2.5次元という世界について

2.5次元舞台について改めて書いておきたくて、まずはじめにこのジャンルの門外漢としてなにを考えていたか、というのを再確認するためにツイッターを遡った。

以下の文章は、2.5次元舞台というものをどう考えていったらいいか、という大義のもとに、それに補助線を引くためのいろいろな考え方を引用しています。演劇論だったりそうじゃなかったり。だからといって難しいはなしをしたいわけではなくて、ほんとに2.5ってなんだろう?というふうに思って書いた文章で、だって最高すぎると語彙がなくなるじゃん、それがすごいもったいないので…その罪滅ぼし的な感じもなきにしもあらず

2.5次元の舞台、というのがあるのはけっこう前から知っていた。そしてそこに良い演出家がいるのも。でも足を踏み入れるとは思ってもいませんでした。まさか円盤も買ってしまうなんてな…

以下は2017年6月のツイッターを再構成した文章と、演劇についてちょっと自分のなかで整理したやつ

「演劇」というのは基本的に上演されるまで観たひとしか中身がわからないし、観たひとしか実際がわからないからどうしようもない。

観る作品を決める手掛かりは、脚本、演出、役者、劇団とかそのブランドに頼るしかない。だからそれがダメとかいいとか、上位だとか下位だとかがボヤボヤで語られてしまう。閉ざされたまま進化していってしまう特殊なジャンルだ。でも演劇にはえもいわれぬエネルギーがあって、自分のなかではいちばん魅力的なものだ。だから2.5のことも知ろうと思った。同じ演劇なら食わないと損だろうと思った。

ツイッターで話した部分までの経緯は、刀ステ→ペダステ→ユリイカ2.5特集を買う、という流れ。

ちなみに、実は2.5のミュージカルは観たことがない。だから今回はステ(舞台)だけにしてミュは置いておくけど、いろいろみた感想としては2.5はやっぱ「テニミュ」なんだなあと思う。どのジャンルにいてもだいたい耳に入ってくる単語「テニミュ」。ジャニーズを通ったことがあるのでなんとなく形態はわかる(1幕が芝居、2幕がコンサート)。観ないのはあくまでこの2.5について考える作業を「演劇」というところから出発したいというだけなので、いずれ観ると思う。

・まず、演劇、舞台芸術である意味、というのを考える。

上演される作品のことを「演劇」「舞台」「芝居」とか言うが、自分のなかではそれらの中身はちゃんと違い、一応分けて使っているつもりだ。「舞台」のほうが色物って感じで本より役者とか観に行く様なもの。それか舞台空間そのものを指す。「演劇」は小劇場で作品自体とか演出家の思想とかその時代性とかを考えるもの。「芝居」はキナ臭いものか演技のことかなあ。一応そう定義しておきたい。で、「舞台で、上演される作品」の呼び方がころころ変わるかもしれないが、上記の意味を敷衍してください。あくまで演劇は演劇、舞台は舞台。そう書いてあればそっちの意で書いてるということです。

(劇団新感線を出すとややこしいのでちょっと置いておきたいが、「髑髏城の七人」における、蒼月の「なんでもありかー!」、このせりふを聴くたびに、胸があふれる。)

・演劇の特性として、まずはめちゃくちゃ不合理。みんながひとつの劇場に集まって、その場に2,3時間くらい拘束される。で、ながら見を許容されない空間のなかで、荒唐無稽な筋書きや表象の飛躍に容赦なく耐えさせられる。

逆にいえば、眼前のワンシーンごとが見事であれば、生ものなので(完璧なかたちで)記録されない演劇という上演形態は、筋書きがどうあれ、客を丸め込める(言い方よくないけど)。この”非あらすじ的”な部分が、舞台作品の魅力のひとつだ。

・援用したいのが、アナログとデジタル、という概念。これは決してアナログ=古いもの、デジタル=新しいもの、とかではなく、もともとの概念のことです。「大人のピタゴラスイッチ」を見ていただければわかりやすいんだが、デジタルとは「離散的(とびとび)な」もののこと、アナログとは「連続的な」もののことをいう。その媒体、上演形態が、デジタルか?アナログか?を踏まえると、かなり演出の「正しさ」というのが導き出せる。この概念はたびたび使えるので覚えておくと後々わかりやすいと思います。個人的に、説明のときとかに使う概念としては、アナログは書籍とかで、デジタルは演劇、映像、ドラマCDとか。特性バラバラだしちょっと違うやつもあるけど一応いまのところとりあえずたぶんこう。

演劇はアナログじゃん、と言われてもそうですねとしか言えないのだが、そのワンシーンごとでも完結できて、飛躍しても大丈夫。あと眼前には瞬間ごとの1つの風景しかなくて、全貌がひと目で把握できない。そういうのをデジタルだよねーと言っている。本は本でもKindleはデジタル、紙媒体はアナログ、と思うとわかりやすい。全貌が把握できない、という点では、Kindleのほうがその場面の位置とかを筋立ててみづらいということですね。以下の記事がわかりやすい

Kindleで読書する人は、ペーパーバックで読む人よりもストーリーの筋立てを覚えていないことが、新たな研究論文で明らかになった

あと演劇とか映画とかでは上演時間のさいごのほうにクライマックスをもってこざるをえなくなるのですが本はそうでもない。場面配分の問題とかもこの考え方で最適解が出そう。

ということで(?)、物語の辻褄が合わなくても理解できなくても、劇場を出るときに「なんかすごいよかったな…」という感想を持たせることができれば勝ち、みたいなのは舞台には顕著な特性だろうなと思う。とくに2.5ではテキストのつよさではあんまり勝負しないから尚更だ。たぶん本よりも身体、役者とキャラクターに重きが置かれているし。

演劇のダイナミズムと呼んでいるものがある(もっとうまい言葉ないかなあ…)。これはほんとうにうまく言えないが「人間の、よくわからないもの」に属する、はたらく力のことを指しています(たぶん)。映像にしたときにガクンとなくなってしまうもの、それが演劇のダイナミズムだ。その空間に居ると感じられる、たとえば緊張感、演者から流れてくる圧倒的なエネルギー、物語が大団円を迎えたときの高揚、その他諸々、そういうもののこと。これこそが生の魅力。これは、分断できない、理屈ではないものだ。

・社会学者に岸雅彦というひとがいて、『断片的なものの社会学』という本がある。研究というのは物事を切断し、括り、一般化していくものだけど、やっぱりどうしても「その他」の項目が出てきてしまう。著者はそういう「分断できない、なんでもないようなもの」をわざわざ書く。まあなんていうか、説明しようとしてもしきれない「なにかよくわからないもの」という生きる人間のダイナミズム。そういう力のうねりが生の舞台のおもしろさだと思う。テキストからはみ出してしまっているもの。戯曲読むとほんとうにそれがわかる。これしかないのか、と思う(読むと逆にストーリーが明快になったりはするんだけど)。はみ出している部分は固定されていない。たとえばキャストが交代したとき、そのキャラクターはかなり違う人間になる。

たとえば劇団新感線「髑髏城の七人」とかかなりわかりやすいですよね。花鳥風月、おなじ物語なのにまったく違う作品になっている。いま公演している「season月」とかはWチームなんだけど、その2チームともテキストや動線がほぼ同じなのに全然違う。

・もうひとつ例をあげれば、音楽の「カバー」とか、落語とか、外国文学の翻訳とか。おなじ曲・噺・文章をもとにしているはずなのに違う人が再現するとまったく違う。個々のものになる(ただそこに居て、人間の差異をゆったり感じること、それが「演劇」だと思っている)。そういうふうに、無意識のうちにも、からだから匂い立つもの。これがあるから演劇はおもしろい。見えないなにかが確実にある。

こうして見ると、平面には書かれていない0.5の部分がいかに膨大か。そういう、不安定ではあるが絶対にあるもの。それは、観客のなかに勝手に立ち上がっているものだ。平面のものが立体になったとき、観客は、舞台空間に見えないはずの幻影”0.5”をみる。わたしたちが漫画に見る集中線とか、トーン、そういうものは見えていないのに、たしかにある、と感じることができるのは、人間から発しているノイズとか、パンキッシュに匂ってくるもの、生気なんだと思う。気配というか。あれを観にいってる。

・2.5次元文化は、観客にとっては共通項の多い、ハイコンテクストな文化だ。劇場に集まる人間にだけわかる「常識」がほとんど形成されていて、演者と観客のあいだ、観客と観客のあいだに共通の認識がある。設定とかキャラクターの性格とか、前提条件はだいたいクリアして劇場にくるわけだし。

初見の人間をおたくと同地点に立たせることはできない。これから2.5界隈にもそういう作品が出てくればすごいとは思うけど、別にやらなくていい。むしろたった3時間にも満たないくらいの公演で、それを成立させるのは無理だ。必要ないし。2.5次元舞台は、ハイコンテクストで閉じられた原作の文脈を解体し、再構成する。総集編にはせず、あくまでも再構築。それに成功している舞台はたぶんウケている。

逆に、固有名詞が多いということ、記号のなかでも具体性の高いものを使わなくてはならないこと、どこまで説明するか、というか、客層がほぼ全員と言っていいほど原作に理解がある状態で、なにを言わなくていいのか、なにを見せなくていいのか、見せたほうがいいのか、そういうのが2.5の難しいところだなと思う。

ユリイカの2.5特集を読む。この「文化」のことを知るには最適だとは思うけど、「2.5次元舞台」自体のことを知るにはぜんぜん適していない。とくに女の書いた文章は「おたく文化」に寄りすぎているし、いつも頼りにしている演劇ジャーナリストの徳永京子の文章ですらぜんぜん合っていない。というのも、2.5特集と聞いてこれを読む層はたぶん、アカデミックなものとか「演劇」の延長線上の思考を期待しているわけではなく、そこに一見遠いと思われているいまの2.5というジャンルとそれとを対応させて語ってほしかっただろうと思うからだ。この雑誌でフォーカスを当ててる「2.5」の定義は寛大でいいとは思ったが、やっぱりなんていうのだろうか、小劇場の人間(?)はそれ以外の演劇を(揶揄の意がある)下位文化だと思ってる気がした。でもそれは違う、ジャンルは等価だし、等価であるべきです。言うならば周縁文化とか。亜文化とか。2.5はたぶん唯一無二のジャンルになる(もうなってるけど、ユリイカ読んでるとこれが創刊された当時の時代の空気がこの本に流れているのでそういう気分になってしまっている)から、演者や作品のレベルがぐいぐい上がっていけば絶対に認められる。いつか小劇場のひとたちを振り向かせなきゃならないときがくるのかもしれんが、そこは勝手に言わせておけばいい。

なんか1年前くらいにあった、銀河劇場が代アニ劇場になるならないの事件、を思い出していて、これはすごく、たしかに、ひどかったんだけど、いろんな固定観念と誤解をといていかなくちゃいけないんだよなあと思う。みんなで文化を担わなきゃいけない。みんなが頭を使ってセンスを磨いて文化を育てなきゃダメだとほんとうにそう思う。がんばろう

・ユリイカ2.5特集に求めていたことは、アニメ評論家である藤津亮太の文章にあった。個人的にはこの雑誌に、2.5それ自体に対してその存在の言語化を期待していたので、2.5を「現象」とか「ムーブメント」とかにせずに2.5そのものを見つめてくれたことをすごく評価したい。

そもそも自分が2次元に転げ落ちたきっかけは「ドラマCD」と言っても過言ではないのだが、その点を藤津さんは「図像」と「声」の関係を語りながら「CDドラマはもう1つの2.5次元である」と言っている。つまり役者の身体依存度の数値がこの”0.5″にはあるということだ。

・逆に、論点ズレてるなーという感想を持った文章があったのはたぶん2.5という言葉の定義が広すぎたからだと思う。今回の特集では「2次元を舞台空間に立ち上げたもの」という感じに、「2.5」という言葉をすごい広義で捉えたため、マームとジプシーの「cocoon」も入っている(「テヅカ」とか「プルートゥ」入れちゃうのかよエーッ)のでちょっと論点もズレてくるのだが…。ちなみにマームのcocoonは固有名詞をほぼ消してやったらしい。出来事をコマから引き剥がして奥行きを出したのか。2.5の評価されうる部分というのはいろいろあるのだが、ああいうアカの人々にたいしていちばん響くのはたぶん再構成の方法とか。

・でも2.5は演劇だ。人の胸をうつのはテクストよりもやっぱり演劇としてのダイナミズム、あの生のうねりのようなものだろう。演劇にしかないもの。2.5に触れるとそれを改めてすごく考えさせられる。

・血の通ったからだに目の前でなにかが起こる、そういうことが演劇だ。2次元にはもともと血と肉がない。はずなのに、あるように感じる。その錯覚が0.5だ。2.5の上演が、2次元の記号群にたいしていのちを与えた行為だとしたら、たとえば刀ステとかはやはりめちゃくちゃおもしろいのではないか。刀が人の身体を持つ、そこに疑問を持つキャラクターがいて、みんなその生(せい)に葛藤する。こういうなかで2.5の答えが出てくるといい。可能性は計り知れないと思う。ものすごい魅力だ。

・示唆的な文章がある。2.5はDVDでもおもしろい、という、ユリイカ対談での村田充のことばだ。

そもそも自分の2.5の初見は、さっき言及した舞台「刀剣乱舞」。いろいろ割愛するがたまたま家で流れてたDVDをみて(うわーこれが噂のニーテンゴ…)(ン?)(なんかこの役者は…違うな)(目を奪われる)という流れでこのブログを書くまでに至ってしまったわけだが、舞台に立つ「鈴木拡樹」という役者には、終始1秒たりとも打ちのめされなかったことがなかった。映像なのに、とにかくずっとすごい。只者ではないな、というのがわかる。村田充の言うように、2.5は映像でもかなりおもしろい。2次元を下敷きにしていることで、生で観ればそのダイナミズムが浮き彫りになる、逆に映像で観れば、演劇が映像になって削がれる部分を(質は違えど)補える。補う、というよりは、もともとないものとして、半減しない(3次元演劇:ふつうの演劇は映像に収まって-0.5になるが、みたいな感じ)。

・たとえば以下のツイート

映像になったときに感じ方はたしかに変わった。減った、というよりも、変わった、といったほうがいい。生(現在性のつよい状態)で観たほうが膨大に感覚を貰えるかといったら決してぜんぶがそうではない。

ここで「舞台空虚」と呼んでいるのは、ピーター・ブルックの『なにもない空間』に書かれているようなもので、なんていうか、”There is nothing.”みたいなことだ。「ないものがある」。空虚をそこに顕著に見る、ということ。

劇の眼」はちょっとズレるけど太田省吾の文脈で、『劇的とは省略することである』という考え方は、演劇を考える上ではかなり重要だ。キャラクターたちにも日常があるはずだが、そういう冗長な部分を省略しまくって、ドラマ性のつよい部分だけを切り取ったものが上演される作品である、ということ。刀ステだったら本丸からの移動は省いて即戦場に着くとか。それが「劇的」ということ。「劇の眼」とは、その日常的な部分を「なにもない」と捉える(ないものはない、としか思えない):「空虚」=「ない」のまなざしのことだ。言い換えると、白、という色を、余白、と捉えるか、白色で塗られている、と捉えるか、ということ。

ドラマチック、とは何か。

2.5はどちらかといえば「劇の眼」で観られる演劇だと思う。けど、それは生でみるとき、なにか演劇的なちからがはたらいているので、なにもない舞台空間にも「なにか」が立ち現れている。

ツイートにも引いてきた立川左談次はこう言っている。

客が言葉を理解する時間を間という、また魔ともいう。って、利いた風な事言ってやがら(笑)。

落語を聴くとき、客はなにを見ているか。実際に目の前にあるのは、舞台、座布団、落語家、そのくらいだ。けど客はそこに噺の風景を見る。読書でも、目の前にあるのは活字だけだが、脳内ではその記号から映像が立ち上がっているはずだ。この「」という舞台の余白に、忽然と立ち現れる「」。そこにはなにかが潜んでいる。2.5でいえば、我々のキャラクターにたいする思い入れや、それまで辿ってきた物語が見せる幻影、0.5の錯覚だ。観客が没入していなければ、この間はもたないだろう。1分の転換、それがライビュでみたときにすごく短く感じた、というかとくに気にならなかった。けどDMMを家でみたときは、ただなにもない時間になってしまった。あれ?こんな長い転換あったっけ?演出の失敗か?みたいなことになる。だけど物語性もきちんと強く、劇的に描かれているので、べつに上で言ったような演劇的な効果に頼らなくてもいい。

と、このように、生の舞台作品としての楽しみ方もできるし、記録された映像作品としての楽しみ方もできるわけだ。

それでさっき書いたのをもう一回読むと、『2次元を下敷きにしていることで、生で観ればそのダイナミズムが浮き彫りになる、逆に映像で観れば、演劇が映像になって削がれる部分を(質は違えど)補える。補う、というよりは、もともとないものとして、半減しない(3次元演劇:ふつうの演劇は映像に収まって-0.5になるが、みたいな感じ)。』な、なるほど〜!要するに、現在性のつよい状態で観るときにだけダイナミズムは生まれるが、2.5はそうでなくても、映像になっても耐えうるおもしろさだ、ということです。

・生の舞台のなにが醍醐味かというと、目の前で生身の人間が声を出すこと、動くことで、それこそ2.5では物語世界の虚構度はかなり高いにもかかわらず、役者のからだが追い詰められていくことでその声や動きには嘘がなくなっていく。感度の高い観客たちは、そこに本物を感じている。

・「芝居」じゃなくて「演技」だなと思う。抑制するもの。自然の佇まいというより、技巧で舞台に立つ。鈴木拡樹みたいな役者を見ると、そういう在り方が向いてるんだなーとちょっと思った。そのなかで生をみるというのは、浮き彫り度がめっちゃ高い。より生々しく感じられる。

ペダステとか、ストーリーなんかなんのこっちゃみていなかったのかもしれない、と思う。ただ演出のおもしろさと、怒涛の容赦ない時間の進行と、どんどん追い込まれてく役者の肉体についていくので精一杯。というかほんとにもう、舞台「弱虫ペダル」は、この演出家に頼んだ時点で成功だったとも言える。

漫才とかでもそうだが、テキストで読んだら全然面白くない、みたいなものが、空間に立ち上がるとこれだけ面白くなる、というのが2次元と3次元のあいだにある(演劇的な意味での)0.5のおもしろさだ。こうなってくるともはや3次元だし、こんな舞台があるならたしかに3次元からいかに0.5引くかのほうを考えちゃうな…。

・2.5次元、もはや五次元くらいなんじゃないの、と思う。演劇であるからこそ、時間軸の跳躍とか、記号を利用して表象をぐるぐるまわしたりとか、そういうのが可能だし、エモさから幻影をみせてくれる。演劇という上演形態だからこそ、そして原作があるからこそ、現実でできる範囲のことを越えられる。

・ユリイカ2.5特集、結局は当事者たちのインタビュがいちばんおもしろかった。西田シャトナーはやっぱり語ってくれている。

例えば演劇とテキストについて。否定されてきた歴史もそれでも尚重要なこともわかった上で、自身の劇団時代も省みて、やっぱり2.5を肯定する。

シャトナー氏は観客にも言及しつつも、それがおたく文化だけの範囲に終わってしまうことなく、観客の「観る」スタンスについての性質を語り、誤解を生みがちな表層(イケメン、とか2次元ビジュアルとかそういう)にも触れて、しかしそれを否定することも削ぐこともなく、その上で評価をしてくれている。

(また読みたいなーと思って読んだらもうこんなブログ書かんとシャトナー氏のインタビュ全編載せとき、という感じだった。言いたいこと全てを語ってくれている)(というかギリシア劇のことどこかに書いてあったか?「コロスの響くロードレース」という題なんだけど。あんまりちゃんと覚えてない)

・おー、と思った文章をツイッターに引用してるんだけど頁が書いてない。あとで追記したいと思います。以下引用。

『自らが加担して作り出している現実感であるとわかりつつ、あるいはわかっているからこその現実感を抜き差しならないものとして感じ取るというあり方

『(たとえそうした営為が実際には、批評的な距離を取った観察者の視点に屈服しやすい傾向を持っているとしても)』

そう、ああいうのは加担しようとしないとぜんぜんおもしろくない。マジか、と内心思いつつそこの抵抗に抵抗して、屈服しない、という姿勢が2.5鑑賞には必要だ。シラけつつノる、というやつ(浅田彰)。

ハーすごい長くなりましたけど、ひとまずここまで。結局、この文化のことをどう考えていいかはわからない。でも上に羅列した文章群によってみえてきたものはあると思う。いろいろ結びつく符号がある気がする。こういう捉え方をされていってほしい。

この2.5というジャンルがどういう種類の演劇なのか、どういう位相にあるのか、これからどう動くためにどう大事にされていくべきなのか。まだまだ考え足りない。

2.5次元舞台には、ものすごい演劇の可能性があるように思えてならない。