天魔王と鈴木拡樹

んー、やっぱりこれだけがんばって行った舞台というのはあんまりないので未来の自分のためにも書いておくことにする。

『髑髏城の七人 Season月』のことだ。

いや、もっといえば、『髑髏城の七人 Season月に抜擢された鈴木拡樹という役者』についてのことだ。

ここでのスタンスはというと、

もともと演劇が好き→髑髏城の七人ってめちゃくちゃ聞くから一回行っておきたいと思っていた→どうやら今公演中らしい→現場(鳥)→ワカを観る(DVD)→月キャスト公表→エッ?→鈴木拡樹?→宮野真守てエッ?→2.5系?髑ステ?→はいチケット取れました→現場(月)

という流れです。ちなみに2.5次元に触れたのは20176月。

こちらもご参照ください。

けっこうおたくと話したりツイに書いたりともう言うことないですという感じではあるんだけど、今回やっぱ書いとこうと思ったのは何より鈴木拡樹という役者が劇団☆新感線に出た、というこの事件のことである。

・鈴木拡樹がキャスティングされたのは「天魔王」、まーあマジか、と思いましたよね、でも改めて考えれば捨之介でも蘭兵衛でもないな、天魔王だな、というのがわかるんだけど、発表されたときはほんとうに時空が歪んだかと思いました。

・で、結論から言うと、鈴木拡樹の天魔王は、かなりよかった。

『髑髏城の七人』という作品は、90年、97年、04年、11年、17年と、だいたいの物語は同じでも、何パターンもの上演がある。そしてキャストも毎度違うため、かなり多くの解がある演目である。

今回の17年は年間通して花鳥風月(極)と、5つの筋書きがあるうえに、いま公演している「月」はWチームで「上弦の月/下弦の月」に分かれている。

・鈴木拡樹は下弦の月の天魔王を演じた。

・月の台本はというと(あんま観てないけど)ほかの台本に比べて味付けが少ないように感じる。ノーマル、プレーン味です、という筋書きで、キャラクターもきわめてまっすぐで、髑髏城初めて観るなら月で!というような、教科書的な雑味のなさである。

・ここで言っておきたいのが、けっこうレポ?ブログ?とかで見かける「勧善懲悪のストーリーなんですけどオ」というコレ、嘘?、みんな正義vs悪の物語だと思ってたの?、マジか、ぜんぜん違う。

・髑髏城の七人は、正義vs正義の物語だ。公共の福祉が成り立たないなら、話し合いでおさまらないなら、暴力しかねえ!っていう戦乱だ。

「たたかう」という物語の持っている、「みんな信念を貫こうとしてこうなった」という大義のこと忘れてませんか、天魔王が悪役感ありすぎて勧善懲悪の物語だと思ってしまいすぎる。でも違う。

・これはメイクや衣装が原因なことが多いにある、という気もするけど、髑髏城を勧善懲悪と言ってしまうの、まずは天魔王のことを「天魔王様」だと認識してしまうことが我々の失敗だよなと思う。あの、バリバリのメイクと衣装による、俺様は超つよい悪役です!的ビジュアルによって、根本的なことである「彼は今もただの人間である」という、このことを忘れてしまう。彼は「天魔王」になる前は普通の名前を持った、普通の人間なのだ。

ここを失念してしまうと、「蘭兵衛と天魔王と捨之介が3人とも揃って信長公に身も心も捧げていた男達」であることが流れてしまって、マジで元も子もない。昔はみんなでおなじ方向をむいていたのだ。いまは時も経っていろいろ変わってしまったが、そのきっかけとしては、みんなべつに殿(信長)に恨みをもって解散したわけではなく、殿が居なくなったから散り散りになっただけであって、みんなの大義は変わっていなかった。そして、戦乱の世が終焉した”今”でもまだその過去に縛られている。

だから“今”世にはばかろうとしている秀吉や家康には程度の差こそあれ3人とも納得のいかない部分があって、いつまでも引き摺ってちゃいけない、だから過去への燻りに決着をつける、そういう物語だ。

・「天魔王像」というのはほんとうに色々あると思うんだけど、やっぱり彼は自分の弱さに背を向けたひとだ。あんなに身も心も俺が尽くしていた殿は蘭兵衛を選び、『私に死ねと言った』。そのショック。湧き上がる黒い感情。愛ゆえに膨れ上がる憎しみ。執着や憧憬や愛情がごちゃ混ぜになって、『そんなのは殿じゃない』、『殿の最期の言葉はそんなくだらないものじゃない』。理想が高すぎて、それを裏切った事実を受け入れられない。完璧な理想が叶わなければ死んだほうがマシ。自分の無力さや弱さやふがいなさを直視できないために、静かに、まともに、狂ってしまった。そういう可哀想な人間だ。

・だって、考えてみれば兵庫とかめちゃくちゃいい奴だけど、村娘を襲った侍を殺して村を出た、って、人を殺してるのには変わりがない。でもそれは法の考えだ。倫理とは?と、立ち止まる。兵庫は『弱きを助け、強きを挫く』悪いやつの敵である。だから筋通ってんだよなあ、髑髏城に出てくる人間には、みんな曲げられない信念があり、捨てたい過去があり、捨てたくても捨てられず、どうしてもそういう業を抱えて生きている。だからときどき正義がぶつかりあうのだ。みんな間違っていて、みんな正しい。

・要するに、みんなあまりに人間的で、圧倒的なものは存在しない。アニメみたいに超能力で闘えないし、斬られたら血が出て死ぬ。刀も百人斬りなんてできない。だから『斬るたびに研ぐ、突くたびに打ち直す』。天魔王だって人間だ。みんなと同じように心を持ち、言葉を話す人間だ。捨之介と蘭兵衛と天魔王が、信長の御前で、交わした酒とか、談笑だってあったかもしれない(事実的にあることかどうかは知らん)。

ここまで語ってきたこと、天魔王がこういう人間であること、それが鈴木拡樹にぴったりすぎて、考えれば考えるほどより鮮やかな解になる。

・鈴木拡樹自身とか、その界隈のインタビューを読むと、彼のことを口々に皆「優しい」と言う。特筆すべきことでもないじゃん、優しさ、とか、と思うとともに、特筆されるべきレベルで優しいのだろうか、と思ったりもする。

・ここからはもうぜんぜん読んでるインタビューも観た芝居も少なすぎるので想像でしかない。でも、自分にとってはけっこう確実にこの役者の核に迫っていけてる気がする。

・今のところ、鈴木拡樹というひとについては、芝居にあることだけが正直で、振る舞いとか態度とかはぜんぶ嘘っぽいと思っている。

だから、天魔王よろしく鈴木拡樹についても人間界まで引き摺り下ろしてやるよ!と思っているんだけど、『舞台男子』で自分のことを「頑固」って言っていたあの言葉、あれにけっこうあっ、と確信を持ち、ただひたすらに感動した。

あれのおかげでこの人についてよく語られる優しさとか母性みたいなものが強固にそこへ根をはっていることがわかったし、それがこの人の腹の底にあるドロドロしたものから少しだけはみでた本音なんだなーと思った。この人の中枢にあるかけがえのない暴力をみんな知っている。

・うまく言い難いけど、要するに逆のひとだ、ということ。たとえばバラエティで櫻井翔が「ほんとうに駄目すぎるくらいルーズすぎるから分刻みでスケジュール立てるんだ」って言っていたけどそういう感じだと思った。いつも自分のアンチをいく。だから己の測定計において、自己愛と自己嫌悪の振れ幅は同じくらいデカいものの、それらの極がハンパなく遠い。完璧主義で、理想に追いつけない自分を許せない。だから常に自分のことを肯定したい、と思いながらも、常に自分のことを否定し続けている。常に二重である自己。まっすぐにひねくれているのでわかりづらいけど、常に2つ(もしくはそれ以上)の視座から自分を見ているために、やけに落ち着いていたりとか、達観したような佇まいがあるのもわかる感じがする。

・「頑固」だからこそ、「優しく」したい。他人に優しくしよう、と意識していなくてはいけないほどの、コントロールしようがない決意を、激情を、鈴木拡樹は持っているということだ。

・だから、いつも静かに笑っていて、あんまり人には言わない、そういう気がする。いろんな自分の意思を押し殺す「優しさ」。それはときどき、状況を正当化しようとしすぎて、確固たるものまで揺らぐことがあると思う。頑固すぎるから、意見を柔らかくしておく、みたいなことが苦手で、他人の線引きもわからない。自分は頑固すぎるから、もしかしたら他人がここまでオーケーとしているところを自分は狭めているのかもしれない、基準がわからない。だから逆に寛大になりすぎる。そこは譲らなくていいよ、守っていいんだよ、というところまで明け渡してしまうことがある。

・徳川家康は、天魔王の正体を、「空っぽ」の「仮面」、と言う。ほんとうにそうだ。あけすけで、鍵がバカになっていて、一向に開かずの扉もあれば、厳重にしておかなきゃならない扉が開いてしまっていたりする。まったく不器用すぎる。彼は、他人が自分の領域を侵すことを許容してしまう。鈴木拡樹の優しさは、自分を傷つける優しさだ。自分の意思がありつつもそれを殺したり、殺したうえで非自己を取り入れたりするのが苦ではない、という、自分の中身を入れ替えることを厭わない人間。そんなの、役者に向いてるに決まってる。

鈴木拡樹はほんとうに掴めない人間だ。ときどき、ほんの一瞬、芝居に本音を垣間見たような気がすることがあり、掴めた、とまた一瞬、思っても、彼の姿はもう、そこにはない。

でも、ほんとうにいい役者だ。語れなさは記号の豊饒さを示してくれるし、こういう”詩”のようなものを舞台上に観せられる人間は、そういない。「髑ステ」などと揶揄された(らしい)Season月だが、ベストアクトと呼ぶ声も聞く。若い現場にもいい人材はたしかにいるのだ。なにが本物か、というのは、本物を見ることでしかわからない。味わえない。理解だけじゃ何も面白くない。わからない、けれどなにかどうしても惹かれるものがある、それこそが魅力というものだ。これだけ言葉を費やしても、まったく掴めた気がしないのがこの役者の魅力の証拠だし、なにより演劇(その他諸々!)の素晴らしさ語るためには、このジャンルと役者は事欠かないのだ。嘆かわしいことに。

投稿者:

solaris496

(@so_lar_is)

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