタイトル通りのブログになります。

YouTubeとかで「岡本悠紀」検索してパッと出てくるやつとかはみんなもう見たっしょ?ということでそれ以外のヲタク有益情報優先順位順(?)に並べていこうとおもいます。

(自分は岡本さんが舞台芸術をどう捉えてるかとか、役をどう解釈してるかとかが知りたいのでできれば過去パンフレットにあるインタビューとかを読みたいところです。有益情報あれば是非におしえてください、先人方!!!)




◆円盤◆
まず2021年時点で買える映像たちから時系列でいきます。タイトルに購入できるリンクが貼ってあるぞ!



📀2021 ヒロステ

まあ言わずもがなのやつ。
東宝の特典は2022.01.09まで期間限定特典なのでそれ以降は特典無しのしか買えないんだけど、この特典が岡本さんたぶん出ずっぱりなのでこれ以降に岡本さん堕ちしたヲタクはなんかどうにかして手に入れたり鑑賞会して特典持ってるヲタクに見せてもらってほしい


📀2020 テニミュThe First Stage

筆者はこの記事を書いてる時点でまだこの円盤が手元に届いておりません。
テニミュのことまだ原作もアニメもなんも見たことないのでその状態から「新テニミュ」を見ようとしていますが…大丈夫か…?


📀2021テニミュ 4thシーズン 青学vs不動峰

岡本さんはキャストでなく歌唱指導で参加とのこと。バクステ映像にちょいちょい映ってるって本人が言ってたぞ!
岡本さんは3rd?から歌唱指導に入ってるみたいなので、じゃあ3rd買おう!と思って調べたらなんか3rdだけで死ぬほど円盤があって天仰ぎつつiPhoneの画面一旦消したよ…スーッ(深呼吸)
おーい!!!!!いいなー!!!!!テニミュどんだけ供給に恵まれしジャンル!!!!!
テニミュの先人達様…その…どの円盤のどこに岡本さん映り込んでたよー!みたいな報告を…待っていますね…みなさんよろしくな…


🎥2021はじめの一歩

これは円盤にはなってないけど買える動画なのでここに並べておきます。推しそんなに2.5数出てないにもかかわらずキャスティングされる振れ幅のでかさヤバくないですか?と思えるサンプルになりうるキャラ…キャスティング班に感謝しかない


📀2019 ヒロステ

会場予約限定特典のスペシャルDVDには岡本さんは出てませんで上のリンク先買えば間違いないです。1-A生徒たちと岩永マッスルフォームさんのリレートークです。岡本さん出てはないけど猪野広樹氏がプレゼント・マイクについて触れてくれてはいる。


📀2016 手紙

まだ見てない。次の章(?)で動画のリンク載っけるので見てくれ


📀2015 特別公演 銀河英雄伝説〜星々の軌跡〜

ちょっとこれもまだ手元に届いてない。殺陣やってるサンプルがねえなと思ってここで殺陣やってるぽいので買ってはみた。でも多分この作品は洋風殺陣なので和風殺陣(腰落とすタイプの殺陣)やってる岡本さんを見たい。今後のキャスティングに期待(?)





◆動画◆
検索でパッと出てきづらい動画まとめです。舞台本編は当然ないのでカテコとかトレーラーとか各メディアのゲネ映像みたいなやつ。
以下に載せてないやつは、動画自体探せなかったか、動画はあるけど岡本さんの姿を探せなかったかのどちらかです(後者の場合基本的にはWikiとかから岡本さんの出ている舞台のタイトル直に検索すればだいたい出てきますので探したい方はがんばってくれ!居たよ!って言ってくれたら追加します)(しかし見切れ映像とかは個人的にいらないというか、「この役者はこうやって立つんだなあ」「普段は重心こんな感じなのかあ」「こういう種類のダンスもイケんのな…」みたいなことを知れる映像がほしいのでそういうのあれば何卒 情報提供よろしくおねがいします)。


・2020 VIOLET




・2018 GHOST




・2017 RENT(2015のRENTも混ざってるかもしれん)




・2016 ミス・サイゴン
後半のはNHKのうたコン動画です こっそりリンク貼らしていただいた方すいません




・2016 手紙




・2016 グレイト・ギャツビー




・2015 RENT プロモーション映像(舞台の映像じゃない)




・2014 アダムス・ファミリー
アダムスファミリーはわりとガッツリダンス入ってて身体性ヲタクである筆者としてはとても助かる動画です。岡本さんはシルクハットのおばけのひとです(実際この動画を見てどういうことが発覚したかは筆者のツイッターにおいでください)




・2013 GET OUT!STREET!!




・2013〜
(富山 名作ミュージカル上演シリーズ)
ミー&マイガール
ハロー・ドーリー!
ショウ・ボート






◆その他◆
ルーツとか演技論とかを考える補助線になりうるやつ。


・2021 ロボ・ロボ パンフレット
在庫なくて筆者の手元にはありません。対談とかインタビューがあったらしくてすごく読みたいです!!!!!


・エンタステージ インタビュー
これはもうみなさんYouTubeにある動画見たと思うので記事載っけときます。

【役者名鑑】第1回:岡本悠紀<前編>「人生を変えた“宝塚”出会いと“ハッピー”に込める想い」│エンタステージ

【役者名鑑】第1回:岡本悠紀<後編>「2.5次元舞台で感じた“熱い青春”」│エンタステージ


・岡本寛子氏による動画
悠紀様のお姉様いつもヲタクとして勝手にお世話になっております(土下埋)。リンクを貼らせていただきます。
動画を見ていただくとこの感じめちゃくちゃ感性が感覚派でニュアンスで教えるタイプなかんじがいたしますな。テニミュんときは門外漢の子たちへどう言語化し、どう伝え、どう指導してるのか知りてーッ!




あとは本人のインスタに載ってる愛犬モネちゃんさんにちゅーるあげてるときの口笛がやたらとうまい(爆笑)こととか、ドナルドダックのモノマネで喋れてなんと歌えまでするということとか、あーこの役者は耳がよく、口内の調整(歌やせりふの技量として)が微細にできるのだなあというサンプルとなりえました。はい、なんでも参考になりますありがとうございます


というわけで2021年のインターネットで拾えた有益情報はこんくらいだと思う

取り急ぎまとめましたのでみなさんで岡本悠紀氏のはなしをしよう!!!!!よろしくおねがいします!!!!!

三日月宗近とジョーカーなき世界

「俺は未来を繋げたいのだ」

この一言に詰まっている。

刀剣乱舞、大団円ですね。

舞台刀剣乱舞 悲伝 結いの目の不如帰』お疲れ様でございました。

観に行ったのは、明治座初日と千秋楽のライビュ。

千秋楽に行ったことで、また千秋楽までいろんなことを考え続けたことで、なんか繋がったことがあり、それを書きます。まあいつもツイッターで言ってるようなことだけども。

まず、教訓じみたことを言うとかそんなダサいことしたくないですし、べつに本作の真髄を暴こうとかそんな気もない。それは公式とか金を払われるような文を書くひとがやればいいことだ。

これは論文でも考察でもなんでもない。自分のなかで勝手に符号が合いまくってピーンときたこと、そういうのを非常に個人的に、思想のしがらみとかないなかで書けることを書こうと思う。

さいごのキャスパレを観ながら『広島に原爆を落とす日』のことをちょっと考えていた。

そういう感じのことだ。

今まで自分が舞台刀剣乱舞のシリーズ集大成という時点で書くだろうなと思ってきたことが明確にあったんだけど、やっぱ禅問答みたいになるし、それは意外とべつに書かなくてもいいか、と思いました。演劇の効果とか、歴史の継承とか、そういうのね。あとは俳優のこと、これまでの刀ステで散々言われてきたこととかを、改めて見つめて書きたいと思ってたんだけど。

戯曲を買ったんですね。それで、義伝の後書はこう始まる。

「歴史が事実とは限らない」

歴史とは、どうあがいても「説」の域を出ず、「たぶんこうだったんじゃなかろうか」「こうであってほしい」という仮想の物語が、今でいう「歴史」であると末満健一は言う。

刀剣男士は実体のないものを守ろうとしているようにしか考えられない、とも言っている。

非常に同感だ。「歴史」とはなんなのか。それが改変されればどうなるのか。なぜ改変してはいけないのか。彼らの守ろうとしている歴史は真実なのか。真実でないのなら、彼らの戦う意味はどこにあるのだろうか。歴史を守り、それを現代に伝えたところで、それがなんなのか。

ドキュメンタリーを観ても、本を読んでも、それが一次情報なのか、それすら実証できるものはなにもなく、歴史は「それが本当らしい」、そこまでしか現代ではわからない。

でも、刀は実在する。

刀がそこにある限り、人を斬ったり斬られたり、そういうことがたしかにあったことだけは、本当だったのだと信じられる。

そういうことばかり考えていた。

千秋楽のライビュを観て考えたことは、またちょっと違うことだ。

三日月宗近とは何だったのか。

これしか頭になかった。最近たまたま思い出してたことに符号が合っただけなんだけど、それでも、やっぱり、このキャラクターなしには刀ステを、ましてや2.5次元を、考えることができない。個人的にだけど。

だから三日月宗近のことを書きます。それだけのブログです。せりふとかは円盤買ったら直します。多分。

・この現代まで刀が残されている意味とはなんだろうか。劇中でも話されるが、刀は時代とともに在り方を変えてきた。武器として。美術品として。歴史を立証するものとして。他にもいろいろあるだろう。

・刀の本分とはなんだったか。

それは「たたかう」こと、つまり人を斬ることにある。人を斬ることは、命を奪うことである。

・いま、刀は、負の遺産だ。アウシュヴィッツや、原爆ドームと同じように。そしてやはり、本来の目的として使われることはない。

・「貴殿は包丁ではないのだぞ」

・しかし、彼ら自身には、負の遺産が掲げるような、世界平和、とか、そういう目的はない。ゲーム世界のなかの彼らは、ただ「主命を果たす」「過去と向き合う」とか、個々の思いはいろいろあるなかで、まあ、理由は分からないが、刀剣男士たちが人の身を得てたたかう目的は、「歴史を守る」ためであることになっている。時間遡行軍の目的も、歴史を改変しようとすることであり、信念はそこにない(ように見える)。

・はじめに挙げたようなたくさんの問いには、明確な答えがない。そもそも、歴史は不確かなものであるからだ。

・だとすれば、なぜ歴史を守るか?という問い自体が、無意味な問いである。まあ、結局この世界に意味なんてないんだけど(劇中にこんなせりふあったような気もするけど、気のせいか?)。この問いを生んでしまった、刀剣乱舞というゲーム世界をコピーアンドペーストみたいにいくつも発生させてしまったこと自体が、人間の業のように思える。問いだけは無数にわいてくるが、この不確かで不条理な世界にそもそも帰結点なんてあるだろうか。

・歴史は実体のないもの。

・でも刀はそこにある。

・この『結いの目の不如帰』を観て思ったのは、三日月宗近は、ヴェルト・ガイスト(世界精神)そのものだったんだなあ、ということだった。

まあいまから言いたいことは伊藤計劃のブログにぜんぶ書いてあるようなものなので読んでください。そしたらこのブログは読まなくてもいいと思います。

まあ、ちょっと、というか、けっこう違うとこもあるんだけど、陥ってしまってる状況は同様なものとして、彼に倣って三日月宗近を「”世界精神型”のキャラクター」、といいましょうか。

・ヴェルト・ガイスト:世界精神とは(ほんとは引用先を読んでほしいんだけど)、まあでっかく言うと、社会の発展や、歴史の進行方向のことである。”世界精神型”の人、というのは、その流れが、自分のやった行為とイコールになるような人物のことだ。自分の行動が歴史の流れと関連する人物。それが三日月宗近だった。世界の意思そのもの、歴史そのもの。

・刀ステという作品の意思は、三日月宗近、この一振だけで事足りる。

・伊藤計劃のブログ、映画『ダークナイト』を書いた文章に、こういう一節がある。

ジョーカーは知っているのだ。秩序に身を置きながら自警団として秩序を破らざるを得ない矛盾を抱えたバットマンと、世界がカオスに叩き込まれるのを心の底から望みながら、秩序という世界の枠組みそのものが崩れてしまうと「ゲームを楽しめなくなる」という矛盾を(楽しそうに)抱えた自分が、ともに化け物、コインの表裏であることを。

ジョーカーは人間の負の面を露わにする装置として、ゴッサムの夜を踊る。(ダークナイト)

・これ、だいぶ三日月宗近なんじゃないでしょうか。まあ対応する関係とかもほんとは構造としてまんまじゃないし、ことばの中身も違うんだけど、明らかに異なるのは、三日月は悪役にはならないし、ディストピアを見せることを望んではいないということだ。

・「秩序」は、「正義と悪」とかではなく、刀剣乱舞というゲーム世界や、刀ステという演劇世界の秩序、それと、刀が刀として在るために必要な、武器として生まれたその最初から孕んでいる秩序のこと、といえる。

・書き換えるならこうだ。

三日月宗近は知っている。秩序に身を置きながら自警団として秩序を破らざるを得ない矛盾を抱えた刀剣男士達と、自らが刀であることを望みながら、歴史を守る/改変するこの戦がなくなり、この秩序という世界の枠組みそのものが崩れてしまうと「自分が存在できなくなる」という矛盾を抱えた自分が、ともに化け物、コインの表裏であることを。

三日月宗近は人間の負の面を露わにする装置として、歴史の円環を巡る。

・「矛盾だな」と、三日月宗近のせりふが聴こえるようだ。

・この円環は、閉じられるのかどうかもわからない。鵺(時鳥)のような異質な存在に「賭けて」みないと、その仕組みもわからないようなディストピアに生きている。

この歴史の円環を暴き、壊し、閉じきる、とは、どういうことか。

・歴史の授業で学んだこと。だいたいは争いのことだ。人類はずっと闘ってきたし、いまも争いは絶えない。それだけじゃなくて、何度もやってしまう小さな失敗とか。

これが円環だ。反省し、後悔しても、繰り返されてきた歴史。

・彼は、存在するだけで、戦争という時間を出現させてしまう。自身が目的をそれと持つわけではないのにだ。

・刀剣乱舞における三日月宗近は、主を守るためでもない、刀の本分を貫くためでもない、ただ、「歴史を守るために」、闘っている。限りない円環を、不条理に、ずっと生き続けている。何度も、何度も、何度も、何度も、終わらない世界を、結末の決まっている世界を。刀であるということは、そういう命運を持って生まれてしまったということだ。自身が結いの目であることは、とうの昔に決まっていたことだ。

・そして三日月は、たった1人で、パンドラの箱の鍵を見つけてしまったのかもしれない。その鍵を、たった1人で秘かに持っていなければならない、という孤独。

・三日月宗近は、生まれながらにして変数値だったんだなあ。

・『まりんとメラン』にあった会話を思い出す。

ロロ、変数値は滅びを望んでいるわけじゃない。山を焼かなければ、新たな芽も出てこれないだろう。ブリガドーンの地上都市を見てみろ。旧世代の生きものの名残だ。今の世代に生まれ変わるときも、破滅を必要としたんだ。

(ルル/第26話「サヨナラは海の碧」)

・三日月宗近が、刀剣男士たちが、歴史を守り、未来を繋げるには、刀は、武器であることをやめなくてはならなかった。

戦がなくなるということは、刀がなくなるということ。

戦をなくすために、戦をする。これも矛盾だ。

「おれたちは、何と闘ってるんだ」

それは、人間の持つ悪意そのものだったんじゃないだろうか。

・ライビュの時にはなかったけど、劇中、「坂本龍馬の暗殺」シーンのあとに挿入されていたシーンがある。

タタタタ、タタタタ、と、鉄砲の音。ゆっくり歩を進める兵士たち。その手に、刀はない。

戦争に刀は使われなくなったのだ。

それでも、日々流れるニュース。

「都内に住む30代男性が、刃物で刺され、死亡しました」

現代においても、刃物で人は殺せるのだ。

・三日月宗近は美しい刀であったがためか、武器として使われることはなかった。先代の主にすら、使われなかった。足利義輝の命は守られず、いくら時間を繰り返しやり直したところで、結局、絶たれてしまう。

だが、その主の言った言葉。

「三日月宗近、その刀を後世まで伝えよ」

五月雨はつゆかなみだか時鳥

わが名をあげよ雲の上まで

・三日月宗近は2018年現在まで、美しいままの姿で残っている。

死者の使いである「ホトトギス」は、命と引き換えに足利義輝の名を天まで轟かせ、そして三日月宗近も名刀として、主の名を後世まで語り継いでいる。

そこには、歴史のよすがとしての刀の姿がある。

・まあ、こんなに詳しく顛末が語られているとも思えないし、史実とはまったく異なるのだろう。しかし、この物語は現実の虚構の境界を溶かすように、時代に寄り添って横たわる。

・「俺は未来を繋げたいのだ」

現在、人が争うにしても、日本刀を交えることはない。武力ではなく、美しさをもって、人を救えることはあるのかもしれない。

・虚伝での三日月の言葉を思い出す。

「俺たちに心があるのは、物であるが故なのではないか」

例えば、月を見て美しい、と思うこと。その心が月に宿る。その心はいつか、自分に返ってくるのだと。

「心とは森羅万象を廻る。だから人は物を作り、物を語り、物に心を込めるのだ。我々刀剣は人の心を運ぶ歴史のよすがなのやもしれん。織田の刀にも、そしておぬしにも、託された心があり、それが廻り廻って繋がっていくのだ」

山姥切を三日月は「存分に美しい」と言った。

「主はおぬしにそう心を込めた。おぬしはおぬしを信じ、その心でこの世を照らしてやればいい。そうだな。あの月を照らす陽の光のようにだ」

「月を照らす陽の光のように…か。無茶を言ってくれる」

「これはまた随分煤けた太陽だ」

・その心をいちばんに信じたのが、三日月宗近だ。と、そう思いたい。

・この望みもまた、人間の業なのだろう。

・刀は、武器である。人の命を奪うものである。逆に言えば、人の命を奪うものとしてしか、存在意義がない。

・けれど、本当にそうだろうか。

在り方は時代によって変わる、その自覚があるはずの、刀剣男士自身たちによって繰り返し言われる言葉。

「俺たちは刀だ」「刀の本分を忘れるな」

・円環を断ち切るということは、この刀の性質を無意味にするということ。しかしその円環を断ち切ったからこそ、泰平は訪れ、三日月宗近はそのままの姿で現存している。

・この矛盾だ。三日月宗近の悲しさは、そこにある。

彼は刀の本分として命運を果たすことが出来ない。しかしそう在るからこそ、未来を繋げることができた。表裏一体、陰と光。

「悲しいのは心が在る故なのに、心に非ずと書いて悲しい、とは、皮肉なものよな」

矛盾を、自身が孕んでいる。そうしたいわけでは決してない。それが三日月宗近の悲しさだ。目の奥に深くある、青く、昏い悲しみだ。

・千秋楽では、少し演出が変わっている(初回と千秋楽しか観てないから途中からそうなっていたかはわからない)。

何十公演と通り抜けてきた一言一句違わぬ物語、その最後が千秋楽だ。斬っては斬られ、何度も交わしてきた約束。その最後の最後に、三日月と山姥切の勝負はついた。約束も、もういらない。美しく円環を閉じるための、少しの改変だ。

・だが、いくら台本が書き換えられようと、あの三日月宗近は、もういない。結末はどうやったって変わらない。

「歴史のあるがままにだ」

・そして夜は明ける。

・夜。小田原の城が出会わせてくれた夜。三日月が明けないでほしいと願った夜。闇に月は煌々と輝く。それももう最後だ。太陽が昇る。闇が晴れる。こう書くと、希望に満ち溢れた景色にしか見えないようだけど、悲しい、こんなに悲しいよ…。

月は隠れているだけで、消えてしまったりはしない。いまは暫し、時が満ちるのを待つだけだ。とか、こういうダサい演繹をし続けて、あいつはまだ居ると、心の底から思いたい。もう繰り返したくはないのに、そう思ってしまうね。何度考えてもその度、胸にくる。

・永遠にループされるゲーム、永遠にリフレインされる演劇、そもそもが不条理な世界において前提条件を問われると、〈いま、ここ〉にある足元が揺らぐような目眩がある。自分がどう変わろうと、周りをどう変えようと、結末は変わらない。〈ここではないどこか〉へは、絶対に行くことができない。逃れられない。

・その世界に、三日月宗近は武器としてまた顕現した。

・ユートピアはどこにあるか。

・彼なきあとの本丸では、皆平和に茶を啜りながら、「暇だなー」「すっかり身体が鈍ってしまったよ」。

・平和ボケ、って、なんなんでしょうか。

・まあそれがなんにせよ、ここでいくら何を言おうと、繰り返したくとも繰り返せないこともある。

・あの三日月は、ひとりで行ってしまった。

・悲しい。

・もう会えない。

天魔王と鈴木拡樹

んー、やっぱりこれだけがんばって行った舞台というのはあんまりないので未来の自分のためにも書いておくことにする。

『髑髏城の七人 Season月』のことだ。

いや、もっといえば、『髑髏城の七人 Season月に抜擢された鈴木拡樹という役者』についてのことだ。

ここでのスタンスはというと、

もともと演劇が好き→髑髏城の七人ってめちゃくちゃ聞くから一回行っておきたいと思っていた→どうやら今公演中らしい→現場(鳥)→ワカを観る(DVD)→月キャスト公表→エッ?→鈴木拡樹?→宮野真守てエッ?→2.5系?髑ステ?→はいチケット取れました→現場(月)

という流れです。ちなみに2.5次元に触れたのは20176月。

こちらもご参照ください。

けっこうおたくと話したりツイに書いたりともう言うことないですという感じではあるんだけど、今回やっぱ書いとこうと思ったのは何より鈴木拡樹という役者が劇団☆新感線に出た、というこの事件のことである。

・鈴木拡樹がキャスティングされたのは「天魔王」、まーあマジか、と思いましたよね、でも改めて考えれば捨之介でも蘭兵衛でもないな、天魔王だな、というのがわかるんだけど、発表されたときはほんとうに時空が歪んだかと思いました。

・で、結論から言うと、鈴木拡樹の天魔王は、かなりよかった。

『髑髏城の七人』という作品は、90年、97年、04年、11年、17年と、だいたいの物語は同じでも、何パターンもの上演がある。そしてキャストも毎度違うため、かなり多くの解がある演目である。

今回の17年は年間通して花鳥風月(極)と、5つの筋書きがあるうえに、いま公演している「月」はWチームで「上弦の月/下弦の月」に分かれている。

・鈴木拡樹は下弦の月の天魔王を演じた。

・月の台本はというと(あんま観てないけど)ほかの台本に比べて味付けが少ないように感じる。ノーマル、プレーン味です、という筋書きで、キャラクターもきわめてまっすぐで、髑髏城初めて観るなら月で!というような、教科書的な雑味のなさである。

・ここで言っておきたいのが、けっこうレポ?ブログ?とかで見かける「勧善懲悪のストーリーなんですけどオ」というコレ、嘘?、みんな正義vs悪の物語だと思ってたの?、マジか、ぜんぜん違う。

・髑髏城の七人は、正義vs正義の物語だ。公共の福祉が成り立たないなら、話し合いでおさまらないなら、暴力しかねえ!っていう戦乱だ。

「たたかう」という物語の持っている、「みんな信念を貫こうとしてこうなった」という大義のこと忘れてませんか、天魔王が悪役感ありすぎて勧善懲悪の物語だと思ってしまいすぎる。でも違う。

・これはメイクや衣装が原因なことが多いにある、という気もするけど、髑髏城を勧善懲悪と言ってしまうの、まずは天魔王のことを「天魔王様」だと認識してしまうことが我々の失敗だよなと思う。あの、バリバリのメイクと衣装による、俺様は超つよい悪役です!的ビジュアルによって、根本的なことである「彼は今もただの人間である」という、このことを忘れてしまう。彼は「天魔王」になる前は普通の名前を持った、普通の人間なのだ。

ここを失念してしまうと、「蘭兵衛と天魔王と捨之介が3人とも揃って信長公に身も心も捧げていた男達」であることが流れてしまって、マジで元も子もない。昔はみんなでおなじ方向をむいていたのだ。いまは時も経っていろいろ変わってしまったが、そのきっかけとしては、みんなべつに殿(信長)に恨みをもって解散したわけではなく、殿が居なくなったから散り散りになっただけであって、みんなの大義は変わっていなかった。そして、戦乱の世が終焉した”今”でもまだその過去に縛られている。

だから“今”世にはばかろうとしている秀吉や家康には程度の差こそあれ3人とも納得のいかない部分があって、いつまでも引き摺ってちゃいけない、だから過去への燻りに決着をつける、そういう物語だ。

・「天魔王像」というのはほんとうに色々あると思うんだけど、やっぱり彼は自分の弱さに背を向けたひとだ。あんなに身も心も俺が尽くしていた殿は蘭兵衛を選び、『私に死ねと言った』。そのショック。湧き上がる黒い感情。愛ゆえに膨れ上がる憎しみ。執着や憧憬や愛情がごちゃ混ぜになって、『そんなのは殿じゃない』、『殿の最期の言葉はそんなくだらないものじゃない』。理想が高すぎて、それを裏切った事実を受け入れられない。完璧な理想が叶わなければ死んだほうがマシ。自分の無力さや弱さやふがいなさを直視できないために、静かに、まともに、狂ってしまった。そういう可哀想な人間だ。

・だって、考えてみれば兵庫とかめちゃくちゃいい奴だけど、村娘を襲った侍を殺して村を出た、って、人を殺してるのには変わりがない。でもそれは法の考えだ。倫理とは?と、立ち止まる。兵庫は『弱きを助け、強きを挫く』悪いやつの敵である。だから筋通ってんだよなあ、髑髏城に出てくる人間には、みんな曲げられない信念があり、捨てたい過去があり、捨てたくても捨てられず、どうしてもそういう業を抱えて生きている。だからときどき正義がぶつかりあうのだ。みんな間違っていて、みんな正しい。

・要するに、みんなあまりに人間的で、圧倒的なものは存在しない。アニメみたいに超能力で闘えないし、斬られたら血が出て死ぬ。刀も百人斬りなんてできない。だから『斬るたびに研ぐ、突くたびに打ち直す』。天魔王だって人間だ。みんなと同じように心を持ち、言葉を話す人間だ。捨之介と蘭兵衛と天魔王が、信長の御前で、交わした酒とか、談笑だってあったかもしれない(事実的にあることかどうかは知らん)。

ここまで語ってきたこと、天魔王がこういう人間であること、それが鈴木拡樹にぴったりすぎて、考えれば考えるほどより鮮やかな解になる。

・鈴木拡樹自身とか、その界隈のインタビューを読むと、彼のことを口々に皆「優しい」と言う。特筆すべきことでもないじゃん、優しさ、とか、と思うとともに、特筆されるべきレベルで優しいのだろうか、と思ったりもする。

・ここからはもうぜんぜん読んでるインタビューも観た芝居も少なすぎるので想像でしかない。でも、自分にとってはけっこう確実にこの役者の核に迫っていけてる気がする。

・今のところ、鈴木拡樹というひとについては、芝居にあることだけが正直で、振る舞いとか態度とかはぜんぶ嘘っぽいと思っている。

だから、天魔王よろしく鈴木拡樹についても人間界まで引き摺り下ろしてやるよ!と思っているんだけど、『舞台男子』で自分のことを「頑固」って言っていたあの言葉、あれにけっこうあっ、と確信を持ち、ただひたすらに感動した。

あれのおかげでこの人についてよく語られる優しさとか母性みたいなものが強固にそこへ根をはっていることがわかったし、それがこの人の腹の底にあるドロドロしたものから少しだけはみでた本音なんだなーと思った。この人の中枢にあるかけがえのない暴力をみんな知っている。

・うまく言い難いけど、要するに逆のひとだ、ということ。たとえばバラエティで櫻井翔が「ほんとうに駄目すぎるくらいルーズすぎるから分刻みでスケジュール立てるんだ」って言っていたけどそういう感じだと思った。いつも自分のアンチをいく。だから己の測定計において、自己愛と自己嫌悪の振れ幅は同じくらいデカいものの、それらの極がハンパなく遠い。完璧主義で、理想に追いつけない自分を許せない。だから常に自分のことを肯定したい、と思いながらも、常に自分のことを否定し続けている。常に二重である自己。まっすぐにひねくれているのでわかりづらいけど、常に2つ(もしくはそれ以上)の視座から自分を見ているために、やけに落ち着いていたりとか、達観したような佇まいがあるのもわかる感じがする。

・「頑固」だからこそ、「優しく」したい。他人に優しくしよう、と意識していなくてはいけないほどの、コントロールしようがない決意を、激情を、鈴木拡樹は持っているということだ。

・だから、いつも静かに笑っていて、あんまり人には言わない、そういう気がする。いろんな自分の意思を押し殺す「優しさ」。それはときどき、状況を正当化しようとしすぎて、確固たるものまで揺らぐことがあると思う。頑固すぎるから、意見を柔らかくしておく、みたいなことが苦手で、他人の線引きもわからない。自分は頑固すぎるから、もしかしたら他人がここまでオーケーとしているところを自分は狭めているのかもしれない、基準がわからない。だから逆に寛大になりすぎる。そこは譲らなくていいよ、守っていいんだよ、というところまで明け渡してしまうことがある。

・徳川家康は、天魔王の正体を、「空っぽ」の「仮面」、と言う。ほんとうにそうだ。あけすけで、鍵がバカになっていて、一向に開かずの扉もあれば、厳重にしておかなきゃならない扉が開いてしまっていたりする。まったく不器用すぎる。彼は、他人が自分の領域を侵すことを許容してしまう。鈴木拡樹の優しさは、自分を傷つける優しさだ。自分の意思がありつつもそれを殺したり、殺したうえで非自己を取り入れたりするのが苦ではない、という、自分の中身を入れ替えることを厭わない人間。そんなの、役者に向いてるに決まってる。

鈴木拡樹はほんとうに掴めない人間だ。ときどき、ほんの一瞬、芝居に本音を垣間見たような気がすることがあり、掴めた、とまた一瞬、思っても、彼の姿はもう、そこにはない。

でも、ほんとうにいい役者だ。語れなさは記号の豊饒さを示してくれるし、こういう”詩”のようなものを舞台上に観せられる人間は、そういない。「髑ステ」などと揶揄された(らしい)Season月だが、ベストアクトと呼ぶ声も聞く。若い現場にもいい人材はたしかにいるのだ。なにが本物か、というのは、本物を見ることでしかわからない。味わえない。理解だけじゃ何も面白くない。わからない、けれどなにかどうしても惹かれるものがある、それこそが魅力というものだ。これだけ言葉を費やしても、まったく掴めた気がしないのがこの役者の魅力の証拠だし、なにより演劇(その他諸々!)の素晴らしさ語るためには、このジャンルと役者は事欠かないのだ。嘆かわしいことに。

2.5次元という世界について

2.5次元舞台について改めて書いておきたくて、まずはじめにこのジャンルの門外漢としてなにを考えていたか、というのを再確認するためにツイッターを遡った。

以下の文章は、2.5次元舞台というものをどう考えていったらいいか、という大義のもとに、それに補助線を引くためのいろいろな考え方を引用しています。演劇論だったりそうじゃなかったり。だからといって難しいはなしをしたいわけではなくて、ほんとに2.5ってなんだろう?というふうに思って書いた文章で、だって最高すぎると語彙がなくなるじゃん、それがすごいもったいないので…その罪滅ぼし的な感じもなきにしもあらず

2.5次元の舞台、というのがあるのはけっこう前から知っていた。そしてそこに良い演出家がいるのも。でも足を踏み入れるとは思ってもいませんでした。まさか円盤も買ってしまうなんてな…

以下は2017年6月のツイッターを再構成した文章と、演劇についてちょっと自分のなかで整理したやつ

「演劇」というのは基本的に上演されるまで観たひとしか中身がわからないし、観たひとしか実際がわからないからどうしようもない。

観る作品を決める手掛かりは、脚本、演出、役者、劇団とかそのブランドに頼るしかない。だからそれがダメとかいいとか、上位だとか下位だとかがボヤボヤで語られてしまう。閉ざされたまま進化していってしまう特殊なジャンルだ。でも演劇にはえもいわれぬエネルギーがあって、自分のなかではいちばん魅力的なものだ。だから2.5のことも知ろうと思った。同じ演劇なら食わないと損だろうと思った。

ツイッターで話した部分までの経緯は、刀ステ→ペダステ→ユリイカ2.5特集を買う、という流れ。

ちなみに、実は2.5のミュージカルは観たことがない。だから今回はステ(舞台)だけにしてミュは置いておくけど、いろいろみた感想としては2.5はやっぱ「テニミュ」なんだなあと思う。どのジャンルにいてもだいたい耳に入ってくる単語「テニミュ」。ジャニーズを通ったことがあるのでなんとなく形態はわかる(1幕が芝居、2幕がコンサート)。観ないのはあくまでこの2.5について考える作業を「演劇」というところから出発したいというだけなので、いずれ観ると思う。

・まず、演劇、舞台芸術である意味、というのを考える。

上演される作品のことを「演劇」「舞台」「芝居」とか言うが、自分のなかではそれらの中身はちゃんと違い、一応分けて使っているつもりだ。「舞台」のほうが色物って感じで本より役者とか観に行く様なもの。それか舞台空間そのものを指す。「演劇」は小劇場で作品自体とか演出家の思想とかその時代性とかを考えるもの。「芝居」はキナ臭いものか演技のことかなあ。一応そう定義しておきたい。で、「舞台で、上演される作品」の呼び方がころころ変わるかもしれないが、上記の意味を敷衍してください。あくまで演劇は演劇、舞台は舞台。そう書いてあればそっちの意で書いてるということです。

(劇団新感線を出すとややこしいのでちょっと置いておきたいが、「髑髏城の七人」における、蒼月の「なんでもありかー!」、このせりふを聴くたびに、胸があふれる。)

・演劇の特性として、まずはめちゃくちゃ不合理。みんながひとつの劇場に集まって、その場に2,3時間くらい拘束される。で、ながら見を許容されない空間のなかで、荒唐無稽な筋書きや表象の飛躍に容赦なく耐えさせられる。

逆にいえば、眼前のワンシーンごとが見事であれば、生ものなので(完璧なかたちで)記録されない演劇という上演形態は、筋書きがどうあれ、客を丸め込める(言い方よくないけど)。この”非あらすじ的”な部分が、舞台作品の魅力のひとつだ。

・援用したいのが、アナログとデジタル、という概念。これは決してアナログ=古いもの、デジタル=新しいもの、とかではなく、もともとの概念のことです。「大人のピタゴラスイッチ」を見ていただければわかりやすいんだが、デジタルとは「離散的(とびとび)な」もののこと、アナログとは「連続的な」もののことをいう。その媒体、上演形態が、デジタルか?アナログか?を踏まえると、かなり演出の「正しさ」というのが導き出せる。この概念はたびたび使えるので覚えておくと後々わかりやすいと思います。個人的に、説明のときとかに使う概念としては、アナログは書籍とかで、デジタルは演劇、映像、ドラマCDとか。特性バラバラだしちょっと違うやつもあるけど一応いまのところとりあえずたぶんこう。

演劇はアナログじゃん、と言われてもそうですねとしか言えないのだが、そのワンシーンごとでも完結できて、飛躍しても大丈夫。あと眼前には瞬間ごとの1つの風景しかなくて、全貌がひと目で把握できない。そういうのをデジタルだよねーと言っている。本は本でもKindleはデジタル、紙媒体はアナログ、と思うとわかりやすい。全貌が把握できない、という点では、Kindleのほうがその場面の位置とかを筋立ててみづらいということですね。以下の記事がわかりやすい

Kindleで読書する人は、ペーパーバックで読む人よりもストーリーの筋立てを覚えていないことが、新たな研究論文で明らかになった

あと演劇とか映画とかでは上演時間のさいごのほうにクライマックスをもってこざるをえなくなるのですが本はそうでもない。場面配分の問題とかもこの考え方で最適解が出そう。

ということで(?)、物語の辻褄が合わなくても理解できなくても、劇場を出るときに「なんかすごいよかったな…」という感想を持たせることができれば勝ち、みたいなのは舞台には顕著な特性だろうなと思う。とくに2.5ではテキストのつよさではあんまり勝負しないから尚更だ。たぶん本よりも身体、役者とキャラクターに重きが置かれているし。

演劇のダイナミズムと呼んでいるものがある(もっとうまい言葉ないかなあ…)。これはほんとうにうまく言えないが「人間の、よくわからないもの」に属する、はたらく力のことを指しています(たぶん)。映像にしたときにガクンとなくなってしまうもの、それが演劇のダイナミズムだ。その空間に居ると感じられる、たとえば緊張感、演者から流れてくる圧倒的なエネルギー、物語が大団円を迎えたときの高揚、その他諸々、そういうもののこと。これこそが生の魅力。これは、分断できない、理屈ではないものだ。

・社会学者に岸雅彦というひとがいて、『断片的なものの社会学』という本がある。研究というのは物事を切断し、括り、一般化していくものだけど、やっぱりどうしても「その他」の項目が出てきてしまう。著者はそういう「分断できない、なんでもないようなもの」をわざわざ書く。まあなんていうか、説明しようとしてもしきれない「なにかよくわからないもの」という生きる人間のダイナミズム。そういう力のうねりが生の舞台のおもしろさだと思う。テキストからはみ出してしまっているもの。戯曲読むとほんとうにそれがわかる。これしかないのか、と思う(読むと逆にストーリーが明快になったりはするんだけど)。はみ出している部分は固定されていない。たとえばキャストが交代したとき、そのキャラクターはかなり違う人間になる。

たとえば劇団新感線「髑髏城の七人」とかかなりわかりやすいですよね。花鳥風月、おなじ物語なのにまったく違う作品になっている。いま公演している「season月」とかはWチームなんだけど、その2チームともテキストや動線がほぼ同じなのに全然違う。

・もうひとつ例をあげれば、音楽の「カバー」とか、落語とか、外国文学の翻訳とか。おなじ曲・噺・文章をもとにしているはずなのに違う人が再現するとまったく違う。個々のものになる(ただそこに居て、人間の差異をゆったり感じること、それが「演劇」だと思っている)。そういうふうに、無意識のうちにも、からだから匂い立つもの。これがあるから演劇はおもしろい。見えないなにかが確実にある。

こうして見ると、平面には書かれていない0.5の部分がいかに膨大か。そういう、不安定ではあるが絶対にあるもの。それは、観客のなかに勝手に立ち上がっているものだ。平面のものが立体になったとき、観客は、舞台空間に見えないはずの幻影”0.5”をみる。わたしたちが漫画に見る集中線とか、トーン、そういうものは見えていないのに、たしかにある、と感じることができるのは、人間から発しているノイズとか、パンキッシュに匂ってくるもの、生気なんだと思う。気配というか。あれを観にいってる。

・2.5次元文化は、観客にとっては共通項の多い、ハイコンテクストな文化だ。劇場に集まる人間にだけわかる「常識」がほとんど形成されていて、演者と観客のあいだ、観客と観客のあいだに共通の認識がある。設定とかキャラクターの性格とか、前提条件はだいたいクリアして劇場にくるわけだし。

初見の人間をおたくと同地点に立たせることはできない。これから2.5界隈にもそういう作品が出てくればすごいとは思うけど、別にやらなくていい。むしろたった3時間にも満たないくらいの公演で、それを成立させるのは無理だ。必要ないし。2.5次元舞台は、ハイコンテクストで閉じられた原作の文脈を解体し、再構成する。総集編にはせず、あくまでも再構築。それに成功している舞台はたぶんウケている。

逆に、固有名詞が多いということ、記号のなかでも具体性の高いものを使わなくてはならないこと、どこまで説明するか、というか、客層がほぼ全員と言っていいほど原作に理解がある状態で、なにを言わなくていいのか、なにを見せなくていいのか、見せたほうがいいのか、そういうのが2.5の難しいところだなと思う。

ユリイカの2.5特集を読む。この「文化」のことを知るには最適だとは思うけど、「2.5次元舞台」自体のことを知るにはぜんぜん適していない。とくに女の書いた文章は「おたく文化」に寄りすぎているし、いつも頼りにしている演劇ジャーナリストの徳永京子の文章ですらぜんぜん合っていない。というのも、2.5特集と聞いてこれを読む層はたぶん、アカデミックなものとか「演劇」の延長線上の思考を期待しているわけではなく、そこに一見遠いと思われているいまの2.5というジャンルとそれとを対応させて語ってほしかっただろうと思うからだ。この雑誌でフォーカスを当ててる「2.5」の定義は寛大でいいとは思ったが、やっぱりなんていうのだろうか、小劇場の人間(?)はそれ以外の演劇を(揶揄の意がある)下位文化だと思ってる気がした。でもそれは違う、ジャンルは等価だし、等価であるべきです。言うならば周縁文化とか。亜文化とか。2.5はたぶん唯一無二のジャンルになる(もうなってるけど、ユリイカ読んでるとこれが創刊された当時の時代の空気がこの本に流れているのでそういう気分になってしまっている)から、演者や作品のレベルがぐいぐい上がっていけば絶対に認められる。いつか小劇場のひとたちを振り向かせなきゃならないときがくるのかもしれんが、そこは勝手に言わせておけばいい。

なんか1年前くらいにあった、銀河劇場が代アニ劇場になるならないの事件、を思い出していて、これはすごく、たしかに、ひどかったんだけど、いろんな固定観念と誤解をといていかなくちゃいけないんだよなあと思う。みんなで文化を担わなきゃいけない。みんなが頭を使ってセンスを磨いて文化を育てなきゃダメだとほんとうにそう思う。がんばろう

・ユリイカ2.5特集に求めていたことは、アニメ評論家である藤津亮太の文章にあった。個人的にはこの雑誌に、2.5それ自体に対してその存在の言語化を期待していたので、2.5を「現象」とか「ムーブメント」とかにせずに2.5そのものを見つめてくれたことをすごく評価したい。

そもそも自分が2次元に転げ落ちたきっかけは「ドラマCD」と言っても過言ではないのだが、その点を藤津さんは「図像」と「声」の関係を語りながら「CDドラマはもう1つの2.5次元である」と言っている。つまり役者の身体依存度の数値がこの”0.5″にはあるということだ。

・逆に、論点ズレてるなーという感想を持った文章があったのはたぶん2.5という言葉の定義が広すぎたからだと思う。今回の特集では「2次元を舞台空間に立ち上げたもの」という感じに、「2.5」という言葉をすごい広義で捉えたため、マームとジプシーの「cocoon」も入っている(「テヅカ」とか「プルートゥ」入れちゃうのかよエーッ)のでちょっと論点もズレてくるのだが…。ちなみにマームのcocoonは固有名詞をほぼ消してやったらしい。出来事をコマから引き剥がして奥行きを出したのか。2.5の評価されうる部分というのはいろいろあるのだが、ああいうアカの人々にたいしていちばん響くのはたぶん再構成の方法とか。

・でも2.5は演劇だ。人の胸をうつのはテクストよりもやっぱり演劇としてのダイナミズム、あの生のうねりのようなものだろう。演劇にしかないもの。2.5に触れるとそれを改めてすごく考えさせられる。

・血の通ったからだに目の前でなにかが起こる、そういうことが演劇だ。2次元にはもともと血と肉がない。はずなのに、あるように感じる。その錯覚が0.5だ。2.5の上演が、2次元の記号群にたいしていのちを与えた行為だとしたら、たとえば刀ステとかはやはりめちゃくちゃおもしろいのではないか。刀が人の身体を持つ、そこに疑問を持つキャラクターがいて、みんなその生(せい)に葛藤する。こういうなかで2.5の答えが出てくるといい。可能性は計り知れないと思う。ものすごい魅力だ。

・示唆的な文章がある。2.5はDVDでもおもしろい、という、ユリイカ対談での村田充のことばだ。

そもそも自分の2.5の初見は、さっき言及した舞台「刀剣乱舞」。いろいろ割愛するがたまたま家で流れてたDVDをみて(うわーこれが噂のニーテンゴ…)(ン?)(なんかこの役者は…違うな)(目を奪われる)という流れでこのブログを書くまでに至ってしまったわけだが、舞台に立つ「鈴木拡樹」という役者には、終始1秒たりとも打ちのめされなかったことがなかった。映像なのに、とにかくずっとすごい。只者ではないな、というのがわかる。村田充の言うように、2.5は映像でもかなりおもしろい。2次元を下敷きにしていることで、生で観ればそのダイナミズムが浮き彫りになる、逆に映像で観れば、演劇が映像になって削がれる部分を(質は違えど)補える。補う、というよりは、もともとないものとして、半減しない(3次元演劇:ふつうの演劇は映像に収まって-0.5になるが、みたいな感じ)。

・たとえば以下のツイート

映像になったときに感じ方はたしかに変わった。減った、というよりも、変わった、といったほうがいい。生(現在性のつよい状態)で観たほうが膨大に感覚を貰えるかといったら決してぜんぶがそうではない。

ここで「舞台空虚」と呼んでいるのは、ピーター・ブルックの『なにもない空間』に書かれているようなもので、なんていうか、”There is nothing.”みたいなことだ。「ないものがある」。空虚をそこに顕著に見る、ということ。

劇の眼」はちょっとズレるけど太田省吾の文脈で、『劇的とは省略することである』という考え方は、演劇を考える上ではかなり重要だ。キャラクターたちにも日常があるはずだが、そういう冗長な部分を省略しまくって、ドラマ性のつよい部分だけを切り取ったものが上演される作品である、ということ。刀ステだったら本丸からの移動は省いて即戦場に着くとか。それが「劇的」ということ。「劇の眼」とは、その日常的な部分を「なにもない」と捉える(ないものはない、としか思えない):「空虚」=「ない」のまなざしのことだ。言い換えると、白、という色を、余白、と捉えるか、白色で塗られている、と捉えるか、ということ。

ドラマチック、とは何か。

2.5はどちらかといえば「劇の眼」で観られる演劇だと思う。けど、それは生でみるとき、なにか演劇的なちからがはたらいているので、なにもない舞台空間にも「なにか」が立ち現れている。

ツイートにも引いてきた立川左談次はこう言っている。

客が言葉を理解する時間を間という、また魔ともいう。って、利いた風な事言ってやがら(笑)。

落語を聴くとき、客はなにを見ているか。実際に目の前にあるのは、舞台、座布団、落語家、そのくらいだ。けど客はそこに噺の風景を見る。読書でも、目の前にあるのは活字だけだが、脳内ではその記号から映像が立ち上がっているはずだ。この「」という舞台の余白に、忽然と立ち現れる「」。そこにはなにかが潜んでいる。2.5でいえば、我々のキャラクターにたいする思い入れや、それまで辿ってきた物語が見せる幻影、0.5の錯覚だ。観客が没入していなければ、この間はもたないだろう。1分の転換、それがライビュでみたときにすごく短く感じた、というかとくに気にならなかった。けどDMMを家でみたときは、ただなにもない時間になってしまった。あれ?こんな長い転換あったっけ?演出の失敗か?みたいなことになる。だけど物語性もきちんと強く、劇的に描かれているので、べつに上で言ったような演劇的な効果に頼らなくてもいい。

と、このように、生の舞台作品としての楽しみ方もできるし、記録された映像作品としての楽しみ方もできるわけだ。

それでさっき書いたのをもう一回読むと、『2次元を下敷きにしていることで、生で観ればそのダイナミズムが浮き彫りになる、逆に映像で観れば、演劇が映像になって削がれる部分を(質は違えど)補える。補う、というよりは、もともとないものとして、半減しない(3次元演劇:ふつうの演劇は映像に収まって-0.5になるが、みたいな感じ)。』な、なるほど〜!要するに、現在性のつよい状態で観るときにだけダイナミズムは生まれるが、2.5はそうでなくても、映像になっても耐えうるおもしろさだ、ということです。

・生の舞台のなにが醍醐味かというと、目の前で生身の人間が声を出すこと、動くことで、それこそ2.5では物語世界の虚構度はかなり高いにもかかわらず、役者のからだが追い詰められていくことでその声や動きには嘘がなくなっていく。感度の高い観客たちは、そこに本物を感じている。

・「芝居」じゃなくて「演技」だなと思う。抑制するもの。自然の佇まいというより、技巧で舞台に立つ。鈴木拡樹みたいな役者を見ると、そういう在り方が向いてるんだなーとちょっと思った。そのなかで生をみるというのは、浮き彫り度がめっちゃ高い。より生々しく感じられる。

ペダステとか、ストーリーなんかなんのこっちゃみていなかったのかもしれない、と思う。ただ演出のおもしろさと、怒涛の容赦ない時間の進行と、どんどん追い込まれてく役者の肉体についていくので精一杯。というかほんとにもう、舞台「弱虫ペダル」は、この演出家に頼んだ時点で成功だったとも言える。

漫才とかでもそうだが、テキストで読んだら全然面白くない、みたいなものが、空間に立ち上がるとこれだけ面白くなる、というのが2次元と3次元のあいだにある(演劇的な意味での)0.5のおもしろさだ。こうなってくるともはや3次元だし、こんな舞台があるならたしかに3次元からいかに0.5引くかのほうを考えちゃうな…。

・2.5次元、もはや五次元くらいなんじゃないの、と思う。演劇であるからこそ、時間軸の跳躍とか、記号を利用して表象をぐるぐるまわしたりとか、そういうのが可能だし、エモさから幻影をみせてくれる。演劇という上演形態だからこそ、そして原作があるからこそ、現実でできる範囲のことを越えられる。

・ユリイカ2.5特集、結局は当事者たちのインタビュがいちばんおもしろかった。西田シャトナーはやっぱり語ってくれている。

例えば演劇とテキストについて。否定されてきた歴史もそれでも尚重要なこともわかった上で、自身の劇団時代も省みて、やっぱり2.5を肯定する。

シャトナー氏は観客にも言及しつつも、それがおたく文化だけの範囲に終わってしまうことなく、観客の「観る」スタンスについての性質を語り、誤解を生みがちな表層(イケメン、とか2次元ビジュアルとかそういう)にも触れて、しかしそれを否定することも削ぐこともなく、その上で評価をしてくれている。

(また読みたいなーと思って読んだらもうこんなブログ書かんとシャトナー氏のインタビュ全編載せとき、という感じだった。言いたいこと全てを語ってくれている)(というかギリシア劇のことどこかに書いてあったか?「コロスの響くロードレース」という題なんだけど。あんまりちゃんと覚えてない)

・おー、と思った文章をツイッターに引用してるんだけど頁が書いてない。あとで追記したいと思います。以下引用。

『自らが加担して作り出している現実感であるとわかりつつ、あるいはわかっているからこその現実感を抜き差しならないものとして感じ取るというあり方

『(たとえそうした営為が実際には、批評的な距離を取った観察者の視点に屈服しやすい傾向を持っているとしても)』

そう、ああいうのは加担しようとしないとぜんぜんおもしろくない。マジか、と内心思いつつそこの抵抗に抵抗して、屈服しない、という姿勢が2.5鑑賞には必要だ。シラけつつノる、というやつ(浅田彰)。

ハーすごい長くなりましたけど、ひとまずここまで。結局、この文化のことをどう考えていいかはわからない。でも上に羅列した文章群によってみえてきたものはあると思う。いろいろ結びつく符号がある気がする。こういう捉え方をされていってほしい。

この2.5というジャンルがどういう種類の演劇なのか、どういう位相にあるのか、これからどう動くためにどう大事にされていくべきなのか。まだまだ考え足りない。

2.5次元舞台には、ものすごい演劇の可能性があるように思えてならない。