『シャイニングモンスター 2nd Step 〜てんげんつう〜』を観た




なんかもはやもう特筆することがあんまりない、もう手放しに「おもしろい!!!」って言える舞台だった。言うことなし。全部通いたかった…。高級料亭のコースではまったくないんだけど日常的に超通ってしまううまい定食屋みたいな舞台だったよ。
いつも舞台みたあとはTwitterの感想まとめて幻覚ポエムを語るんだけどそれがもう野暮というか、一周まわってきた人たちのカラッとした舞台だったのでもうなんかそんな必要ない。感想は演算子でツイッター検索(@so_lar_is since:2022-07-30 until:2022-08-06(あたり))でいいかなっていう。

まあ何個か自分用に引用しとく。あとはニッキ氏の演出について語るのみのブログです。

あと以下は舞台そのものの感想ではないけど制作のツイッター、たぶん抗原検査とか毎日してんだろね、そういう意味で書かれるんだけどああいう笑える舞台だったからなんか情勢とのあれで毎回泣けたげんきなツイートです

『みんな元気です!』
『全員元気です!』

みんな毎日撃沈で声出なくなるレベルの爆笑してたから免疫爆上がりしてたんじゃないかなと思います

あとはやっぱりなんか泣けた千秋楽後の瀬戸氏のツイート

『このご時世、毎日色々なことに怯えながら生きていたので、
唯一本当の自分になれるのは舞台上だけでした』






はい。それでは特筆すべき錦織一清氏の演出について語っていきますが。

ニッキ、やっぱりこの人は「わかっている」。演劇のなんたるか、エンターテインメントのなんたるか。ジャニーズっていう商業主義最前線をずっと走ってきたひとの、ショービジネスの世界のなかで生きてきたひとの最適解。

観客はもちろん女性が多い(観客の大多数が一般的なセクシュアリティを持っているとすれば)。そのNLベースの観劇をどうデザインすれば需要に応えうるか、というのをほんとうにわかっている。歌あり、ダンスあり、参加タイムあり、役者はぜったいに「かっこいい」ことを魅せたほうがいい、という要素をかんじるし、そしてやっぱ芝居もきちっと見せる。なにより、演劇を知っている。

筆者は「若だんなと屏風のぞき」「若だんなと仁吉」のシーンの置き方でそれを感じまくった。

「対照的」な2人(屏風のぞき/仁吉)を「同じ画」(中央ベンチで若だんなが下手寄りに座る)で見せる。場が記号的につかわれている。同じ画であることで、ここで起きたこと、ここで起きていることを観客は同時に想起する。

屏風のぞきにたいして若だんなは本音を吐露してしまう。屏風のぞきは若だんなをロングショットで(お腹の中にいる頃から)見ているから、若だんなを気にかけはするけれども人間にたいする「信頼」によって手放す。
それは劇中のせりふでも語られる。若だんなももう子供じゃないから、身体は万全でなくともすこしくらい仕事をさせてやったって良い。てんげんつうを今懲らしめなくとも、話くらい聞いてやったらいい。「目ん玉がそのへん転がったりしたら、若だんなが気絶しちまうぜ」。べつにこのせりふは言葉面はなにもいっていない。でも観たひとはわかると思う。直接言わずとも、それは愛だった。ぜんぶを守り切れるはずという信用ではない、抱えているだろう隠し立てを悟っていながらそっと見ぬふりをできるという、途方に暮れるような信頼のうえに立つ愛だった。

仁吉は若だんなを守りたい。「ずっとお傍におります」、それは屏風のぞきと同様の愛ではある。けれど、どこへでも勤められるはずなのにもっといい奉公先がありつつもここにいる、という、そこにあるのは〝情〟だと思う。恩とか、いろいろあるのかもしれないけど、やっぱりそれはエゴも混じった愛だ。でもこれが仁吉の〝御大切〟だ。どちらかといえば「愛」というより「恋」に近い。若だんなに「本当は何を訊こうとしたんですか」、ときいて、その答えに絶句する。仁吉は若だんなを守りたい気持ちがありすぎるゆえに、リスクは取れないんだ、という。たとえば無理をさせずに休ませる、は安全な信用ではあっても信頼ではない。過保護は親のためであり子供のためではないように。
屏風のぞきは若だんなが若だんなの道を選ぶ、ということを傍からあくまで「のぞいて」いるけれども、仁吉はどうしたって手を出したくなるし、口も出してしまう。でも結局は「かならずお守りいたします」という仁吉の信念が、若だんなの一歩後ろから守る、という道を選ばせるんだろう。

というわけであの場の見せ方はこの2人の若だんなにたいする〝御大切〟の対比がかなり効いていてよかったという具体例です。

ニッキは芸術としての演劇と、ビジネスとしてのショーの両方の手綱をつねに握ってる。脚本を舞台に立ち上げたときにはじめてあらわれるもの、役者の魅力を最大限引き出せるための口立てで整えなおしたせりふ、芝居を魅せるための効果的な演出。すべてが行き届いていて、ファンが「見たい」と思う姿を舞台の上に載せてくれる。それはやっぱりニッキ氏がアイドルをやるうえで身につけたバランス感覚であるのだろうなあとおもう。

だって『星屑のスパンコール』なんて曲を歌ってきたアイドルだもん。こんなのアイドルに与えていい言葉なのかよ、と思いつつアイドルにしか歌えないような曲だ。
もちろんその作詞はニッキ氏がしたわけでもないけれど、こういう言葉を彼らに委託してファンに夢を見させてしまうという構図が、ああいう商売にはある。だけどそれを引き受けたうえで、その夢をほんとうにファンに見させる。そういうことをやってきた人だから、こういう舞台がつくれるんだと思う。

開演ベル 光の渦の中で
知らない間に 君を探してる僕さ

星屑のスパンコール/少年隊

筆者がニッキ氏の演出をはじめて見たのは2014年の 『出発』だ。これを観たことで、演劇の見方をひとつ知ったみたいなところがある。

そうか、と当時思ったのは、主人公・一郎の嫁、明子がキャリーケースを引いて家を出ようとする場面。明子が、「この一家はみんな優しくていい人たちなんだけどやっぱり私お母さんになれそうにない」と言って泣いている。そこで主人公・一郎は「俺はスーパーマンだったんだ!」って明子を笑わせようとする。「笑え!笑えって、笑っていれば大抵の事は乗り越えられるんだ!」。

ここまではあきらかすぎる荒唐無稽さに、筆者はなかば笑いながらこの場面を見ていた。でも、一郎の言葉や姿をみているうちに、自分の頬がだんだん下がっていくのがわかる。

「な?飛べるんだよ!俺飛んだことあるんだから、あれおかしいな?」。一郎は言葉通り飛ぼうとする。けれど飛べるはずがない。これはべつに異能力系でもなんでもない、ただの人間がただの人間として生きている、つかこうへいの作品だ。「受け止めてやるから、お前の故郷も、お前が生きて来た歴史も、お前が何に痛んでいたのかも受け止めてやるからさらけ出せって。笑ってればいいわけよ、その笑顔を家族のきずなって言うわけ!」

それでも明子は笑わない。「その優しさが怖かったの。好きになるほど、怖くてしかたなかったの。母に捨てられて人を疑う癖がついてるのに、こんな優しく家族に受け入れられて、こんなに幸せでいいのかなって怖くて仕方がなかった。」

一郎は手放しで、そんなの関係ない、家族になればいいじゃないって歓迎してくれる。 でも明子はそんなのいいのかな、って思う。

「どうして飛べないんだろう、こんなに愛しているのに」。

「あなたの優しさが怖かった」。

一郎はどれだけ明子のことを愛していても、飛べることはない。
愛があっても、不可能なことは不可能なまま。

この場面の喜劇と悲劇の反転よ。演劇というのはこういうことができるんですね。叙事をひたすら一次情報として描いていく。叙情は観客の胸の裡にうまれる。言葉は確かではない。姿は確かではない。目に見えていない、耳に聞こえていない、形のないものに意味は宿っている。

だから屏風のぞきのせりふ「目ん玉がそのへん転がったりしたら〜」とかは、言葉以外の意味が豊穣だ。このせりふは、仁吉と佐助は若だんなのためだったらその手を止めてくれるだろう、というふたりの〝御大切〟を突いているし、若だんながてんげんつうの話を訊こうとしている、若だんなの〝御大切〟を汲んでいる。せりふそのものではない、ダイアログとして、それぞれのキャラクターの背景や文脈をとった、物語をきちんと90分辿らないと意味をもたない、演劇として語られる甲斐のある言葉になっている。

まあこれは本のうまさであって演出のうまさだけのことでは決してないと思うんだけど、やっぱり演出家の、脚本家の、演者たちの観客への信頼があるからできることだとおもう。いまはなんでも二次情報がないと見れないひとが増えてる。演劇でもわりと説明しまくってしまうものがあったり、ネタ番組でさえワイプのツッコミがあったりな(千鳥のクセスゴとか)。

だからシャイモン、浅草で、大衆小屋にいるような気持ちになり、「みんなの」「日本人の」「エンターテインメント」ってこれだよな、って思って、ものすごくしみじみとよかった。演劇は「芸術」でありつつも、「芸能」でもある。硬派な舞台もたしかにいいけど、そういうのは1回みたらもうその1回を後生大切にしまっとく、みたいになりがちだ。でもニッキ氏はやっぱりつかこうへいに演劇を仕込まれた人間で、70年代の初頭に演劇論とは無縁のエンターテインメントをやってきた演出家の血を確実に引いている。演劇論と無縁、というのは、つかこうへいがそれをそうと描かなかっただけで、じつはそれは戦略だったんだけど。劇構造にはずっと悪意の笑いがあった。あの喜悲劇の反転のように。ああいった狂騒のなかで、ほんとうは人間にたいするシニカルな目線がそこにある。荒唐無稽にみえて、骨はしっかり太い。それはシャイモンにもやっぱり引かれていた、見事な逆説だ。

でもニッキ氏にその悪意は引き継がれていない。死ぬほどエンターテインメントをみてきたひとの、やってきたひとの思いがそこにある。生の舞台をやるということがどういうことか、その意味が、甲斐がある。演者がまず楽しむ。それを見てお客さんも楽しい。いろんな意味での「赦し」が劇場に満ちていて、それは他ならない〝御大切〟だったなあ。

そういう感慨をかかえて、夜、閉園後の遊園地を通り抜け、劇場を出た。人もまばらな浅草で、手を合わす人々を横目に観ながらかんがえる。一度形骸と化したあの町の、でもいまもある、じぶんがうまれてくるまえからの長い時間を参照せざるをえない人間への包容力みたいなもの。そしてあの劇場に満ちていた、あの作品にあった、妖、付喪神、人間のなかにある〝おばけ〟。そして娑婆気。目に見えないのに、たしかにある。そういうもののことをじんわり想った。

14歳の国

・それはたぶん、すこしの好奇心だったはずだ。

私が小さい頃、祖母がよく切れる大きなハサミを買ってきた。柄がオレンジの、裁ちバサミみたいなやつだったと思う。銀色の刃が鋭く研がれていて、私はそれをきれいだと思った。そして、このハサミがどれくらい切れるのか、興味があった。親指を添えてみる。ぐっ、と当ててみる。切れはしない。もう少し、もう少し強く、とやっているうちに、親指の皮がぶつ、と切れた。ホチキスでも同じことをやったことがあり、針だから、と思って指を挟んで、針が食い込んで取れなくなって、血が溢れて、怖くなって、抜かずにそのまま絆創膏をしたことがある。

包丁を持っていてもそう思うけど。全くもってその気はないのだ。ないのだけれど、危ないものを持っていると、振り回したくなるだとか、そういった衝動とか、ほんの出来心だ。この、心性の変化。

・生々しさとはなにか。血を見れば肌がひりつくかといえば、そうでもない。慣れきってしまっているから、例えばリストカットをするひとのきもちがわからない。なぜならその血で、痛みで、生きているという実感が得られるとは思えないからだ。それと同じように、死の、生の、出来事の重さ、それもわからなくなる。目の前で大切なひとが死んだことに、ただ涙を流し、その得体の知れないかなしみは、iPhoneのメモに閉じ込められる。データのことば。それは簡単に消えてしまうことばだ。それを書いて、なにをしようというのか。どうにもならない。

・生徒の机の裏に、ガムテープで止められていたバタフライナイフ。それは一見、おもちゃのようにも見える、小さなナイフだ。

漂う緊迫感。見つけた教師が、別の教師に、それを手渡す。

おもちゃのようなナイフで。信じがたい光景。それが手のひらから、ごとり、と鈍く重い音を立てて床に落ちる音。質量を感じる音だった。ナイフは切らなくてもずっと重いはずだった。

・それは教室で起こってしまった。それはとにかく確実に起こってしまって、もう取り返しがつかない。一連のことを、皆が見ている。花瓶が落ちることに気づきながら、ただ見てしまってそれを止められないように、その一連を見てしまった、という、シーンの暴力性。

・刺した張本人が言う。煙草はだめだ、と。

教師5 ポケットから煙草を出し)……アキツ君。

教師3 え?

教師5 火、ある?

教師3 ……だからだめですよ、ここは教室なんですから。

これは教室で、教師が起こした出来事だ。

『今週、ぼくは誕生日を迎えた。ぼくは、十五歳になった』

煙草は20歳から。ではナイフは?

三日月宗近とジョーカーなき世界

「俺は未来を繋げたいのだ」

この一言に詰まっている。

刀剣乱舞、大団円ですね。

舞台刀剣乱舞 悲伝 結いの目の不如帰』お疲れ様でございました。

観に行ったのは、明治座初日と千秋楽のライビュ。

千秋楽に行ったことで、また千秋楽までいろんなことを考え続けたことで、なんか繋がったことがあり、それを書きます。まあいつもツイッターで言ってるようなことだけども。

まず、教訓じみたことを言うとかそんなダサいことしたくないですし、べつに本作の真髄を暴こうとかそんな気もない。それは公式とか金を払われるような文を書くひとがやればいいことだ。

これは論文でも考察でもなんでもない。自分のなかで勝手に符号が合いまくってピーンときたこと、そういうのを非常に個人的に、思想のしがらみとかないなかで書けることを書こうと思う。

さいごのキャスパレを観ながら『広島に原爆を落とす日』のことをちょっと考えていた。

そういう感じのことだ。

今まで自分が舞台刀剣乱舞のシリーズ集大成という時点で書くだろうなと思ってきたことが明確にあったんだけど、やっぱ禅問答みたいになるし、それは意外とべつに書かなくてもいいか、と思いました。演劇の効果とか、歴史の継承とか、そういうのね。あとは俳優のこと、これまでの刀ステで散々言われてきたこととかを、改めて見つめて書きたいと思ってたんだけど。

戯曲を買ったんですね。それで、義伝の後書はこう始まる。

「歴史が事実とは限らない」

歴史とは、どうあがいても「説」の域を出ず、「たぶんこうだったんじゃなかろうか」「こうであってほしい」という仮想の物語が、今でいう「歴史」であると末満健一は言う。

刀剣男士は実体のないものを守ろうとしているようにしか考えられない、とも言っている。

非常に同感だ。「歴史」とはなんなのか。それが改変されればどうなるのか。なぜ改変してはいけないのか。彼らの守ろうとしている歴史は真実なのか。真実でないのなら、彼らの戦う意味はどこにあるのだろうか。歴史を守り、それを現代に伝えたところで、それがなんなのか。

ドキュメンタリーを観ても、本を読んでも、それが一次情報なのか、それすら実証できるものはなにもなく、歴史は「それが本当らしい」、そこまでしか現代ではわからない。

でも、刀は実在する。

刀がそこにある限り、人を斬ったり斬られたり、そういうことがたしかにあったことだけは、本当だったのだと信じられる。

そういうことばかり考えていた。

千秋楽のライビュを観て考えたことは、またちょっと違うことだ。

三日月宗近とは何だったのか。

これしか頭になかった。最近たまたま思い出してたことに符号が合っただけなんだけど、それでも、やっぱり、このキャラクターなしには刀ステを、ましてや2.5次元を、考えることができない。個人的にだけど。

だから三日月宗近のことを書きます。それだけのブログです。せりふとかは円盤買ったら直します。多分。

・この現代まで刀が残されている意味とはなんだろうか。劇中でも話されるが、刀は時代とともに在り方を変えてきた。武器として。美術品として。歴史を立証するものとして。他にもいろいろあるだろう。

・刀の本分とはなんだったか。

それは「たたかう」こと、つまり人を斬ることにある。人を斬ることは、命を奪うことである。

・いま、刀は、負の遺産だ。アウシュヴィッツや、原爆ドームと同じように。そしてやはり、本来の目的として使われることはない。

・「貴殿は包丁ではないのだぞ」

・しかし、彼ら自身には、負の遺産が掲げるような、世界平和、とか、そういう目的はない。ゲーム世界のなかの彼らは、ただ「主命を果たす」「過去と向き合う」とか、個々の思いはいろいろあるなかで、まあ、理由は分からないが、刀剣男士たちが人の身を得てたたかう目的は、「歴史を守る」ためであることになっている。時間遡行軍の目的も、歴史を改変しようとすることであり、信念はそこにない(ように見える)。

・はじめに挙げたようなたくさんの問いには、明確な答えがない。そもそも、歴史は不確かなものであるからだ。

・だとすれば、なぜ歴史を守るか?という問い自体が、無意味な問いである。まあ、結局この世界に意味なんてないんだけど(劇中にこんなせりふあったような気もするけど、気のせいか?)。この問いを生んでしまった、刀剣乱舞というゲーム世界をコピーアンドペーストみたいにいくつも発生させてしまったこと自体が、人間の業のように思える。問いだけは無数にわいてくるが、この不確かで不条理な世界にそもそも帰結点なんてあるだろうか。

・歴史は実体のないもの。

・でも刀はそこにある。

・この『結いの目の不如帰』を観て思ったのは、三日月宗近は、ヴェルト・ガイスト(世界精神)そのものだったんだなあ、ということだった。

まあいまから言いたいことは伊藤計劃のブログにぜんぶ書いてあるようなものなので読んでください。そしたらこのブログは読まなくてもいいと思います。

まあ、ちょっと、というか、けっこう違うとこもあるんだけど、陥ってしまってる状況は同様なものとして、彼に倣って三日月宗近を「”世界精神型”のキャラクター」、といいましょうか。

・ヴェルト・ガイスト:世界精神とは(ほんとは引用先を読んでほしいんだけど)、まあでっかく言うと、社会の発展や、歴史の進行方向のことである。”世界精神型”の人、というのは、その流れが、自分のやった行為とイコールになるような人物のことだ。自分の行動が歴史の流れと関連する人物。それが三日月宗近だった。世界の意思そのもの、歴史そのもの。

・刀ステという作品の意思は、三日月宗近、この一振だけで事足りる。

・伊藤計劃のブログ、映画『ダークナイト』を書いた文章に、こういう一節がある。

ジョーカーは知っているのだ。秩序に身を置きながら自警団として秩序を破らざるを得ない矛盾を抱えたバットマンと、世界がカオスに叩き込まれるのを心の底から望みながら、秩序という世界の枠組みそのものが崩れてしまうと「ゲームを楽しめなくなる」という矛盾を(楽しそうに)抱えた自分が、ともに化け物、コインの表裏であることを。

ジョーカーは人間の負の面を露わにする装置として、ゴッサムの夜を踊る。(ダークナイト)

・これ、だいぶ三日月宗近なんじゃないでしょうか。まあ対応する関係とかもほんとは構造としてまんまじゃないし、ことばの中身も違うんだけど、明らかに異なるのは、三日月は悪役にはならないし、ディストピアを見せることを望んではいないということだ。

・「秩序」は、「正義と悪」とかではなく、刀剣乱舞というゲーム世界や、刀ステという演劇世界の秩序、それと、刀が刀として在るために必要な、武器として生まれたその最初から孕んでいる秩序のこと、といえる。

・書き換えるならこうだ。

三日月宗近は知っている。秩序に身を置きながら自警団として秩序を破らざるを得ない矛盾を抱えた刀剣男士達と、自らが刀であることを望みながら、歴史を守る/改変するこの戦がなくなり、この秩序という世界の枠組みそのものが崩れてしまうと「自分が存在できなくなる」という矛盾を抱えた自分が、ともに化け物、コインの表裏であることを。

三日月宗近は人間の負の面を露わにする装置として、歴史の円環を巡る。

・「矛盾だな」と、三日月宗近のせりふが聴こえるようだ。

・この円環は、閉じられるのかどうかもわからない。鵺(時鳥)のような異質な存在に「賭けて」みないと、その仕組みもわからないようなディストピアに生きている。

この歴史の円環を暴き、壊し、閉じきる、とは、どういうことか。

・歴史の授業で学んだこと。だいたいは争いのことだ。人類はずっと闘ってきたし、いまも争いは絶えない。それだけじゃなくて、何度もやってしまう小さな失敗とか。

これが円環だ。反省し、後悔しても、繰り返されてきた歴史。

・彼は、存在するだけで、戦争という時間を出現させてしまう。自身が目的をそれと持つわけではないのにだ。

・刀剣乱舞における三日月宗近は、主を守るためでもない、刀の本分を貫くためでもない、ただ、「歴史を守るために」、闘っている。限りない円環を、不条理に、ずっと生き続けている。何度も、何度も、何度も、何度も、終わらない世界を、結末の決まっている世界を。刀であるということは、そういう命運を持って生まれてしまったということだ。自身が結いの目であることは、とうの昔に決まっていたことだ。

・そして三日月は、たった1人で、パンドラの箱の鍵を見つけてしまったのかもしれない。その鍵を、たった1人で秘かに持っていなければならない、という孤独。

・三日月宗近は、生まれながらにして変数値だったんだなあ。

・『まりんとメラン』にあった会話を思い出す。

ロロ、変数値は滅びを望んでいるわけじゃない。山を焼かなければ、新たな芽も出てこれないだろう。ブリガドーンの地上都市を見てみろ。旧世代の生きものの名残だ。今の世代に生まれ変わるときも、破滅を必要としたんだ。

(ルル/第26話「サヨナラは海の碧」)

・三日月宗近が、刀剣男士たちが、歴史を守り、未来を繋げるには、刀は、武器であることをやめなくてはならなかった。

戦がなくなるということは、刀がなくなるということ。

戦をなくすために、戦をする。これも矛盾だ。

「おれたちは、何と闘ってるんだ」

それは、人間の持つ悪意そのものだったんじゃないだろうか。

・ライビュの時にはなかったけど、劇中、「坂本龍馬の暗殺」シーンのあとに挿入されていたシーンがある。

タタタタ、タタタタ、と、鉄砲の音。ゆっくり歩を進める兵士たち。その手に、刀はない。

戦争に刀は使われなくなったのだ。

それでも、日々流れるニュース。

「都内に住む30代男性が、刃物で刺され、死亡しました」

現代においても、刃物で人は殺せるのだ。

・三日月宗近は美しい刀であったがためか、武器として使われることはなかった。先代の主にすら、使われなかった。足利義輝の命は守られず、いくら時間を繰り返しやり直したところで、結局、絶たれてしまう。

だが、その主の言った言葉。

「三日月宗近、その刀を後世まで伝えよ」

五月雨はつゆかなみだか時鳥

わが名をあげよ雲の上まで

・三日月宗近は2018年現在まで、美しいままの姿で残っている。

死者の使いである「ホトトギス」は、命と引き換えに足利義輝の名を天まで轟かせ、そして三日月宗近も名刀として、主の名を後世まで語り継いでいる。

そこには、歴史のよすがとしての刀の姿がある。

・まあ、こんなに詳しく顛末が語られているとも思えないし、史実とはまったく異なるのだろう。しかし、この物語は現実の虚構の境界を溶かすように、時代に寄り添って横たわる。

・「俺は未来を繋げたいのだ」

現在、人が争うにしても、日本刀を交えることはない。武力ではなく、美しさをもって、人を救えることはあるのかもしれない。

・虚伝での三日月の言葉を思い出す。

「俺たちに心があるのは、物であるが故なのではないか」

例えば、月を見て美しい、と思うこと。その心が月に宿る。その心はいつか、自分に返ってくるのだと。

「心とは森羅万象を廻る。だから人は物を作り、物を語り、物に心を込めるのだ。我々刀剣は人の心を運ぶ歴史のよすがなのやもしれん。織田の刀にも、そしておぬしにも、託された心があり、それが廻り廻って繋がっていくのだ」

山姥切を三日月は「存分に美しい」と言った。

「主はおぬしにそう心を込めた。おぬしはおぬしを信じ、その心でこの世を照らしてやればいい。そうだな。あの月を照らす陽の光のようにだ」

「月を照らす陽の光のように…か。無茶を言ってくれる」

「これはまた随分煤けた太陽だ」

・その心をいちばんに信じたのが、三日月宗近だ。と、そう思いたい。

・この望みもまた、人間の業なのだろう。

・刀は、武器である。人の命を奪うものである。逆に言えば、人の命を奪うものとしてしか、存在意義がない。

・けれど、本当にそうだろうか。

在り方は時代によって変わる、その自覚があるはずの、刀剣男士自身たちによって繰り返し言われる言葉。

「俺たちは刀だ」「刀の本分を忘れるな」

・円環を断ち切るということは、この刀の性質を無意味にするということ。しかしその円環を断ち切ったからこそ、泰平は訪れ、三日月宗近はそのままの姿で現存している。

・この矛盾だ。三日月宗近の悲しさは、そこにある。

彼は刀の本分として命運を果たすことが出来ない。しかしそう在るからこそ、未来を繋げることができた。表裏一体、陰と光。

「悲しいのは心が在る故なのに、心に非ずと書いて悲しい、とは、皮肉なものよな」

矛盾を、自身が孕んでいる。そうしたいわけでは決してない。それが三日月宗近の悲しさだ。目の奥に深くある、青く、昏い悲しみだ。

・千秋楽では、少し演出が変わっている(初回と千秋楽しか観てないから途中からそうなっていたかはわからない)。

何十公演と通り抜けてきた一言一句違わぬ物語、その最後が千秋楽だ。斬っては斬られ、何度も交わしてきた約束。その最後の最後に、三日月と山姥切の勝負はついた。約束も、もういらない。美しく円環を閉じるための、少しの改変だ。

・だが、いくら台本が書き換えられようと、あの三日月宗近は、もういない。結末はどうやったって変わらない。

「歴史のあるがままにだ」

・そして夜は明ける。

・夜。小田原の城が出会わせてくれた夜。三日月が明けないでほしいと願った夜。闇に月は煌々と輝く。それももう最後だ。太陽が昇る。闇が晴れる。こう書くと、希望に満ち溢れた景色にしか見えないようだけど、悲しい、こんなに悲しいよ…。

月は隠れているだけで、消えてしまったりはしない。いまは暫し、時が満ちるのを待つだけだ。とか、こういうダサい演繹をし続けて、あいつはまだ居ると、心の底から思いたい。もう繰り返したくはないのに、そう思ってしまうね。何度考えてもその度、胸にくる。

・永遠にループされるゲーム、永遠にリフレインされる演劇、そもそもが不条理な世界において前提条件を問われると、〈いま、ここ〉にある足元が揺らぐような目眩がある。自分がどう変わろうと、周りをどう変えようと、結末は変わらない。〈ここではないどこか〉へは、絶対に行くことができない。逃れられない。

・その世界に、三日月宗近は武器としてまた顕現した。

・ユートピアはどこにあるか。

・彼なきあとの本丸では、皆平和に茶を啜りながら、「暇だなー」「すっかり身体が鈍ってしまったよ」。

・平和ボケ、って、なんなんでしょうか。

・まあそれがなんにせよ、ここでいくら何を言おうと、繰り返したくとも繰り返せないこともある。

・あの三日月は、ひとりで行ってしまった。

・悲しい。

・もう会えない。

天魔王と鈴木拡樹

んー、やっぱりこれだけがんばって行った舞台というのはあんまりないので未来の自分のためにも書いておくことにする。

『髑髏城の七人 Season月』のことだ。

いや、もっといえば、『髑髏城の七人 Season月に抜擢された鈴木拡樹という役者』についてのことだ。

ここでのスタンスはというと、

もともと演劇が好き→髑髏城の七人ってめちゃくちゃ聞くから一回行っておきたいと思っていた→どうやら今公演中らしい→現場(鳥)→ワカを観る(DVD)→月キャスト公表→エッ?→鈴木拡樹?→宮野真守てエッ?→2.5系?髑ステ?→はいチケット取れました→現場(月)

という流れです。ちなみに2.5次元に触れたのは20176月。

こちらもご参照ください。

けっこうおたくと話したりツイに書いたりともう言うことないですという感じではあるんだけど、今回やっぱ書いとこうと思ったのは何より鈴木拡樹という役者が劇団☆新感線に出た、というこの事件のことである。

・鈴木拡樹がキャスティングされたのは「天魔王」、まーあマジか、と思いましたよね、でも改めて考えれば捨之介でも蘭兵衛でもないな、天魔王だな、というのがわかるんだけど、発表されたときはほんとうに時空が歪んだかと思いました。

・で、結論から言うと、鈴木拡樹の天魔王は、かなりよかった。

『髑髏城の七人』という作品は、90年、97年、04年、11年、17年と、だいたいの物語は同じでも、何パターンもの上演がある。そしてキャストも毎度違うため、かなり多くの解がある演目である。

今回の17年は年間通して花鳥風月(極)と、5つの筋書きがあるうえに、いま公演している「月」はWチームで「上弦の月/下弦の月」に分かれている。

・鈴木拡樹は下弦の月の天魔王を演じた。

・月の台本はというと(あんま観てないけど)ほかの台本に比べて味付けが少ないように感じる。ノーマル、プレーン味です、という筋書きで、キャラクターもきわめてまっすぐで、髑髏城初めて観るなら月で!というような、教科書的な雑味のなさである。

・ここで言っておきたいのが、けっこうレポ?ブログ?とかで見かける「勧善懲悪のストーリーなんですけどオ」というコレ、嘘?、みんな正義vs悪の物語だと思ってたの?、マジか、ぜんぜん違う。

・髑髏城の七人は、正義vs正義の物語だ。公共の福祉が成り立たないなら、話し合いでおさまらないなら、暴力しかねえ!っていう戦乱だ。

「たたかう」という物語の持っている、「みんな信念を貫こうとしてこうなった」という大義のこと忘れてませんか、天魔王が悪役感ありすぎて勧善懲悪の物語だと思ってしまいすぎる。でも違う。

・これはメイクや衣装が原因なことが多いにある、という気もするけど、髑髏城を勧善懲悪と言ってしまうの、まずは天魔王のことを「天魔王様」だと認識してしまうことが我々の失敗だよなと思う。あの、バリバリのメイクと衣装による、俺様は超つよい悪役です!的ビジュアルによって、根本的なことである「彼は今もただの人間である」という、このことを忘れてしまう。彼は「天魔王」になる前は普通の名前を持った、普通の人間なのだ。

ここを失念してしまうと、「蘭兵衛と天魔王と捨之介が3人とも揃って信長公に身も心も捧げていた男達」であることが流れてしまって、マジで元も子もない。昔はみんなでおなじ方向をむいていたのだ。いまは時も経っていろいろ変わってしまったが、そのきっかけとしては、みんなべつに殿(信長)に恨みをもって解散したわけではなく、殿が居なくなったから散り散りになっただけであって、みんなの大義は変わっていなかった。そして、戦乱の世が終焉した”今”でもまだその過去に縛られている。

だから“今”世にはばかろうとしている秀吉や家康には程度の差こそあれ3人とも納得のいかない部分があって、いつまでも引き摺ってちゃいけない、だから過去への燻りに決着をつける、そういう物語だ。

・「天魔王像」というのはほんとうに色々あると思うんだけど、やっぱり彼は自分の弱さに背を向けたひとだ。あんなに身も心も俺が尽くしていた殿は蘭兵衛を選び、『私に死ねと言った』。そのショック。湧き上がる黒い感情。愛ゆえに膨れ上がる憎しみ。執着や憧憬や愛情がごちゃ混ぜになって、『そんなのは殿じゃない』、『殿の最期の言葉はそんなくだらないものじゃない』。理想が高すぎて、それを裏切った事実を受け入れられない。完璧な理想が叶わなければ死んだほうがマシ。自分の無力さや弱さやふがいなさを直視できないために、静かに、まともに、狂ってしまった。そういう可哀想な人間だ。

・だって、考えてみれば兵庫とかめちゃくちゃいい奴だけど、村娘を襲った侍を殺して村を出た、って、人を殺してるのには変わりがない。でもそれは法の考えだ。倫理とは?と、立ち止まる。兵庫は『弱きを助け、強きを挫く』悪いやつの敵である。だから筋通ってんだよなあ、髑髏城に出てくる人間には、みんな曲げられない信念があり、捨てたい過去があり、捨てたくても捨てられず、どうしてもそういう業を抱えて生きている。だからときどき正義がぶつかりあうのだ。みんな間違っていて、みんな正しい。

・要するに、みんなあまりに人間的で、圧倒的なものは存在しない。アニメみたいに超能力で闘えないし、斬られたら血が出て死ぬ。刀も百人斬りなんてできない。だから『斬るたびに研ぐ、突くたびに打ち直す』。天魔王だって人間だ。みんなと同じように心を持ち、言葉を話す人間だ。捨之介と蘭兵衛と天魔王が、信長の御前で、交わした酒とか、談笑だってあったかもしれない(事実的にあることかどうかは知らん)。

ここまで語ってきたこと、天魔王がこういう人間であること、それが鈴木拡樹にぴったりすぎて、考えれば考えるほどより鮮やかな解になる。

・鈴木拡樹自身とか、その界隈のインタビューを読むと、彼のことを口々に皆「優しい」と言う。特筆すべきことでもないじゃん、優しさ、とか、と思うとともに、特筆されるべきレベルで優しいのだろうか、と思ったりもする。

・ここからはもうぜんぜん読んでるインタビューも観た芝居も少なすぎるので想像でしかない。でも、自分にとってはけっこう確実にこの役者の核に迫っていけてる気がする。

・今のところ、鈴木拡樹というひとについては、芝居にあることだけが正直で、振る舞いとか態度とかはぜんぶ嘘っぽいと思っている。

だから、天魔王よろしく鈴木拡樹についても人間界まで引き摺り下ろしてやるよ!と思っているんだけど、『舞台男子』で自分のことを「頑固」って言っていたあの言葉、あれにけっこうあっ、と確信を持ち、ただひたすらに感動した。

あれのおかげでこの人についてよく語られる優しさとか母性みたいなものが強固にそこへ根をはっていることがわかったし、それがこの人の腹の底にあるドロドロしたものから少しだけはみでた本音なんだなーと思った。この人の中枢にあるかけがえのない暴力をみんな知っている。

・うまく言い難いけど、要するに逆のひとだ、ということ。たとえばバラエティで櫻井翔が「ほんとうに駄目すぎるくらいルーズすぎるから分刻みでスケジュール立てるんだ」って言っていたけどそういう感じだと思った。いつも自分のアンチをいく。だから己の測定計において、自己愛と自己嫌悪の振れ幅は同じくらいデカいものの、それらの極がハンパなく遠い。完璧主義で、理想に追いつけない自分を許せない。だから常に自分のことを肯定したい、と思いながらも、常に自分のことを否定し続けている。常に二重である自己。まっすぐにひねくれているのでわかりづらいけど、常に2つ(もしくはそれ以上)の視座から自分を見ているために、やけに落ち着いていたりとか、達観したような佇まいがあるのもわかる感じがする。

・「頑固」だからこそ、「優しく」したい。他人に優しくしよう、と意識していなくてはいけないほどの、コントロールしようがない決意を、激情を、鈴木拡樹は持っているということだ。

・だから、いつも静かに笑っていて、あんまり人には言わない、そういう気がする。いろんな自分の意思を押し殺す「優しさ」。それはときどき、状況を正当化しようとしすぎて、確固たるものまで揺らぐことがあると思う。頑固すぎるから、意見を柔らかくしておく、みたいなことが苦手で、他人の線引きもわからない。自分は頑固すぎるから、もしかしたら他人がここまでオーケーとしているところを自分は狭めているのかもしれない、基準がわからない。だから逆に寛大になりすぎる。そこは譲らなくていいよ、守っていいんだよ、というところまで明け渡してしまうことがある。

・徳川家康は、天魔王の正体を、「空っぽ」の「仮面」、と言う。ほんとうにそうだ。あけすけで、鍵がバカになっていて、一向に開かずの扉もあれば、厳重にしておかなきゃならない扉が開いてしまっていたりする。まったく不器用すぎる。彼は、他人が自分の領域を侵すことを許容してしまう。鈴木拡樹の優しさは、自分を傷つける優しさだ。自分の意思がありつつもそれを殺したり、殺したうえで非自己を取り入れたりするのが苦ではない、という、自分の中身を入れ替えることを厭わない人間。そんなの、役者に向いてるに決まってる。

鈴木拡樹はほんとうに掴めない人間だ。ときどき、ほんの一瞬、芝居に本音を垣間見たような気がすることがあり、掴めた、とまた一瞬、思っても、彼の姿はもう、そこにはない。

でも、ほんとうにいい役者だ。語れなさは記号の豊饒さを示してくれるし、こういう”詩”のようなものを舞台上に観せられる人間は、そういない。「髑ステ」などと揶揄された(らしい)Season月だが、ベストアクトと呼ぶ声も聞く。若い現場にもいい人材はたしかにいるのだ。なにが本物か、というのは、本物を見ることでしかわからない。味わえない。理解だけじゃ何も面白くない。わからない、けれどなにかどうしても惹かれるものがある、それこそが魅力というものだ。これだけ言葉を費やしても、まったく掴めた気がしないのがこの役者の魅力の証拠だし、なにより演劇(その他諸々!)の素晴らしさ語るためには、このジャンルと役者は事欠かないのだ。嘆かわしいことに。

黄昏かげろう座





“お前が世界を見たいなら、
眼をお閉じ、ロズモンドよ……”
ー『シュザンヌと太平洋』








スペースFS汐留にて「黄昏かげろう座」観てきました。

演目は、江戸川乱歩『屋根裏の散歩者』と『人でなしの恋』。それぞれ2公演ずつ。
感想書きつつ思ったのは、朗読劇、難しいなー!ということ。正しい芝居なんてなくて、すべては好みの問題なんだけど、一本の作品としてのおもしろさを、どこに委ねたらいいのかわからない。原作、脚本、演出、俳優、それらのバランス。

まあ今回も三木眞一郎につられて行ったやつなのでとどのつまり三木眞一郎はスゲエってことを書くと思います。

あとは、女優と声優というキャストであったことで、その差異について見えたものがあったのでそれを書きます。



屋根裏の散歩者
200に満たない座席。
舞台は真っ黒。上手、下手に机と椅子が1セットずつ置かれている。それぞれの机上には切子のペアグラス、青と赤。下手、青いグラスの隣には黒いハット。その向こう、最下手には椅子がもう1つ、久世光彦エッセイ朗読のアクトスポットとして置いてある。
そこに黒ずくめの演者2人。物語は久世光彦のエッセイから始まる。

久世光彦のエッセイの混ぜ方、おもしろかった。この久世光彦というひとの、「劇場」というものについての思想には頷ける気がする。劇場は春の日の陽炎のようなもの。考現学、とか言ったらいいのかな、劇場というものは、それこそわたしたちの暮らす街でもいい、眼前にある光景、それが立ち上がる「場」が「劇場」であり、その現象は、演劇である、という感じ(多分)。生活をしていてもときどき我に返って、はっとする。そういうとき、そこには詩がある。生きていても、白昼夢を見ているみたいに、ずっと実感がないことのほうが多くて、そうやってわたしたちが普段ぼんやりと眺めて通り抜けているだけの日常、現実に、一瞬の閃光のような何らかのきらめき、ロマンみたいなものを感じるとき、それははっきりとした輪郭をもって迫ってくる。ここは劇場である。そういう幻想のほうがどうにもしっくりくるというか、すごくわかる。夢のほうが、ずっと現実だ。

倉本朋幸の演出はさっぱりしてた。この演出家、知らなかったんですが「三月の5日間」「好き好き大好き超愛してる」「書を捨てよ、町へ出よう」などを手がけておられるらしく、なんというか、アングラ、ではないんだけど、激情系、みたいなのが好きなんだろうなーという印象。岡田利規、舞城王太郎、寺山修司、江戸川乱歩、っていうとなんとなーく繋がるものがある。

演者レビューとしては、まずは田畑智子。知ったのは朝ドラですけどオッと思ったのは「ふがいない僕は空を見た」です。まあ原作が好きだっていうのがでかいけど。今回は朗読劇だったがやはり、適材適所というのはあるんだなーという感想だった。彼女は美しいよ。けど朗読ではない。舞台にいる彼女の表情とか、佇まい、そういうものはやっぱ女優だなー!と思ったけど、発声とか読み方とかは、映えない。これ朗読劇じゃなく演劇なら光っただろうなと思った。勿体無さすぎる。「ただ、そこにいる」ということ。ただ、人間が、そこに立っている、それだけで、細かい演技のテクニックとかは、どうでもいい。だから彼女は「女優」だし、勿体無いというのは、朗読劇という領域で足掻く彼女を見たいわけではなかったからです。見るのであれば、彼女のなかにもともとあるものを、テキストに縛られずにいる彼女を、見たかった。においがしなかった、といえばわかるかもしれない。
1日目は夜公演がよかったですね、初回は緊張してらしたとみた。2日目はやっぱり女をやるということで、しっくりきたし、素敵だった。

一方、三木眞一郎である。改めてマジですごい。それと、完全に演劇の畑に居ていい人じゃんと思いました。2日目は特にすごかったのでまずは1日目に思ったこと。

声優なので、書き言葉を話すのはお手の物なのはまあそれはそう、それでも、この引力はなんだろう。書き言葉の文章に浸透力を持たせる力がある。
朗読劇なので、やっぱりテクニックは必要。それは演劇と違って、演者から発されるただの言葉を、観客が聴き、脳内で風景を描いていかなくちゃいけない。だから物語がうまく進行していくかどうかは、発信される言葉と、それを受け取る観客の想像力に委ねられる。朗読劇は演劇よりも、視界で受け取る情報がずっと少なく、想像するためには、言葉を聴かなくちゃいけない。でもこれがなかなか難しい。

相手に伝わる情報の割合は、話の内容、言葉そのものの意味から7%、声の質・速さ・大きさ・口調から38%、そして、見た目・表情・しぐさ・視線からは55%で、視覚的情報を奪うと半分以上の情報を削がれる(そう考えてドラマCDとか聴くとすごすぎる)。さらに今回の公演は90分、人間の集中力が続くのは15分。どうやっても飽きる。
なのにどうしてか、飽きない。勿論、視覚的な効果は、演出として入れられている(例えば、猿股の紐に模した真っ赤なゴム紐を、2人の間に繋ぎ、シーンの流れの途切れる台詞の狭間で、離す、といった文章構造の可視化など)んだけど、緩急、とかそういうのだけではないなにかがある。どうすれば文は伝わりやすいか、というと、文章の構造をきちんと把握して、どこで区切るか、どこを目立たせるか、どの語に重きを置けばいいのか、そういうのを大事にすれば話す文としての正解は出る。

(前にこういうpostをしたけど、三木眞一郎みたいな声優がこういうのをパッと言うっていうことに怖さを感じました。もう基礎とか忘れてていいくらいなのにな、先生かよ)
(たまごの声という声優のたまごの人がやってるらしいラジオにゲスト出演したときの発言)
だけど、この正解だけではない、それ以上に、言葉にあらゆる感覚が伴っている、と思う。

三木眞一郎の朗読は、文章の向こうに湛えてある感情とか魂みたいなものをインストールして喋っているような感じがする。書かれたものを読み取ることで再び風景や感情を立ち上げるのではなく、書いて平面に落とし込む前の原風景を、そのまま発話にのせている感じだ。

そしてそれだけではなく、演劇人じゃん、と思ったのは、存在感そのもの。あの長身。舞台に立つ人間は手が大きくなきゃ、みたいなのを読んだことあるけど、そういうこと。やっぱり舞台上で映えるためにはタッパがないといかん。スーツにハットの姿もさることながら、なんていうか、身ひとつで立っていても舞台が余らない。そして一個一個の仕草のためらいのなさ。朗読劇に丁度良い塩梅の身振り。指パッチンのち天井を指差すとか、顔を上下(かみしも)に向けるとか、強調する部分で人差し指を立てるとか。役とか地の文ごとに声色を変えるのは勿論、明智小五郎をやるときは背凭れにもたれて足を組んだり、身体も変えていた。声色でも十分わかるのに。すごいな。そうそう、これを観聴きしながらなんとなく落語のことを考えていました。

あと身体のことでいうと、声を出すときの姿勢。
いままでは、三木さんは「姿勢を正して」というよりも「自然体で」というひとだと思っていて、それはあながち間違いではないと思うのだけど、今回の朗読劇見て思ったのは、肺を開いている、ということだった。

演技って「いい身体」「いい声」で観客のほうを向いて大声で叫ぶ、というのが正しいわけではなくて、べつに腹から声が出てなくていい、背筋が伸びていなくていい(かといって仰々しくない自然さがいいというわけでもないんだけど)。三木さんは普通に立つし、無闇に声を張るわけでもないし、やたらと滑舌良く喋るわけでもない。むしろ声を裏返すことだってある。こういう「自然さ」。

今回の朗読劇、演者2人はほとんど座って読む。だからわかったことがあって、三木さんは、みぞおちあたりから肩までが、なんというか、ひらけて、立っているのだった。声の通り道と、その響く部位を確保しているという感じで。背中が丸まっていると声はこもる。喉も詰まるし呼吸も浅くなる。いままでは立って演技しているのしか見たことがなかったけど、座るとなんとなく、どういうふうに身体を使っているのかが見えて、ヘェーってすごく興味深かった。
あとこれは姿勢のはなしとも繋がるかもしれないので書いておくんだけど(マイクの付ける位置にもよるとは思う)、三木さんだけマイクをふかないんですよね。発声の問題なのかはわからないけど、ボッ、ていうあれがない。それもなんかヘェーってなりました。





人でなしの恋
昼公演、見終えた直後、放心してた。何も書けない、何も言えない、泣くこともできない。ただ痺れるてのひらを握ったり開いたりしながら、この静かな興奮を振り払うように頭を振りながら、足早に劇場を出た。

どうしよう。どうしようもない。
もっとこの人の芝居が見たい、と思った。

三木さんには一言の台詞もない場面。
なのに、だんだん、唇がわなわな震え、息が上がり、一気に、静かに、彼の纏っている空気だけが濃くなり、高まっていく。その一点だけに、視界が絞られていく。ネクタイを解き、ボタンをひとつ外す。赤みのさした首筋が露わになる。
そして、すっくと立つ。見開かれた目、その鋭い眼光。真っ赤な紐を唇に咥え、そこからするすると長い体躯に巻きつけていく。少しでも動けば血の出そうな緊迫感。あの赤い糸に劇場全体が雁字搦めになって、動けない。

腹の底から、言いようのない感情、そして熱が、ふつふつと湧き上がるのがわかった。内臓が熱い。呼吸が出来ない。裏腹に、皮膚の表面はへんな汗をかいて、冷えている。掻痒感にも似た、ひりひりとした感覚が、心のやわらかい場所を貫いていく。

こんなに揺さぶられたことはなかった。

自分の人生のなかで興奮の閾値を超えたものなんて3つの出来事ほどで、それらはすべて10代のとき、田中泯のフランシス・ベーコンの舞踏、滋賀の女子高生ろろちゃんの自殺動画、クリスティーン・バタースビーの『性別と天才』を読んだとき。なにもかもに慣れてきて、感覚も鈍ったいま、20をこえてから、こんなに揺さぶられたことなんて、なかった。

形容しがたいよ、こんなの。すごすぎる。何度も溜息を吐いて、思わず手紙を書いた。

かげろう座2日目は、下手に田畑智子、上手に三木眞一郎。きのうと交代のかたち。最初と最後の久世光彦のエッセイ朗読も、きのうは田畑智子がやっていたところを三木眞一郎が読む。
衣装は白の分量が増えてた。田畑さんは白いカットソー、三木さんはスーツのジャケットなしでシャツ+ネクタイ。

冒頭、素晴らしい引き込み方だ。空気を多く含んだ柔らかい声で、聴かせる。
なのに最後、雷に打たれたようなわたしたちを横目に、あんな緊迫感を解きほぐすように、はじめと変わらないトーンで、震えもない、落ち着いたあの声で、諭すみたいにまた、観客に語りかける。

すごいよ、三木眞一郎。一体なんなんだ。
声優の域を越えてる。俳優でもあんな演技ができるかわからない。
ドラマCDとかのフリートークとかでよく共演者は三木眞一郎に対して「緊張感」というワードを出すけど、その意味がやっと分かった。纏う空気が、飄然と張り詰めている。

冒頭のエッセイから乱歩の物語に切り替わるとき、三木さん、目を閉じるんだよ。その幻想に身を浸して、ひとつひとつの言葉の向こうの原風景を、かげろうのように立ち現れる瞼の裏の劇場を、じっ、と見つめるみたいに。

素晴らしかった。それだけ。もう何も言えない。すごかったんだよ。動悸がおさまらない。

さよならソルシエ


SOUND THEATRE × さよならソルシエを観てきました。音楽朗読劇ということで観る前はどういうこと?と思っていたんですがドラマCD一発録りみたいな感じです。生でこれができちゃうのすごすぎる。加えて、舞台なので、視覚の楽しさをつける感じ。ライブペインティング、照明、舞台の演出、衣装など。レポではないです。個人の主観入りまくりの感想。

ここで原作についても語ってしまうとかなりとっ散らかってしまうので基本的に演出と演者について。この12/3の公演はPLAY BUTTON(プレイボタンはバッジ型デジタル・オーディオ・プレーヤーです。バッジ型の本体にイヤホン / ヘッドホンを差し込むだけで、いつでも、どこでも収録された音源を楽しむことができます、とのこと)に録音されているけど、記録媒体からはみ出してしまうものがやっぱり生の舞台にはある。その劇場のダイナミズムとかについて。
以下原作の漫画の題です。舞台脚本ではすこしずつ入り組んでこの区切りを越えて行ったり来たりもするし台詞がつけたされているところもある。

1話 パリの魔法使い
2話 夜の住人たち
3話 草原の兄弟
4話 アンデパンダン展
5話 夜明けのパーティー
6話 冬の草原
7話 才能
8話 絶望と希望
9話 彼の宿命
10話 手紙
11話 炎の画家
12話 au revoir, Sorcier

演者は下手から、三木眞一郎、浜田賢二、諏訪部順一、内田雄馬。中心2人には立ち台がついてる。(ちなみに自分のスタンスを話しておくと、三木眞一郎が超すき、浜田賢二と諏訪部順一はものすごい推し、内田雄馬は気になるキャラ居てエンドロール見るとまたこの人だったか、というタイプで好きな役いくつかあるけどノーマークだった)

ちなみに衣装と髪型はこう。左がフィンセント・浜田・ゴッホ、右がテオドルス・諏訪部・ゴッホです。浜田賢二髪の毛モフモフ、諏訪部順一外ハネ茶髪(ありがとうございました)、もうこの画像だけでつらくないですか、ほんとにまんまなんですよ、これがステージにいたんですよ

内田雄馬はビビットめな色でかっちりはしてない若者めいた格好にさらっと下ろした黒髪、三木眞一郎はベージュのロングコートっぽい羽織りに茶髪グラデ外ハネロン毛です

会場には照明を映えさせるための霧が立ち込めている。ステージには描きかけのキャンバス。波を通り抜けてきたような光の網が虹色に光って、ステージの輪郭の外まで広がっている。開演と同時にその網は青く染まり、観客は物語のなかに潜水する。

再構成された物語。戯曲家ジャン・サントロと画家アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレックの再会から、回想譚として語られていく。

・物語は『2話 夜の住人たち』の一部から始まる。
プロローグのあと、物語の冒頭で容赦無く観客を引き込む諏訪部順一。諏訪部さんの声には説得力があるなあと思う。カリスマ性のある、というか、有無を言わさず相手を説き伏せる力。安心して聴けすぎる。地に足がついている。
・マルクスが路上でパンの絵を売る場面。
「さて、お立ち会い!」暗転後まで往来に向かい商売をするジェスチャー、観客の想像の解像度を上げてくれる三木眞一郎…
三木さんはこういうふうに意識的にパフォーマンスをすることもあるけど無意識のうちに出る動きも多い、逆に諏訪部さんは身振り手振りは全て自覚的にやっている気がする、憑依するか、引いて見ているかどっちと言われれば、前者三木、後者諏訪部と思います。三木さんも客観人間とは思ってたけど思ってるよりこれは感覚というか右脳派の人間なのかもしれない…最高…

・ここでフィンセント・浜田・ゴッホ登場なんですけど、ひたすらあどけなく、善人で、穏やかで、無垢な感じの声色。浜田賢二の声って額に細く当たって響くんじゃなくて、喉の後方から鼻腔にかけてボワーと広がるような声ですよね、最高。(基本的に)諏訪部順一は鼻から喉にかけて(おとがいあたりも)、内田雄馬は喉かな(勉強不足)、三木眞一郎は胸(肺のあたり)に響く。個人的に浜田賢二と三木眞一郎は聴いてて心地好い系で声自体が好きすぎる。

・3話、幼少のふたり。諏訪部順一のショタ声がレアなのかはよく知らんが、高い。そして諏訪部氏、子供をやるときは休めの姿勢になるみたいだぞ!身体を変えることで胸に立ち上がってくる心持ちが違うということを知っておられる…
ここでの三木さんまさかのゴッホ兄弟の母として登場。こういう声色も違和感なく出せるの、流石すぎる。この撫でるような色気。
そしてジェローム殿も登場。ウオーッ!三木眞一郎の、振れ幅〜…!コメディもシリアスも女も悪役もできる!すごいぞ

・振れ幅で言うと、内田雄馬もすごかった。5役?もっとか?チャンネルの使い分けに唸る。シリアスな場面に迷いもなくおもしろいトーンを入れてくる。内田さんのそういう台詞のあと、音源からはあまり感じられないけど会場の空気がざわっと揺れるんだよな。そして内田雄馬、身体性まで自在なように見えた。なんていうか、今にも走り出せそうなって言ったら変だけど、腰が落ちてないというか、とにかく身軽で、自由で、楽しそうだった。緊張している様子もなく、スゲー人間だ…

・内田雄馬、6話では老婆もやる!ここが泣かせるシーンで、演技がうまくないとそっちに気を取られちゃうリスクあるところなんですけど、見事に老婆だったので、会場がめっちゃ泣いた。
冬のパリで、40年前の夏の草原の風景を描くシーン。
浜田賢二の、純粋で無垢で真っ白なやさしさが、人間の持っている狡猾さ、意地の悪さを、抉ってくるようなまでに真っ直ぐで、たまらなく胸が締め付けられる。
大袈裟になることもなく、格好付けることもなく、そこにある人物の感情にぴったり寄り添うように話す。目の前に、その光景が見えているように、穏やかに微笑みながら。童話の世界のひとのようだった。佇まいに不思議な引力がある。

・7話、第一部の終幕。
絵を選んでいるときの「どれにしようかな〜」のあとにテオドルスに呼びかけられての「う〜ん?」がほんとうに夢中になってて上の空返事でめちゃくちゃかわいい(死)
・一幕ラストの演出が素晴らしい。テオドルスの激昂。赤い照明。はやる音楽。諏訪部順一担当のお姉様方でこの公演観てないひとはシビれる台詞かなりあるので原作読んでみてください。脳内再生容易に可能だと思われる。

・第二部は8話から。
フィンセントが教会へ連れ去られる。浜田賢二、後ろ手に縄をかけられているように台本を持っていないほうの左手を背後に回している。
・「死ぬのは、俺のほうだ」拳銃のかたちにつくった左手を自分のこめかみに当てるエンターテイナー諏訪部順一…

・9話は8話からほぼ地続き。フィンセントの、弟を信じたい、そういう祈りみたいに、嘘だよねテオ、って縋るような声、繰り返される「いやだ」「やめろ」がどんどん涙ぐんで小さくなっていくのに胸が締め付けられるように痛い…
浜田賢二、沈黙を操れるひとだと思いました。声優だけなんて勿体無いよ〜!このひとにあるテンポは演劇とかに持ち込まれるべきだよ〜!

・兄弟のこの長いやりとりの最中、明転中なのに三木さんが座ったんですよ。いままではきちんとスポットが絞り切られるまで立っていたので、(えっまだスポット付いてるよ!)と思ったんだけど、これ、ちょっと待って、あれ、なんか、そこにいらっしゃるのは…ジェローム…?
いままでの暗転時の座り方は普通にむしろ猫背めで座ってたのに、このときは崇高な芸術家ジェローム殿らしく、踏ん反り返って見事に「偉そう」な座り方なんですよ…えっすごい…兄弟が魂をひっくり返してぶつかり合ってるときに、やっぱり3人立っているのは気が散る、かといって明転暗転を繰り返すのも気が散る、となれば、2人を舞台に残しつつ、自分は傍観者を「演じる」というのが、三木眞一郎、さ、策士〜…!

・この場面ではじめて怒りの感情をあらわすフィンセント。いままでの穏やかさとは裏腹に鋭く低い声、静かな激情。ここでまたライブペイント、なんですけどその前に炎が!19列目でもけっこう熱いくらいの。描かれた絵はこれ。これは終演後ロビーに飾られていたもの。この公演のじゃないのでたぶんゲネのものとかだと思う。

・とまあとにかく、この教会のシーンはけっこうな見せ場であり、いちいち心を動かしている暇がないくらい、めくるめいている。目が足りないと思ったことはあるけど心が足りないと思ったのははじめてだ…
浜田賢二の沈黙の使い方、ニュアンスのシンプルさ、それでいて豊かな感情のブレンド比率に唸り、諏訪部順一の音楽感覚、迷いのない声色の選び方で唸り、三木眞一郎の「追いかけるな、くだらん」で唸る!
このシーン全体の抑揚、見事すぎる。

・10話、手紙を読む浜田賢二、つらい。こんなにいい手紙はないよなと思う。
「ごめん、テオ…」その余韻とともにフェードアウトして絞られていくスポットのなかに佇む浜田賢二の姿が妙に目に焼き付いている。哀しそうというより、悔しそうというより、ひどく寂しそうだった。

・フィンセントの訃報を知らせにきたマルクス。息急き切ってドアを開けた彼が口にする、フィンセントが、「亡くなったと」。この一言に表面張力するニュアンスは膨大だ。衝撃、焦燥、狼狽、痛惜、後悔、悲嘆がすごい速さで流れながらこの一言に込められている。嘘だろ、信じられない、いやだ、信じたくない、けどこれは事実で、早急に伝えなくてはいけない、っていう感じが詰まりすぎてる。拒絶してた事実を受け入れたときに哀しみがどっと押し寄せてくるような。
こんなにハッとする瞬間にはなかなか出会えない。ほんとうにすごい一言だった。一言というよりも、一撃に近かった。

・そのあと、暗転後に三木さん、泣いてたんですよ…oh…汗かなと思ったけど、タオルを顔に当てたあと、台本を観客にかざすように持ってきて、そんなことしなくてもスポットは当たっていないのに、本人の心理状態がそうさせたってことはほんとうに…えっ…でもタオルを置いたあと鼻を啜ってたので、やっぱり…って、思ったけど、三木さんは泣いていることを恥ずかしがってたわけでは決してなく、演者のマナーとして、客にそれを見せない、という配慮だったんだろうなと思いました。紳士…

・幼き日の幻想を見ながら、兄に想いを馳せるテオドルス。「待ってくれ、行かないでくれ、兄さん」。「く」が丸い感じの発音で、すごく幼い。不敵に笑って何事にも動じない男が、そうやって泣くことが、どれだけ異常なことか。声を詰まらせながら泣く、その、声をあげてわあわあ喚いてしまえたら楽なのに、どうしようもなく、抱え込むしかない悲しさ、悔しさ、そういう青い感情が内臓に爆発しそうなくらい渦巻いてるんだけど、ぜんぜんそれが出て行く量に追いついてなくて、苦しんでる感じ。
諏訪部順一、空を仰いだんだよな、ここで。心を抱え込むような絶叫を想像していたんだけど、祈るように、神を責めるかのように、顎を上げて泣くテオドルス・諏訪部・ゴッホ…ちなみに原作でもこうして泣いています…

・そんなシーンのあと、弟・テオドルスへ書いた手紙を読む浜田賢二の、痛いほどやさしくまっすぐな演技が、泣けすぎる。おだやかな希望を湛えて、ひたむきに、つよく、見据えている。決意に満ちているのに、静かで、心は凪いでいる。この声に、会場の空気が一気に、静かに、泣いたのが分かった。「テオ」と何度も呼びかけるその声がやさしく、あどけなさすぎる、兄なのに、すべての信頼を弟に寄せるみたいに…いとしすぎる…
弟に、久しぶりに会えるのを楽しみにしている、と書いた手紙の〆に、「フィンセントより」って自分の名を言うんだけど、これがほんとうに心から嬉しそうに弾んだ声で言うもんで、情緒が、崩壊した…

・11話。テオドルスは兄の人生のシナリオをある戯曲家に依頼する。ジャン・サントロ。フィンセントの絵を見た瞬間、「どうした、サントロ」泣いてるぞ。ここの演出もまた最高だった。演劇の、生の舞台のダイナミズム。琴線、という言葉を思いながら観てた。バイオリンに乗って加速する物語。衝撃からくる様々な感情が入り混じり、叫びだしたくなるような激情が、静かに執拗に、サントロのなかに熟していく。
「金なんかいらねえよ」「こんな面白い仕事はない」
目に浮かぶ涙を振り払うように、鮮明に見たいその絵を滲ませる視界を悔しがるように、慟哭を抑えながら、感動を口走る。台詞を紡ぐ、なんて穏やかなものではない、情動の乱れ。
三木眞一郎の憑依の仕方は凄まじい。ここでも暗転後目頭を摘まんでいたよ…
そして諏訪部順一の音楽感覚はやっぱり素晴らしすぎる!バイオリンが鳴り、あのタイミングで入ってこられるの、なんていうか、長縄跳びがうまい、みたいな(伝われ)、サントロにフィンセントの絵を見せるシーン、「天才の絵だ」からの、バイオリンが入り、「人々の興味を引く画家の人生は〜」のところ、ほんとうに気持ち良すぎる…この三連符めいたテンポ、走り出した音楽とともに歌うように前のめりな加速!
あの加速あった後の高揚に三木眞一郎の演技がハマったような気がして、気が気を呼んだ感じで、すごかった…

・ラスト、12話。
「行こう、テオ、僕と一緒に」
「ああ、ずっと一緒だ、兄さん」
幼き日の兄弟の記憶。男の勲章だと言って背中に傷をつくったテオドルスの隣に、すこし背の高い、兄・ゴッホが描き足されていく。

ステージ奥の絵画に描かれる”FIN…”の文字を4人の演者は振り返ってまなざす。弦の余韻が終わる。暗転。

『かなしみはちからに、慾りはいつくしみに、いかりは智慧にみちびかるべし』
宮沢賢治は言ったけど、そういうふうに、暗がりまで愛せるひとが好きだ。孤独や悲哀までうつくしく、絶望を原動力にできる。ゴッホもまたそうだったんだと思う。この作品に出会えてよかった。ありがとう。
R.I.P. to “bon,au revoir Sorcier”.

『リトルマーメイド』を観た

四季劇場・夏にて「リトルマーメイド」観てきました。ツイにも少々書いたけど以下レビューです。

わたくしの観たキャストはたぶんこう

・個人的には上川エリック観たいという希望を抱いていたんですが(ユタを見たときにオッこれはとなった)飯田エリックのギラっと感は若い王子めいててよかった。CDキャストが上川一哉なので後にふた通りの聴き比べをできてるんですが飯田王子には威勢の良い果敢なつよさ、上川王子には穏やかに佇むしたたかさがあり、ふたりともに共通するのは内に秘めた熱いこころやまっすぐさがある、という感じ。実際観たの飯田達郎のみだけれども。上川さん、ユタとぜんぜん違うな、こんな変わるのか。キャラで雰囲気変わるのおもしろいなー。
セバスチャンが飯野おさみさんで俺得、ジャニーズ(元祖)なので舞台人というよりエンターテイナーである。芸が細かいというか行き渡ってる。
歌ウマというか好きな声なのは海蛇の背が小さいほう(平田郁夫)。
アースラー(原田真理)とかやっぱヴィランズは演技力ないとできないんだろうなと思う。
フランダー(嶋野達也)は萌えキャラ(個人的に観ててニマニマしたのフランダーだった)。フランダーさいごピンク色の女の子連れててオーッお前も幸せになったかー!そうだよなー!お前は幸せにならなきゃダメだよなー!(心の声)と自分のなかで話題に。自分のこと棚に上げて好きなひとの幸せを願って協力までしちゃう系キャラは幸せになって終わってくれないとダメ!
MVPはシェフ(清水大星) 、シェフヤバい!!!厨房のシーンは終始腹痛かった。別にこのシーンおもしろいことは特に言えないんですよ、台詞決まってるし。けど演じ方でこれだけおもしろいひと久しぶりにみた。仕草と表情と歌い方。すごい。これ驚いたのがプログラム見てたらこのひとエリックもやってるということですがエリック?エリック?!見たすぎるだろ。プリンスもやりながらこのハジけ方できるの完全にヤバいでしょ…このひとが舞台出てるときは他のキャストの表情伺ってしまう。絶対に笑い堪えてるひといるだろ。みんな完璧な演技顔だったけど。慣れってマジこわい。

・劇団四季大人になってから劇場で観たのたぶん初なんですけど、これも案の定、線で観たくなってしまった。小さい頃は考えずに感じているだけで構成とか裏のことなんも考えなかったけど今はそういうことばかり考えてしまいます、よね(付加疑問文)?あの頃はアリエルはアリエルだと思ってたからなあ…文体という概念がなかったので一役に何人もキャストいるとか思いもよってなかったです。しかし、いまは大人なので、キャストの違いでも楽しみたいしキャスト一人ひとりにもハマりたいし恐ろしい沼を目前に立ち眩んでいるところ。

・改めて劇団四季は大衆〜!という感じがした。コストの掛かり方。潤沢。舞台装置がすごい。ハード(↔︎ソフト)がつよい。そして転換のうまさ。暗転なしってすごくないですか。覚えてる限り暗転なかった。ような気がする。小劇場演劇と違ってミュージカルをやるにはやっぱり舞台も広いことだし、マイムじゃなくモノや背景や衣装は存在していたほうがいいわけですね、だからモノを場面ごとに動かす作業が必要で、もうこれはお家芸でしょ。気付かないうちになんとなくシーンが入れ替わっている。

・エリックが海に落ちたときの演出が超うつくしかったなーと思う。幕とか使ってあの水の浪々とした光の澱、虹の網のようなものを映して、なんかめちゃくちゃ、推進力、と思った。物語の、舞台の、進行する推進力がヤバい。馬力がある。有無を言わせない感じ。理屈じゃない。やっぱり素晴らしいものは素晴らしいんだなってめちゃくちゃ思う。

・劇団四季の特徴ですよね、この理屈じゃなさ、夢見加減のヤバさ。現実逃避というより現実忘却というか。右脳演劇って呼んでるんですけど(呼んでない)。まずディズニー作品である、物語そのものがつよい、音楽そのものがよい、など、全体的にコストが既にでかいというのがあり、それは力技なんだけれども、それに加え照明とか演技とかの味付けがあってあの容赦ないダイナミズムを生むんですよね。やっぱり前を向いてはっきり喋る、しっかり屈強な肉体で立つ、という大仰な演劇というのもあっていいというかあるべきである。あれこそカタルシスという感じがする。考えない演劇。本能演劇。

・音楽の良さをさっき挙げましたけど、やっぱりアラン・メンケンは天才だということ。アンダーザシーとかなにも悲しいことないのに泣いちゃうもんね。情動がヤバい。高揚感に圧倒されるというか、夢みているような気分ってこういうことなんだなと思う。内臓が疼く感じ。音楽のちからってこういうもんだよ。バックホーンも誰もがみんな幸せなら歌なんて生まれないって言ってるし。星野源も生まれ変わりがあるのなら人は歌なんて歌わないさって言ってるし。
音楽のことでもう一個言えば、ピクサーばかりになってからというものミュージカルを見なくなったけど、アナ雪が流行ったのって歌があるからなんじゃないかと思った。歴史とか系譜とか知らないけど、そういやさいきん歌ってるディズニーアニメ見ないなと思った。歌があればそこに楔が打たれて物語は忘れられないじゃないですか、現に久々にリトルマーメイド見たけど、こんな物語だったっけ?という感じで結末すらあんまり覚えてない。でも歌は流れれば反応してアレだ!と思うしやっぱりこどもが楽しいのって音楽だよなあと思うので(エンタの神様がこどもにウケてたのって多分そういうことだろう)歌は超大事。

・劇場は春秋しかたぶん行ったことないので夏のキャパにビビった。観たの3列目だったのでぜんぜんアレなんだけど。

ぜんぜんレビューになんなかったな。いろいろいい場面は山ほどあったけどそれはレポートなのでリトルマーメイドを観て発生した私的感想だけ。
この文章に「やっぱり」の多さが見受けられ、畢竟、劇団四季はすごい・改(アラタメ)という感想だった。こうして再確認したのとは別に自分のなかのおたく性を発見した後の初観劇ということでやっぱりナマはいいねー&文体論最高というはなし。

マーシー・シート

舞台『マーシー・シート』を観てきたので詩情がダダ漏れになって書いた、しっちゃかめっちゃかなとても長いブログです。一応書いとくとこれはレポートではないし、括弧内はまったく台詞通りというわけではないのであしからず

ここに記すのは、書く者や演ずる者のこころではなく、わたしのこころのはなしであって、この舞台がどんなことを描いたものかとか、そんなのはわからない。観て、感じたことの羅列であって、決定的なものじゃないです
鏡のような舞台だった。いま、この4月の五日間に、なにが上演されたのか。

いやな物語。風景。灰色の雪。
「ねえ、2月みたいだ」
全部が終わって、目が覚めて、外を見たら、まるで真冬みたいなんだ。
ワールド・トレード・センターの亡骸を眺める2人は、偶然、あそこに居なかっただけである。

この舞台は最高に演劇的だった。
この舞台には、「演劇をやっている身体」以外に、「演劇をやっている行為をやっている身体」が発生していた。
というのも。公演期間中に地震が起きました。
熊本、震度7。
これを今、観るということが、この作品が、上演されるということが、どれだけ演劇的なことなのか。
そして、それだけでなく、「声優」がこれをやるということ。舞台に居たのは「俳優」でした。紛れもなく。「声優」という記号がうまく使われていて、だからわたしは身体のことについて考えざるを得なかった。見事に記号に踊らされて、たまらなく演劇的だと思いました。興奮した!

この舞台について、三木さんのインタビューがある。

舞台も声優の仕事も、「役を借りる」部分に関しては、肉体の使い方は全く同じだと三木眞一郎は言うが、しかし、それらは「似て非なるもの」であるとも言っておられる。
曰く、声の仕事のときも当然肉体を使ってはいるが、声優の演技と俳優の演技について、図像の見た目通り自分の肉体を動かして使えるかどうかという違いがある、とのこと
声優が使う肉体の使い方は、声を任された人物の動きを「再現する」ための肉体であり、いわば容れ物である。舞台では役の人物の動きをそのまま再現するが、声優はマイク前では実際にそれをする動きをそのまま再現できない。よって声優は、その状態を再現する筋肉を、マイク前で台本を持っている状態で動かせれば、止まった状態でよりリアルな声が発声できる。それが声優と、映像とか舞台の人の肉体の使い方の差、だと

ここで思うのは、俳優でも声優でもやっぱり三木さんは自身の「内面」を演技に持ち込まないということだ。仕事のスケジュールもきちんと声優業を優先にしつつ、「役を借りる」と言い切る彼は、とても声優という感じで最高ですかよ……

三木眞一郎は境界に居ない。
三木眞一郎が三木眞一郎であることは「声優」にとっては必要なく、キャラクターと自己の比率は100:0に近いんだろうな。たぶん。自分がキャラクターになるのではなく、キャラクターを自分にするのでもなく、それらに折り合いをつけて中和するのでもなく。そのどれをとったところで虚構の純粋さは保てない。それを知った上で、三木眞一郎の在り方がある。「借りる」という言い方は、その主体が自分になるということだ。しかし「役を借りる」と言った三木さんは自己をキャラクターに押し付けない。むしろ退こうとする。このように押しては引いたところで中間に立つこともなく、この複雑な乖離を大事に抱えたまま三木眞一郎の声のある虚構は成立する。この不可能性に満ちた曖昧な駆け引きが虚構を虚構として違和感なく成り立たせているのだと思う。なかなか難しい闘争だ。

ただ、言葉の定義の難しさというのはあるんだけど、再現するための肉体、というのは俳優においても言えることである。俳優もカメラの前、舞台の上などで役の再現をするわけである。ただ、やっぱり明確に違うのはそこに自己があるかどうかということだ。声は肉体がなければ存在することのできないものである。役が黙ったとき、目の前にいるそのキャラクターは果たして誰なのか。俳優は黙る。黙ればその空間には静かに肉体がある。声優が黙るとき、その肉体は声を取り戻し、完全体になるとして、空になるキャラクターのどこにしがみつけばよいのか。
(でも三木さん、沈黙が上手かった…「沈黙がうるさい」というあの状態が続いたときめちゃくちゃグッときた…)
声優における演技というのは、たぶん、その場面における肉体の在り方のアイデンティティを増幅すること(よりそれっぽくする、声からその場面における肉体の在り方を想起できる)であるのに対して、俳優においては、声の表情は二の次で、その場面における肉体をありのまま、存在させることなんだろうと思う。でもまあ、キャラクターに声をあてることはそこに感情を込めるということなので、声を持つ本人が見えているか見えていないか、どこに立っているかの違いだけだとは思うんだけど。要するに感情の分配のはなしということかな、どこに比重を置くかによって表現を考える。だから舞台の上では、自由な身体を手に入れたはずなのに、持て余す。見られる身体・客体であることを意識をすることで、ソファから立ち上がるたびに無意識にシャツの裾を直す。何度も腕を捲る。
あ、不自由だ、と思った。
だって身体の動きは不随意的なものなので。例えば、いま、あなたの身体を隅々まで点検してみてください。足の指が丸まっていたり、腹に力が入っていたり、脚をぶらぶらさせていたりする。これは考えてやってることじゃないというのがわかる。だから考えると、自分の身体がめちゃくちゃ邪魔なことに気付く。どうやって歩くか、走るかなんて考えないし。本来反射的に脳からきてる指令を、無理やり演じるということは、なかなか難しいことだと思う。
このシャツの裾を直すとか腕を捲る仕草たちは、例えば女の子がスカートの裾を気にするみたいに、食い込んだパンツのゴムをパチンとやるみたいに、自分にとっての不快感を解消するという行為で、だとすれば、こういう仕草がこの居心地の悪い舞台にあるということが、なかなか必然に思えてくる。この不自由さをベンは持っている。だから三木さんは演じようとすることで「ほんとうになる」っていうことになる。発話が自由だから、尚更。見事に役がハマっている…

そして、ベンは窓の外の出来事を見て、言う。
「言葉にならないよ」
「わかってるわ。でもしなきゃ。言ってみて」
言葉って記号だから、例えば「愛」という言葉に思う風景がみんなそれぞれ違うように、ラブレターを書くときに「好き」って言葉なんかいらないように、きちんと自分の言葉で話すことは、難しい。
「ニュースみたい。それは定型文でしょう」
感情が当てはまるからといってクリシェを使えば、どうしてもどこかを省略してしまう。

三木さんの持つ言葉は独特で、だけど、だから、カーテンコールの言葉がきちんと自分の言葉で、たまらなかった。みなさんと空間を共有して、吐き出した呼吸をもう一度吸ってここ(胸)に落とし込んだときに現れる感情がある、と。

というわけで、「ベン・ハーコート」は、声優:三木眞一郎にしかできないんじゃないかと思いました。

っていうのは、この身体と中身の乖離感みたいなものについて演劇的な効果だけでなく作品自体からも考えることができるし、作品自体についてもたくさん考えてしまった

「あなたはいつも後ろから私を愛する。あなたはいつも愛し合ってるとき、そうやる、やられてる、そう、私そういうふうに思っちゃうのよ」
「あなた愛し合ってるとき一度だって私の目を見てくれないの」
「絨毯の品質表示のタグを見ながら、あとはね、リストをつくるの。あたしあの別荘でクリスマスの予定ぜーんぶ立てちゃった。それから、あなたの奥さんにいたぶられることを想像しながら、私あなたに入られてるの」
そう言うアビーに対して、だって俺たち、身体の相性は最高じゃないかって、ベンは言う。
「愛してる。大丈夫」
この関係は不倫である。後ろめたさも感じてる。ときどき、うんざりする。でも、この言葉は嘘じゃない。
「俺が欲しいのは君だよ、アビー」
「俺たちは、同期で会社に入って、狙ってたポストに君が就いた。ただそれだけのことだろう」
「それと、俺は、後ろからするのが、好きなだけ。こう、なんか、近くなれたような感じがするから」
たまたまそうだった、というだけなのに、他人から見たらいろんな偏見になる。ベンは彼女の身体だけで、内面を求めていないのか。そうじゃない。セックスの最中一度も目を合わせなくても、自分はできるだけ何も捨てたくなくても、アビーのことを愛しているのはほんとうだ。
「けどここでは君が男だ」
「だからって君が支配欲にまみれたクソアマになる必要はない」
2人にとっては特別な関係でも、他人から見ればそれは犯罪かもしれない、不倫であり、パワーハラスメントであり、ただならぬことであり、どうでもいいことである。
「実際どうかはわからないけど、彼女、レズビアンに見えるよ。それだけで十分だ」
わたしたちが見るのは、好きなことも嫌いなことも、気持ちよさや、いやな感じも、すべて事実である。だけど、事実は、絶対じゃない。女はどうやっても女だし、男もどうしたって男で、だけど、例えば女がズボンを履くように、男だってスカートを履いてもいい。わたしたちは抗うことができる。事実はいつでも変えられる。
「あなたは、私があなたを愛していると思う?」
「僕は、君を愛してる」
「私はあなたに訊いてるのよ。そうやって他人のことを自分のことにすり替えないで」
例えば、肉体に、正しくセクシャリティや、魂自体が宿っていないこと。自分が自分じゃないような感じ。誰かに深く共感するとき、その人のことを分かったような気になって、まるで、わたしはあなたであるみたいな気になって。
「窓には近づかないほうがいいわ。この辺じゃあなたのことはみんな知ってるんだもの」
「知ってるけど、あなたを、ほんとうに、知っているひとがいると思う?」
「わたしの言ってること、わかる?」
わたしはあなたを愛している。だけど、全部だとは限らない。
どんなことがあっても、わたしたちは無傷な別人である。どんなに干渉しようとしたって、結局は、お前に何がわかるんだってことになる。物理的に身体を繋げたって、結局は、わたしはあなたではない。
「わたしはあなたのために灰を被りながらチーズを買ってきたの。だから食べて」
今、わたしのことを考えていてほしい。とか、その思いは傲慢でしかない。いちばん大変なときに、いちばん大切なことを考えているとは限らない。
当事者/傍観者として、わたしたちは境界にあぶなく立っている。
自我境界の曖昧さ。「演じる」という消極的な服従。この舞台では、そういうものを「声優」が担うことでまたひとつ別のレイヤーが生まれていたと思う。
わたしはあなたではない。
あなたもわたしではない。
わたしたちは互いに他人であり、本来は、ただ等価なはずだった。だけどそこに権力が生まれたとき、崩壊する。それは性別だったり、職位であったりするのだけれど、これらはすべて仕方のないことで、誰が悪いわけでもない。
だからこそ。
「こういうことが起きて、いちばん初めにあなたが言ったのは、これはチャンスだっていうことだったのよ」
「これが素晴らしいって言ってるんじゃないよ。ただ、これは事実だ」
真実は汚い。例えば、悪意のない悪意や、災害、その他諸々理不尽なわけのわからんことがこの世界には平然と存在していて、愛し合ってる2人だとしても毎日がうまくいってるとは限らないし、どうにか今日を、明日を、過ごさなくてはいけない。それがどんなに最悪でも、とりとめがなくても、どうにかしてやっていかなくてはいけない。それはクズでもヒーローでも同じこと。ときどき外で鳴る救急車、突然かかってくる電話の音に、はっと我に返って、思い出す。この隔離されたアパートの一室は、外の世界に繋がっている。目の前にあるこれらは紛れもない事実で、これが生活というものだ。
いくら悲しくてもやりきれなくても、最後にはいつもの夜が来て、いくら今が大変だって、恒例行事は執り行われる。
「ヤンキースが勝って、そしたらアメリカは立ち直るんだ」
「これがアメリカのやり方なんだ」
例えば2020年。ニッポンの栄光にはきっと震災が持ち出されて、悲しみはすり替えられる。
「わたしたち、いま何の話をしているの?」
いろんな出来事が複雑に絡みついて見えなくなってしまった本質。はっきりと理由は言えないけれど、なんとなく、目の前で鳴っている電話にいつまでも出られない。この不安さ、心もとなさ、そこに誰かがいるならば尚のこと。
結局、人間は自分で生きるしかない。ベンはいつか電話を取らなくてはいけない。人生を選ばざるをえない。どんなに酷いやり方でも、その選択が不満でも満足でも、人はそれを自らの意思として引き受けなくてはならない。過去は変えられないし、死ぬまでは未来がある。罪を背負っても、生活は続く。
「そうすべきだ、って言ったんだ」
過去は過去として事実である。変えたり、捨てたりはできない。
“過去によって変えられるものは、今の自分の気持ちだけだ……他人の気持ちや、ましてや命は”
そういう言葉を吐いたことのある身体が、あの舞台に立っているということ。
「芝居をしてるんだ」
ベンはそう言った。
「ラストが台無しになるから」
「これは映画じゃないのよ」
過去を変えようとするとろくなことがない。わたしたちはいくつものフィクションを通り抜けてきたはずなのに、何の教訓も得られない。結局どうなったところで完璧な幸せなんかどこにもないのだ。宮沢賢治は世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ないと言ったけど、それはほんとうにそう。これは愛おしい逆説である。
皆が心地よく暮らすっていうこと。誰もが居心地の悪さを感じている。それはたとえどんなに幸福なセックスのあとでも。2人は不和を抱えている。
誰かがわたしの幸福であるように、わたしが誰かの不幸であるということ。
「わかってる」
「でも、そうじゃない」
「ぜんぶじゃないよ。ときどきだ」
I know that/but/sometimesはすべてがほんとうで、いつでもそのときはそれが正しい。ひとつの質問の答えはイエスのこともあればノーであることもある。ここでイエスを選んだときにノーはただ存在するだけで、否定されるわけではない。アビーは真実を見たがって、その場に留まろうとするベンを連れていこうとする。
「わたしがこう、四つん這いになって、ときどきあなたは、下に降りてくる。自分では上手いと思ってるでしょうけど」
「あなたのやり方が下手って言ってるわけじゃないのよ、でも上手くもないわ」
選択をすれば、選ばなかった道は、まるでなかったみたいになる。ほんとうはそこにあるのに。わたしたちはすぐに忘れてしまう。生きていくために鈍くなる。自分がかわいくなっていく。
「俺は自分を守ってた。これでいい?」
保身をする。逃げる。ときには逃げることすら選ばずに目の前の選択を放棄してしまう。Y字路の分岐点に佇んで、動かない。停泊する。
「チーズ、買ってきたわよ。少し食べる?」
「いや、今は、いい」
またあとにする。そう言って幽霊みたくなってしまったいくつもの他愛ない出来事。
「逃げるんじゃない。ただ立ち去るだけ。俺たち2人が、ただ歩み去るんだ」
「今なら出来る」
突然、誰にも責任のないことが起きて、誰もがその災厄を素直に恨んだ。だからこれはチャンスなんだ。こんなのはいつでもできたはずのこと。それを、いまなら、なにかのせいにできる。2人の関係ないところにある、なにかに。選択すべきことはもうずっと前から分かっていた。だけど、それ以外のこと。なにかを選べば、なにかは捨てられる。これは2人だけのこと。君と、俺と、でも、それ以外のあらゆることが、罪悪として2人に覆い被さるのだ。そうしたい。だけど、できないのは、重要でない他愛もない「事実」が、どうしても胸の柔らかいところから入り込んでくるからだ。麻酔が切れたとき、それらは否応なく心を刺してくる。

どうして皆、笑えるんだろうと思った。
わたしには他人事じゃなかった。この居心地の悪さ。身に覚えのある罪悪。
客が笑っていること。
それはこの物語が自分の身に降りかかるものではないからだ。他人のことだから。
遠くでサイレンが響いている。
2人は当事者であり、無関係である。

ヘッドフォンの向こう側に救いはあるのか

よく声のことを考えることがあって、それは不思議だと思う。身体とは乖離していないけど、していないからこそ、声というのは身体を取り去ったときに残るはずはない。なのにそれ単体だけで存在するように思えることがあって、例えばスピーカーとヘッドフォンをすればそのようになる。
声はかたちがないのに思い出すことができる。感触を知っているような気がする。ことばではなく科白でもなく人格でもなく喋り方でも感情でもなく「声」 その色とかたち 感覚 これはなんだろうって気分になる。クオリアみたいなもんだけど、肉体がなかったら声は存在できないのだし心がなくても発される必要性があまりない。伝えるためのもの、もしくは自分を守るためのもの、相手と関係するためのツール、云々。もちろんそんなことは絶対にないんだけど、アニメとかであれば人間が演技して魂を吹き込んでいくので第六感的なものはやっぱりついてまわるのだけど、最終的に残るのは「声」であってそのとき役者の身体はやはり余ることになる。肉体が余る。その身体性についてどう考えればよいのか。ということを知りたくて舞台「マーシー・シート」を観に行くことを決めました

以前、三木眞一郎さんが自身のサイトに以下のように書いていたことがあってそれにわたしはめちゃくちゃ感動した
舞台「奇跡の人」観劇後の文章である。この舞台の内容はウィキでどうぞ ヘレン・ケラーとサリバン先生のお話である

わたしは小学生のころ朝読書でそれについてのを読んでいたことがあったので舞台の内容はなんとなく分かるが、彼がこの物語をまっとうに感じ、こういう文章をしたためたことがものすごく重要であると思う。

なんで台詞を読みたがるのだろう
そんなもん無駄なんだ
オイラたちが言葉を手に入れた瞬間に失ったモノのなんと多いことか。
伝えるんだ
自分のやりたいコトではなく
声帯を任された人物の言いたいコトを。
聞き取るんだ
くだらない雑談ではなく
記号になっている人たちの言いたいコトを。

誰かに声を付与する という行為への文章としてなにをどう説明してもこの何行かを越えることはできませんでした。あーこれはほんとうにそうだなって心から思った。いいなとか好きだなとか最高だなというよりもなんというか、うわーっていう、嘘だろ、というような静かな衝撃みたいなものがあった

彼は自覚的に記号という概念を持ち込んで作り手がそこに投影した思想を自身へと逆輸入しようとしている。
ほんとうに言葉って邪魔で、例えばそれは椎名林檎が「太陽 酸素 海 風 もう充分だった筈でしょう」と歌うように かたちを与えてしまうから見えなくなるものがたくさんある。Le plus important est invisible. 大切なものは目に見えない。そういうふうに覆われてしまった本質をどれだけ読み取ろうとするか どれだけ伝えようとするか そういうことをこの人はわかっているんだと思った。

声優はキャラクターに声を吹きこむとき「見られる」身体を持たない。どうしても身体はあるのにその肉体が余るという現象が起きてしまう。なぜなら、「声」はキャラクターとは切り離せないものであり、その「声」は肉体をもつ「身体」から発されるものであり、その「身体」はキャラクターが持つものである(ということに最終的になる)からだ。このとき「身体」は容器、容れ物のようなものだと言ってもいい。「声」は容れ物が所有することになっているし、そういうことになってしまうのだが、そのとき演者の肉体が余るのである。と、こういうことをずらずら書いているうちに、あるインタビューを読んだ。2009年のものらしい

三木さん曰く”肉体はいらない”という。皮(がわ)には価値がないのだと。

僕たちは肉体という器に住まわせてもらうことを許されているだけの存在なのかなって思うんです

彼も「器」というけどわたしもすごくこの感覚がわかって、もう二元論として、肉体と精神はばらばらな感じがずっとしてた 流転とかがらんどうっていうことばを信頼してた

自分の肉体と精神が離れそうになることがありますね。意識的に笑顔にしていないと、誰かが僕の中に入り込んできて、ぼくは追い出されてしまう

この乖離感覚。こういうふうに落ち込んだときに肉体を皮(がわ)として意識するようになったという。

三木さんは「演じる」という言葉を使いたがらないらしいが、彼は声優という仕事をパーツだというが、それはやはり「演じる」というと主導権がこちらにあるので、キャラクターを役者に引き寄せる感じになるけどそのニュアンスよりも彼はたぶん役者側がキャラクターに取り込まれる というような感覚を持っているのだと思う。「演じる」よりも「ほんとうになる」という感じなのかな とにかく彼のなかでキャラクターと役者どちらもが完全体であることはなさそう
役者とキャラクターは一見50:50で(というか100:100で 同じ比率で もしくは比較関係ですらなく)存在する。けれど声を付与するとき、中身は、その精神の内訳は、0:100あるいは100:0という配分になっていると思う。

キャラクターへ没入/孤立すること つまり声を主体としてどちらの肉体に立て籠もるのか、みたいなはなし。まあどちらに傾くにせよ、どちらかには傾くのだ。声優というひとたち全員がこういうふうに自分とキャラクターの境界が柔らかいわけではないだろうけど、この細胞壁みたいな境界が不随意に作動してしまうことはなんだか恐ろしい。また必ずしも声優でなくともこういう感覚をわたしは分かるし、あやふやな怯えのようなものをいつも持っている。

ともかく、こういう感覚をきちんと自覚的に持っている人が声優にいるということがどんだけ素晴らしいことなのか。とてつもなくいいなって思ったしそういう精神性ってやはり演技に出てくるものなのだと思う。本当に最高だ
(この乖離感覚というのはBLの諸々にも通ずるところはあるんだけどそれを話し出すとほんとうに混沌とするので、なんかわかるな と思った方、詳しくはとりあえず『大人は判ってくれない』という本を読んでください。これは一般論ではないのかもしれないけど少なくともわたしはめちゃくちゃ共感し、深い感慨を持っているので、この乖離感覚 こういう精神性をもつひとが、腐女子がボーイズラブにはしる感覚に近いものを持ったうえでBLには心があるとか言ってたくさんドラマCDなどに出ておられると思うとほんとうに感動する)

さて 声を吹き込むという行為は、魂を与え、キャラクターを生かすということですが、なにもかもきっぱり分断できず、だからといって同一化するのも間違っている状況ではありますが、ではフィクションという虚構のなかで演じられる(または本物になる)現象について、なにがほんとうなのか。なにをどのように真実にすればよいのか。本物にしてよいのか。フィクションであることのほうがリアリティを濃くするのではないか。という詭弁っぽい疑問について。

アニメという場所でいえば声優はたぶん「自然さ」よりもきわめて演技的な演技を求められているのだろうけど、そりゃ演者のタイプも様々 技術で声をつくるひともいれば演技をすることで人格をつくるひともその他も諸々あるというのは承知の上で、技術だけが必要なのではないというのはわかる。知らないけど。という予測を立てるのは、先述したように声を吹き込むという行為は魂を与えることだからです、感情そのものを投影する行為だから

そのなかで、演者はどこへ向かうのか。

虚構という場所のなかでまず発見するのは、演者が不自由な身体であるということ。決められた台詞と絵が既にあるなかで、演者に託されるのはその記号内容です。声そのものとか喋り方というのはキャラクターの人格を決定づけるものであるから勿論のこと、その言葉のニュアンス、間の取り方 つまり感情というやつですね。演者はそのときやはりキャラクターそのものを任されるのではないか。というとかなり演者が自由なように見えるが、やはり演者自身で動かせるのは決められた記号の範囲内に限られる。そのように演者は、自分の知らない「身体」を新しく与えられることで、否応なしに不自由な身体を持つことになる。

キャラクターに声を入れるという行為において、演者は自分の意識から半ば身を引き離すことになる。それはつまり客観である。キャラクターにログインしつつ乖離する。難しい両立だ。これは無知で頭の悪いわたくしという人間が書いているので尚更、この闘争が可能であるのか、またこの闘争が存在しているのかはともかく、客観するということは没頭しないことであり、それはやはり真実を見ようとすることなのだと思う。ここで完全に切り離してしまうと、それは客観ではなく無関係になる。無関係ではなく客観。鳥瞰。こういう関係を浅田彰は「シラケつつノる」と言ったがそういうことだろう。この行為そのものが問いかけなのであり生きるということだとわたしは感じ、これはれっきとした「表現」である、そしてこの行為をとりまくものすべてひっくるめて「思想」であるのだなと考えた。

「声」というのはなんだろうか。「声」をあげるひとたちというのは何者だろうか。そしてそこにある意図とは、そこに暗渠になっているものとは。
いままでまったくよく知らなかった世界のうえにわたしは立っている。なにも知らない。アニメは小学生が見るものだと思ってた。それなのにいま、ただ2次元という虚構がひたすらに愛おしい。例えば、三木眞一郎という人が好きなのか三木眞一郎の出す声が好きなのか三木眞一郎の声をしてるキャラクターが好きなのかわたしはわからない。けれどそこに断絶がないように、友情とか恋情とか依存とか執着が似ているように、好きなのか嫌いなのかよりもなにか特別であるといった感情をうまく説明できないように、ただしさは据え置いて、こういう在り方が、ただ、あるのだと思う。彼の声をわたしの意識下から浮上させたのはBLのドラマCDだけど、その水面に見たのは、愛おしい声の、知らない誰かの姿だった。