黄昏かげろう座





“お前が世界を見たいなら、
眼をお閉じ、ロズモンドよ……”
ー『シュザンヌと太平洋』








スペースFS汐留にて「黄昏かげろう座」観てきました。

演目は、江戸川乱歩『屋根裏の散歩者』と『人でなしの恋』。それぞれ2公演ずつ。
感想書きつつ思ったのは、朗読劇、難しいなー!ということ。正しい芝居なんてなくて、すべては好みの問題なんだけど、一本の作品としてのおもしろさを、どこに委ねたらいいのかわからない。原作、脚本、演出、俳優、それらのバランス。

まあ今回も三木眞一郎につられて行ったやつなのでとどのつまり三木眞一郎はスゲエってことを書くと思います。

あとは、女優と声優というキャストであったことで、その差異について見えたものがあったのでそれを書きます。



屋根裏の散歩者
200に満たない座席。
舞台は真っ黒。上手、下手に机と椅子が1セットずつ置かれている。それぞれの机上には切子のペアグラス、青と赤。下手、青いグラスの隣には黒いハット。その向こう、最下手には椅子がもう1つ、久世光彦エッセイ朗読のアクトスポットとして置いてある。
そこに黒ずくめの演者2人。物語は久世光彦のエッセイから始まる。

久世光彦のエッセイの混ぜ方、おもしろかった。この久世光彦というひとの、「劇場」というものについての思想には頷ける気がする。劇場は春の日の陽炎のようなもの。考現学、とか言ったらいいのかな、劇場というものは、それこそわたしたちの暮らす街でもいい、眼前にある光景、それが立ち上がる「場」が「劇場」であり、その現象は、演劇である、という感じ(多分)。生活をしていてもときどき我に返って、はっとする。そういうとき、そこには詩がある。生きていても、白昼夢を見ているみたいに、ずっと実感がないことのほうが多くて、そうやってわたしたちが普段ぼんやりと眺めて通り抜けているだけの日常、現実に、一瞬の閃光のような何らかのきらめき、ロマンみたいなものを感じるとき、それははっきりとした輪郭をもって迫ってくる。ここは劇場である。そういう幻想のほうがどうにもしっくりくるというか、すごくわかる。夢のほうが、ずっと現実だ。

倉本朋幸の演出はさっぱりしてた。この演出家、知らなかったんですが「三月の5日間」「好き好き大好き超愛してる」「書を捨てよ、町へ出よう」などを手がけておられるらしく、なんというか、アングラ、ではないんだけど、激情系、みたいなのが好きなんだろうなーという印象。岡田利規、舞城王太郎、寺山修司、江戸川乱歩、っていうとなんとなーく繋がるものがある。

演者レビューとしては、まずは田畑智子。知ったのは朝ドラですけどオッと思ったのは「ふがいない僕は空を見た」です。まあ原作が好きだっていうのがでかいけど。今回は朗読劇だったがやはり、適材適所というのはあるんだなーという感想だった。彼女は美しいよ。けど朗読ではない。舞台にいる彼女の表情とか、佇まい、そういうものはやっぱ女優だなー!と思ったけど、発声とか読み方とかは、映えない。これ朗読劇じゃなく演劇なら光っただろうなと思った。勿体無さすぎる。「ただ、そこにいる」ということ。ただ、人間が、そこに立っている、それだけで、細かい演技のテクニックとかは、どうでもいい。だから彼女は「女優」だし、勿体無いというのは、朗読劇という領域で足掻く彼女を見たいわけではなかったからです。見るのであれば、彼女のなかにもともとあるものを、テキストに縛られずにいる彼女を、見たかった。においがしなかった、といえばわかるかもしれない。
1日目は夜公演がよかったですね、初回は緊張してらしたとみた。2日目はやっぱり女をやるということで、しっくりきたし、素敵だった。

一方、三木眞一郎である。改めてマジですごい。それと、完全に演劇の畑に居ていい人じゃんと思いました。2日目は特にすごかったのでまずは1日目に思ったこと。

声優なので、書き言葉を話すのはお手の物なのはまあそれはそう、それでも、この引力はなんだろう。書き言葉の文章に浸透力を持たせる力がある。
朗読劇なので、やっぱりテクニックは必要。それは演劇と違って、演者から発されるただの言葉を、観客が聴き、脳内で風景を描いていかなくちゃいけない。だから物語がうまく進行していくかどうかは、発信される言葉と、それを受け取る観客の想像力に委ねられる。朗読劇は演劇よりも、視界で受け取る情報がずっと少なく、想像するためには、言葉を聴かなくちゃいけない。でもこれがなかなか難しい。

相手に伝わる情報の割合は、話の内容、言葉そのものの意味から7%、声の質・速さ・大きさ・口調から38%、そして、見た目・表情・しぐさ・視線からは55%で、視覚的情報を奪うと半分以上の情報を削がれる(そう考えてドラマCDとか聴くとすごすぎる)。さらに今回の公演は90分、人間の集中力が続くのは15分。どうやっても飽きる。
なのにどうしてか、飽きない。勿論、視覚的な効果は、演出として入れられている(例えば、猿股の紐に模した真っ赤なゴム紐を、2人の間に繋ぎ、シーンの流れの途切れる台詞の狭間で、離す、といった文章構造の可視化など)んだけど、緩急、とかそういうのだけではないなにかがある。どうすれば文は伝わりやすいか、というと、文章の構造をきちんと把握して、どこで区切るか、どこを目立たせるか、どの語に重きを置けばいいのか、そういうのを大事にすれば話す文としての正解は出る。

(前にこういうpostをしたけど、三木眞一郎みたいな声優がこういうのをパッと言うっていうことに怖さを感じました。もう基礎とか忘れてていいくらいなのにな、先生かよ)
(たまごの声という声優のたまごの人がやってるらしいラジオにゲスト出演したときの発言)
だけど、この正解だけではない、それ以上に、言葉にあらゆる感覚が伴っている、と思う。

三木眞一郎の朗読は、文章の向こうに湛えてある感情とか魂みたいなものをインストールして喋っているような感じがする。書かれたものを読み取ることで再び風景や感情を立ち上げるのではなく、書いて平面に落とし込む前の原風景を、そのまま発話にのせている感じだ。

そしてそれだけではなく、演劇人じゃん、と思ったのは、存在感そのもの。あの長身。舞台に立つ人間は手が大きくなきゃ、みたいなのを読んだことあるけど、そういうこと。やっぱり舞台上で映えるためにはタッパがないといかん。スーツにハットの姿もさることながら、なんていうか、身ひとつで立っていても舞台が余らない。そして一個一個の仕草のためらいのなさ。朗読劇に丁度良い塩梅の身振り。指パッチンのち天井を指差すとか、顔を上下(かみしも)に向けるとか、強調する部分で人差し指を立てるとか。役とか地の文ごとに声色を変えるのは勿論、明智小五郎をやるときは背凭れにもたれて足を組んだり、身体も変えていた。声色でも十分わかるのに。すごいな。そうそう、これを観聴きしながらなんとなく落語のことを考えていました。

あと身体のことでいうと、声を出すときの姿勢。
いままでは、三木さんは「姿勢を正して」というよりも「自然体で」というひとだと思っていて、それはあながち間違いではないと思うのだけど、今回の朗読劇見て思ったのは、肺を開いている、ということだった。

演技って「いい身体」「いい声」で観客のほうを向いて大声で叫ぶ、というのが正しいわけではなくて、べつに腹から声が出てなくていい、背筋が伸びていなくていい(かといって仰々しくない自然さがいいというわけでもないんだけど)。三木さんは普通に立つし、無闇に声を張るわけでもないし、やたらと滑舌良く喋るわけでもない。むしろ声を裏返すことだってある。こういう「自然さ」。

今回の朗読劇、演者2人はほとんど座って読む。だからわかったことがあって、三木さんは、みぞおちあたりから肩までが、なんというか、ひらけて、立っているのだった。声の通り道と、その響く部位を確保しているという感じで。背中が丸まっていると声はこもる。喉も詰まるし呼吸も浅くなる。いままでは立って演技しているのしか見たことがなかったけど、座るとなんとなく、どういうふうに身体を使っているのかが見えて、ヘェーってすごく興味深かった。
あとこれは姿勢のはなしとも繋がるかもしれないので書いておくんだけど(マイクの付ける位置にもよるとは思う)、三木さんだけマイクをふかないんですよね。発声の問題なのかはわからないけど、ボッ、ていうあれがない。それもなんかヘェーってなりました。





人でなしの恋
昼公演、見終えた直後、放心してた。何も書けない、何も言えない、泣くこともできない。ただ痺れるてのひらを握ったり開いたりしながら、この静かな興奮を振り払うように頭を振りながら、足早に劇場を出た。

どうしよう。どうしようもない。
もっとこの人の芝居が見たい、と思った。

三木さんには一言の台詞もない場面。
なのに、だんだん、唇がわなわな震え、息が上がり、一気に、静かに、彼の纏っている空気だけが濃くなり、高まっていく。その一点だけに、視界が絞られていく。ネクタイを解き、ボタンをひとつ外す。赤みのさした首筋が露わになる。
そして、すっくと立つ。見開かれた目、その鋭い眼光。真っ赤な紐を唇に咥え、そこからするすると長い体躯に巻きつけていく。少しでも動けば血の出そうな緊迫感。あの赤い糸に劇場全体が雁字搦めになって、動けない。

腹の底から、言いようのない感情、そして熱が、ふつふつと湧き上がるのがわかった。内臓が熱い。呼吸が出来ない。裏腹に、皮膚の表面はへんな汗をかいて、冷えている。掻痒感にも似た、ひりひりとした感覚が、心のやわらかい場所を貫いていく。

こんなに揺さぶられたことはなかった。

自分の人生のなかで興奮の閾値を超えたものなんて3つの出来事ほどで、それらはすべて10代のとき、田中泯のフランシス・ベーコンの舞踏、滋賀の女子高生ろろちゃんの自殺動画、クリスティーン・バタースビーの『性別と天才』を読んだとき。なにもかもに慣れてきて、感覚も鈍ったいま、20をこえてから、こんなに揺さぶられたことなんて、なかった。

形容しがたいよ、こんなの。すごすぎる。何度も溜息を吐いて、思わず手紙を書いた。

かげろう座2日目は、下手に田畑智子、上手に三木眞一郎。きのうと交代のかたち。最初と最後の久世光彦のエッセイ朗読も、きのうは田畑智子がやっていたところを三木眞一郎が読む。
衣装は白の分量が増えてた。田畑さんは白いカットソー、三木さんはスーツのジャケットなしでシャツ+ネクタイ。

冒頭、素晴らしい引き込み方だ。空気を多く含んだ柔らかい声で、聴かせる。
なのに最後、雷に打たれたようなわたしたちを横目に、あんな緊迫感を解きほぐすように、はじめと変わらないトーンで、震えもない、落ち着いたあの声で、諭すみたいにまた、観客に語りかける。

すごいよ、三木眞一郎。一体なんなんだ。
声優の域を越えてる。俳優でもあんな演技ができるかわからない。
ドラマCDとかのフリートークとかでよく共演者は三木眞一郎に対して「緊張感」というワードを出すけど、その意味がやっと分かった。纏う空気が、飄然と張り詰めている。

冒頭のエッセイから乱歩の物語に切り替わるとき、三木さん、目を閉じるんだよ。その幻想に身を浸して、ひとつひとつの言葉の向こうの原風景を、かげろうのように立ち現れる瞼の裏の劇場を、じっ、と見つめるみたいに。

素晴らしかった。それだけ。もう何も言えない。すごかったんだよ。動悸がおさまらない。

投稿者:

solaris496

(@so_lar_is)

“黄昏かげろう座” への2件のフィードバック

  1. こんばんは!
    今夜の朗読、興味深かったですね。
    見終わった後は「演出とは…」とか「田畑さん綺麗だし素敵な声だけと噛みすぎだ」とか色々思ったのですが、最終的には「やっぱり三木さんの朗読は良いなぁ」と(笑)三木さんの声って咀嚼する前に頭に直接イメージを描きやすいんですよね、不思議です。
    三木さん、本当に舞台畑の人でもおかしくないですよね。
    特にあの圧倒的スタイルの良さと尋常でない存在感、努力して得られるものではないだけに、もっと舞台に出れば良いのに!!と思わずにはいられません。
    案外一番のハードルはご本人の気持ちー声に比べ、芝居の要素として体を扱うことに慣れていないーの部分なのかもしれませんね。

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    1. こんばんは〜
      そうですね、色々思うところはありましたが(めっちゃ10行くらい書いてカットした)(えらい)、三木さんの朗読とてもよかったです。そうなんですよ〜!マーシーシートのときにも書きましたが肉体が余るということ、これはほんとにどうしようもないので、引き続き興味深く考えていきたいところです。でもほんとうに、ただ立っていればいいだけなんですけどね。舞台に立ったうえで芝居をしないことってほんとうに難しいと思うので…その点今回は朗読劇だから丁度良かったです。もっと観たい、マジでそう思いました!あんな演技できるものじゃないです、特に「人でなしの恋」マチネ、すごかった…

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