マーシー・シート

舞台『マーシー・シート』を観てきたので詩情がダダ漏れになって書いた、しっちゃかめっちゃかなとても長いブログです。一応書いとくとこれはレポートではないし、括弧内はまったく台詞通りというわけではないのであしからず

ここに記すのは、書く者や演ずる者のこころではなく、わたしのこころのはなしであって、この舞台がどんなことを描いたものかとか、そんなのはわからない。観て、感じたことの羅列であって、決定的なものじゃないです
鏡のような舞台だった。いま、この4月の五日間に、なにが上演されたのか。

いやな物語。風景。灰色の雪。
「ねえ、2月みたいだ」
全部が終わって、目が覚めて、外を見たら、まるで真冬みたいなんだ。
ワールド・トレード・センターの亡骸を眺める2人は、偶然、あそこに居なかっただけである。

この舞台は最高に演劇的だった。
この舞台には、「演劇をやっている身体」以外に、「演劇をやっている行為をやっている身体」が発生していた。
というのも。公演期間中に地震が起きました。
熊本、震度7。
これを今、観るということが、この作品が、上演されるということが、どれだけ演劇的なことなのか。
そして、それだけでなく、「声優」がこれをやるということ。舞台に居たのは「俳優」でした。紛れもなく。「声優」という記号がうまく使われていて、だからわたしは身体のことについて考えざるを得なかった。見事に記号に踊らされて、たまらなく演劇的だと思いました。興奮した!

この舞台について、三木さんのインタビューがある。

舞台も声優の仕事も、「役を借りる」部分に関しては、肉体の使い方は全く同じだと三木眞一郎は言うが、しかし、それらは「似て非なるもの」であるとも言っておられる。
曰く、声の仕事のときも当然肉体を使ってはいるが、声優の演技と俳優の演技について、図像の見た目通り自分の肉体を動かして使えるかどうかという違いがある、とのこと
声優が使う肉体の使い方は、声を任された人物の動きを「再現する」ための肉体であり、いわば容れ物である。舞台では役の人物の動きをそのまま再現するが、声優はマイク前では実際にそれをする動きをそのまま再現できない。よって声優は、その状態を再現する筋肉を、マイク前で台本を持っている状態で動かせれば、止まった状態でよりリアルな声が発声できる。それが声優と、映像とか舞台の人の肉体の使い方の差、だと

ここで思うのは、俳優でも声優でもやっぱり三木さんは自身の「内面」を演技に持ち込まないということだ。仕事のスケジュールもきちんと声優業を優先にしつつ、「役を借りる」と言い切る彼は、とても声優という感じで最高ですかよ……

三木眞一郎は境界に居ない。
三木眞一郎が三木眞一郎であることは「声優」にとっては必要なく、キャラクターと自己の比率は100:0に近いんだろうな。たぶん。自分がキャラクターになるのではなく、キャラクターを自分にするのでもなく、それらに折り合いをつけて中和するのでもなく。そのどれをとったところで虚構の純粋さは保てない。それを知った上で、三木眞一郎の在り方がある。「借りる」という言い方は、その主体が自分になるということだ。しかし「役を借りる」と言った三木さんは自己をキャラクターに押し付けない。むしろ退こうとする。このように押しては引いたところで中間に立つこともなく、この複雑な乖離を大事に抱えたまま三木眞一郎の声のある虚構は成立する。この不可能性に満ちた曖昧な駆け引きが虚構を虚構として違和感なく成り立たせているのだと思う。なかなか難しい闘争だ。

ただ、言葉の定義の難しさというのはあるんだけど、再現するための肉体、というのは俳優においても言えることである。俳優もカメラの前、舞台の上などで役の再現をするわけである。ただ、やっぱり明確に違うのはそこに自己があるかどうかということだ。声は肉体がなければ存在することのできないものである。役が黙ったとき、目の前にいるそのキャラクターは果たして誰なのか。俳優は黙る。黙ればその空間には静かに肉体がある。声優が黙るとき、その肉体は声を取り戻し、完全体になるとして、空になるキャラクターのどこにしがみつけばよいのか。
(でも三木さん、沈黙が上手かった…「沈黙がうるさい」というあの状態が続いたときめちゃくちゃグッときた…)
声優における演技というのは、たぶん、その場面における肉体の在り方のアイデンティティを増幅すること(よりそれっぽくする、声からその場面における肉体の在り方を想起できる)であるのに対して、俳優においては、声の表情は二の次で、その場面における肉体をありのまま、存在させることなんだろうと思う。でもまあ、キャラクターに声をあてることはそこに感情を込めるということなので、声を持つ本人が見えているか見えていないか、どこに立っているかの違いだけだとは思うんだけど。要するに感情の分配のはなしということかな、どこに比重を置くかによって表現を考える。だから舞台の上では、自由な身体を手に入れたはずなのに、持て余す。見られる身体・客体であることを意識をすることで、ソファから立ち上がるたびに無意識にシャツの裾を直す。何度も腕を捲る。
あ、不自由だ、と思った。
だって身体の動きは不随意的なものなので。例えば、いま、あなたの身体を隅々まで点検してみてください。足の指が丸まっていたり、腹に力が入っていたり、脚をぶらぶらさせていたりする。これは考えてやってることじゃないというのがわかる。だから考えると、自分の身体がめちゃくちゃ邪魔なことに気付く。どうやって歩くか、走るかなんて考えないし。本来反射的に脳からきてる指令を、無理やり演じるということは、なかなか難しいことだと思う。
このシャツの裾を直すとか腕を捲る仕草たちは、例えば女の子がスカートの裾を気にするみたいに、食い込んだパンツのゴムをパチンとやるみたいに、自分にとっての不快感を解消するという行為で、だとすれば、こういう仕草がこの居心地の悪い舞台にあるということが、なかなか必然に思えてくる。この不自由さをベンは持っている。だから三木さんは演じようとすることで「ほんとうになる」っていうことになる。発話が自由だから、尚更。見事に役がハマっている…

そして、ベンは窓の外の出来事を見て、言う。
「言葉にならないよ」
「わかってるわ。でもしなきゃ。言ってみて」
言葉って記号だから、例えば「愛」という言葉に思う風景がみんなそれぞれ違うように、ラブレターを書くときに「好き」って言葉なんかいらないように、きちんと自分の言葉で話すことは、難しい。
「ニュースみたい。それは定型文でしょう」
感情が当てはまるからといってクリシェを使えば、どうしてもどこかを省略してしまう。

三木さんの持つ言葉は独特で、だけど、だから、カーテンコールの言葉がきちんと自分の言葉で、たまらなかった。みなさんと空間を共有して、吐き出した呼吸をもう一度吸ってここ(胸)に落とし込んだときに現れる感情がある、と。

というわけで、「ベン・ハーコート」は、声優:三木眞一郎にしかできないんじゃないかと思いました。

っていうのは、この身体と中身の乖離感みたいなものについて演劇的な効果だけでなく作品自体からも考えることができるし、作品自体についてもたくさん考えてしまった

「あなたはいつも後ろから私を愛する。あなたはいつも愛し合ってるとき、そうやる、やられてる、そう、私そういうふうに思っちゃうのよ」
「あなた愛し合ってるとき一度だって私の目を見てくれないの」
「絨毯の品質表示のタグを見ながら、あとはね、リストをつくるの。あたしあの別荘でクリスマスの予定ぜーんぶ立てちゃった。それから、あなたの奥さんにいたぶられることを想像しながら、私あなたに入られてるの」
そう言うアビーに対して、だって俺たち、身体の相性は最高じゃないかって、ベンは言う。
「愛してる。大丈夫」
この関係は不倫である。後ろめたさも感じてる。ときどき、うんざりする。でも、この言葉は嘘じゃない。
「俺が欲しいのは君だよ、アビー」
「俺たちは、同期で会社に入って、狙ってたポストに君が就いた。ただそれだけのことだろう」
「それと、俺は、後ろからするのが、好きなだけ。こう、なんか、近くなれたような感じがするから」
たまたまそうだった、というだけなのに、他人から見たらいろんな偏見になる。ベンは彼女の身体だけで、内面を求めていないのか。そうじゃない。セックスの最中一度も目を合わせなくても、自分はできるだけ何も捨てたくなくても、アビーのことを愛しているのはほんとうだ。
「けどここでは君が男だ」
「だからって君が支配欲にまみれたクソアマになる必要はない」
2人にとっては特別な関係でも、他人から見ればそれは犯罪かもしれない、不倫であり、パワーハラスメントであり、ただならぬことであり、どうでもいいことである。
「実際どうかはわからないけど、彼女、レズビアンに見えるよ。それだけで十分だ」
わたしたちが見るのは、好きなことも嫌いなことも、気持ちよさや、いやな感じも、すべて事実である。だけど、事実は、絶対じゃない。女はどうやっても女だし、男もどうしたって男で、だけど、例えば女がズボンを履くように、男だってスカートを履いてもいい。わたしたちは抗うことができる。事実はいつでも変えられる。
「あなたは、私があなたを愛していると思う?」
「僕は、君を愛してる」
「私はあなたに訊いてるのよ。そうやって他人のことを自分のことにすり替えないで」
例えば、肉体に、正しくセクシャリティや、魂自体が宿っていないこと。自分が自分じゃないような感じ。誰かに深く共感するとき、その人のことを分かったような気になって、まるで、わたしはあなたであるみたいな気になって。
「窓には近づかないほうがいいわ。この辺じゃあなたのことはみんな知ってるんだもの」
「知ってるけど、あなたを、ほんとうに、知っているひとがいると思う?」
「わたしの言ってること、わかる?」
わたしはあなたを愛している。だけど、全部だとは限らない。
どんなことがあっても、わたしたちは無傷な別人である。どんなに干渉しようとしたって、結局は、お前に何がわかるんだってことになる。物理的に身体を繋げたって、結局は、わたしはあなたではない。
「わたしはあなたのために灰を被りながらチーズを買ってきたの。だから食べて」
今、わたしのことを考えていてほしい。とか、その思いは傲慢でしかない。いちばん大変なときに、いちばん大切なことを考えているとは限らない。
当事者/傍観者として、わたしたちは境界にあぶなく立っている。
自我境界の曖昧さ。「演じる」という消極的な服従。この舞台では、そういうものを「声優」が担うことでまたひとつ別のレイヤーが生まれていたと思う。
わたしはあなたではない。
あなたもわたしではない。
わたしたちは互いに他人であり、本来は、ただ等価なはずだった。だけどそこに権力が生まれたとき、崩壊する。それは性別だったり、職位であったりするのだけれど、これらはすべて仕方のないことで、誰が悪いわけでもない。
だからこそ。
「こういうことが起きて、いちばん初めにあなたが言ったのは、これはチャンスだっていうことだったのよ」
「これが素晴らしいって言ってるんじゃないよ。ただ、これは事実だ」
真実は汚い。例えば、悪意のない悪意や、災害、その他諸々理不尽なわけのわからんことがこの世界には平然と存在していて、愛し合ってる2人だとしても毎日がうまくいってるとは限らないし、どうにか今日を、明日を、過ごさなくてはいけない。それがどんなに最悪でも、とりとめがなくても、どうにかしてやっていかなくてはいけない。それはクズでもヒーローでも同じこと。ときどき外で鳴る救急車、突然かかってくる電話の音に、はっと我に返って、思い出す。この隔離されたアパートの一室は、外の世界に繋がっている。目の前にあるこれらは紛れもない事実で、これが生活というものだ。
いくら悲しくてもやりきれなくても、最後にはいつもの夜が来て、いくら今が大変だって、恒例行事は執り行われる。
「ヤンキースが勝って、そしたらアメリカは立ち直るんだ」
「これがアメリカのやり方なんだ」
例えば2020年。ニッポンの栄光にはきっと震災が持ち出されて、悲しみはすり替えられる。
「わたしたち、いま何の話をしているの?」
いろんな出来事が複雑に絡みついて見えなくなってしまった本質。はっきりと理由は言えないけれど、なんとなく、目の前で鳴っている電話にいつまでも出られない。この不安さ、心もとなさ、そこに誰かがいるならば尚のこと。
結局、人間は自分で生きるしかない。ベンはいつか電話を取らなくてはいけない。人生を選ばざるをえない。どんなに酷いやり方でも、その選択が不満でも満足でも、人はそれを自らの意思として引き受けなくてはならない。過去は変えられないし、死ぬまでは未来がある。罪を背負っても、生活は続く。
「そうすべきだ、って言ったんだ」
過去は過去として事実である。変えたり、捨てたりはできない。
“過去によって変えられるものは、今の自分の気持ちだけだ……他人の気持ちや、ましてや命は”
そういう言葉を吐いたことのある身体が、あの舞台に立っているということ。
「芝居をしてるんだ」
ベンはそう言った。
「ラストが台無しになるから」
「これは映画じゃないのよ」
過去を変えようとするとろくなことがない。わたしたちはいくつものフィクションを通り抜けてきたはずなのに、何の教訓も得られない。結局どうなったところで完璧な幸せなんかどこにもないのだ。宮沢賢治は世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ないと言ったけど、それはほんとうにそう。これは愛おしい逆説である。
皆が心地よく暮らすっていうこと。誰もが居心地の悪さを感じている。それはたとえどんなに幸福なセックスのあとでも。2人は不和を抱えている。
誰かがわたしの幸福であるように、わたしが誰かの不幸であるということ。
「わかってる」
「でも、そうじゃない」
「ぜんぶじゃないよ。ときどきだ」
I know that/but/sometimesはすべてがほんとうで、いつでもそのときはそれが正しい。ひとつの質問の答えはイエスのこともあればノーであることもある。ここでイエスを選んだときにノーはただ存在するだけで、否定されるわけではない。アビーは真実を見たがって、その場に留まろうとするベンを連れていこうとする。
「わたしがこう、四つん這いになって、ときどきあなたは、下に降りてくる。自分では上手いと思ってるでしょうけど」
「あなたのやり方が下手って言ってるわけじゃないのよ、でも上手くもないわ」
選択をすれば、選ばなかった道は、まるでなかったみたいになる。ほんとうはそこにあるのに。わたしたちはすぐに忘れてしまう。生きていくために鈍くなる。自分がかわいくなっていく。
「俺は自分を守ってた。これでいい?」
保身をする。逃げる。ときには逃げることすら選ばずに目の前の選択を放棄してしまう。Y字路の分岐点に佇んで、動かない。停泊する。
「チーズ、買ってきたわよ。少し食べる?」
「いや、今は、いい」
またあとにする。そう言って幽霊みたくなってしまったいくつもの他愛ない出来事。
「逃げるんじゃない。ただ立ち去るだけ。俺たち2人が、ただ歩み去るんだ」
「今なら出来る」
突然、誰にも責任のないことが起きて、誰もがその災厄を素直に恨んだ。だからこれはチャンスなんだ。こんなのはいつでもできたはずのこと。それを、いまなら、なにかのせいにできる。2人の関係ないところにある、なにかに。選択すべきことはもうずっと前から分かっていた。だけど、それ以外のこと。なにかを選べば、なにかは捨てられる。これは2人だけのこと。君と、俺と、でも、それ以外のあらゆることが、罪悪として2人に覆い被さるのだ。そうしたい。だけど、できないのは、重要でない他愛もない「事実」が、どうしても胸の柔らかいところから入り込んでくるからだ。麻酔が切れたとき、それらは否応なく心を刺してくる。

どうして皆、笑えるんだろうと思った。
わたしには他人事じゃなかった。この居心地の悪さ。身に覚えのある罪悪。
客が笑っていること。
それはこの物語が自分の身に降りかかるものではないからだ。他人のことだから。
遠くでサイレンが響いている。
2人は当事者であり、無関係である。

キャラの思考法 メモ

『キャラの思考法:現代文化論のアップグレード』さやわか(2015)青土社.

・「きれいな偶像性」
…「実体」のないアイドル(虚構性)←ファンの自給自足
=理想のアイドル像
初音ミクの「声と絵の分かちがたさ」p.26
“言葉はだけがある場所には時間が流れていないし、声も存在しない。”
・音響派:曲や演奏として以前に「音そのもの」、「聴くこと」について自覚的になる
p.38「作りもの」であるアイドル↔︎「アーティスト」(自分で作詞作曲すること)
…「作りもの」は演じる
90’s:内面と表層をいったん分離した上で、それらの一致を見出す(内面は隠されているという心理主義的な価値観)
“引きつったような笑い”
キャラ(演じられる)/キャラクター(設定の束)
「演劇をやっている身体」
「演劇をやっている行為をやっている」←ゼロ年代以降のアイドル
p.92 【言葉と声、空間と関係】
p.94 アニメを私がみることによって私の中に彼女が存在するようになる
=図像の中に空間はなく、キャラクターと我々の間にこそ空間が生まれる
固有のキャラクターというのはありえなく、キャラクターはたくさんの私の中で内面化・複数化される
私との境界、私という内面、私という鏡
p.157 選択とは何か。…(中略)…選択それ自体は善悪を越えてしまう。また我々が何かを選ぶとき、その外部には選ばなかったやり方がまるで幽霊のように、ただ同時に存在している。
自分のやり方を自分で選択していかなくてはならないが、それが不満でも満足でも、それを自らの意思として引き受けなくてはならない
アニメ…記号性の追求が本質である表現→オタク文化
(オタク=一般的ではない記号の内容を知っている人、みたいなことだ)
Y字路という選択
ガラス、水、鏡という 歪めるレンズ(フィルター)←ガラス、カメラ、モニター
p.212 “キャラ図像”と”キャラ人格”
キャラ図像あっての「人格」…受容者の側で生まれる時間的な連続性が生成する(=キャラが時間を持つ状態)
・実存モデル
①「ほんとうの自分」という確固とした同一性」90’sのアイデンティティ像、近代的自我)
②「キャラ変」できる自我(時間的な推移によって)、キャラは書き換え可能であり、彼らが本来的に持つとされる一貫した内面は問題にされない