・『グレイテスト・ショーマン』を観る。これは観てよかった。ミュージカルを期待して行ったが、その期待は外れた。しかし、よかったのだ。例えばそれは昨日山口昌男のことを考えていたからとも言えるし、自分がマイノリティ側の人間である可能性があるからかもしれない。すべて繋がる。
・ストーリーがリアルで、ミュージカルなのにこれは何事かと、ララランドのときのことも思い出していたのだった。そしたら最後に格言のようなものがスクリーンに。そこでやっと知ったのだが、P・Tバーナムは実在した人物だった。ドラマはある種ドキュメントのような感じ。
・サーカスの基盤をつくったひとりの興行師なのだそうだ。自身も労働階級で、サーカスを立ち上げたのは金に困ったことが始まりだ。はぐれもの、というか、いわゆるそういうひとたちを「ユニーク」と称して、人を集める。障がいとか、ジェンダーとか、人種とか、そういったコンプレックスを「見世物」にする。サーカスとはそういったものだよな、と、思う。丸尾末広の漫画や、なんかそういったもので知っているものは少なくともそうだった。でもちょっと語弊だな、「見世物」という気はさらさらなく、奇抜なものを見せて、そのスキャンダラスなものを目撃したい、という観客の好奇心を誘ったのだ。でもそれは結果的にマイノリティを救うことになる。
・芸人、というか、道化師の地位は低かった。だが、それを向上させたのも、こうした人々の功績なのだろう。サーカスが成功し始めると、批評家が新聞に悪評を書く。それを逆手にとり、バーナムはその新聞を持参すればチケット半額、そして自らは”Prince of Humbug”と書かれた王冠を被り、堂々と舞台へ立つ。この姿勢、きわめて紳士的に権威主義に挑み、それを笑う、その根元にある昏さまで見事に描いている。素晴らしい喜劇だ。
・そういや今日読みはじめた東浩紀『観光学の哲学』にも、トマス・クックのはなしがあった。上流とのたたかい。
・だが成功しても、上流階級からは成り上がりと言われ、お前のショーは芸術ではない、と言われる。
・ここでのちのビジネスパートナーになるフィリップだ。バーナムとは対照的に、上流階級にも受け入れられるような、たぶん「アカ」的な芝居なのだろう。芸術だと受け入れられているが、楽しくない、生きている心地がしない。フィリップはバーナムに言うのだった。
・あなたの上演は偽物だが、客は笑顔で劇場から出てくる。
・この、舞台芸術というもののなかでの対比、ショーと演劇は異なる、ということを示し、タッグを組ませたところにもまた唸るのだった。
・だいたい、大衆がなにかを観るとき、そこには必ず感動があり、根拠があり、ストーリーがあり、オチがある、と思い込んでいるものだ。けれど、違うものもある。観客は、舞台の上にあるものにはなにかしら意味を見つけたがるものだ。絶対になにか意味を見出せる、なにか観た後にたしかなものを持ち帰ることができる、と思い込むので、ストーリー性のないもの、文学でいえば私小説や、ロブ・グリエ的なものは「売れない」のだろう。
・しかし、舞台ならば、それでいいんじゃないのか。
・私がしばしば書くように、舞台ならば、いま目の前で生起する、肉体、あるいは肉声があれば、そのパフォーマンスが受容するもののほとんどを占めるだろう。せりふなんてほとんど聞いちゃいない。言葉は演劇の生を前にすれば弱いものだ。だからサーカスという、その見世物だけで成立しているような舞台に、フィリップがノるのはうまい。嬉しい。
・とまあ、俺も上流を呼びたいんだ、とフィリップを口説いたことでわかるとおり、バーナムのショーは上流階級に受け入れられなかった。さらに、彼の上演は奇抜なサーカスであったことで、市民からは、街を出て行け、下品だ、野蛮だ、というような抗議。
・吉見俊哉は、「盛り場」は「悪場所」であるといっている。このような「場」は、サードプレイスであり、アジールのようなものだ。「盛り場」はその空間ではなくその中身、「盛り」が大事なのであって、その外側は本質ではない。だから劇場が燃えてもサーカスを建て直すことができた。そしてパレードは続く。
・さらに、「盛り場」、もっといえば、「盛り」には「性的なコノテーション」がある。人間はそういった猥雑さを好む。つるっとした、きれいすぎる街を好んでいるなら、例えばゴールデン街などとうの昔に整備されきっているだろう。エンデの『モモ』に描かれるような、灰色で無機質に整然と並ぶビル街。
・まあ、こういった感じで、私はこの映画をミュージカルではなくドキュメンタリーのように観ました。心のなかのエンターテイメント部分が充たされきったわけでは正直ないのですが、この物語が「映画」というものである意味、というか、それを感じ、きわめて上半身的な楽しみ方をしていた。こういう意外な出会いがあるので食わず嫌いはよくない。もっと映画を観よう。しかし、ムーランルージュのときも思ったが、向こうのミュージカルはなぜこうなのか。曲といい、役者のからだといい。まあ、個人的には生々しくて好きだけれども。