新世紀エヴァンゲリオンを見た

これを10代の頃に見ていたら大変なことになっていただろう、と思った。エヴァンゲリオンを見ました。26話。2日で。冒涜だと思います。時間をかけるべき体験だと思います。当時いろんな論考が飛び交ったんでしょう、という予測が容易にできる。たしかに見終えた今、なんでも言えます。物語について、キャラクターについて、記号について。だけど言いません。もう大半の人が言ってることしか多分言えないし、もうのめり込むエネルギーがないのもあるけれど、やっぱりあまりにも膨大すぎる。あらゆる要素が複雑に絡み合ってバランスを保って立っているから、書けない。考察とか分析とか、できないでしょう!この物語をひとつひとつ撫でていくことでしか生まれてこない感覚そのものがエヴァなんじゃねーの?!というわけでこれがすごいアニメ(アニメ?)であることはビシビシ感じたし、その結果こうしてなにか言いたくなって書くときも、正座するようなきもちになってしまうし、ただごとではない。エヴァから還らぬひとたちを決してバカにできないし止めることもできない。ほんとうに、どんなことだって言える。そしてそれらがすべて正しく、すべて間違っている。それぞれがただ等価に、あるようにあるだけだ、と思いました。

庵野秀明は痛いほど敏感なあの頃に渦巻いていた懊悩みたいなものに丸腰で向き合っていたんだろうな。大人になれなかったやわらかいこどものつくった物語。おなじようなひとたちがきっと取り込まれていったんだろう。もしわたしがもっと若い頃にエヴァを見てても多分これはわからなかった、というか、むしろわからされていただろうなと思った。答えをぜんぶ出されてしまっていただろうと。この感覚、いま見たからひどくわかる。箇条書きにできるとすればとくに25話、26話にある言葉以外でこの感覚を伝える術を見つけられない。わたしは中学も高校もボーッと生きていたので、思春期が遅れてやってきたのが高校卒業する頃、18くらいのとき。残された2年間の10代で一気にあのもやもやを鮮やかに傷つけて磨いて暴いて言語化していったように思う。やっぱりそのときも生と性と死、みたいなものにぶつかって、記号論とか身体性とか精神とか世界のこと、めちゃくちゃ考えていた。自分がいちばん痛かった。そのときの感覚をもう一度くぐり抜けるような物語だった、エヴァンゲリオン。そんなのわかってる、でもまだわからない、そういうものだろう。エヴァはいちばん苦しい懊悩を野暮なくらいまで丁寧に語ってくれた。だからすごかったんだと思う。そして、普通ならゆっくり人生のなかでひとつひとつ得ていくはずの哲学みたいなものを、エヴァは一気に与えた、視聴者は剥奪された。大仰なようだけど、リアルタイムでこれをくらった世代はなんらかのダメージを受けたんだと思う。良くも悪くも。

つうか現実逃避のために見ているアニメのなかで「逃げちゃダメだ」なんて言われたオタクたちはどういう気持ちであれを見ていたんだろうか。没入しすぎてあっちの住人となれば首肯もできそうなものではあるが。