イヴステぼんやり考




今回はもうだいたいツイッターに書いたので、マジの編集後記っていうか、あとがきブロゴです。

例によってツイ備忘録は「@so_lar_is since:2022-12-24 until:2022-12-25」な。

今回はあんまり舞台そのものについて、あと役者についてはもうぜんぜん語らない。ていうのも、なんかそもそもが、刺さらなかったんだ。刺さらなかったっていうのかなあ、なんか「いうことなし」っていう感じがいちばん近い。だからそのものの感想はツイッターで言い切ったというか。舞台がよくなかったとかではマジでまったくなく、むしろ原作は大学生のときに観てて印象に残ってるほうの作品だったし、舞台化での設定や物語の落とし込み方も唸ったし、演出(というか画づくり)のしかたもすきだった。博品館劇場に足を踏み入れて、わりとストイックな舞台装置、客入れのBGMも無し、役者もみんないい、最高。劇場を出たあとも、つまんないという感想は一切持たなかった。だからなんでこんなにも自分の感想がうっす〜いのかということを年末ぼんやりしながら考えていた。考えて、やっぱり観てよかったな、って思った。作品本編以外のところへ連れて行ってくれる作品は、いい作品なんす。例外なく。


『イヴの時間』のサビはけっこうよくわからない。いやそんなものなくていいし、テーマとかそういうんじゃなくて作ったと思うんだよ。実際『イヴの時間』の企画は最初、どこからスタートしたんですか?』というインタビューの質問で監督said,『喫茶店の中と外を描いて“思春期レベルのブレードランナー”をやったらどうかと。』って言っていた

ブレランでは恋におちた2人はどちらもレプリカント(アンドロイド)だった。でものちにその赤子が『奇跡』として産まれるんだけど。まあそれはいいとして。

イヴの時間はなんつーか、恋愛もの未満だし、リクオとサミィはどうもこうもなったりしない。
リクオが主人公だけど、リクオはけっこうドリ系を否定しながらも困惑しながらも自分がロボットに情を持つことをふつうに受け入れてく。「コーヒー美味しいよ」「ありがとう」と言えてしまうし、対人間へのディスコミュニケーションの不満っていうか。嘘つかれた、なんで、言いたいことあったら言ってくれ。ふたりの関係はピアノへ結実する。でも一方でだよ。平気なふりしつつ、なかば茶化しつつ、マジでシリアスな感情を持ってたのはマサキのほうだ。淡々とすすんでく『イヴの時間』っていう作品のサビを強いていえば?っていうなら、テックスとのシーンがけっこうサビなんだろうなと思ってるんだけど。

人間は物に心を宿してしまう。「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」ではない。「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?と、人間は思ってしまう」だ。

アニメ版のテックスの顔。経年劣化かなんかで目頭からすーっと下へ線が伸びてる。それが「泣いた」ように見えてしまう、そういう人間の心。

アニメ版は喫茶店の外を描けた。視聴者はどちらかといえば主人公側に寄り添うかんじ。それでも、アンドロイドから見た人間、を描いている。テックスとのシーンは同時にどちら側からの視点も入ってる。ロボットが泣いてるように見えてしまう人間と、人間に向けて本音を紡ぐロボット。いくつもの短編を並べることで、アンドロイドと人間の関係性を複数見せていく。なにかたったひとつのテーマに落とし込んだり、必要以上に物事を掘り下げたりしない。見せたそれら複数の叙事から、視聴者のなかで像を結んでもらう。

舞台版は物語をほとんど喫茶店の中で描いた。もちろん外のことも語ったが、アニメ版よりはリクオとマサキに観客は寄り添っていないと思う。独白するのはリクオだけだ。彼が主人公なことには変わりない、んだけども、舞台版はどちらかといえば、結果的に、アニメ版よりも尚アンドロイドの内面を描いていたように思う。

だからアンドロイドは夢を見た。でも、そうあってほしい、という脚本家の思いでもあるような気もした。その思いは、たぶんリクオやマサキと同じものなのだとおもう。

サミィがはじめてイヴの時間を訪れたときの会話。

『家にはコーヒーの好きな男の子がいて』
「その子のために美味しいコーヒーを淹れてあげたい、と?」
『はい、そうです。そうしたいです』

舞台『イヴの時間』

そうしたい、とサミィはいう。

舞台版『イヴの時間』の作品の意思はたぶんここにあるんだろう。



でもなんかなあ、なんか刺さんなかった。

それはただたんに、ほんとに嗜好というか、魂の位置が違っただけであって、べつにそんなことはどの作品でもあるし、いままでにもたくさんある。でも観劇後に思い出したり考えたりしたことを引き摺り出すと、たぶんけっこうこの物語の持つ、設定、みたいなものに、自分が勝手に思い入れがあるんだろうなあと気付いたし、それをいまこの際に理解したにすぎない。

アンドロイドに託したいものはここにはない。

私が託したいのは思想だった。


2022年9月に宮沢章夫が死んだ。最も、ほんとうに最も敬愛した人間だった。

彼がこのニュースを知ったら、この演劇を観たら、この本を読んだら、どう思うだろう、どう書くだろう。なんて言うだろう。いつもそのことを考えていた。2.5次元舞台を観るときも、というかなにをみるときも、きくときも、よむときも。もし彼が観たら、もし演出したら。彼のつくる作品が観たかった。もう一度。

私はなにかに傾倒するとき、ほんとうにすべてをそれに捧げる。それは分かりたいからだ。彼らの思考を。理由を。だから分かるために、彼らをインストールする。同じ本を読み、同じものを食べる。癖を身体に入れる。喋り方ひとつ、歩き方ひとつ。

(とくに)そういう点では、人間もアンドロイドも変わらない。頭痛薬を飲んで、すっかり頭痛が消えてしまうこと。それと同じように、抗うつ剤が、暗いきもちを消してしまうこと。

性別とか、血液型とか、心理テストとか。育った環境まではインストールできないにせよ、想像して(ほんとうはあんまりよくないことだけど)、推し量ることはたぶんできる。

そうやって脳を彼らの近くまで連れていく。回路を編み直す。実際、宮沢章夫の演劇は彼の見聞きしてきたものを知っているかいないかで、感度はだいぶ変わってくると思う(宮沢章夫の舞台は引用がとても多い、みずからのことも引用したりする)。

宮沢章夫の言葉がもっとほしかった。

未来にもまだ彼の言葉があってほしかった。

だって伊藤計劃ももういない。私は引用でできていて、私は彼らの言葉を、まなざしを、自分の口や目と取り替えて、観劇している。自分は借りパクでできている、と言ったのは櫻井孝宏。落語家は容れものだ、ということばが出てくるのは『昭和元禄落語心中』。

屍者の帝国』を伊藤計劃から引き継いで書ききった円城塔。そのペンネームは、彼の指導教官だった金子邦彦が書いた『カオスの紡ぐ夢の中で』のなかに登場する「円城塔李久」という物語生成プログラムからとっている。『屍者の帝国』を読んだとき、彼はほんとうに自動生成機になった、と私は思った。そのなかに伊藤計劃がインストールされている。書き続けるフライデーは円城塔であり、遺されたワトソンは円城塔である。

円城塔はさいごにこう書く。

せめてただほんの一言を、あなたに聞いてもらいたい。
「ありがとう」
もしこの言葉が届くのならば、時間は動きはじめるだろう。
叶うのならば、この言葉が物質化して、あなたの残した物語に新たな生命をもたらしますよう。
ありがとう。

屍者の帝国 / 伊藤計劃・円城塔

自動生成機ではない、円城塔の言葉。

私も書き残したいと思う。伝えたいと思う。演劇という時間とともに消えてしまう行為のことを。あの姿のことを。

私は容れ物で、そこに彼らの言葉が、記憶が、姿が、たくさん詰まっていて、だから書き留めたくて、残したくて、伝えたい。でもほんとうのこたえに、その姿の向こうにある彼らの解に、到底追いつけることはないから、彼らしか持っていない美しいこたえを残してほしい。残された言葉から、あたらしい言葉を生成できる、と思いたい。

アンドロイドに、そういう夢を見る。

投稿者:

solaris496

(@so_lar_is)

コメントを残す