三日月宗近とジョーカーなき世界

「俺は未来を繋げたいのだ」

この一言に詰まっている。

刀剣乱舞、大団円ですね。

舞台刀剣乱舞 悲伝 結いの目の不如帰』お疲れ様でございました。

観に行ったのは、明治座初日と千秋楽のライビュ。

千秋楽に行ったことで、また千秋楽までいろんなことを考え続けたことで、なんか繋がったことがあり、それを書きます。まあいつもツイッターで言ってるようなことだけども。

まず、教訓じみたことを言うとかそんなダサいことしたくないですし、べつに本作の真髄を暴こうとかそんな気もない。それは公式とか金を払われるような文を書くひとがやればいいことだ。

これは論文でも考察でもなんでもない。自分のなかで勝手に符号が合いまくってピーンときたこと、そういうのを非常に個人的に、思想のしがらみとかないなかで書けることを書こうと思う。

さいごのキャスパレを観ながら『広島に原爆を落とす日』のことをちょっと考えていた。

そういう感じのことだ。

今まで自分が舞台刀剣乱舞のシリーズ集大成という時点で書くだろうなと思ってきたことが明確にあったんだけど、やっぱ禅問答みたいになるし、それは意外とべつに書かなくてもいいか、と思いました。演劇の効果とか、歴史の継承とか、そういうのね。あとは俳優のこと、これまでの刀ステで散々言われてきたこととかを、改めて見つめて書きたいと思ってたんだけど。

戯曲を買ったんですね。それで、義伝の後書はこう始まる。

「歴史が事実とは限らない」

歴史とは、どうあがいても「説」の域を出ず、「たぶんこうだったんじゃなかろうか」「こうであってほしい」という仮想の物語が、今でいう「歴史」であると末満健一は言う。

刀剣男士は実体のないものを守ろうとしているようにしか考えられない、とも言っている。

非常に同感だ。「歴史」とはなんなのか。それが改変されればどうなるのか。なぜ改変してはいけないのか。彼らの守ろうとしている歴史は真実なのか。真実でないのなら、彼らの戦う意味はどこにあるのだろうか。歴史を守り、それを現代に伝えたところで、それがなんなのか。

ドキュメンタリーを観ても、本を読んでも、それが一次情報なのか、それすら実証できるものはなにもなく、歴史は「それが本当らしい」、そこまでしか現代ではわからない。

でも、刀は実在する。

刀がそこにある限り、人を斬ったり斬られたり、そういうことがたしかにあったことだけは、本当だったのだと信じられる。

そういうことばかり考えていた。

千秋楽のライビュを観て考えたことは、またちょっと違うことだ。

三日月宗近とは何だったのか。

これしか頭になかった。最近たまたま思い出してたことに符号が合っただけなんだけど、それでも、やっぱり、このキャラクターなしには刀ステを、ましてや2.5次元を、考えることができない。個人的にだけど。

だから三日月宗近のことを書きます。それだけのブログです。せりふとかは円盤買ったら直します。多分。

・この現代まで刀が残されている意味とはなんだろうか。劇中でも話されるが、刀は時代とともに在り方を変えてきた。武器として。美術品として。歴史を立証するものとして。他にもいろいろあるだろう。

・刀の本分とはなんだったか。

それは「たたかう」こと、つまり人を斬ることにある。人を斬ることは、命を奪うことである。

・いま、刀は、負の遺産だ。アウシュヴィッツや、原爆ドームと同じように。そしてやはり、本来の目的として使われることはない。

・「貴殿は包丁ではないのだぞ」

・しかし、彼ら自身には、負の遺産が掲げるような、世界平和、とか、そういう目的はない。ゲーム世界のなかの彼らは、ただ「主命を果たす」「過去と向き合う」とか、個々の思いはいろいろあるなかで、まあ、理由は分からないが、刀剣男士たちが人の身を得てたたかう目的は、「歴史を守る」ためであることになっている。時間遡行軍の目的も、歴史を改変しようとすることであり、信念はそこにない(ように見える)。

・はじめに挙げたようなたくさんの問いには、明確な答えがない。そもそも、歴史は不確かなものであるからだ。

・だとすれば、なぜ歴史を守るか?という問い自体が、無意味な問いである。まあ、結局この世界に意味なんてないんだけど(劇中にこんなせりふあったような気もするけど、気のせいか?)。この問いを生んでしまった、刀剣乱舞というゲーム世界をコピーアンドペーストみたいにいくつも発生させてしまったこと自体が、人間の業のように思える。問いだけは無数にわいてくるが、この不確かで不条理な世界にそもそも帰結点なんてあるだろうか。

・歴史は実体のないもの。

・でも刀はそこにある。

・この『結いの目の不如帰』を観て思ったのは、三日月宗近は、ヴェルト・ガイスト(世界精神)そのものだったんだなあ、ということだった。

まあいまから言いたいことは伊藤計劃のブログにぜんぶ書いてあるようなものなので読んでください。そしたらこのブログは読まなくてもいいと思います。

まあ、ちょっと、というか、けっこう違うとこもあるんだけど、陥ってしまってる状況は同様なものとして、彼に倣って三日月宗近を「”世界精神型”のキャラクター」、といいましょうか。

・ヴェルト・ガイスト:世界精神とは(ほんとは引用先を読んでほしいんだけど)、まあでっかく言うと、社会の発展や、歴史の進行方向のことである。”世界精神型”の人、というのは、その流れが、自分のやった行為とイコールになるような人物のことだ。自分の行動が歴史の流れと関連する人物。それが三日月宗近だった。世界の意思そのもの、歴史そのもの。

・刀ステという作品の意思は、三日月宗近、この一振だけで事足りる。

・伊藤計劃のブログ、映画『ダークナイト』を書いた文章に、こういう一節がある。

ジョーカーは知っているのだ。秩序に身を置きながら自警団として秩序を破らざるを得ない矛盾を抱えたバットマンと、世界がカオスに叩き込まれるのを心の底から望みながら、秩序という世界の枠組みそのものが崩れてしまうと「ゲームを楽しめなくなる」という矛盾を(楽しそうに)抱えた自分が、ともに化け物、コインの表裏であることを。

ジョーカーは人間の負の面を露わにする装置として、ゴッサムの夜を踊る。(ダークナイト)

・これ、だいぶ三日月宗近なんじゃないでしょうか。まあ対応する関係とかもほんとは構造としてまんまじゃないし、ことばの中身も違うんだけど、明らかに異なるのは、三日月は悪役にはならないし、ディストピアを見せることを望んではいないということだ。

・「秩序」は、「正義と悪」とかではなく、刀剣乱舞というゲーム世界や、刀ステという演劇世界の秩序、それと、刀が刀として在るために必要な、武器として生まれたその最初から孕んでいる秩序のこと、といえる。

・書き換えるならこうだ。

三日月宗近は知っている。秩序に身を置きながら自警団として秩序を破らざるを得ない矛盾を抱えた刀剣男士達と、自らが刀であることを望みながら、歴史を守る/改変するこの戦がなくなり、この秩序という世界の枠組みそのものが崩れてしまうと「自分が存在できなくなる」という矛盾を抱えた自分が、ともに化け物、コインの表裏であることを。

三日月宗近は人間の負の面を露わにする装置として、歴史の円環を巡る。

・「矛盾だな」と、三日月宗近のせりふが聴こえるようだ。

・この円環は、閉じられるのかどうかもわからない。鵺(時鳥)のような異質な存在に「賭けて」みないと、その仕組みもわからないようなディストピアに生きている。

この歴史の円環を暴き、壊し、閉じきる、とは、どういうことか。

・歴史の授業で学んだこと。だいたいは争いのことだ。人類はずっと闘ってきたし、いまも争いは絶えない。それだけじゃなくて、何度もやってしまう小さな失敗とか。

これが円環だ。反省し、後悔しても、繰り返されてきた歴史。

・彼は、存在するだけで、戦争という時間を出現させてしまう。自身が目的をそれと持つわけではないのにだ。

・刀剣乱舞における三日月宗近は、主を守るためでもない、刀の本分を貫くためでもない、ただ、「歴史を守るために」、闘っている。限りない円環を、不条理に、ずっと生き続けている。何度も、何度も、何度も、何度も、終わらない世界を、結末の決まっている世界を。刀であるということは、そういう命運を持って生まれてしまったということだ。自身が結いの目であることは、とうの昔に決まっていたことだ。

・そして三日月は、たった1人で、パンドラの箱の鍵を見つけてしまったのかもしれない。その鍵を、たった1人で秘かに持っていなければならない、という孤独。

・三日月宗近は、生まれながらにして変数値だったんだなあ。

・『まりんとメラン』にあった会話を思い出す。

ロロ、変数値は滅びを望んでいるわけじゃない。山を焼かなければ、新たな芽も出てこれないだろう。ブリガドーンの地上都市を見てみろ。旧世代の生きものの名残だ。今の世代に生まれ変わるときも、破滅を必要としたんだ。

(ルル/第26話「サヨナラは海の碧」)

・三日月宗近が、刀剣男士たちが、歴史を守り、未来を繋げるには、刀は、武器であることをやめなくてはならなかった。

戦がなくなるということは、刀がなくなるということ。

戦をなくすために、戦をする。これも矛盾だ。

「おれたちは、何と闘ってるんだ」

それは、人間の持つ悪意そのものだったんじゃないだろうか。

・ライビュの時にはなかったけど、劇中、「坂本龍馬の暗殺」シーンのあとに挿入されていたシーンがある。

タタタタ、タタタタ、と、鉄砲の音。ゆっくり歩を進める兵士たち。その手に、刀はない。

戦争に刀は使われなくなったのだ。

それでも、日々流れるニュース。

「都内に住む30代男性が、刃物で刺され、死亡しました」

現代においても、刃物で人は殺せるのだ。

・三日月宗近は美しい刀であったがためか、武器として使われることはなかった。先代の主にすら、使われなかった。足利義輝の命は守られず、いくら時間を繰り返しやり直したところで、結局、絶たれてしまう。

だが、その主の言った言葉。

「三日月宗近、その刀を後世まで伝えよ」

五月雨はつゆかなみだか時鳥

わが名をあげよ雲の上まで

・三日月宗近は2018年現在まで、美しいままの姿で残っている。

死者の使いである「ホトトギス」は、命と引き換えに足利義輝の名を天まで轟かせ、そして三日月宗近も名刀として、主の名を後世まで語り継いでいる。

そこには、歴史のよすがとしての刀の姿がある。

・まあ、こんなに詳しく顛末が語られているとも思えないし、史実とはまったく異なるのだろう。しかし、この物語は現実の虚構の境界を溶かすように、時代に寄り添って横たわる。

・「俺は未来を繋げたいのだ」

現在、人が争うにしても、日本刀を交えることはない。武力ではなく、美しさをもって、人を救えることはあるのかもしれない。

・虚伝での三日月の言葉を思い出す。

「俺たちに心があるのは、物であるが故なのではないか」

例えば、月を見て美しい、と思うこと。その心が月に宿る。その心はいつか、自分に返ってくるのだと。

「心とは森羅万象を廻る。だから人は物を作り、物を語り、物に心を込めるのだ。我々刀剣は人の心を運ぶ歴史のよすがなのやもしれん。織田の刀にも、そしておぬしにも、託された心があり、それが廻り廻って繋がっていくのだ」

山姥切を三日月は「存分に美しい」と言った。

「主はおぬしにそう心を込めた。おぬしはおぬしを信じ、その心でこの世を照らしてやればいい。そうだな。あの月を照らす陽の光のようにだ」

「月を照らす陽の光のように…か。無茶を言ってくれる」

「これはまた随分煤けた太陽だ」

・その心をいちばんに信じたのが、三日月宗近だ。と、そう思いたい。

・この望みもまた、人間の業なのだろう。

・刀は、武器である。人の命を奪うものである。逆に言えば、人の命を奪うものとしてしか、存在意義がない。

・けれど、本当にそうだろうか。

在り方は時代によって変わる、その自覚があるはずの、刀剣男士自身たちによって繰り返し言われる言葉。

「俺たちは刀だ」「刀の本分を忘れるな」

・円環を断ち切るということは、この刀の性質を無意味にするということ。しかしその円環を断ち切ったからこそ、泰平は訪れ、三日月宗近はそのままの姿で現存している。

・この矛盾だ。三日月宗近の悲しさは、そこにある。

彼は刀の本分として命運を果たすことが出来ない。しかしそう在るからこそ、未来を繋げることができた。表裏一体、陰と光。

「悲しいのは心が在る故なのに、心に非ずと書いて悲しい、とは、皮肉なものよな」

矛盾を、自身が孕んでいる。そうしたいわけでは決してない。それが三日月宗近の悲しさだ。目の奥に深くある、青く、昏い悲しみだ。

・千秋楽では、少し演出が変わっている(初回と千秋楽しか観てないから途中からそうなっていたかはわからない)。

何十公演と通り抜けてきた一言一句違わぬ物語、その最後が千秋楽だ。斬っては斬られ、何度も交わしてきた約束。その最後の最後に、三日月と山姥切の勝負はついた。約束も、もういらない。美しく円環を閉じるための、少しの改変だ。

・だが、いくら台本が書き換えられようと、あの三日月宗近は、もういない。結末はどうやったって変わらない。

「歴史のあるがままにだ」

・そして夜は明ける。

・夜。小田原の城が出会わせてくれた夜。三日月が明けないでほしいと願った夜。闇に月は煌々と輝く。それももう最後だ。太陽が昇る。闇が晴れる。こう書くと、希望に満ち溢れた景色にしか見えないようだけど、悲しい、こんなに悲しいよ…。

月は隠れているだけで、消えてしまったりはしない。いまは暫し、時が満ちるのを待つだけだ。とか、こういうダサい演繹をし続けて、あいつはまだ居ると、心の底から思いたい。もう繰り返したくはないのに、そう思ってしまうね。何度考えてもその度、胸にくる。

・永遠にループされるゲーム、永遠にリフレインされる演劇、そもそもが不条理な世界において前提条件を問われると、〈いま、ここ〉にある足元が揺らぐような目眩がある。自分がどう変わろうと、周りをどう変えようと、結末は変わらない。〈ここではないどこか〉へは、絶対に行くことができない。逃れられない。

・その世界に、三日月宗近は武器としてまた顕現した。

・ユートピアはどこにあるか。

・彼なきあとの本丸では、皆平和に茶を啜りながら、「暇だなー」「すっかり身体が鈍ってしまったよ」。

・平和ボケ、って、なんなんでしょうか。

・まあそれがなんにせよ、ここでいくら何を言おうと、繰り返したくとも繰り返せないこともある。

・あの三日月は、ひとりで行ってしまった。

・悲しい。

・もう会えない。

天魔王と鈴木拡樹

んー、やっぱりこれだけがんばって行った舞台というのはあんまりないので未来の自分のためにも書いておくことにする。

『髑髏城の七人 Season月』のことだ。

いや、もっといえば、『髑髏城の七人 Season月に抜擢された鈴木拡樹という役者』についてのことだ。

ここでのスタンスはというと、

もともと演劇が好き→髑髏城の七人ってめちゃくちゃ聞くから一回行っておきたいと思っていた→どうやら今公演中らしい→現場(鳥)→ワカを観る(DVD)→月キャスト公表→エッ?→鈴木拡樹?→宮野真守てエッ?→2.5系?髑ステ?→はいチケット取れました→現場(月)

という流れです。ちなみに2.5次元に触れたのは20176月。

こちらもご参照ください。

けっこうおたくと話したりツイに書いたりともう言うことないですという感じではあるんだけど、今回やっぱ書いとこうと思ったのは何より鈴木拡樹という役者が劇団☆新感線に出た、というこの事件のことである。

・鈴木拡樹がキャスティングされたのは「天魔王」、まーあマジか、と思いましたよね、でも改めて考えれば捨之介でも蘭兵衛でもないな、天魔王だな、というのがわかるんだけど、発表されたときはほんとうに時空が歪んだかと思いました。

・で、結論から言うと、鈴木拡樹の天魔王は、かなりよかった。

『髑髏城の七人』という作品は、90年、97年、04年、11年、17年と、だいたいの物語は同じでも、何パターンもの上演がある。そしてキャストも毎度違うため、かなり多くの解がある演目である。

今回の17年は年間通して花鳥風月(極)と、5つの筋書きがあるうえに、いま公演している「月」はWチームで「上弦の月/下弦の月」に分かれている。

・鈴木拡樹は下弦の月の天魔王を演じた。

・月の台本はというと(あんま観てないけど)ほかの台本に比べて味付けが少ないように感じる。ノーマル、プレーン味です、という筋書きで、キャラクターもきわめてまっすぐで、髑髏城初めて観るなら月で!というような、教科書的な雑味のなさである。

・ここで言っておきたいのが、けっこうレポ?ブログ?とかで見かける「勧善懲悪のストーリーなんですけどオ」というコレ、嘘?、みんな正義vs悪の物語だと思ってたの?、マジか、ぜんぜん違う。

・髑髏城の七人は、正義vs正義の物語だ。公共の福祉が成り立たないなら、話し合いでおさまらないなら、暴力しかねえ!っていう戦乱だ。

「たたかう」という物語の持っている、「みんな信念を貫こうとしてこうなった」という大義のこと忘れてませんか、天魔王が悪役感ありすぎて勧善懲悪の物語だと思ってしまいすぎる。でも違う。

・これはメイクや衣装が原因なことが多いにある、という気もするけど、髑髏城を勧善懲悪と言ってしまうの、まずは天魔王のことを「天魔王様」だと認識してしまうことが我々の失敗だよなと思う。あの、バリバリのメイクと衣装による、俺様は超つよい悪役です!的ビジュアルによって、根本的なことである「彼は今もただの人間である」という、このことを忘れてしまう。彼は「天魔王」になる前は普通の名前を持った、普通の人間なのだ。

ここを失念してしまうと、「蘭兵衛と天魔王と捨之介が3人とも揃って信長公に身も心も捧げていた男達」であることが流れてしまって、マジで元も子もない。昔はみんなでおなじ方向をむいていたのだ。いまは時も経っていろいろ変わってしまったが、そのきっかけとしては、みんなべつに殿(信長)に恨みをもって解散したわけではなく、殿が居なくなったから散り散りになっただけであって、みんなの大義は変わっていなかった。そして、戦乱の世が終焉した”今”でもまだその過去に縛られている。

だから“今”世にはばかろうとしている秀吉や家康には程度の差こそあれ3人とも納得のいかない部分があって、いつまでも引き摺ってちゃいけない、だから過去への燻りに決着をつける、そういう物語だ。

・「天魔王像」というのはほんとうに色々あると思うんだけど、やっぱり彼は自分の弱さに背を向けたひとだ。あんなに身も心も俺が尽くしていた殿は蘭兵衛を選び、『私に死ねと言った』。そのショック。湧き上がる黒い感情。愛ゆえに膨れ上がる憎しみ。執着や憧憬や愛情がごちゃ混ぜになって、『そんなのは殿じゃない』、『殿の最期の言葉はそんなくだらないものじゃない』。理想が高すぎて、それを裏切った事実を受け入れられない。完璧な理想が叶わなければ死んだほうがマシ。自分の無力さや弱さやふがいなさを直視できないために、静かに、まともに、狂ってしまった。そういう可哀想な人間だ。

・だって、考えてみれば兵庫とかめちゃくちゃいい奴だけど、村娘を襲った侍を殺して村を出た、って、人を殺してるのには変わりがない。でもそれは法の考えだ。倫理とは?と、立ち止まる。兵庫は『弱きを助け、強きを挫く』悪いやつの敵である。だから筋通ってんだよなあ、髑髏城に出てくる人間には、みんな曲げられない信念があり、捨てたい過去があり、捨てたくても捨てられず、どうしてもそういう業を抱えて生きている。だからときどき正義がぶつかりあうのだ。みんな間違っていて、みんな正しい。

・要するに、みんなあまりに人間的で、圧倒的なものは存在しない。アニメみたいに超能力で闘えないし、斬られたら血が出て死ぬ。刀も百人斬りなんてできない。だから『斬るたびに研ぐ、突くたびに打ち直す』。天魔王だって人間だ。みんなと同じように心を持ち、言葉を話す人間だ。捨之介と蘭兵衛と天魔王が、信長の御前で、交わした酒とか、談笑だってあったかもしれない(事実的にあることかどうかは知らん)。

ここまで語ってきたこと、天魔王がこういう人間であること、それが鈴木拡樹にぴったりすぎて、考えれば考えるほどより鮮やかな解になる。

・鈴木拡樹自身とか、その界隈のインタビューを読むと、彼のことを口々に皆「優しい」と言う。特筆すべきことでもないじゃん、優しさ、とか、と思うとともに、特筆されるべきレベルで優しいのだろうか、と思ったりもする。

・ここからはもうぜんぜん読んでるインタビューも観た芝居も少なすぎるので想像でしかない。でも、自分にとってはけっこう確実にこの役者の核に迫っていけてる気がする。

・今のところ、鈴木拡樹というひとについては、芝居にあることだけが正直で、振る舞いとか態度とかはぜんぶ嘘っぽいと思っている。

だから、天魔王よろしく鈴木拡樹についても人間界まで引き摺り下ろしてやるよ!と思っているんだけど、『舞台男子』で自分のことを「頑固」って言っていたあの言葉、あれにけっこうあっ、と確信を持ち、ただひたすらに感動した。

あれのおかげでこの人についてよく語られる優しさとか母性みたいなものが強固にそこへ根をはっていることがわかったし、それがこの人の腹の底にあるドロドロしたものから少しだけはみでた本音なんだなーと思った。この人の中枢にあるかけがえのない暴力をみんな知っている。

・うまく言い難いけど、要するに逆のひとだ、ということ。たとえばバラエティで櫻井翔が「ほんとうに駄目すぎるくらいルーズすぎるから分刻みでスケジュール立てるんだ」って言っていたけどそういう感じだと思った。いつも自分のアンチをいく。だから己の測定計において、自己愛と自己嫌悪の振れ幅は同じくらいデカいものの、それらの極がハンパなく遠い。完璧主義で、理想に追いつけない自分を許せない。だから常に自分のことを肯定したい、と思いながらも、常に自分のことを否定し続けている。常に二重である自己。まっすぐにひねくれているのでわかりづらいけど、常に2つ(もしくはそれ以上)の視座から自分を見ているために、やけに落ち着いていたりとか、達観したような佇まいがあるのもわかる感じがする。

・「頑固」だからこそ、「優しく」したい。他人に優しくしよう、と意識していなくてはいけないほどの、コントロールしようがない決意を、激情を、鈴木拡樹は持っているということだ。

・だから、いつも静かに笑っていて、あんまり人には言わない、そういう気がする。いろんな自分の意思を押し殺す「優しさ」。それはときどき、状況を正当化しようとしすぎて、確固たるものまで揺らぐことがあると思う。頑固すぎるから、意見を柔らかくしておく、みたいなことが苦手で、他人の線引きもわからない。自分は頑固すぎるから、もしかしたら他人がここまでオーケーとしているところを自分は狭めているのかもしれない、基準がわからない。だから逆に寛大になりすぎる。そこは譲らなくていいよ、守っていいんだよ、というところまで明け渡してしまうことがある。

・徳川家康は、天魔王の正体を、「空っぽ」の「仮面」、と言う。ほんとうにそうだ。あけすけで、鍵がバカになっていて、一向に開かずの扉もあれば、厳重にしておかなきゃならない扉が開いてしまっていたりする。まったく不器用すぎる。彼は、他人が自分の領域を侵すことを許容してしまう。鈴木拡樹の優しさは、自分を傷つける優しさだ。自分の意思がありつつもそれを殺したり、殺したうえで非自己を取り入れたりするのが苦ではない、という、自分の中身を入れ替えることを厭わない人間。そんなの、役者に向いてるに決まってる。

鈴木拡樹はほんとうに掴めない人間だ。ときどき、ほんの一瞬、芝居に本音を垣間見たような気がすることがあり、掴めた、とまた一瞬、思っても、彼の姿はもう、そこにはない。

でも、ほんとうにいい役者だ。語れなさは記号の豊饒さを示してくれるし、こういう”詩”のようなものを舞台上に観せられる人間は、そういない。「髑ステ」などと揶揄された(らしい)Season月だが、ベストアクトと呼ぶ声も聞く。若い現場にもいい人材はたしかにいるのだ。なにが本物か、というのは、本物を見ることでしかわからない。味わえない。理解だけじゃ何も面白くない。わからない、けれどなにかどうしても惹かれるものがある、それこそが魅力というものだ。これだけ言葉を費やしても、まったく掴めた気がしないのがこの役者の魅力の証拠だし、なにより演劇(その他諸々!)の素晴らしさ語るためには、このジャンルと役者は事欠かないのだ。嘆かわしいことに。