BLにリアルは必要か


前にも言ったかもしれないことを言うけど、BLを「ファンタジー」って言うことがあんまピンとこない。あくまでもBLにあるのは現実から地続きになっているシビアな愛という気持ちだぞ?とは思う、思うけれどもしかし、やっぱり経済面を考えるとそう言わざるを得ないのかなーと思ってしまう。感情面での断絶がないだけで、れっきとしたリアルではないからだ。
BLに出てくるだいたいの登場人物といえば、高校生とか大学生とかでまだ扶養下だったり、片方がきちんと安定した職に就いてるとしてももう片方がスゲー家の子息だったり、(売れている)画家とか(売れている)小説家とかで儲けの出るイレギュラーな職業だったりする。どちらもまともに仕事してたら愛なんて育む猶予がない。生活に追われてしまって恋愛どころではない。ここで一旦貧乏BLというのを思い描いてみたんだけど、もしあったとしてもその物語は一時的に切り取られた通過点でしかないので、死ぬまでを長い目で見たら純粋な恋物語は成立しえないと思うし、生きていく金がなくては、やっぱりどう考えても幸せになれそうにない、というか、他人を愛するということが可能になるということは、自分が満たされていなくてはならず、恋愛はある程度の豊かさの上に成り立っているので、食えなくては、温かい毛布がなくては、セックスは幸せな気分でできないということだ。
わたくしの目の前の本棚には漫画の棚があり、BLが並ぶあたりによしながふみの『きのう何食べた?』が刺さっている。マーケティング上でもこの漫画はBLではないと思うし、広義での意味も拾ってBLという言葉を使う場合にはBLに近い場所でグラデーションをかけることができるので、そのへんの棚に置いている。ここではファンタジーと呼ばれるBLの比較対象として、BLに近い場所にある物語としてこの漫画を挙げるのだけど、そういう意味での『きのう何食べた?』は、ファンタジー側にある整頓された「よい日常」「よい生活」ではなく、リアル側での毎日を描いた稀な事例であると思う。この漫画の醍醐味は、BL的萌えというより現実的生活を延々と描くなかで2人の行く末を見守れるというところ。ひたすら料理をつくり、節約し(!)、冗長な会話をし、大事なはなしもし、家族も描き、ときどき気持ちも交わる。これはリアルだと思う。絶頂にある愛ではなく、毎日を過ごしていくための生活パートナーを「大事にする」ということ。きちんと一緒に住むけど、相手に予定があれば自分はひとりで飯を食うし、なにかに夢中になっていれば相手の電話に出ない。そういうリアルな、別に同性愛だからって痛切でも尊くもない、ただ2人の人間の生活がそこにはある。本気で他人を愛するのはエネルギーを使うしめちゃくちゃしんどいので、なだらかに心地良く生きるためには、やっぱり結局BLはファンタジーでなくてはならないのだ。ファンタジーっていうか、フィクションね。だから貧乏BLなんてありません。裏に萌えのない「かわいそう」とかってほんとうにつらいだけだ。ここまでなにを言っているかっていうと、やっぱり金がないと駄目だっていうこと。

小説と漫画、やおいとBL

久々に同人読んでて気付いたことがあって、やおいは既に肉体関係ありきで始まっているのに対して、商業はいかにしてその2人が近付いて歩み寄って肉体関係まで持ち込めるか、あるいはそれに近い予感を得られるか、という物語なんだよなーということ。この差異、やおいという二次創作なら初期設定(2人の名前や性質や属性や関係)の説明をすっ飛ばしていい、ということから見ればあたりまえのことなのだけど、そう考えると恋情を伴う関係はやはりある程度の時間とそれなりの過程が必要ということがわかる。だからそのプロセスを飛ばしたいとなれば無理矢理もっていくしかない、ということで、少し前なら身分差ありの恋とかお仕置き系(絶対服従的な)がよく見られたということなんだろう。それか同性愛が異端ではない環境(芸能とか芸術とか)に対象となる2人をぶち込む、という措置をとるしかなかった、多分そうだったんだろうなーと思った。

やおいが進化しない(いい意味で)のに対し、さいきんのBLは多種多様すぎて全部知るのは無理と言っていいくらい色々ある。ただ、ボーイズラブという言葉がなかった時代によく見られた、少女漫画系統を源流とした「お耽美」的なものはもうあんまり見かけないのでは、という感覚がある。黎明期のことよく知らないけど。さいきんの傾向を見ると、心のドラマみたいなものをあんまり伴わない、エロ寄りとかフェチっぽいやつもけっこう多い。それが悪いということではなくて、確実に最高だけどイロモノ的なまなざしで見られることもあるということ。昔エンタの神様という番組に出てた芸人みたいな。でもM-1を人は求めがちみたいな。何を言いたいのかわからなくなってきました。要するに、大衆を引き連れる文化は時代とともに変わるんだなあという実感を得たというはなし。ロマン主義から自然主義から新感覚派へ。過渡期が終わって何が出てくるのか。行く末を知りたいです。BLがどこまでいくのか、BLという言葉がどこまで理解され、どこまで消費されていくのか。

個人的には、どうしても逃れられない性癖で言うと、繭の中で眠っていよう、みたいなBLが好きですね。日曜・午後・曇り、みたいな、真夏の陽射しを断ち切った遮光カーテンの内側、エアコンで冷やされた部屋、そのなかにぼうっと熱い目線が灯って、ラムネ味のアイスキャンデーが蝋のように溶ける、それ舐める水色の舌が、っていう感じの云々。こういうことを書くとどんな手つきで妄想しているのかバレそうですね。

もっとココ!っていう部分で言うと、BL漫画を読んでいるとよく「邪な目つき」みたいなコマが出てくるんですよね。相手が無防備になった瞬間によく訪れるコマなんですけど、わたくしはこれが最高に大好きである。近くにあった本をパラパラ見たなかではこんな感じ

(ひなこ『自分勝手。』ふゆーじょんぷろだくと,2015)

(緒川千世『終わらない不幸についての話』海王社,2015)

なんかドツボなやつがあったんだけど何だったかなー、1つ目は熱がこもってるバージョンで2つ目のほうがドツボのやつに近いですね、ドツボなのは横目で伏し目で流し目で、物憂げなのに的確な眼差しが片目だけで切り取られていて、多分その目は相手の唇とか首筋とかをじっとりと見ている、っていうコマなんですけど、ほんとに何だったかな…好きすぎて脳内でつくりあげてしまったコマかもしんないけど…
と、このように漫画は一瞬の感情をふっと浮かすことがうまくできるのでこういうコマがめちゃくちゃ感情の流れをつくる。物語を通して読んでいるというよりこういうひとつひとつの一瞬を目撃し続けている感じだ。

例えば本だと並んだ活字のなかではカタカナってかなり目立つのでセックスって単語の右に並んだ文章群はめちゃくちゃ読みづらい。なぜなら、あーセックスがくるなー、という予感を得てしまうからです。なのに漫画は一コマずつを目の当たりにするというか、没入度がより高いので、本の輪郭よりも描かれている人物に焦点が当たって、より点を(線ではなく)刺すように見られるから、小説では得られないこういう感覚が生まれるんだろうなと思う。勿論、小説には小説の特徴とかよさとかはあるということは分かりきっていて、人の感情の機敏、心のひだ的なものが、漫画だと胸により迫るということ。小説だと胸の中で爆発する、漫画だと胸の上であふれる、という感じ。

何言ってんだか本格的にわからなくなってきたので終わります。こんなにいいものがあるんだからみんな読めばいいのに。相手がある熱量をもって訊いてくるまでは絶対に教えてあげないけど。