瀬戸円盤鑑賞編集後記






・以下、このブログを読む上でわかっていてほしい、なげえキャプション、アテンションです。

・瀬戸祐介氏にはまってからというもの、過去作をしらべたり円盤をみたりするなかで「エッどういうキャスティングなん?」となることが多々あるのでまとめよう!のブログです。(役分析にあたってめっちゃネタバレがあるよ!!!!!)

・というのもキャスティングってだいたいあるじゃないですか。その「主人公やりがち」とか「悪役やりがち」とか。あとまあ「裏切りがち」「死にがち」「暗い過去を抱えがち」「剣士がち」「メガネがち」…。まあ属性ってことですね。そういったタイプ・キャスティング的なことってまあだいたい10本くらい作品見れば統計とれたり属性わかってきたりすると思うんですけど瀬戸祐介氏、マジでずっとわからん。むしろ見れば見るほど属性はばらばらに分かれていって、ちょっと途方もない把握のできなさで、いままでヲタクをやってきてそんな経験したことなかったので結局この世に出回っている円盤や映像で履修できるものはほとんど見たら把握できるんじゃないか、おおもいました。

・ぜんぶ観たけど、でもなんかまだちょっとわからん。ナンデ?

・ということでまず整理しようとキャラを座標に分けて分析してみたんだけどやはりあまりにも瀬戸氏の役属性がばらばらすぎて無理でした。1日かかったけど座標軸が6個くらいになってしまい何次元で表記すればいいかなんにもわからんになってしまった。

・ので、筆者が瀬戸氏を見た順にただただ感想を喋っていくことにする。喋る、というのはほんとにマジでまとめれてないからです。喋りながら思い出して脱線してはまた戻り、何度もおんなじことを言い換えながらあんまりまとまんないまま急に終わるぞ。作品鑑賞当時のツイートを眺めながら、先述したような瀬戸氏の謎である「ばらばら」さについて、その一筋縄ではいかない複雑さについて、オッ!と思った演技や、挙動、言動、その他示唆的だったことについてだけ触れていきます。考えるためのノートとして、他人の板書みるみたいなきもちでおよみください。

・なので「ウッワここの胸ぐら掴まれてるときのウザったそうな顔エッロ……」みたいな脳直感想はここにはぜんぜんないぞ。

・芝居をとおしてどういったキャスティングをされてるのか(キャスティング側が瀬戸氏のどういった要素をキャッチしてキャスティングしているのか)。瀬戸氏がそのキャラや芝居のことをどう掴み、どう出力しているのか。それ以外に見えてきたこととして、瀬戸氏という役者がどういう性質を持っているのか。

・みたいな拡大解釈謎解き。事実とはまったく関係のないことだとしても邪推をポンポン挙げまくるのでよろしくな。いつもあることないこと言う…ほんとうにマジですいませんとくに瀬戸殿…。

・あともう一個注意点としてはめっちゃ独断と偏見しかないし本音ばっかり言うので推しのかかわるものすべてを手放し全肯定系(?)のひとは見ないように。ってまあそういう人間はこんなブログ見ないと思うが。でもな、ほんとうに悪評はまったくないです、一個も。かといって、まあこれは読んでいけばわかってもらえるように書いてくつもりだけど、筆者には事実としてそう見えてるよ、っていうのは言っていくので、もしかしたら語弊があって、もしかしたら一回傷つくことがあるかもしれないよ、ということは言っておきます。だって好きな人のことはぜんぶ素晴らしい言葉で語ってほしいじゃんか。それは分かったうえで、いろいろ言っています。というのをご容赦な。

・あとシリーズものは作品名として1作目2作目みたいなのはまとめて書くんで番号振ってあるけど誤解なきよう。

・そんでまず、このブログは3万字以上ある。何故そんなになげえブログにしたのか疑問をもつだろうが、28の項目について語ったと思えば単純に割って1作品1000字程度なわけだから、この3万字にわたって長い論文が繰り広げられているわけではまったくない。記事を分けなかったのは先述したとおり話が行ったり来たりするからで、そのたびにリンクを切り貼りするのが単純にじぶんで面倒だっただけだ。

・というわけでたぶんこのブログをよむのはめっちゃしんどい。きっと全てとは言わないまでも瀬戸作品をだいたい全体的に把握していて、かつ筆者のよくわからない造語とかについてこれるひとしか耐えられんとおもう。すまんな。考えるためのノートなもので。

・ではいくぞ。




1.刀剣乱舞

■瀬戸氏にお初にお目にかかったのは刀ステ。

■初演から見たので江雪さんずいぶん違う感じのひとにキャス変になったなあという感想だった気がする。前のキャストは輝馬氏。

■瀬戸氏の第一印象は「サービス精神のある善人」だった。おもに特典の感じ(バクステ案内をしてくれた&アンサンブルともメインキャスト以外とも仲良ししてる感があった&なんか根明お兄ちゃんみたいな感じなのに落ち着いていて奥ゆかしさがあり好感をもった)と千秋楽カテコ映像(泣いちゃったのに茶化した)を見ての感想だが。

■あと「機転の効くひと」。日替わり演出にたいする解(ロシアンシュークリームの件)が最高だった。まあ瀬戸氏のことすきなひとはこれはもう了解済みだとおもうが、なんであんなに頭の回転はやいのかね。

■と、まあわりと印象あるじゃん風に書いてはいるが、この当時はほんとうにまったくといっていいほど特筆すべきことはなかった。語弊もなにもなく、実際ツイッターとか見ても、当時瀬戸氏についてはなにも書いていない。なので先述した印象はあとから思い返して、無意識の領域から感想引っ張ってきたみたいなもので、多分実際のこの頃の筆者の把握としては一言で「キャス変したほうの江雪」。

■いやこれはさすがに。でもいろいろ理由あんのよ、その、筆者がここではじめて2.5に入ったし、その契機は鈴木拡樹氏だったとかさ。おもに鈴木拡樹氏(主演)を見ていたためそのせいで印象がないってだけであって瀬戸氏におちてから刀ステ観返したらけっこう「やってた」。流石こだわりの役者。キャラを深く理解し、インストールできすぎ。瀬戸氏はけっこう「やってんな~」の役者だ。なにを「やってる」かはいろいろこれから語ると思う。よろしく頼む。


2.ヒロステ

■「イレイザーヘッド:瀬戸祐介」を5度見くらいした。実際にイレヘ、セティなの?!というツイが残っている。

■感想としてはこのときもまあ特に、という感じだった。というのも相澤先生はあんまりこう、おいしい役どころではあるけどあんまり遊べはしない役な印象なんすわ。硬派で合理主義の鬼(ではないかも)教師だからそりゃそうね。なので役者として演じるうまみはそんなにないような気はする。

■だがヒロステは「みんなのお着替えタイムを埋めてくださいタイム」みたいな、本筋とはあんまり関係のない日替わり脳休タイム、みたいなのがあって、そこでも瀬戸氏の「機転の効くひと」っぷりは顕著だったなと思う。あとは「フラットさ」。客席をきちんと見ている。ちゃんと客の反応を拾う。

■あと端々に光るセンスというか感覚のよさ(せりふ、音感、間、空気の読み方、拾う部分)みたいなものがあって、このひとは役者としてじつはすごく優秀なんじゃ…みたいなツイートをしたことも覚えている。これは的中、実際そうだった。

■加えてこれも特筆しといたほうがいいと思うのだが、ヒロステは兼役(キャスト数とキャラ数が合わず、都合上のやらざるをえない、というほうの意味で)がけっこうあり、そこで瀬戸氏がやってた「ネイティブ」というヒーローがいる。そいつがまあ~相澤先生とは程遠いキャラ出力なんですわ、わかりやすく言えば「奔放」。ここで瀬戸氏ってこんな…???となるひとは多いんじゃないかと思ったので書いときました。だって筆者もそうだったもん。だってだって最初に「江雪」「相澤」っていうクソほど感情が(バーッと表には)出てこないような役を見てきてさあ、言ってしまえば「このひとは目立たないな」と思っていた(でもこれはこの役者のでっかい特徴の一個なので後述します)(主に「ダブステ」の項目で)のにこんななんか爛漫な…こっちの出力もイケるクチか…となっていたのはマジの事実。


3.BASARA

■ここで筆者はおちた。

■先述した「感情がバーッと表に出て」くる瀬戸氏の芝居をはじめてみた。とにかくこの役者は「芝居のひと」だったのか、ということがひどく胸を打って、幕が降りてからもずっと肌が粟立っていたことを覚えている。

■そのほかにも特筆すべきは、瀬戸氏はこの作品で「2役」といっていいようなキャラをやっていること。

■メインとしては「揚羽」という役なんだが、揚羽は「帰蝶」という名も持っていて、「帰蝶」のときは女性のナリをしている。その振れ幅。これも後々にはこの役者の特徴だとわかる。これは「振れ幅のある演技」なんてありきたりなものではない。

■なんていうか、「極の遠い人」。

■振れ幅。ひとりの人間のなかにある北極と南極の遠さみたいなもの。そういう極の遠さを同時に、双方持つ「ひとりの」キャラクター。揚羽↔︎帰蝶というわかりやすい二面性もそうだけど、揚羽というひとりの人間のなかにもまた遠い極がある。

■「山猫」でこれは補足します。


4.帝一の國

■一章は「本田」という役。二章かられっきとして「2役」になります。

■ん?

■1作品で兼役、は、まあそりゃキャストの人数の都合上(例:ヒロステ)わりとあるけど、全く違う役をちゃんとどっちも重心置き換えてやることってあるのかよ。

■二章が一章に引き続き「本田」と、その他に2役目の「蒜山」という役もやっています。

■が、「蒜山」には2つの姿があります。「坊主のすがた」と「姫カットのすがた」ね。

■は?

■三章にいたってはその「蒜山」としてしか出ていません。しかもヒール(悪役)という。これがま~~~あありがたいサンプルだったんですわ。

■まず本田は「引っ込み思案で照れ臭い」系の「僕」っ子なんだが、蒜山は、硬派ではあるけどモードでアングラな感じのヒールなんですよ。

■本田と蒜山の振る舞い方が全く異なる。それは見た目とか芝居とかいうレイヤーにおいてもそうだけど、もっとその奥にあるものが違うと思う。身体をみていただきたい。心性があらわれる、表象としての身体のすがたのことを。

■帝一の國シリーズには「大海帝祭」という、テニミュでいうドリライみたいな(多分)、刀剣乱舞でいう大演練みたいな(多分)、そういうエキシビションがあります。劇中ナンバーだけやってくライブのやつな。ここがわかりやすいかな。振り(型)が決まっている「ダンス」というものが本田バージョンと蒜山バージョンでどう違うのか。同じ曲を違う身体で見れるってことはそうそうないが…こんなにありがたいことがあるかね…。

■あ、帝一の國は歌って踊るぞ。

■ここで気づいた瀬戸氏の特徴としては「身体性の鬼」。キャラもんというか2.5系って、演技はキャラっぽくても、歌やダンスになったときに中の人に戻ってしまうことって多い。瀬戸氏itselfのダンス(?)っていままでみたことないし、見てるとして数もそんな多くないから中の人の動きに戻ってるかどうかは明確ではない。んだが!これだけは言えるのは、マジで驚くほどに本田のときと蒜山のときで瀬戸氏の身体性が異なるんですね。比較していちばん差異がわかりやすいのは裸太鼓のとこ(本田は一章、蒜山は大海帝祭)。個々で本田がすごいのはランプの精のとこだし、蒜山がすごいのはうーんどれ選定しようかな…歩き方と立ち方なんだけど蒜山はわりとナチュラル瀬戸氏とニアリーイコールなので、本田と蒜山の違い、をとにかく見てほしいすね。

■あと顔。メイクとウィッグもそりゃあるけど、表情筋の使い方が違う。使い方ってよりもうその源流が違うっていうか。表情って内面がめっちゃ出るじゃんか、このひといまはほんとには笑ってないなとか、げんきないなとかわりと出てしまう。そういう、本来なら意識的にあんまり制御して使わない(使えない)ような部分がガラッと変わるっていう。わかりやすいのは大海帝祭特典バクステの円陣のとこ。姿は本田なんだけど身体と顔が本田じゃない。笑ってるか笑ってないかとかそういうことではない。このふたりの笑顔もまた違うしね。帝一の國はそういうサンプルをいっぱいくれました。他にもあるけどいまんとこ割愛。とにかく身体性の鬼。のちに「ダブステ」の項目で文脈とともに語るけども。

■あと特典はあんまり稽古映像とか入ってなくてほぼキャストインタビューなんだけど、確か大海帝祭だったかな?の特典キャストインタビューで演出の小林顕作氏の発言をスッと拾うとこがあるんすわ。これがまた示唆的。

■ここでいえば『顕作さんそれ(大海帝祭を青年館でできたので、ドームとかでもやりたいこと)狙ってんすか?』っていう発言なんだけど。

■こういう瀬戸氏の「アンテナに引っかかる」ところ。他人への興味というか、好奇心というか。瀬戸氏ってじつは博愛ばりの(?)人間大好きマンなんじゃねえかな、となんか思う。完全に根拠のないフィーリング邪推だけど。

■たとえば瀬戸氏のキャラとの出会い方として、あんまり確証はないんだけど「この人はどういう人なんだろう?」っていうとこから入っていく気がする。いやそりゃみんなそうだとは思うけども、なんていうか「情報収集」というよりは「興味」な感じがあるというか。「何を訊くか?」ってその人の興味に直結してるし、人が超出る。ここに意識的な自覚と、客観性をも感じるというか。

■そう思う根拠はというと、座談会やインタビューで顕著に出てると思う。ああいう人は飲み屋とかでもそうじゃんか。そのまま通り過ぎてしまいそうなところで一瞬立ち止まり、スッと入って拾う。そしてこれは自分の興味でもあるが、視聴者のニーズのことも片目でチラ見してるような感じの質問。

■で、『顕作さんそれ(大海帝祭を青年館でできたので、ドームとかでもやりたいこと)狙ってんすか?』について。

■文脈としては、ファンは続編を待っているけど帝一本編は完結してしまったので、大海帝祭みたいなのを何度でもやってほしいと待望しているし、演者のみなさんも大海帝祭たのしかったよね、ってことで次もっとでかいとこでやりたいね、という流れがあった。そこでこの「狙ってんすか?」という発言は、ファンのみなさんの希望への応答(ほんとうに演出家が次やろうとしてるのか?という精査)であり、煽り(応援してくれたら次あるかもしれないよ!)でもあり、たぶん自分の単純な興味でもある。ほんとにもっとでかいとこ狙ってんの?っていう。

■こういうとこに瀬戸氏のアンテナが見える。気がする。

■そして、視聴者のニーズを汲み取るという点で「代弁者」としての性質もうかがえる。この性質が芝居に見て取れるのは「金色のコルダ」で後述。

■作品についてはもう素晴らしすぎてねえ、2.5の括りじゃなくても演劇作品として相当にカッコいいレベルまでいってるので、書いたらちょっとあと一万字はダテじゃなく増えそうなので、ツイッター見てください。このへんとかも。

■というわけでこれはまずおすすめしたい瀬戸氏。星5つ。


5.戦国BASARA

■こちらもまずおすすめしたい瀬戸さんになり申す。

■明智光秀(ほんらいのすがた)と天海(明智の仮のすがた)(これは公式でも明智=天海と言い切られてはいないっぽい)としてこれまた2役あるパターン。

■この2役の差異がま~~~あ絶妙なんだ。なんかブロマイドとかスチール撮影風景(youtube)とか見てもらえたらすぐにわかる。ここでは振れ幅というのではなく「絶妙な差異」といったほうがいい。明智も天海もほとんど出力おなじなんだけど(語弊をおそれずに言えば)明智はメス、天海はオス。もっといえば明智は愛人、天海は未亡人(まあこれは信長公との関係値としてわりと言い得て妙な表現とは思うけど)。

■特筆したいのは明智。あなたこんなシナのある身体もお持ちなんですか?というまた新しい引き出し。

■だって江雪→相澤→揚羽・帰蝶→本田・蒜山(坊主)・蒜山(姫カット)と見てきて、たしかに「線の細い奴」はおったが、全員きちんと「男性的」または「オス」または「男の子」の身体ではあったんよ。

■いや明智もしっかり男ではあるんだが、なんかメスみがある。首が傾ぐ、肩がおちる、腰が入る、という女性的身体性。もうなんかびっくりだよ。こういうのあなたできるんですかよ。これがなければ身体性は「カタい感じ」かもなあ、と、ひとつ軸を持って特徴を捉えられそうだと思ってたのに…。また軸がぶれる…。

■あと身体性以外に特筆すべきは、役として芝居がけっこう出力デカめというか、解放に近い、ということ。こんなに暗そうなのに(暗い奴は持ってるエネルギーがすくないという偏見)ね。狂気系ダウナーエモキャラです。でも硬派。しかし信長公しゅきぴっぴなどこかゆるふわ巻き髪OL(ギャル)みたいなとこもあり(個人の感想です)明智はほんとうに最高(急な収束)。


6.メモミュ

■こちらもまずおすすめしたい瀬戸さん、なんだけど、筆者が勝手に優先度高そうと予想したやつから見てってそのヤマがだいたい当たってぜんぶおすすめになってるってだけで、こっから延々とおすすめが続くわけではないのでごあんしんください。みんなもだいたいこんなかんじの順で見てると思うけど。なあ、そうだよな!

■これはヒロステのネイティブさんの声の高さ(?)とか帝一の本田のかわいさ(?)とかが急所だったひとにおすすめ。

■特筆すべきは「主人公」。この「マーチ」というキャラは瀬戸氏の役のうちでけっこうレアキャラ。なんせサンリオピューロランドだから。瀬戸氏も「おれサンリオピューロランドで働いてた」って言ってたから。いや働くって言うな。

■というわけでテーマパークのショーパレそのものです。

■出力が上の方にすべて振りきれております。声は高いしでかいし動きもでかいしまあかわいいしもうなんかでかいイヌ(概念)(イヌではない)。かなりおすすめ。

■後述するけど瀬戸氏は(語弊あるが)(「楽屋」の項でたんまりと後述するが)「ゼロ番の星に生まれてない」役者(まあ180センチという時点でゼロ番属性にはならないとは思うが)だと思っていて、だからこういう役者にこういう天真爛漫天元突破ド主人公、みたいな役があてられたのはほんとうに謎(あとで主人公/脇役という属性については語る)だし、でもそれでも芝居みたら普通にれっきとして主人公で、これまた謎(芝居としてはほぼ型の芝居なのだが、それがかなり勉強してきたな…みたいな身体性。相当デフォルメの身体、ディズニーとか、見たでしょっていう。たぶん勉強はしてきてないだろうし本人のセンスでやってるんだとは思うけど)。なんでこんなのも出来てしまうんだよ。円盤特典の発言ではマーチというキャラに距離をとって眼差したうえで、それを楽しんでやっている、というのが見て取れる。まあこんなド主人公に共感できる成人はそうそういないと思うが、自分から遠くて、笑えてしまうくらいに適正に距離があるキャラを100パーのエネルギーで出来て、かつ乖離なく魅せれてしまう、というのはすごいっすね。浅はかな褒めでもうしわけない。でもこういう子ども向けみたいなとこまで全霊でファンシーをやってのけるというの、ほんとにすごいなって思ったんだよ。

■ちょっと違う話をするけど、さっき言った「遠い」他人の性質を理解できたり、自分の中に「わかる/共感できる/自分に近い」と「わからない/共感できない(理解はできる)/自分から遠い」という、どちらの感覚も両立して携えることができる、ということに対して、ひとつの符号が合うなあ、と思ったサンプルがある。

■ヒロステ円盤toho版特典のトークである。

■『高校のときに苦手だった科目は?』

■瀬戸氏は「道徳」だという。

■たとえばですが。「道徳のひと」といって筆者の頭に浮かぶのは、ヒロステ主演の田村心氏。彼がブログに書いていたことがあったのだが、「悪役の心がどうしてもわからない」という。それはじぶんのなかに確固たる、譲れない「善」の心があり、それは「一般道徳」として、教科書に説かれてきたことである。「困っている人がいたら助けましょう」とか、いかなるときもそういう判断基準をもつひとのことである。

■だが、瀬戸氏は「道徳」が苦手だった。理由としては、『どっちも分かっちゃう』から。

■瀬戸氏について、言うなれば「倫理のひと」だと思う。「一般道徳」っていう決められた価値観が一本あるんではなく、個々のコンテクストに従って価値観を揺らがせながら理解していける、という。「困っている人がいたら助けましょう」、それはそうだけど、もし、自分がめちゃくちゃ急いでいたら。困っているふうに見せかけて、その相手が自分を騙そうとしていたら。これは猜疑心とかではなく、ケースバイケースの判断として。述べたケースであれば、たとえば治安の悪い場所とか、文化の違う場所だと判断変わるよねというか。海外でのふるまい方とかな。「倫理のひと」のなかには勧善懲悪というものはなく、ただ片方の「正義」と、もう片方の「正義」の差異があるだけである。どっちも言ってることはただしい。ヒロステを観たひとならこれはわかると思う。ヴィランの側にも正義はある。たとえ世の道徳に反していてもだ。この「どっちの正義もわかる」。相反するものを、どっちの本質もねじ曲げずに、両方をじぶんのなかに置いておける。こういう思考というか傾向が、瀬戸氏を「2役のひと」にさせるのだと思うし、瀬戸氏とキャラのあいだにある「距離」を解くサンプルにもなる。この「距離」についてまた話を逸らしながら以下で語るよ。

■役者と、役のあいだにある、距離について。2.5次元界隈だと、演技評として「キャラそのものだった」とか、「キャラがそこにいた」とかよくききますが。たしかに2次元のキャラは味付けめっちゃ濃いし、普通にそのへんにいるひとたちとは全く違うし、「設定」として一生を物語として制御されているし、元がアニメであればすでに声優が立てられているから、2.5における「0.5」の一部である、「声」までもちょっと制御される。

■そのキャラに、なる、のか。近づくのか。引き寄せるのか。そのどちらでもないのか。役者と役、そのあいだに、どういう距離があるのか。または、距離がないのか。

■そんなものはない。と、そう言ってしまえばおしまいなのだが、本来そんなものはないと筆者は思っている。だがここでは演技体系のことを語る意味がないし、ややこしくなるし、長くなるので、ここでは2.5次元舞台を把握しやすいように、距離がある場合として語る。(ややこしく長くなる場合の自分用メモとしてリンクだけ貼っておきます)(ここでは触れないぞ)

・Apr.29 u-ench.com NOTE

流行語の使い方 | 瀬戸祐介オフィシャルブログ「ゆーすけ、一球入魂中!」Powered by Ameba

■瀬戸氏の評というか感想ツイとか見ていると、「カメレオン俳優」だとか、「憑依型」だと言われていたのを見かけたことがある。しかし筆者は瀬戸氏を一概にそう呼ぶのはなんだか腑に落ちない。だってカメレオンって言うにしてはそこにれっきとして瀬戸氏が見えるし、憑依って言うにしては、瀬戸氏の芝居はいたってシラフで、常温で、フラットで、うっとりしていなくて、客観性がありすぎる。って並べてみると筆者の思う優秀な役者の条件がすべてそろっているな?まあだから追っかけることになっているのだが。

■カメレオンとか憑依型っていうのはキャラとイコールになること、つまり自分と他人の輪郭をすっかり重ね合わせてしまうことだと思う。でも瀬戸氏は自分の輪郭は確固として保ちつつ、キャラとの接合面をはっきりと認識しながら、遠隔操作として芝居をしているような気がする。主観と客観のあいだでバランスよく立っており、そこには自我があり、理由がある。役者と役の魂はどちらも一体化することなく2つがべつの形をしてそこにあり、お互いがお互いの魂の変化を聞き取ろうとする、一体化ではなく、融和、しようとする、じりじりとした交歓が持続してそこにある。うーんまあ要するに、セックスは他人としかできないよなってことですね(?)。

■キャラから距離をとって、客観的に、他人として見ること。そうすることで自分とキャラとの差異がみえてくる。その差異はおもしろさだし、キャラをほんとうの意味で愛することにもつながる。自己愛とキャラ愛がイコールになっては、そのキャラを愛する客にはよくうつらないだろうと思うしね。キャラとイコールになってしまっては何もみえなくなってしまう。イコールになったら、褒められても謙遜するしかなくね?っていうか。「マーチの持ってる明るさは(ヤバいという意味で)すごいよね」、みたいなことを客と同じ目線で話せなくなってしまうっていうか。

■筆者は瀬戸氏を「換骨奪胎俳優」と呼んでいるフシがあるのだが、そういうことだと思う。模倣ではない。追従ではない。かといって独創的になりすぎたりはせず、わきまえて、エゴを出さない。キャラと距離をとって把握し(客観)、キャラに殉教して芝居をすることで(誠実)、創造的で、嫌味がなくて、ちゃんと瀬戸氏の味がある、おいしすぎる役どころになっているのだと思う。


7.モリステ

■なんでメモミュのあとにモリステをみたかわからない。

■これはシュッと綺麗系な瀬戸氏を見たいひとにおすすめです。なまえは「アルバート」。まあヲタクはすきだろうなって感じのキャラですわ。自らは手を下さないタイプの黒幕というか。三揃い着込んで涼しい顔してるよ。所作とかすべて綺麗だよ。

■筆者がすきだったシーン(瀬戸ダイジェスト)はランプ携えて教会にきたアルバートの独白。このときの一瞬のまばたき。いつもポーカーフェイスでなんでもお見通しだよって顔した人間の動揺と綻びが見えてすごく奇麗だった。

■モリステはネタ仕込み芸人としての瀬戸氏のサンプルが多かったなあ。こんなに綺麗めの役なのにな…。特典には楽屋だったり企画だったりカテコ挨拶が入ってるので仕込み満載。あとで「青春鉄道」の項でちょっと語るけど、瀬戸氏はマジでいつも仕込んでくる。まあ普通におもしろいことがすきとか笑い取るのすきとかそういう話なだけだとは思うのだが、なんかやって相手の反応をみることがすきなんだろうなと思うし、そのことは「アクター」の向こうの「リアクター」としての資質に繋がっているとおもう。想像力の話かもしれない。なんかぼんやりと企画があったうえで、なんにも持ち寄らずに即興でやるだけじゃプロの芸人だって百発百中でおもしろいことになるわけがなく、基本的になにかしらのネタをきちんと用意しないと確実におもしろくならないわけで。たとえばなんだろ、転勤が決まったりとかの送別会ってぜったい「一言お願いします」がくるのわかってるじゃんか、そうなったときに前の日のうちに用意しとくでしょ、しないか?するよな?一般的には。瀬戸氏はわりと日替わりのときもかなりそういう…なんていうか「仕込み」もそうだけど「手配」までをもしているんだよな。今日はこういうことするから、こういう感じで返してね、という「手配」までの「仕込み」。それはまああたりまえといえばあたりまえなんだけど、別に瀬戸氏は芸人ではなく役者なわけで、そこまでサービス残業する筋合いはないわけじゃないですか。だからッハ~ちゃんとしてんなあ、とは思いつつ、基本だよなあ、というか、社会人ならなんも言わずとも取引先に菓子折り持っていけるよねみたいな。またサラリーマンみたいな例えしたけど。いやそれともただ単に、瀬戸氏がもうただただ笑い取るのが大好きでちゃんと笑い取るためにちゃんとそこまでしたい、というみずからの欲であるのかもしれないし、瀬戸氏の「仕込み」はそういう「肝すわりすぎ」なのかさっき言った基本みたいなものをこえた「サービス精神」なのか、いつもわからない。

■にしても見事すぎるユーモアセンスだなといつも思うけどマジでなんなんだ。


8.山猫

■これも癖(ヘキ)なひとはハチャメチャに癖だとおもう。

■ネタバレこれはない状態で見た方がいいのでまだ言いません。これからみるひとはこの項はとばしてください。モリステのアルバートと属性は同じだなあって思ってモリステの次に見たんだが、まったくちがったよ。合ってるのはスーツ姿くらいだったよ。

■でもこれは出力デカめだし、けっこうモロの瀬戸氏(キャラ感すくなめ)(地毛のゆるパーで出てる)なのでその点でもおすすめです。役者の性質があらわれすぎてるキャスティング。これは「楽屋」の項で引き合いに出して後述します。

■あとせりふ以外(マイクにのらないとこ)で違和があり、これもキャラというか役として筋が通っている。いちいちこういうところで立ちどまらされる瀬戸氏の芝居がたいへんに好み。いつも煙に巻かれる。

■このへんからネタバレがあります。山猫を見たひとにはわかる、みたいなかんじで福原と瀬戸氏について書いていくぞ。

■福原という役にみえるのは、「コミックジャック」の項で後述しますが瀬戸氏の(語弊あるけど)「暴力性」。そしてBASARAで先述した「極の遠い人」からひいてきて「裏表(のある人)」。それから「周縁」にいるという人物性(「楽屋」で後述)。だからこの役者の役の統計が取れないんだわなあと思う。そりゃ〝ばらばら〟な役を振られるわけだよ。でもべつになんていうかばらばらと言ったって自失しているわけではないというか、自暴自棄になっているわけではないんだよね。この役は「裏」と「表」があるように見えるけれども、それはどっちも自分だよって開き直ってるまであるくらいの感じだし、それも俯瞰で見て重々に承知している。むしろ「裏」を楽しんでやっている。こういう怖さ。醒めたまなざしで「善/正義/道徳」を見つめ、裏を裏のままケロッと抱えて生きている。裏を見せびらかすわけでもなく、隠していたわけでもない。それをそうと見せない芝居。演出や脚本がうまいのもあるけど。

■たとえば「テーマを背負う」芝居をする役者がいる。なんかその~、また例えが極端だけどのちに病気で死んでしまう役とかだとしよう。その設定自体はべつに客の涙を誘わない。よくある設定だし。もしも泣けるとすれば、その役が結末を知らずにいることだとか、結末を知っていたとしてほんとうに明るく振る舞っているだとか。なのに、そういう場面で情感たっぷりに泣きの芝居をされたとしよう。それはなんか興醒めじゃね?っていう。その役者は公演中何度も役として死ぬだろうし、死ぬっていう結末は当然に知っているはずなんだけど、物語は幕が上がればつねに新鮮にゼロからはじまる。役としてその「設定」について知らないフリをする、というのではない。嘘をつくんでもない。観客にどう見せるか、ということ。先にも言ったがこれは演出とか脚本も影響してくる部分ではあるんだけど。

■福原は一貫して「そのこと」を隠してはいない。知らん顔もしていない。そこにただ飄々と、そう「居る」だけだ。だからときどき観客はつまずく。あれ?この福原ってなんか刑事にしては…?みたいな。いやでもまあ、チャラついてる系の同僚ってこの霧島という真面目くんの対比としてまあいいよね、アリだよねえ、みたいな。そういう意味で唯一つまずかないキャラである、霧島(和田琢磨氏)に観客は〝ついていく〟。霧島は「信用できる語り手」として観客の視点を知らず知らずに誘導していくわけですね。だから、福原に「裏切られる」。誰も福原に〝ついて〟いったひとはいないと思う(推しを観る観劇っていう意味では瀬戸氏しか見てないよってひとはいるとおもうけど、物語を把握するまなざしとしての話な)。客はみんなきちんと「裏切られ」、善と悪の構造ができあがる。でも福原のテイストはとくに変わっちゃいない。「そのこと」が明らかになったときでも、福原は演技なんて1ミリもしていない。「悪いことだと知りながら」なんて概念は全くないのだ。

■にしてもまあ分かりやすいサンプルだね。この「二面性(多面性)」みたいなのは福原を見て確信しました。

■「BASARA」で後述すると言ってたことをやっと喋るけど。瀬戸氏のこの裏表、またはギャップ、または二面性、これは「振れ幅のある演技」なんてありきたりなものではない。

■やっぱり「極の遠い人」。

■振れ幅。ひとりの人間のなかにある北極と南極の遠さみたいなもの。福原もなにもかも了解済みで、表と裏を携えて生きている。瀬戸氏の謎が一回解けた瞬間だった。そりゃ謎なわけだよ。両面どっちも正しいんだから、統計と分類なんてできるわけがない。「一概に言えない」とか「掴み損ねる」とか、筆者が瀬戸氏に対して思っていたその感覚こそ正しかったのかもしれん、と、ここでやっと気づいた。


9.富豪刑事

■これも癖(ヘキ)なひとは癖系。

■当時「ま~~~た頭が切れて嫌味でナンパな軽い男やってんな???????????奇麗で胡散臭い奴やらしたら天下一品か??????????」というツイートが残っているぞ

■こっちはあんまりネタバレではない(わかって見ても感じ方にあんまり影響ない)んで言っちゃうけど裏がある系。アルバートとはまたちがう綺麗さというか、スタイリッシュ寄りといえばいいんか?

■筆者は芝居がすきでした。芝居というか振る舞いというか身体がたいへんによかった。愉快犯としての軽薄さ。かなりいいキャラ。やることは「道徳的」にいえば「悪」なんだけども筋が通っていて宮城になかば共感してしまう観客もいそうというもんな理に適った言説をお待ちなキャラ。主役としての悪の華、ピカレスクロマンをも飾れようというもんなキャラなのに、決してそうはなりえない滑稽さ。世も人もナメている頭の聡明さと身体の幼稚さ。

■滑稽とはコメディということでは決してない。「道化」である。これも瀬戸氏の役に特徴的な傾向かもしれない。だらだらと続く日常、平和ボケした世界に出没し、一元的な価値観へと世界が膠着するとき、抑圧された側の価値観の側から、世界を笑い、ひっくり返そうと世界を躍る。「道化」「二面性」「客観性」「バランサー」。瀬戸氏をみるうえで挙げてきたキーワードだが、かなり符合、というかんじがする。

■この作品世界のうえに立つ宮城の言動、一寸先が闇である。この人は何を言い出すんだろう、何をしでかすんだろう。そういうひりひりとした空気をつくる。ギリギリの滑稽。一歩間違えばこの作品のバランスを欠いてしまうような。そのくらいのギリギリさである。笑いそうになり、ハッとしてはまた笑いそうになり、ハッとする。そういうストレスで場を満たしてしまう。どこまでが嘘なのか、本当なのか。信用が錯乱する現場のなかで、少なくとも彼だけはずっと本音を言っていた。


10.ヨナ

■登場シーンそんなないんで後回しでいいとおもう。

■けどまさかのなんか…なんていえば…イケおじ系…イケおじ系?!まあビジュからもそれはそうだろうと思っていたが重くどっしりキャラかと思いきやわりと野生的お兄やんみたいな感じだった。チカラ・バカ幼女というか雑というか血気盛んじゃじゃ馬武人(?)の既婚者、「グンテ」さんだぞ。どれかといえば相澤あたりにフォルダ分けされるかなと思う。相澤との明らかな差異としてはグンテは「動」っていうかエネルギッシュっていうか勢いのある漢というかんじか。果敢で元気な相澤。いやぜんぜん相澤でもないけど。いずれにせよいちばん漢度は高め。でもかわいい。奥様がキャッピ♡してるのをちょっと引き気味でウンウン聞いてたのにだんだんおだてられて結局チョロ武人になってしまうホイホイ感とかな。これがすきだったひとはこのあとの「封神演義」と「ダブステ」でチョロい既婚者がみられますので御参照。

■円盤特典はキャストみんなでの対談みたいなのが入っていて、ここでも瀬戸氏の「代弁者」の一面がうかがえるところがあります。

■ヒロインが生駒ちゃんなんだよね。生駒里奈さん。その対談のなかで地元トークみたいなのがあって、生駒ちゃんが秋田出身として雪かきの話してて、そこで『生駒ちゃんも雪かきとかすんの?』って言ってた。これ、これな。この円盤はどんな層がみているのか、その層はなにを訊きたい、見たい、と思っているのか。それを、自分の好奇心から外れない部分できちんと拾う、という、「場をみる」役者としての感性がやっぱり光っているなあと筆者は思ったぞ。このDVDは生駒ファンが多いんだろな~っていう、分かってる感。あとはみんな「へえ~」で終わってるとこを広げるっていうのと、まあたしかに、ふつうに気になるし。

■こういった「みんな感じてるけどなんかもどかしい」的な、でも意識できないくらいになんとなく思ってること、そういうのをスッと拾う。舞台上にいてもそうだ。たとえばこれまた微妙な例だけど、誰かが噛んだとか転んだとか出トチったとかがあったとして、客はやっぱり絶対に気になるんだよね。思考とか集中力がそこで途切れる。だからそこで一回「おい待て」「もっかい言ってみろ」とかツッコミを入れるだけでぜんぜん違うと思わんか?みたいなことです。ちゃんと気づいて、一回触れてあげる。そういうのは客観性と、舞台度胸と、それに気づくアンテナをもっていないとできない。だから瀬戸氏は日替わり担当の役どころも多いんだろなと筆者は思う。


11.封神演義

■わりとダークホース。

■メインは(メインは)「紂王(ちゅうおう)」っていうキャラでまあどんなキャラかは調べてもらえたらすぐわかるんだけど威厳のある硬派重めな王様人格と奥様メロメロ好色ダメダメ君主な人格とが行ったり来たりします。ここでまず既に2味おいしい。なのに劇中でけっこうな早替えのち瀬戸氏が出てきます。女性の姿で。

■エッ?

■これべつにパンフレットとかに「何役」みたいに書いてるわけでもないから都合上の兼役っちゃそうなんだけど結構重要な役割を果たす役。名を「殷氏(いんし)」という。哪吒(なたく)というキャラの母親である。この哪吒ママがま~あすごいんだ。ここだけ遊びすぎ。かなり奔放にやっておられ、円盤特典では通し稽古のあとの総括(だめ出し時間)に「上演時間が伸びています。主に瀬戸だけど」と演出家氏に言われるレベル(爆笑)。

■しかしギャグ要員なだけでは決してないのだよ。哪吒ママとして、母が子にしてあげられる「愛」そのものの芝居があるのです。そこのコメディ→シリアスの切り替え。これがグラデーションではなくほんとうにガラッ!と変わるので筆者は気持ちが追いつけないまま呆然とその芝居が滾るのを痛切なまでに眺めていたことを覚えている。瀬戸氏の滾る芝居を観たいひとにおすすめです。わかんない。肝心な場面はお顔うつってない(メインは哪吒君なため)し、筆者の幻覚かもしれない。ほんとにちょっとの場面なんだけどね。かなり胸を打たれたのは確か。


12.コミックジャック

■2.5ではないがヅラもあるし衣装も非日常。というのもこの作品が漫画のなかに入り込んじゃった系のやつだから。そんなにおすすめでもない。

■強いて言えるとすれば、筆者がこれを「観てよかった」と思っているのは瀬戸氏に筆者が薄々感じていたことが確信となったこと。

■瀬戸氏の役は悪役の子分、というか、まあ悪役ではないんだけど主人公チームに対抗するチームにいる側、と言ったらいいのか、まあそういう「物語の解決を邪魔する」役。だから劇中でヒロインを「おさえる」というモーションが何回か見られますがそのときの「扱い方」ね。

■演劇という観点からいえば「触れ方」は関係の見え方と直結しており、敵役がたとえば「ふわっとおさえる」というのは「フリ」でしかなくなる。

■また倫理の観点でいえば上記の「ふわっとおさえる」は労わりを含んだ「ふれる」という手であり、それは相手の「ふれられたときの痛覚」を考慮している。

■一方瀬戸氏の「がっちりとおさえる」手は「さわる」手であり、こちらは前者よりも相手を考慮していない。

■どういうことか。

■つまりたとえば医者に「ふれられる」のは変だよね、ということです。

■「ふれる」手が含んでいるその想像力。そこに不快感をおぼえる場合はないだろうか。「ふれる」、それは役のうえでのものでなく、自分の感覚だ。自分の触覚と、相手の痛覚を想像している心性だ。悪役が「ふれる」場合もあるだろうが、コミックジャックのケースとしては「ふれる」はやっぱ変だ。瀬戸氏のこの割り切った手。手って顔のつぎに表情が出る部位だと思うのでけっこう重要。

■だが瀬戸氏の触れ方はとにかく雑。それが最高。いや性癖というわけではなくちゃんとサンプルとして考えられることがあるからだよ。以下説明。

■山猫で先述した「暴力性」について。瀬戸氏はなんていうかチンピラみたいなをもったキャスティングをされることがしばしばあるよね(以下は舞台作品ではないからこのブログでは語らないけど、一応参照先としてはMV「BOTEKURI」、映画「数多の波に埋もれる声」、ドラマ「パーフェクト・ブルー」など)。瀬戸氏の印象として、筆者はわりと怖さとか鋭さって感じないんだけど。きれいな爽やか柔らかお兄さんみたいな。そういう無害そうな顔(クールさはあれど)してどこにそういう悪性を見い出されるのだろう、なにを決め手にキャスティング側は瀬戸氏でいこう、と決めているのだろう?と最初は疑問だった。けど、こういった手のふるまいなど見るとなるほどと思うところもあった。

■相手が女性であろうと、先輩であろうと、遠慮なく「さわる」「たたく」などができる。この心性を買われているんだろうなという気もする。「なんでこわい役やらされるのか?!無害そうなのに?!」という疑問は的外れで、無害そうだから任されるのだ。そこには信頼があると思う。「ほんとうに」こわい人にはそんな役任せられるわけがないんだよな。その上で、瀬戸氏も相手に信頼があるのだと思う。この人ならここまでいって大丈夫だ。もしくは、自分のことはどう思われても良い、という、やはり役者としての矜持。役に殉教するということも引いて来れそう。

■他の触れ方サンプルとしては紂王(封神演義)の妲妃への触れ方。こっちはもっといけよという控えめさで、やっぱり瀬戸氏の手のふるまいは心性を表出する。妲妃は奥さんで好意を持つ相手だから、やさしくする、という。これが尻に敷かれてないスパダリ系だったらちゃんと触れるのかなあ、というのは見てみたいところ。下心はあります。

■という、ものすごい邪推が以上です。

■めっちゃ書いたけどほんと作品としてべつにおすすめではない。


13.ハッピーハードラック

■これはモロ瀬戸系。ヅラもマイクもないので小劇場好きにはおすすめ。マイクなしの生声(DVDだけど)がま~あいい声ですね。息のブレンドが心地いい奇麗なアルト。

■作品としてもちょう面白いぞ。あんまり言うことなし。優秀。笑い取る役どころでもないのに笑い取ってる。芝居と型のバランス。今回は型だなあとか思って油断していると忘れた頃に型をこえてくる。

■アッ殺陣師の役です、殺陣ちょっと見れるぞ。

■役としては実直系というかわりとまっすぐやっている印象。黒髪好青年。


14.ダルマ

■出番そんな多くないが暗い作品のなかで唯一癒し脳休タイムを担っている役。

■終始ここでもおちゃらけた「男子」をやっている(女子のことですらいじめる)(語弊ある)が、結局は(その女の子は死んでしまうので)いちばん悲しんでいた。けっこう最後あかるいシーンなのにこいつだけずっとこどもみたいにいじけてる。そんなになるなら生きてるうちにやさしくしとくんだよ、と言ってしまいたくなるのだが、そうしなかった彼なりの感性がまた切なく愛おしく思った。

■瀬戸氏いわく、ブログではこのあたりで「芝居感が変わった」。どう変わったのか言語化してなかったけどあとから振り返ってどう変わってたのか教えてくれる日がきたらいいなと思っている。よろしくお願いします。

■あとこれが初殺陣らしい。

■これも作品としてそんなにおすすめでもない。


15.バリ恋

■おすすめ。ハッピーハードラックんとこの制作だったかな。ここのコメディは普通に面白い。また瀬戸氏も奔放にやっている。筆者はかなりすきだ。コメディの瀬戸氏が好きなひとはみてほしい。

■これは2つのバージョンで円盤が出ていてキャストとか衣装とかがちょっとずつ違う。人が変わることによって変わる芝居が見れると言う意味でもおすすめだし、筆者は瀬戸氏は身にまとう衣装によって心性が変わるなあという印象があるのだがこれまた「メガネをかけている/かけていない」で違った心持ちに仕上がっているんじゃないかなあと思うナイスサンプル。キャストが男女で変更になっている役もあり、対男性と対女性での言い回し感の違いとか割と興味深く見た。


16.GOODWILL

■まだ芝居に目覚めてないんか?という第一印象。だが楽しんでやっているのは伝わってくる。

■若い瀬戸氏がみたいひとにおすすめ。

■あんまり遊べる役ではないのに遊べるとこで隙あらば遊んでいるのが、板に立つの楽しいんだなこの役者、と思えて嬉しくてならなかった。モリステのカテコ挨拶で「僕らは舞台の上でしか満たせない気持ちがある」と瀬戸氏が言っていたことを思いだす。


17.豪雪

■演劇とかいろいろ(ほんとうにいろいろ)見てないとびっくりするんでは?という作品。瀬戸氏の芝居を色々見て、ちょっとやべーのが見たいなあと思ったくらいに見てみてほしい。

■やべーのっていうか。作品もやべーけど、事務所的にじゃなくてもNGないんか?というか。

■いや違うのよ。なんていうか、ほんとに芝居が好きなんだろうなあ、というか。ここでも「殉教」してんなあ、すべてを捧げてんなあ、自分どうなってもいいんか?というような。

■なんかさあ、イケメン俳優として扱われてくると「かっこつける」芝居もしたくなろうよ、と思うのだが、あんた鏡見たことある?と思うような〝イケメン俳優〟に出会うことがある。かっこつけない、気を衒わない、自分をよく見せようと思わない、できないことをできないと言える。そういうことを瀬戸氏に思うことがある。

■筆者は「見られることを恥と思わない」人が板に立っていてもそうですかとしか思わない。そこに魅力はないからだ。見るという行為の暴力性が効いてない、っていうか。鑑賞者としてもそれはいつも思っていて、だから筆者は双眼鏡を使わない。ここにある恥みたいなものをわかった上で板の上に立ち、照明を浴びて光る、その身体をみて、ああ、この役者はどうなってもいいんだな、と、思えることがある。そのかけがえのなさを思った。そういう「脱出」の瞬間がこの作品にはあると思えてならない。


18.金色のコルダ

■とにかくイケメン。乙女ゲーのなんかが原作?だったかな。あたりまえにイケメン。「火原」というキャラです。火原先生。先生だけどちょっと違う先生。

■出番はそんなにない。が、筆者はわりとおすすめ。

■ここでは瀬戸氏の「呼吸」が光っている。芝居のうえで呼吸はめちゃくちゃに特筆すべきものだと筆者は思っている。

■演者は劇中で実際に楽器を演奏しているわけではない。舞台後方に実際に演奏者がいて、生演奏なんですよ。演者がたとえばバイオリンを弾くというボーイングをして、奏者は曲を奏でる。火原が公園(だったかな)でトランペットを吹くシーンがあるのだが、そこの瀬戸氏の「ブレス」がなんか驚くほど実感として入ってきた。

■実感、っていうのは、なんていうか、視覚だけを使って観ているときとはちがう、触覚まで使って観ている、というようなとき。たとえばダンスをみるときにダンサーに感覚が共鳴して体内が熱くなること。歌を聴くときに一緒に声帯や肺が動くこと。このシーンで瀬戸氏がそういう状態なのかはわからないけども、ステージ後方で実際に演奏している演奏者との共鳴、を見たような気になったんだよ。息は吐かないと吸えないし。その持続する、連動する、生の身体と繋がっている時間を感じる。音楽は時間芸術で、音がないところは音楽ではない、わけではない。その無音で、すう、と聴こえてきたブレスにひどく感動をおぼえた。

■あと以下もぜんぜんメインではないのだが、筆者が瀬戸氏をみているからそう見えるだけなのだが、すごくよかったシーン。

■「木星」を聴いている、という火原の身体。傍観者として聴く、という身体から、音に包まれる、というような振る舞いの変化。

■ここでの火原は「演奏者」ではなく、「客席」で「聴く人」としてそこにいる。はじめは腕を組んでニヤッとして聴いていて、けれもだんだん引き込まれて、腕を解いて、さいごには目を閉じる。引き込まれていくときの、どきどきする感じ、息が上がって、肩や胸がすこしだけ動く感じ。ここでも呼吸は光っている。高揚しているひとの呼吸、息が浅くて、そこに火原の内面の動きが見て取れる。

■そして木星のいちばん有名な(だよね?)テーゼの部分。エ~~~ブリ~~~デ~~~イ アイリッスントゥ~~マイハ~~~ひ~と~り~じゃ~~~な~~~い~~~のとこな。たしかに劇中で聴こえる音は生音で、それが役者からしてみれば自分の背後から音の圧とともにくるわけだから、そりゃね、ぐわーっ、とくるとは思う。その迫力に圧され、気付かされ、音の波に呑みこまれるみたいに、もしくは、目の前で奏でられる音楽に、引きこまれていくみたいに、ぱた、って、一歩、二歩前に火原は出る。

■このシーンがぶわ、と広がる瞬間。

■「劇中の」客席にいる火原のその感覚が、「ほんとうに」客席にいる私たちの感覚にも波紋を立てていく。共鳴から生起する、感覚の拡張。火原の身体は、私たち観客の身体でもあり、火原は観客の「代弁者」として、臨場感を携えてそこに居る。

■そしてこっからずっといい。たとえば火原の、純粋に音楽を愛する心から出たせりふ。

■『二人とも、素晴らしかったよ。』

■このせりふ、ほんとうに素晴らしかったよ。感動よりも、感銘よりも、「感激」だったんだよ。

■きわめつけはこのせりふ『いい響きだよ、火積くん』。

■火原はそういえば先生なのだが、先生として、上下の関係として、よくやった、というニュアンスでは決してないことに、正しく違和と驚きを感じた。先生というひとの「立場」から出た言葉では決してない。火原はこのせりふを、笑って、よかったね、という顔をして言うんだけど、さいご、すこしだけ眉が下がる。そしてまた笑う。やれやれ、でもほんとに、よかったねって。それは横の関係に見える。先生として俯瞰して見守る、ではなく、『音楽はみんなで楽しむものだよ』、そう言う人間の、寄り添った言葉だった。


19.不思議な町の王子様

■ホストSFトンチキラブコメって勝手に呼んでいる。なにこれ?

■絶対ウケたい芸人の瀬戸氏が見れます。ホストもん(などというジャンルはない)ってそりゃイケメンがキャスティングされてイケメンがイケメンなことするんでしょ?なわけですが氏はやはり一筋縄ではいかない。

■栄ちゃんというホストなんだけどほんとに最高の役どころとして「許されている」という感じがする。ホストの派閥争い的なものがあるんだけどそのギスるなかでまた癒しなキャラとして活き活きしています。お茶目でお調子者で三枚目だがムードメーカーで潤滑剤で派閥関係なく暗躍している、という感じの役。とにかくイイ奴。

■作品としてはまあわかるとおもうけどそんなにおすすめはしない。


20.イケメン戦国

■めっちゃプレミア。なんで?筆者はそんなにおすすめしない。ただビジュアルがかなりお似合いなのでDVDのパッケージだけでも見てみてください。

■ここでも明智光秀。本能寺何回焼くねん(一回も焼いてない)(本編は歴史とはそんな関係ないと思う)。

■けっこう硬派。無口。綺麗め。声低め。どストレートにイケメンな役だがイケメンって芝居の余地なくてやってて飽きそう。

■って思うがこの「イケメン度合い」も絶妙で舌巻いた。やれやれ系ではあるけど照れ隠し系ではなく、あくまでガチでキメてやっている、という「わかってる」感。

■しかしこの硬派堅物感なのにお酒飲んだら笑ってて普通にミ~~~~~~ってした。ここでも信長公大好き明智だが斬バサほどではない。

■あと殺陣アリだけど明智の武器が鉄砲であり、火縄銃のような長い鉄砲って構えるとき手首とか肘曲がるひといるけどそのへんもピシッとやっててこの身体感覚のよさよ。

■あとカテコ挨拶。瀬戸氏の奥ゆかしさ(我が我が!ってしないこと)とユーモアセンスが光りすぎか。自分で言えば自分の手柄になるものを、明智というキャラはそういうことしない、というこだわり解釈なのか知らんけど、隣のキャストに耳打ちしてそれを言わせるんですね、そして場がどっと湧く。そのあと火縄銃向けることでツッコミのポーズをとる、という絶妙なバランス感覚。こういうところに筆者は信頼!と思う。これについては「ダブステ」のところで長々と語ります。

■あとこんなにもイケメン系舞台なのに特典はありません。ナンデ?


21.青春鉄道

・山手線のほう
■案外ダークホースだった。芝居という芝居はとくにって感じなんだがそれは作品のトーンがそうさせるもの(たっぷりした芝居はそぐわない)なだけで、瀬戸氏の役者としての安定ぶりがうかがえる気がしたぞ。

■瀬戸氏は「山手線」の役。山手線は日替わりゲストで全キャスト映像が入っているため、役にどういうアプローチをするのか、あと人形をつかうのでモノをどう扱うひとなのかが個々に違っておもしろい。人形にどこまでさせるのか、みたいなのが、自分(役者)と人形はわりとリンクして同時に動くひと、別物として扱うひと。人形は自分の肉体とちがって自分が完全に「そう動かしたい」というのが出るので、この人形にどこまでさせて、自分はどこまでするのか、っていうのがすごい制御効いてるように見える。

■あと歌ありダンスありなんだけど、瀬戸氏の歌がもうなんかCD?CD流してんのか?というほどの安定感。グランドミュージカル的な「うまさ」みたいなのはもちろん(もちろんて)ないんだが、「巧さ」みたいなものがある。タッキー&翼みたいな(若い子タキツバ知ってるか?)ノイズのなさ。超絶ロングトーンビブラートみたいなのはないけど音程が外れない、声質にノイズがない。マイクのりがいい声で、デフォルメをきっちりやってのける。

■これは歌に限らずせりふもそう。火原とかマーチとか本田で聞ける系の高めの声だけども、1ミリ2ミリというレベルの制御をまっすぐにやっており、うま…となった。

■あとこれは役者のはなしではないから飛ばしていいけど特典の稽古場映像がすごくよかった。青春鉄道、いい現場だなということがすごくうかがえる。キャラの解釈の擦り合わせ、客に関係性がどうみえているか、演者どうしで芝居をどうしたいのか。コメディだからこそ、オムニバスだからこそ、イケメン俳優だからこそ真剣に丁寧に貪欲にこだわっていくのが印象的だった。遊べる余地がいっぱいある作品だからこそ、きちんと制御する。それはなかなかできないことだと思う。筆者は本編をみたとき「常温だ」という印象を抱いたが、それはそういう意図がちゃんと伝わるように演出され、演じられていたのだと思うと感慨~ってなる。なので作品もちゃんとおもしろい。演出川尻氏だし。

・レオライナーのほう
■モッフモフの犬です。

■これは10秒くらいしかうつってないので買わなくていいと思う。でもかわいい瀬戸氏がみたいひとはまあ買ってもいいかもしれない。ほんとに何秒かだけだけど。日替わりゲストとして特典映像に何秒かだけだけど。

■でもそのたった何秒かでこの役者の身体のよろこびみたいなものが伝わってき、それは単純にこの役者がもつエネルギーが気持ちいいものだということであり普通にスゲーとおもいました。

■あとでレポ漁ったけど前説(レオライナーが本編始まる前にひとりで開演前アナウンス的なのをしゃべってくれる)でカンペ持ってなかったのは瀬戸氏だけだったそうです。

■これまた仕込み芸人。いやこのケースとしては基本的なほうのやつだけど。用意周到優秀芸人。客の立場になってみれば当然のことなような気がしてしまうがそうではない、らしい(日替わりゲストだからといって客前で紙(カンペ)持つかね?と筆者は思ってしまう派なだけ)(いやでも普通にカンペ持つくらいなら裏でアナウンスすればよくね?と思っちまうが)。あたりまえにそれをできる役者。ほんとそういうとこだぞ。


22.ニルアド

■これも乙女ゲー原作だったか。

■葦切(ヨシキリ)という渋めの男です。見た感じ重めの芝居しそうだと思ったがわりと軟派で軽め。声は低い。「よお」って言ってくるタイプのキャラ。だった気がする。

■作品としてはそんなにおすすめしない。好きなシーン一個だけあるが。

■ここでの瀬戸サンプルは「場をみてる」です。まあ客観性、フラットな思考、肝すわってる、日替わり俳優、というあたりの要素っすな。劇中ちょっとダレてるな、というシーンがあり、そこはべつに作劇上ダレ場というわけではなく、演出がよくないのか場のエネルギーが停滞してる感じになったところがあった。

■そこで瀬戸氏もたぶん役者としてそう感じたのかわからんけども、べつに日替わりシーンではないのに生の反応が出るようなことをぶっ込むんだよ。客席の空気を感じながらフラットに客観性を持って芝居してないとできないことだ。

■なんか瀬戸氏にある先生属性のことを思いだす。教壇からは生徒が飽きてきたかどうかすごく見えるじゃんか。集中力離れたな、というとこで生徒を当てるのかまたは冗談を言うのか、授業のやり方そもそもを変えるのか。そういう生の柔軟さが効いてる感じがあり、また信頼!ってした。


23.DREAM

■瀬戸氏のいいとこはいっぱい出てた。

■アキラ君という役でこれまたおちゃらけイイ奴系。おもにコメディアンとしての(コメディアンではない)いいところ出まくりですがふつうに芝居がよくてもうなんかこんなに作品としてのおもしろさ無いのにこんなに収穫があってどういうこと?

■作品としてはそんな。そんなっていうかなんだこのカラオケバックグラウンド映像をおはなしにしましたみたいなおはなしは。

■はい、アキラ君のはなしをしていきますが。一章ではとくに「視線」がよかった。特筆すべきは物語ピークくらいの男女が病室でかなしい話を云々みたいなシーン。かなしい当事者は女。それに言葉をかける男。

■ここ見舞いの者たちが何人かいて、普通は当事者(女)の様子をうかがってしまうのだが。でもアキラ君だけ、ひとりだけ、男のほうを見ている。この感性。もちろん役どころというのもあるのだが。

■あと友人が夢を追うためにアメリカ行ってくる、という別れへの、一瞬の寂しそうな顔。

■それは冒頭で描かれた(直接的に語られてはいない)、アキラ君は夢を追いきれなかった、という諦めに基づいた感情である。(アキラ君はたぶん役者になりたかった。それを諦めきれずにはいるけど、なかば諦めかけていて、なんかモデルとかそういうので満足してますよ、というポーズをとって生きている。けどまだほんとはたぶん、役者になりたい。)

■もちろん親しい友人との別れへの寂しさではあるが、あの明るさを持った人間がみせる一瞬の青い気持ち。まだ諦めきれていない彼の、羨望や悔恨がそこに顔を出す。

■これが「出力」というより「反射」にみえてすごかった。

■瀬戸氏は作品やキャラのアイデンティティとか本質を的確に掴むよなーという印象があるのだが、アキラ君の動機、そして「DREAM」というタイトルを的確に参照しているのだなとやっぱり信頼した。

■そしてこの、「残される側」になってしまうという性質。瀬戸氏の役や、役にたいする姿勢のことを考える時、いつも「殉教」という言葉が過ぎる。瀬戸氏の役をみているなかで、報われたり、救われたり、そういう場面はあんまりお目にかかれてない。瀬戸氏のキャラは、自分の役割を、達観したまでにも理解しきっていて、そこに殉教する。アキラ君は劇中では終始「道化」ではあったけれども、彼も夢を叶えてるといいな、と、ちょっと思う。

■二章はイイ奴としての好感がデカかった。「調子のいい、でもほんとにいい奴」をやらせたらピカイチの瀬戸氏。

■あと他人の芝居を「受ける」が見られるような気もした。瀬戸氏は「アクター」もうまいが「リアクター」として稀有なほどうまいと感じている。

■三章はもうコメディです。これはちょっとおすすめかもしれない。バリ恋とかハピドラすきならすきかもな。わりと重要な場面で沈黙を破り、空気を変える、ということをけっこうケロっとやってのけている。

■ここで瀬戸氏は「物語を牽引していく」役をやることは少ないけれども、「状況を動かして物語を推進する」役はかなり多いな、ということに気づく。停滞する場にたいして口火を切る、とか、水面下で暗躍する、とか。

■薔薇王のインタビューでいいこと言ってたな。演劇界のウォリックとして、とかなんとか。板の上のキングメイカー。たとえばその場面でスポットがあたるべきひとを立て、暗躍する。自分は王になる気はさらさらなく、時代の意思に忠誠し、その行為は当然のように彼の魂の営為である。

■いやいま読み返してきたけど筆者の幻覚がつよすぎて文脈としてはぜんぜんそんなこと言ってなかった。が、このウォリックにたいする解釈が「実直で素直」という見事なコンテクスト把握っぷり、そして意味は違えどあんたは板の上のウォリックだよとやっぱ思うがな。仕込み芸人っぷりも健在。あはは。最高の意気込みコメントかよ。

ウォリックは実直で素直な人物だと思います。僕も演劇界のウォリックとしてこの場に立たせていただいております(笑)。これから稽古を重ねて、確信を持てれば。僕の信頼する松崎さん作品なので、この作品で松崎先生を“シェイクふみや”として後世に語り継げるような作品にしたいと思います


24.DIVE

■脚本演出が微妙なだけでみたほうがいい作品な気がする。

■これが飛び込み競技の作品で、みんなピッタピタの、もうちゃんとしたブーメランの海パンなのだが。こんなに頭から爪先までを視線に晒されるってそんなにエネルギー使う舞台があっていいのかよ。この公演をやりきった演者のみなさまに拍手しかない。

■瀬戸氏は「地味」という設定というかもう覚えてもらえないみたいなのをわざわざやられるくらいの「影の薄い」キャラ、松野君。だがそれをめちゃめちゃイジられる(もはや自分でもイジってる)ことで、そこまでされるとむしろキャラ立ってもうてるよねというまでのおいしさ。

■あと冒頭、OPのキャスパレであっもうこれは瀬戸勝ち(そんな言葉はない)だなという確信をした身体の覇気である。OPキャスパレは芝居というよりパフォーマンスなわけで、それはひとつひとつをクリアに魅せていく、ということに他ならない。ほんとに観てて気持ちよかった。このキャスパレってアニメでいえばオープニングで、曲、それに合わせた疾走感、停泊、切り替え。これがカッコいいとツカミはオーケー、ってなるよな。そういう役割を果たす場面なので「画」が重要。横イチで振り向いたのち後ろに下がって(進んで)く、というだけのことなんだけど、瀬戸氏ははっきりと「スローで駆ける」をやっている。身体に自分で負荷をかけてるのがわかる。この、エネルギーがみえるような身体。振り向く速度もパリッとしていてよかったなあ。目が気持ちいい。

■あとこのダイブという作品で特筆すべきは、瀬戸氏の「アイデンティティを的確に掴む」。まあいつもだが。

■飛び込み競技、を舞台にする。そこでなにが重要か。

■やっぱり美しくなければいけない、ということだ。特典にカテコ挨拶が全部入ってるんだけど瀬戸氏の挨拶、やはり芯をくっていた。自分の個人的な実感と、一般的な見え方を重ねて喋る。そのうえでの「美学」という言葉。

■あと特典では実際にみんなで飛び込みの見学に行ってみよう!の映像が収録されているんだけど、そこで飛び込み台に立った瀬戸氏が「一回裸足でのってみたかったんで」って言っててこの「裸足で」にグッときた。実感が芝居を変えることを知っている。客にはべつに実際にやったことがあるかどうかなんて伝わるはずないんだけど、そのちいさな差異が、客の想像力を微細にでも動かすことを知っている。

■肌は思い出す。肌が接続した記憶は身体に変容をもたらす。きっと無意識下でも。

■こういうディテールの堆積。それを作品のためというよりも、芝居のためというよりも、自分事として、自分の興味として取り入れる感じがある。それは役者としての資質である。そういうことに興味を持ってしまう。

■これは筆者のはなしになるけど、インターネットで情報を受け取っていく地方の人間に、自分の中から出てきた言葉なんてほとんどない。感覚だってそう。借りパクして生きている感じがずっとある。けど、作品の構造、とか、物語への批評、とか。そんなことじゃなくて。ほんとの意味で生きるってそんなことじゃない。身体を研ぎ澄ますこと。肉体を使うこと。肌を合わすこと。声を、かけること。かけられること。こうやって何万字も書いてるような頭でっかちの、神経性の、概念の、そういう世界なんじゃなくて。世界は広くとも、結局は目の前にあることをやっていくしかないわけだ。自分が見える範囲のことしか。触れられる範囲のことしか。ヒーローだって手の届く距離にいる人のことしか救けられない。

■ひとつずつ自分の感覚で確かめる。自分の感覚で判断する。それは生きているひとの身体にもとづいた実感に他ならない。実感にもとづいた感覚。それにもとづいた想像。だからこちらの実感にまで響いてくる芝居になるんだろう。けれどどこかで、ああ、このひとは、そういうふうにしか生きられないんだろうな、と思うきもちの、この後ろめたさは一体、なんだろうか。

■DIVEのパンフレットにはこんな質問がある。

■『Q3. ダイバーにとってのプラットフォームは、役者にとっての舞台袖だと思いますが、袖から舞台に出るときに何を考えていらっしゃいますか?』

■舞台袖にいる瀬戸氏のことを思う。現実と虚構のあいだにまっすぐ立ちながら、与えられる作品を理解し、不特定多数の観客を信用し、なにより舞台でしか癒せない、その魂のことを。


25.ダブステ

■おすすめです。作品としてもかなりおすすめ。

■ガンダムっていう長すぎ複雑すぎの物語を見事に再構築した演出家・松崎氏のことを筆者はかなりスゲーと思っている。アニメ(原作)より舞台の物語のほうが好みですらある。

■瀬戸氏はコーラサワーというおいしすぎの役。原作からこのキャラはずっと最高に愛されている。分類でいえば陽、軽め、軟派、みたいなのがすきなひとは見るべきです。紂王すきだったら見ていいかもな。マーチ、ネイティブとか、ワー!ってやってる瀬戸氏がすきなひとはもれなくみてください。

■全体的に語ることが多すぎるのだが特典も充実しているので円盤買ってもいいとおもう。特筆すべきとこありすぎ。「ダブステの項で後述します」って言ったところありすぎだし。

■まずどっからいこうかのう……。特典バクステ映像の、日替わりのとこの瀬戸氏のアフタートーク(ではない)が最高。日替わり的なとこ、それを受ける役者(カティ・マネキン大佐。コーラサワーが度を越えて敬愛する上司。毅然と強い女的キャラでありあんまり笑わない)がどうしても笑ってしまうので、稽古場では変えながらやってたその場面を、本番でほとんどネタ固定でいってたらしいんですよ全公演通して。でもなぜか1公演だけ急に瀬戸氏がネタ変えてやったらしく、大佐が笑ってしまってたんですね。急になぜぶっ込んだかは不明だが、袖引っ込んでからのバクステで『笑ってましたね……申し訳ないっていう気持ち半分……してやったりって気持ちも……』と言ってた瀬戸氏が忘れられない。ウケるとうれしいんだなっていう…そりゃあたりまえだけど本人の口からそう言われると違うじゃないすか…してやったりって…最高か…。

■芝居は「段取り」では決してないわけで、「交歓」じゃんか。それを相手の反応見て、あ、笑ってる笑ってる!っていうのは交歓のよろこびそのものなわけで、それをなんか…笑ってたなあってこう…思い返すっていう…その愛しさすごくて嬉しかったぞ。ダブステバクステはわりとこれが見たい!みたいな姿がいっぱいあって最高だった。

■あと特典はなによりコメンタリーがありがたサンプルすぎる。サンライズのプロデューサーと、原作者である監督と、演出家。ヲタクではない人間からの(っていうか共演者でもない人間、違う目線からの)瀬戸評がきけるのはここだけです。筆者が知ってるかぎりだが。引用してたらキリないんだけどどうしても言いたいことがあるので以下。

■コーラの日替わり部分(というか自由すぎるし新鮮にやっているのでほぼ日替わりにみえる)での演出家・松崎氏のことば。

■『ここはいつもね、瀬戸祐介君が勝手に(笑)もう勝手にやってましたね。彼はほんとに素敵な俳優で、実は好き勝手やってないんですよね、そう見えるんだけどね。1人1人のアンサンブルの子たちとコミュニケーションとりながら、今日は俺こういくからここで来てねとか、今日は誰をクローズアップしてやろうとか、稽古場全体が停滞してるときは(本番ではやらないんだけど)新しいネタやってくれたりとか、ほんとに全体を見てバランスとってくれる子でしたね。こういうのやる子って調子に乗ってる子なのかな?とか思われることもあるんですけど、全然真面目ないい奴…なんですよ…』

■そしてそれにたいしてのアニメ監督・水嶋監督のことば。

■『そうだね。けっこうリハのときも真面目な人って印象でした。舞台上に出てきてやってると、おお!ってちゃんと目立つんだけど、そうじゃないと意外と、あれ?どこにいるんだ?みたいな。誰かと仲良くお話してたり、雰囲気作ったりとかしてて。オンオフきちんとある人だなって、見てて思いましたね』

■マジでそう!!!!!

■この水島監督の、『どこにいるんだ?』という一言がすべてを物語ってる。瀬戸氏を追い始めて自分のなかで新鮮な印象のひとつとしてあったのが「目立たなさ」。これは江雪、相澤のときに既に感じていたことなんだけど。あとは「イケメン戦国」とかでも書いたとは思うけど。

■スポットが当たってないときの目立たなさ。舞台上にはいるのに、見つけられないことがある。これは決してマイナスの言葉として言っているわけではなくて、さすがだなあという重ねての信頼というか、感心なんだけども。彼の「我が我が」ってならない好印象というか。普通目立とうとするよ。

■たとえば瀬戸氏がダンス得意だと自負しているとするじゃんか。んでもし、本田(帝一の國)みたいなガシガシに踊らないであろうキャラのときに、ダンスが出来ることを見せたい、というエゴが勝ってしまった場合、「魅せる」ダンスをしてしまうんですわ。自分はここまでできます、どうですか、素晴らしいでしょう、っていう。でもそれはマジで要らん「うまさ」でしかないわけだよ。そういう場合に目をひいていたとして、それは悪目立ち以外の何物でもないわけで。キャラを裏切っているし、そこでダンスがうまいからなんなんだ、ということになる。

■一方で瀬戸氏はあくまでキャラに殉教し、本田の身体はきっとこうだ、という範疇のなかでダンスをしている。んーなんだろ、あんまり雄すぎない、とか、体幹弱そうだよね、とか。裸太鼓のときの身体性に如実に出ている。一章の本田の叩き方は、「線細め、スポーツマン的な肉体と対極にある身体、体幹弱い、よってバチに腕持ってかれてて身体がブレブレ」みたいな出力で、大海帝祭のヒルの叩き方は、「クールさを保って、一生懸命やらずにちょっと抜きめ」という出力。太鼓叩く、っていう動作って、バチを振る、ってだけで別にそんなにパターンないはずなんだよね。けどパターンは変えず、方法を変える。スゲーこだわりにも見えてしまうんだけども、いちいちなんかやりたい系のトゥーマッチ役者に見えないのは、小手先の芝居に見えないのは、やっぱり役とかキャラとかの「人の感じ」の範疇のなかでのふるまいに見えるからだろう。観ていても無駄とは一切感じない。腑に落ちるっていうか。

■いやこれは帝一の項目で語れよって感じなんだけど、ランプの精のダンスとか、「じょうず」だけど、「かっこよく」は決してないじゃんか。そういうこと。

■それはダンスである以前に「芝居」である、ということ。自分のなかで100出来るとしてもそれを顕示しない。

■引き算して調整した上で、これでいきます、これを提出します、っていう、最終形態が、我々が円盤で見られるあれらのかたちであってさあ。いやだって落語とかならわかるよ。寄席っていう毎日本番みたいなとこで、今日は調子いいとかわるいとかで出来も違うし、人生レベルの長い時間をかけてネタを完成させていく、そういう長期的展望。2.5はそうじゃないじゃん。人気商売でもある以上、目の前の客を掴まないといけない。だったら自分のなかのフルパフォーマンスしたくなっちゃうじゃん。一個も引き算したくなくなっちゃうじゃん。それを、キャラのために、ちゃんと引き算するっていう。もっとできるのに、抑える。

■こういう聡明さというか知性というか上品さを瀬戸氏の芝居に感じますな、もうずっと傲慢なことばかり書いて申し訳ないんだけど、「わきまえているなあ」というか。これは謙虚とかいうのではなく、最適解を毎回叩き出している、という、優秀さであり、「いまはべつの人のターンであって自分が目立つべき場面ではない」という、賢明さなんだと思っている。そして瀬戸氏の身体性の鬼の部分ともつながることだと思うんだけども。たとえば出ハケのないときに、舞台上にはいるけどいまは自分のターンではない、という場合がありますね。そういうとき身体を「オフにする」のか、「オフまでいかないけどスポットのあたっている人をみる」という身体にするのか、「オンのままでいる」のかでシーンの見え方がちがってくる。この切り替えが身体に出てるんじゃないかなあと思うんすわ。

■あとはふつうは「瀬戸さんをみる」というやり方の観劇をしにいく場合、舞台全体を見ているわけではなくて舞台上の瀬戸氏を探している状態なわけで、であれば舞台に出てきたときに「あっ瀬戸さん出てきた」ってなるわけじゃないですか、目的イコール瀬戸氏なわけだから。でもまあ相当前方の席じゃないと顔見て見つけるってことはないし、髪型とか顔ってよりも、背格好の感じ、または、歩き方とか、身体の感じで探して、見つける。2.5系の舞台なら尚更そう。ウィッグとメイクと衣装で誰?みたいになってるわけだし。

■たとえば筆者はダンスをみることがわりとあるんだけど、ダンスって同じ衣装で同じ振りをやっていてもその目的の人はすぐに見つけられる。あー下手の奥の右から3番目にいるな、とか。

■でも瀬戸氏はその「本来の瀬戸氏が持っている身体の癖や雰囲気」みたいなものが見えないことがある。それは身体性がもうガラッと変わっているからだと思う。身体の使い方は確実に瀬戸氏なんだけども、その奥にある心性が違うというか。これ何回言うねんって感じだけど。常に客の目をひいていなければいけないわけではない。でも、スポットあたるとこでは惹きつけたほうがいい。その光り加減みたいなものを調整できることがまたすごいっていう。目立つとか目立たないとかは普通その人が生まれながらにして持っている属性なはずだと思ってたんだけど。肉体という意味でなく、「身体」がすごく自由。

■だからダブステのコーラサワーに話を戻すと、この水島監督の指摘というか、『どこにいるんだ?』という一言が、やっぱりそうだよね、という確信になったよなという。他のひとにもそう見えるんだ。まあ常に目立っているようなビカビカに光りまくっているひとだったらこんだけ追うことになっていないと思う。それ以前に少なくとも単純にげんきで目を惹いて調子に乗ってる奴、なんだったらまったく芝居に深みなさそうだし。そんなのなんで役者やってんの?ってなるじゃん。学祭のステージじゃねえんだから。

■役者をやっていることが、自己顕示欲や承認欲求ではなくて、魂の営為であること。それがほんとうにね、ありがたいことであるとともに、その因果みたいなものに、なんで?ってなるよ、マジで瀬戸氏、鏡みてきなよ、イケメン俳優として売り出されて(知らんけど)よくちゃんとただしく本当の意味で芝居を好きになってくれたよ、感謝しかない。


26.テニミュ

■初舞台。実直好青年な瀬戸氏がみれます。

■まずありがたサンプルとして初めて板にのって2週間後、くらいの瀬戸氏がみれること。そして100公演ちかくやったあとの瀬戸氏がみれること。ビフォーアフター。これは同公演の別バージョンDVDが別個に出てるから見れるわけだが。とにかくまったく覇気がちがう。身体のつかいかたも違う。成長ってこんなに…?という比較と差異がすきなひとはどっちのバージョンも買うと楽しいぞ。


27.楽屋

■語ること多すぎ。DVDはなかなか手に入らない。芝居が滾りまくりの瀬戸氏がみれます。筆者はこういう演劇がすきだからいまからめっちゃ語るが、まとまってないし長いので読まなくてよい。

■ザ・小劇場な清水邦夫戯曲。「女」をやる、ということの出力、気持ちの追い方。非常にストレスのかかる役どころで、この公演がたった何公演かだったにせよ、相当削られただろうなと思う。この役者のどこにこんな激情が眠っているのだろう。そういうひりひりとした掻痒感に満ちていた。

■しかし演出以前が微妙なのでこの作品の見せ方は完全に失敗だと思う。キャスティングミスってない?とも思うが、ちょっとした整理でもうすこし観客への猜疑心みたいなものを煽っておけた気がする。いまから演劇のはなしをするのでとばしていいです。

■まあ一概にはそうではないんだがわかりやすくいえば瀬戸氏演じる「女優C」は作劇上の意味で「主役」みたいなものだ。観客は「女優C」を信用できる語り手(山猫の和田琢磨氏みたいな)として追うことで、「楽屋」という密室で生起する状況を眺めていく、というやつなんだけど。女優Cを的確に別レイヤーに置いて物語がすすんでいかないと、観客はなにを軸として状況をみたらいいのかわからないんですね。ただ瀬戸氏は追ってきたとおり、タイプ・キャスティングの文脈としては「物語を牽引」しない。彼が「状況を動かし」、「物語を推進する」。そっちを担うのは今回「女優D」なんです。瀬戸氏ではない。確かに瀬戸氏の「女優C」は主役ではないし本当の意味で信用すべき語り手ではない。でもこの『楽屋』という作品において、観客の視点は「女優C」に置かれたい。そうやって「女優C」を中心に置いてこの劇を上演すると、この劇は「成功する」。

■そういう意味でいえば、この劇は失敗だった。

■女優Dを頭の片隅で見て、女優Cを頭の真ん中でみながらも、客観する、という構造に仕立て上げることができていなかった。だからチェーホフ的「憂鬱」が立ち現れても、観客は瀬戸氏の芝居に没入してしまう。それはその憂鬱を「当事者」として見ることにほかならない。あくまで観客は「傍観者」として女優Cを見て、女優Cに寄り添ってしまうことなく、(ああ、なんて悲哀に満ちて華やかな業なんだ)、と思わせたいところだった。と、戯曲のねらいを邪推する。わかんないけども。筆者が瀬戸氏にたいしてコントラスト強すぎる見方をしているから筆者にたいしてはこういうメッセージの伝わり方になったというだけなのかもしれないけど。いや、コロナ禍だったからビニールでステージが囲われていて、それ越しに見るというのはもしかしたら観客を「蚊帳の外に置く」狙いもあったのかもしれない。いろんなことを思うけど。

■要するに、これはこの役者の性質としての再確認となって重要サンプルだった、ということ。瀬戸氏がやっぱり「ゼロ番の星に生まれていない」ことを思う。それは「主役ばっかりやってる役者」がいることと同様で、瀬戸氏のもつ客観性だったり、一筋縄ではいかない複雑さだったり、多面性を持つ人間であること、そういうひとであることが芝居に滲むこと。この役者の「把握できなさ」はこういう多面性に由来してるんだろうなと思う。っていうか瀬戸氏本人がどんなひとであれ、キャスティングの属性としてはほぼそうだろう。

■「ゼロ番属性」っていうのは、その役者そのものが持つ、主人公っぽさ、センターっぽさのことだ。主人公ばっかりあてられる役者はわりといる。そういうこと。

■主人公の属性って、たぶんエヴァ以降で変わったじゃないですか知らんけど。以前の主人公は「状況を動かし」、「物語を推進する」。でも加えて旧主人公は「物語を牽引」もするので、一概にこっちが瀬戸氏だとは言えないんだけど。まあわかりやすい旧主人公像としては特撮でいえばセンターは「レッド」だったじゃん。そういう感じ。道理もなにもかも吹っ飛ばしてとにかく行動。その背中を見て脇役のみんなはついてくる、みたいな。
一方、現代の主人公の属性はむしろ昔の脇役っぽいというか。エヴァ以降の「考える主人公」。悩み、迷い、後悔し、状況や出来事を打破していけない。むしろそれに飲み込まれていく、というタイプの主人公。

■要するに、なぜこの上演が「成功する」見え方にならなかったのか。

■「女優C」は、「現代の主人公」として観客の目にうつらなければいけなかったということだ。めくるめく出来事、ひたすら因果のない叙事に巻き込まれて、苦悩する人間として。それを観客は距離を持って見つめる。もはや滑稽にうつるほどに、俯瞰したまなざしで。

■たとえば推しがやたら死ぬ、というヲタクは多いと思う。それは作劇上正しい。そのキャラが死ぬことで、遺される側(たとえば主人公)に変容や成長をもたらす。そういう確固たる意味として、死は物語に組み込まれている。観客が移入していないキャラが死んだところで、それは意味のない出来事だからだ。そういう意味で瀬戸氏は、信頼のおける話者(一概にいえば主人公)に、変容をもたらす側なのだと思う。人々は物語に起こる出来事に飲み込まれ、動かされる。あるいは、その出来事を眺めることしかできないかもしれない。その、渦中にいないほう。物語とは関係のないところ、自分だけのためにあるたった一本のレールを歩くみたいなキャラが多いなって気がする。

■もし戯曲のうえで女優Cが死ぬ世界線があったとして、もし清水邦夫がそう書いたならば、その死には意味がないと思う。ただの現実として、女優Cの遺体は横たわると思う。でも瀬戸氏の女優Cなら、意味があるものになってしまいそう。瀬戸氏の女優Cにはそういう移入がある。感情とかエネルギーが持っていかれる。まあ、べつに女優Cは死なないし、むしろ女優A~Dのなかで、最終的に生きてるのは女優Cだけなんだけど。

■概念のはなしばっかりしてるけどやっぱ死ぬ側だよねというか。まともじゃない側だよねというか。でも善悪二項対立みたいな感じだったら、善の側にはいるけど主人公側の範疇にはいないよねみたいな。一癖ある、主人公側っていうか。どっちかに針が振り切れることはないというか。むしろ天秤にすら乗ってなかったりするというか。その意味では「ゼロ番の星に生まれていない」。

■結局うまくいえないな。要するに違和のあるキャスティングだったことで、むしろ瀬戸氏の役者としての性質が浮き彫りになって見えたよねっていう。いやでもただたんに、男性がやっているからにすぎないのかもしれない。女がヒスってるところってみんな「引く」じゃんか。男性の激情って引き込まれてしまうんじゃないですか。堪えたような激情。ひりひりと張り詰める空気。引き込まれすぎてむしろ没入した。

■瀬戸氏はその引力をもってして、観客を移入させてしまう。旧来の主人公として。物語から意味を付与される者として。そのあいだに観客のまなざしを、手玉にとってしまう。自分は当事者であるふりをした傍観者であるまま、観客を当事者にさせてしまう。だから観客はいつだっていい意味で「裏切られる」。瀬戸氏はほとんどの場合、幕が上がったその瞬間から、傍観者として立っている。そしていつだって、物語をそのうっとりと閉じる円環の外から、周縁に片足だけかけたまま、その状況を醒めた眼でみつめているのだから。


28.ゾンステ

■おすすめでしかない。器用制御型かつド解放奔放型の瀬戸氏が満載。

■巽というアイドルプロデューサーの役。シーンクラッシャーでありながら結局Pとして柱でなくてはならない、という、瀬戸氏のバランス感覚をすべて総動員する感じの役です。なんせアニメの巽Pは宮野真守。終始大爆笑終始感心大拍手。センスしか感じない。筆者は「UIが整っている」とおもったぞ。ここはちょけて、ここは解いて、ここは流して、ここは器用に、みたいな「取ってほしいニュアンス」をいちいち取ってくるというか、芝居の流れとして見ていて違和がない(キャラとしてはずっと調和がとれることはない)。だからこそこの違和のなさで見ていくからそこを裏切られ、流れがつまずいたときに笑いになる。緩急。そして出力の調整。

■けっこうわーっとやる役なんだがこれ女の子たちのなかでやるとPが「権力者」となってしまい根性論男根主義ツッラ…みたいな状況に陥りやすそうなもんですが巽Pはどんだけガナってもまったくこわくない。あくまで道化としての怒号にちゃんと見える。だが締めるとこはきちんと締まる。バランス感覚どうなってんだよ。比較でいえば「山猫」の福原の怒号を見ていただければこの差異がわかります。こわい/こわくない。まあでも演出もそのへん気持ち悪くないように場をつくられてあるというのもあるが。あくまで女の子たちを立てるようにしてあるという。

■これ円盤になってないのつらい。特典見たすぎだよ。作品もたいへんおもしろいです。

■公演ビジュアルをみていただければおわかりかと思うが男性客が多い舞台。低い笑い声でウケをとる氏がみられるのはここだけ。男性キャストは3人だけ。あとは女の子いっぱいの舞台です。

■これはけっこう「イケメン俳優」としては稀有なんじゃないかと思うのだけど瀬戸氏はそういうところに放り込んでもいいと思われているフシがある気がする(運営に)。こいつは大丈夫だよねみたいな。番がいる役が多い、というのはそういう(なに由来か知る由はないが)関係者側からの信頼なんじゃないか、と勝手に感じている(番がいるのは紂王、グンテ、コーラサワー、コロナ禍における緊急事態宣言で中止になったけど純ロマの高橋)。


はい。

やっとスクロールが止まったな。

換骨奪胎俳優・瀬戸祐介氏についてまとめてきましたが。

この役者本体についてはなんもわからんのだが、芝居をとおしてどういったキャスティングをされてるっぽいのか(キャスティング側が瀬戸氏のどういった要素をキャッチしてキャスティングしているのか)、そのキャラや芝居のことをどう掴み、どう出力しているのか、それ以外に見えてきたこととして、瀬戸氏という役者がどういう性質を持っているのか、ということはなんとなくみえてきましたな。

つぎの「薔薇王の葬列」ではウォリック伯爵なわけですが。役どころ(立場)を聞くとなるほどねというか。ウォリックというひとの人間味のことを思う。策士だが、きっといつか策に溺れる、そうとしか生きられないその魂と、生きることの業、悲哀と滑稽。時代が選ぶ、時代に相応しい「王」、目眩いて変わっていくその王にひたすら支え、自分は水面下で暗躍するという。そういうひとに対して、『実直で素直』なんていう把握をする瀬戸氏、やっぱ最高だよ。ウォリックに寄り添って考えてみたら、あんなに実直で素直な生き方ないもんね。

多面的な世界の、どこに立って、誰に寄り添うのか。そのとき、どんな景色が見えるのだろうか。












↓以下、2022年11月追記↓
※また読む前に冒頭のなげえキャプションを思い出してほしいんだけど完全なる愛と独断による幻覚と邪推であることをお忘れなく。



29.ケツラク

■筆者にとっては演劇の別腹の部分ではあるんだけど、でもやっぱりこういう演劇の「猥雑さ」に瀬戸氏が関わったことがある、という事実はでかい。「2.5」みたいな括りにもされることがありがちな俳優にとっての、守備範囲の広さという点で。実際瀬戸氏がどこまでどういう演劇を観てるかわかんないが、少なくともあんまりこういう世界には出会わないんじゃないかなあ。2.5系のファンにとっては尚更だ。新国立劇場から下北沢駅前劇場まで。

■「豪雪」でもそうだが、このgmn5という劇団のスタンスは変わらない。芝居ではないかもしれない。演劇でもないが、演劇としか言いようがない。やっぱgmn5の演劇はなんかすごくて、「なんか」ってのがすべてなんだけど、荒唐無稽でとっ散らかってるのに確固たる「これを言いたい」が見える。それは作家性に他ならない。毎回芯が同じで、「どう」は変われど「何を」が変わらない。gmn5は「どう」もほとんど同じに見えるけど。言いたいことを、何度も言い方を変えて言ってるという。その人がもつ「サビ」のことですが。『ケツラク』というタイトルからもわかるとおり、『豪雪』もそうだけど、どっか足りてない、あたたかい場所のことを憧憬しつつ、寒い場所にいる人間。この演劇作品に空いてる穴に、共鳴できる人間はもしかするとそう多くないだろう。けれど似たような空洞を持った人間にとっては、その空洞にこの演劇の音が鳴り響き、ラストにみえる帰還と脱出の瞬間、その祝福と狂騒にうっかり胸を打たれてしまう。

■で、オープニングのあたり、佐伯(大地)氏と瀬戸氏がイジられるんだが、ここに2人の役者スタンスの違いが出てておもしろい。イジられてるときに「イジられています」のポーズをとる(制御)のが瀬戸氏、完全に解いて受けてる(解放)のが佐伯氏。瀬戸氏はこういうときにいつも閉じる。瀬戸氏のことをわりと〝ポーズ〟の役者だと思っているのだが、だからこそ、バサステの揚羽のように、楽屋の女優Cのように、封神演義の殷氏のように、彼のなかからやむにやまれぬものが見えるとき、どうしようもなく狼狽える。

■にしてもやはり瀬戸氏はこういうのがマジでうまい。コメディというか、ふざけておもしろい、というのもうまいし、真剣にやればやるほどおもしろい、というのもうまい。ケツラクではとにかくやんちゃメンズとして立っているにもかかわらず、ほんとうに目がヤバすぎる。いい。おまえやっぱやべえ奴だ。なにがすごいのかというとプライドとかエゴのある人間にはここまでの吹っ切れ方はできないということですね。どうしても照れとかそういう感情の壁があり、〝ポーズ〟の人間はだいたい本意気でここまでヤバくなれない。かっこつけたいからだ。でも瀬戸氏は突き抜けてヤバくなれる。それがほんとうに奇跡というか、この役者はなんなのだと思わされる。やっぱちょっとこれは『バリ恋』のときから思ってたけど、瀬戸氏の狂気というのがありますね。それは徳井義実(チュートリアル)とか、村本大輔(ウーマンラッシュアワー)とかが持つ狂気に似ている。そのひとにとって正しいことを異様な熱量で言っているだけ、けれど世の中の常識、体裁、そういうところから外れてしまうから誰も言っていないだけの本音を語る。そういう正常な狂気だ。この役者のここをもっと使ってほしい。どっかネジ外れていないとできないことで、でもそれを「笑える」のはそのひとがほんらい安全だとわかっているからだ。常識をしらないと非常識はわからない。そういう相対性を佇まいに持っている。

■あと地味に好きだったのが瀬戸氏の衣装がハーフパンツなんですね。でなんかスポーツタイツ履いてんのかと思ったら膝サポーターだったという。いやたしかに豪雪では短パン履いてた鳥越氏が膝から血出してたけど。怪我しない、というふつうの賢明さがその猟奇的な役に宿ってるのが裏笑い的にずっと面白くてすきだった。


30.フルコンタクト!

■いやあ。こういう役をやってしまうよなあ。『熱海殺人事件(つかこうへい)』の大山金太郎に値する。

■こういう役、というのは、わかりやすくいえば(?)「理由のある悪役」だ。ただこの作品では瀬戸氏は主人公である女の子の「弟」役で、まったくべつに悪役ではない。でも、とにかく「裏腹」なのだ。ケロッとあかるい人間ほど、おちる影は濃い。彼もこの物語を辿っていなければ結局「悪」だ。そこにある理由を、あてがわれてしまう、そしてやはりここでも瀬戸氏は本筋とはまた異なる一本道を歩く。キャスティングの傾向って言ったらあれだけど、やっぱり「独り」であり、それは「孤独」でも「孤高」でもあるかもしれない。それに無自覚であるという、やっぱりちょっとある意味ではなんていうか、フリークスだな、と思う。まともで誠実な、正常なフリークス。

■この作品の冒頭に挟まれる1シーン。DVDの画質だから定かではないが、かなりの昂りを持って舞台に立っていた。のちにわかるそのシーンの理由は、あたたかく、それでいてひどく切ない。主人公である姉ちゃんと電話をしている、だから実質ソロプレイなのに、あの昂り。相当だ。加えて、そこはいわば「匂わせ」のシーンだから、ネタバレになりようがないにしろネタバレになっちゃいけないんだよ。その塩梅。ひとつの孤立したシーンとして成り立っていて、そのバランス感覚はやっぱり、ダブステのコメンタリーで演出家に言われてたように「そのシーンがどういう意味かっていうのをめっちゃ分かってやっているよね」。

■役柄がとても合っていた。弟として、「ねえちゃん」っていうあの感じ。瀬戸氏はなんとなく歳上の人間といる時の方が楽しそうだなと筆者は感じているのだが、その後輩気質とか、常温で人に寄り添いすぎないけどちゃんと人を思っている感じとか。

■2時間経ったあたりのとこで冒頭のシーンがリフレインされる。ここで電話出る「姉ちゃん」の開口一番のトーンよ。たまらない。

■笑顔で。明るいままで。でも内側から絞り出す喉声で。だんだん涙と一緒にきらきら満ちてくるあの想いとエネルギーは、やっぱり上の方向にいく、健全で、まっすぐで、まっすぐすぎるがゆえに破綻をむかえてしまう人間の、愛せずにはいられないあたたかさと脆さがあった。


31.シーズン 〜巡り合い〜

■円盤が出ていないはずのこの作品がなぜこのブログに入っているのか。

■非売品の映像として関係者各位だけが持っている円盤があったんだそうな、それを2022年のバースデーイベントで大放出してくれたんですね抽選というかたちで。それがみんな観たかったのに当たらなかったという声が多く10月に上映会をしてくれたっていうのが経緯です。主演舞台ということでマジ観たくてなぜ観れないのか…となっていたのでほんとうにありがとうございました。平伏。

■これがまたさあ、そもそも普通に過去の自分の映像を流せるということがマジで素晴らしくて、あっこの段落は読み飛ばしていい段ですいまからもうすごい自分のコンプレックス的な部分から出発している思考で話すから筆者にはそう感じられるというだけのことを話すけど。
瀬戸氏はこの上映会のアフタートークで過去の自分にダメ出しいっぱいあると言っていた。けどそれにしたってむかしのことををちゃんと愛せるということが素晴らしい、みずからの過去をきちんと見るということがどれだけ難しいことか、黒歴史、なんて言葉さえあるというのに。瀬戸氏はなんかの作品の稽古真っ最中であっても他の過去作のなまえを出すこともあるし、ぜんぶを宝物にしているのだとわかるようなことがときどきある。それはやっぱり先述してきた人間性というか、すべてをフラットに楽しんで、真摯にやってきた/やっているということにほかならないと思う。たとえば自分の過去を愛せないというのはちゃんとやってこなかったからだとおもうしな。毎回ちゃんと頑張ってやりきってきたひとはまっすぐ自分の過去振り返れるし、それは「自己肯定」にほかならない。自己肯定感が高い、というひとはじつは自己肯定感が低いと思う。飾っているからだ。理想と現実のギャップがあろうと、なかろうと、そこを認めていること、それを肯定していること。幻覚が見えがちな筆者のような人間にはまずもってこんなユニバーサルデザインな景色をみることはかなわない。まあその幻覚の階段を簡単に転げ落ちることができるからちょっとのなにか観たちからだけでものすごくエモ死ねるんだけど。そんなことはどうでもいいよ。
瀬戸氏はどんな興行だとしてもいい記憶を持っている。ブログとか読んでてもそう思う。邪推でしかなくて重ね重ね申し訳ないがほんとにそう感じることが多々あり、それは才能だと思うんですな。ということに加えて、このシーズン巡り合いの映像を観たことで、やっぱこの役者はハナっからセンスがあるひとだったんだとこれまた重ね重ね思うから、過去のものを他人に見せてもいい、ってなるのだとも大いに思う。

■で、この作品は一度震災で中止になっていて、そのことにも触れてくれた。マネージャー氏がまずきちんと前置きをしてくれて。それ以上は、もう震災のこととかを必要以上に忖度するんではなく、そのときの自分のきもちを素直に語ってくれて、ありがたかった。コロナ前って舞台が中止になることってほぼなかったわけで、当時は舞台一個飛ぶって相当だったねっていうはなしをされていた。マネージャー氏、「泣きそうになっちゃうね」って。当時の瀬戸氏のブログ読んでも相当ほんとうに落ち込んだと思うし、でもやっぱり真摯で、まっすぐで正直で、役者であるまえにまず素敵な人間だと思った。だからほんとうに再演できてよかったし、上映してくれてありがとうございました。

■本編の感想ですが以下とてもとてもネタバレするので言いました。言ったからな!

■まずね、動作って繰り返すことで染みついて洗練されていくじゃないですか。瀬戸氏のサッカーの動作がすべてこれでたいへんよかった。言うのも野暮というかもうそりゃそうなんだけど、でもあんまそういう姿ってお目にかかれないし。映画『ガチンコ』でガンダッシュしてたその走り姿の美しいこと。人間ほんらい身体の美しさってあるじゃんか。そういうかんじ。まーあノイズがない。ボールとの接地面がめちゃめちゃきれいにみえる。足の内側で蹴るじゃんサッカーって名称とか知らないんだけど。そのボールにたいしての面の垂直さよ。やってるひとからしたらあたりまえなんだけど自分の身体にはない感覚を見るともう純粋な感心というか、きれいだなあという思いばかりだった。

■んで、この物語自体、なんていうかベタっちゃベタなんだがわりとこう、途中からあっこうなるんだ、あっこっちか、みたいのがあって、けっこう物語たる甲斐があるものでちょっと例によって斜に構えていてすいませんってした。そして演出もあっ演劇だ!ってなったとこわりとあって結局よかった。

■たとえば沙織(ヒロイン)が事故で…って恵介(瀬戸氏)が聞いたあとの試合の描き方。恵介だけ中央でスポット当たって佇んでて、試合終了のホイッスルで我に返ったようになって駆け出す。その時の止まり方と空虚さ。この試合が始まる前の吉田(主将)のせりふがいい。いつも頼りないような先輩なのに、皆が黙りこくってしまったその瞬間、たった一言、「勝とう」。いいせりふだった。

■そんで駆け出していった恵介のあの「眼」。ああいうとき人ってああなるよなっていう瞳孔のひらいたような感じ。ここの画もよかった。上手奥に沙織がいて下手前に恵介がいる。その線のあいだに一弥(親友)が入ってくる。イマジナリーラインを切るっていうか、不在が強調される画だ。一弥が恵介に声をかける。そこでやっと感情を思い出したように泣き出す。事故だって聞いてからもう感情は表面張力して波風が立たない。そこに一回感情の波紋が立って思い出したように溢れる、その様がすごく人間だった。泣き崩れたあとの身体とかよかった。あんないちばん没入してしまいそうな芝居の瞬間にもコントロールがみえる。わざわざ崩した脚、身体の低さ、背中のまるさ。力の抜ける速度、崩れる硬度。

■真帆(沙織の双子の妹)と出会ってからも。目の前にいるのは真帆だ。それなのに「沙織」としか言えなくなる。どちらも好意はあるのに、そのあいだにいる沙織の存在(不在)がどうしても意識される。『大豆田とわ子と3人の元夫』というドラマがあったけどそのなかに「3人いたら恋愛にはならないよ」「あなたを選んで、1人で生きてくことにした」というせりふがありますが。まあぜんぜん違うけど思い出したっていうだけ。そういう状況なわけです。あっちは破綻したようにみえて始まって、こっちは始まるようにみえて一旦破綻する。それはけっこうよかったな。ラノベ的な円環閉じる系ボーイミーツガールではないのでまあそりゃそうなんだけど、真帆が沙織として見えてしまってから、もう盲目になっちまうのかなという思いも半分あったんだよ。そう思わせるような、「沙織」とくりかえし名前を呼ぶ声。その破綻のしかたがよかった。わかるように破綻はしないんだけど、ああ、おわったな、というのがわかる。暗転に消えてく真帆・恵介2人の物理的な距離と身体の向き。破綻が言葉なく分かった。「こんなことって……」というせりふもとてもすきだった。真帆と会ってから沙織のことはどうしても思い出していて、やっぱり、という思いもありつつも知らなかったその関係性とか、バックボーンとか、すべてのことが。動揺するに決まっているんだけど、動揺しつつも、まだ親しいとはいえない真帆のまえで、恵介もこのときはちょっと内向的な身体性になっているから、はっきりと取り乱すまではいかない。でもぽろっと出てしまった言葉。でもれっきとして芝居の言葉、聴かせる言葉。この絶妙な塩梅よ。

■これは補足だがアフトで当時は相当演技というか見え方を意識してやっていたというようなことを瀬戸氏は言っていた。〝落ちたひと〟の身体。うずくまる、っていうのが、落ち込む、っていうことのわかりやすい記号だと思う。でもそうしない。もはやうずくまるという内向のエネルギーすらない。ちからが抜けていて、抜け殻のようになって手がだらーんとなる感じ。こういう表象を、記号的にやらないってのは最高だ。記号的っていうのは、それがわかりやすくていいこともある。アニメとか、子供向けとか、パフォーマンス的な要素のある舞台であればそれはけっこう正解だ。でもこれは芝居だし、記号的っていうことは、紋切り型っていうことにもなりかねない。世の中は複雑で、その中で生きているのにもかかわらず、それに目をつむる。深く見ようとしない。それは単純っていうだけだ。瀬戸氏の芝居を見てるとコントロールしているとこと、感覚的なとことがあり、これはぜったい観察の集積があるんだなっていうのを感じることが多々ある。やっぱり意識的なんだ、と思えて、このアフトはとてもありがたサンプルになりました。

■かといって、研究したとして、滲まないものはある。筆者はなんとなく、まあリュズ夢のときにも書いたようなことだが、瀬戸氏は「暗いひと」がうまいなあと思うことがある。それは決して「陰のあるひと」ではない。陰のあるひとは普段はわりと明るいのに陰を感じる、みたいな場合に使う気がするけど、もうすべてそっち側のほうの、すっかり陰のなかにいる、暗い人間がうまい。嘘がない、ってことかもしれない。本音で立っている。無理して明るく/暗くいるわけではない。明暗どっちも持ってゼロの身体で立っている。これも話それるけど斬バサの動画で「明暗」と「陰陽」を使い分けててあっ別に言うんだっていう、オッてなったよというのをいま思い出したので書きました。

■あとその「見え方」的なことで言えば、あの時代の流行りとしてまだもみあげとか襟足が長かったりしたんだよ。確か。で、陽に振ってるときの恵介はもみあげを耳にかけてんだけど、陰に振ってるときはその耳にかけてた髪をおろしてんだよね。そういう「どう見える?」みたいなとことかかなり細かい役者だなというか、このときにこだわったのがいまに効いてんのかはわかんないが、とにかくそのへんに意識的なのだなと、そしてやっぱり分かってやっているんだなあと、そりゃそうなんだけど、そういうことを再認識しましたね。

■あとは職場から飛び出して吉田から連絡先と招待状もらったあとの、そこから回想に入る切り替えの感じ。映像であればその回想には陽の恵介がいるべきだろう。でもこれは1人の人間がナマの時間のうえで生きている演劇で、人間は落ち込んでいるときに笑え、と言われたって笑えないわけですね。笑えちゃう場合、そこまで落ちてなかったり、もはや感覚がばかになっているかどっちかだ。その回想のなかの恵介は、ちゃんと「あの頃」へと変わってはいて、でもそこには「それを思い出してるいまの恵介」もいる。回想に入ってもすこし覇気のない感じが、その塩梅が客に気持ちいい。「それを思い出してるいまの恵介」が舞台上にいなくなっては、客はさびしくなるだろう。突き放された感じになるだろう。そう思うから、あそこはちょっと寂しくていい。それと、純粋に瀬戸氏が人間だなあ、という、彼自身の人間としての感情の続き方、ほんとに笑ってと言われても笑いきれない感じがあって、それは役者の手つきだし、ちゃんとそこにナマの時間のうえで生きているひとの温度があってよかった。

■そこからの恢復の仕方も。「今から会ってくれませんか」って真帆に電話する。どん底まで落ちていたときの身体とはちがう、吹っ切れるまではいってないんだけど、でもエネルギーが身体に戻ってきてる感じ。空洞の身体ではもうない。

■その恢復にかかった時間。

■真帆はずっと身体がよわく、沙織が事故に遭ったあと、その心臓を移植して、いま、ここにいるという。その「心臓」というのはなんていうかいわばSIMなわけで、ただ双子だ、というだけならばこの破綻のあとの成就は気持ち良く見れなかったかもしれない。おなじ卵からうまれても結局は1人ずつの代替不可能な人間であるはず、と思いたいからだ。けれどそのどうしようもなかった事故があり、心臓という核を受け継いで、でも真帆は真帆としての人生を恢復してきた。喪失の記憶を抱えているだけならば、沙織と真帆は物語的な存在ではほとんど等価だ。でも真帆は生き直す、そうせざるをえなかった、物理的な変容があるわけで。真帆にとってそれは選択ではない。運命に近い。そうせざるをえない理由が用意されてある。恵介にある(はずの)自由が、真帆には少ない。恵介にとってその巡り合いは、運命というよりも、選択だ。かといって獲得ではない。決断でもない。喪失からの再生の過程として、ラストの告白は映る。

■また逸れるけどその「心臓」というのも記号として作品の中に散りばめられている。以下は瀬戸氏がこの話もアフトでしていて思い直したことなんだけど。その記号と記号をつなぐ、作品に暗渠になって流れている水脈。血脈。ああいうのって符号だと思うんだけど、そういう点を繋ぎ、線にすることでしか立ち昇ってこないイメージがある。出会えるのは、現在にある風景と語りでしかない。そこから過去を思い出すとき、点在するようにあるそれらの符号が、長い時間のうえでかろうじて像を結んでいく、ということがある。曖昧な記憶とともに長い時間をあるいて、ときどき点在する符号と出会う。そうして符号は、記憶のずれをゆったりと孕みながら変容し、自分のなかで像をむすぶ。全体の、関係のないようなそれぞれの具象からテーマを抽出する、そうすると相対的にみて個々のシーンの位置付けが、意味がわかってくる。瀬戸氏はけっこうこれが得意だと思っていて、何回も書くとおり、「そのシーンがどういう意味かっていうのをめっちゃ分かってやっているよね」。

■これは性質だと思えてならないね。関係ないけど観ながら思い出していた漫画を貼っておく。

■そしてこれまた観ながらずっと太田省吾の『劇的とは省略することである』という言葉を考えていた。その省略は圧縮にもなりかねず、登場人物を恢復させるならそれ相応の段取りが必要だ。2時間の舞台に年単位の時間を載せるのは、それこそ『劇的』であり、圧縮された時間を観客が追えなければ、その大きなメロドラマは成立しない。

■だが瀬戸氏の身体には、その時間があった。

■忘れたわけではない。沙織との時間は、傷は、喪失はまだ相変わらずそこにある。それでも葛藤しつつ、懊悩しつつ、それでも真帆の手を取るというその選択をすることが、観客には快く伝わってくる。この快さの理由は、本そのものがそう見せてくれたというのも先述したようにもちろんあるけど、その先に見出されるひかりは、瀬戸氏の佇まいが晴らしたものだったと思う。ラストの告白までの『省略』されたはずの長い長い時間を、彼の身体は孕む。「今から会ってくれませんか」と言うときの、言葉ほどは熱のない身体。花を供えるときの手つき。真帆に向き合った恵介の、その背筋。すぐに、すんなりと、真帆の手を取れたわけではないのだと、まだ迷いつつも、その一歩への躊躇と、でも進みたいという思いはそこにある。この真摯さだろう。熱量ではない。誠実さだ。謙虚さだ。ほんのすこしでも気障では駄目だ。これ以上つよくても、よわくても駄目だ。やっぱり飾っていなくて、等身大で、気張っていなくて、まっとうなのだ。

■瀬戸祐介という俳優が恵介だったからこそ、さいご散ってくる桜の花びらの、舞い落ちる風が透き通る。

■カーテンコールに出てきた瀬戸氏のあの笑顔を忘れられない。覇気というよりは、脱力するような、安堵の笑顔だった。よかったね、座長。再演できてほんとうによかった。ありがとう。