『グレイテスト・ショーマン』を観た

・『グレイテスト・ショーマン』を観る。これは観てよかった。ミュージカルを期待して行ったが、その期待は外れた。しかし、よかったのだ。例えばそれは昨日山口昌男のことを考えていたからとも言えるし、自分がマイノリティ側の人間である可能性があるからかもしれない。すべて繋がる。

・ストーリーがリアルで、ミュージカルなのにこれは何事かと、ララランドのときのことも思い出していたのだった。そしたら最後に格言のようなものがスクリーンに。そこでやっと知ったのだが、P・Tバーナムは実在した人物だった。ドラマはある種ドキュメントのような感じ。

・サーカスの基盤をつくったひとりの興行師なのだそうだ。自身も労働階級で、サーカスを立ち上げたのは金に困ったことが始まりだ。はぐれもの、というか、いわゆるそういうひとたちを「ユニーク」と称して、人を集める。障がいとか、ジェンダーとか、人種とか、そういったコンプレックスを「見世物」にする。サーカスとはそういったものだよな、と、思う。丸尾末広の漫画や、なんかそういったもので知っているものは少なくともそうだった。でもちょっと語弊だな、「見世物」という気はさらさらなく、奇抜なものを見せて、そのスキャンダラスなものを目撃したい、という観客の好奇心を誘ったのだ。でもそれは結果的にマイノリティを救うことになる。

・芸人、というか、道化師の地位は低かった。だが、それを向上させたのも、こうした人々の功績なのだろう。サーカスが成功し始めると、批評家が新聞に悪評を書く。それを逆手にとり、バーナムはその新聞を持参すればチケット半額、そして自らは”Prince of Humbug”と書かれた王冠を被り、堂々と舞台へ立つ。この姿勢、きわめて紳士的に権威主義に挑み、それを笑う、その根元にある昏さまで見事に描いている。素晴らしい喜劇だ。

・そういや今日読みはじめた東浩紀『観光学の哲学』にも、トマス・クックのはなしがあった。上流とのたたかい。

・だが成功しても、上流階級からは成り上がりと言われ、お前のショーは芸術ではない、と言われる。

・ここでのちのビジネスパートナーになるフィリップだ。バーナムとは対照的に、上流階級にも受け入れられるような、たぶん「アカ」的な芝居なのだろう。芸術だと受け入れられているが、楽しくない、生きている心地がしない。フィリップはバーナムに言うのだった。

・あなたの上演は偽物だが、客は笑顔で劇場から出てくる。

・この、舞台芸術というもののなかでの対比、ショーと演劇は異なる、ということを示し、タッグを組ませたところにもまた唸るのだった。

・だいたい、大衆がなにかを観るとき、そこには必ず感動があり、根拠があり、ストーリーがあり、オチがある、と思い込んでいるものだ。けれど、違うものもある。観客は、舞台の上にあるものにはなにかしら意味を見つけたがるものだ。絶対になにか意味を見出せる、なにか観た後にたしかなものを持ち帰ることができる、と思い込むので、ストーリー性のないもの、文学でいえば私小説や、ロブ・グリエ的なものは「売れない」のだろう。

・しかし、舞台ならば、それでいいんじゃないのか。

・私がしばしば書くように、舞台ならば、いま目の前で生起する、肉体、あるいは肉声があれば、そのパフォーマンスが受容するもののほとんどを占めるだろう。せりふなんてほとんど聞いちゃいない。言葉は演劇の生を前にすれば弱いものだ。だからサーカスという、その見世物だけで成立しているような舞台に、フィリップがノるのはうまい。嬉しい。

・とまあ、俺も上流を呼びたいんだ、とフィリップを口説いたことでわかるとおり、バーナムのショーは上流階級に受け入れられなかった。さらに、彼の上演は奇抜なサーカスであったことで、市民からは、街を出て行け、下品だ、野蛮だ、というような抗議。

・吉見俊哉は、「盛り場」は「悪場所」であるといっている。このような「場」は、サードプレイスであり、アジールのようなものだ。「盛り場」はその空間ではなくその中身、「盛り」が大事なのであって、その外側は本質ではない。だから劇場が燃えてもサーカスを建て直すことができた。そしてパレードは続く。

・さらに、「盛り場」、もっといえば、「盛り」には「性的なコノテーション」がある。人間はそういった猥雑さを好む。つるっとした、きれいすぎる街を好んでいるなら、例えばゴールデン街などとうの昔に整備されきっているだろう。エンデの『モモ』に描かれるような、灰色で無機質に整然と並ぶビル街。

・まあ、こういった感じで、私はこの映画をミュージカルではなくドキュメンタリーのように観ました。心のなかのエンターテイメント部分が充たされきったわけでは正直ないのですが、この物語が「映画」というものである意味、というか、それを感じ、きわめて上半身的な楽しみ方をしていた。こういう意外な出会いがあるので食わず嫌いはよくない。もっと映画を観よう。しかし、ムーランルージュのときも思ったが、向こうのミュージカルはなぜこうなのか。曲といい、役者のからだといい。まあ、個人的には生々しくて好きだけれども。

「聲の形」を観た

「聲の形」観ました。これは映画館で観れてよかった!このアニメの纏ってる雰囲気的に、劇場空間で観たほうがうまく感じられる気がする。語りたいことなにもないんですけど、思うことはたくさんあったので雑感書いた。アニメ観たあととしては稀な感情になった。

・まずOP。The WhoのMy Generationかかった時点でグッとガッツポーズした。あの激しい吃音。オープニングっていまからの2時間弱のストーリーの色や表情や雰囲気や客のスタンスをだいたいつくるけど、この不安定感、むしろこれがどんな映画かって決めつけてくれない感じめちゃくちゃうまい始め方だなと思った。
・音楽にagraphエッと思って耳を澄ましてたら、音響自体もおもしろかった。キィン という音、ブッ という音、そういう聴き流せない違和感のある音で耳をはっとさせてくれる。耳が痛い、みたいな体験をさせてくれる。そのたびに西宮の世界って、と思い、またはっとした。

・描き方のはなしとしては、まず京アニの女子最高。髪の毛の感じ、仕草、身体の表情、瞳の表情、涙とか。あと細すぎない太腿(とくに川井)。植野が遊具の柵をタン、タン、て手のひらで撫でながら歩く(うまく言えない)んですけど、やるよねーという感じ。
・石田の「動画を保存」めっちゃいい。こいつは人から送られた写メとかをきちんと保存してそう。
・永束のポテトタバコのとこ笑ったし、ああいう小野賢章、イイ〜!
・花火のドーンという振動を感じてた西宮の画があってからの、欄干を石田がカツン、とやったら柵を握り締めて泣いてた西宮がふっと顔を上げるこの一連、アッと思いますよね。気持ちが出会ったり離れたりする場所が橋というのも超いいし、所々に挟まれる波紋も聲の形なんですよね、音が見えるっていう画。
・アニメって人が1から描くものだから、実生活でのノイズは省かれがちなはずで、シンプルに描かれるはずなんだけど、石田のチャリ見たときにアレ?と思ったんですよ。いや、これはアニメじゃないじゃん、アニメなんだけど!ドキュメンタリー、でもないんだけど、急にどこかの現実にあるだれかの生活に接続されたみたいに、ごちゃごちゃとしている。見た目だけでなく、でもそういう全体像からしか立ち上がらない感覚ってある。商業的ではない邦画見てるときによくあるやつ。生活を映すっていう。あの感じがあってすごかった。
石田のチャリにはアームカバーがしてあるんだけど、普通に描くならそれいらないんですよね。それだけでなく、石田家の家族構成とか、西宮の妹の「オレ」とか、そういうの、ふつうならキャラクターという設定の束を強固なものにするためのインパクトのひとつにすぎないと思うんですけど、この映画のそれらは単にキャラクターへの記号付けではない、続く日常を、間に合わせながら生きるしかない、生活の全体像を表すための設定なんですよね。貧困、って言葉が一瞬過ぎり、でもぜんぜんそうではない、夜とかにときどき訪れる、各々には各々の生活があるんだなーって思う感じ、そのリアルさそのものだった。これがなんかたまらなくやるせなく、今アニメ見てるっていうこと忘れてた。観ながらに疑問を抱く隙がないっていうか、それはその人の生活で、そういうもんです、っていう感じがあった。いま生きててよくある感じ、例えば、朝の電車でよく見かけるひとの顔に傷があったとして、なにがあったんだろう、でも別に立ち入ることでもない、声をかけるほどでもない、だから通り過ぎる、っていう感じ。アニメってそういうの説明するじゃないですか、アニメは必ず明瞭で理由があって辻褄が合っててクールなはずじゃないですか。なのに、この映画からは匂いがする。この生活感、言ってみれば、寝るのはベッドではなく布団、しかもタオルケットは変な柄で毛玉、みたいなリアルさ。うまく言えないけど、すごい。
このリアルさで言えば、聲の形、現実逃避のために見るアニメじゃぜんぜんない。非常に苦しかった。これに尽きる。非日常に連れて行ってくれないし、圧倒されて高揚することもない。けど、この感覚、身に覚えのある人間は少なからず居るんじゃないだろうか。どうしてもときどき夢に見てしまう戻りたくない昔のこと。これよく描いたよなーと思う。完璧に立ち直る物語でもないし、闇落ちだー、とも思ったけど、『君に生きるのを手伝ってほしい』っていうとおり、ぜったいに苦しみながらも、快方に向かうんだろうなって思えたので、甲斐があった。よかったとかわるかったとかじゃない。観ながらなんとなく「恋人たち」のことを思い出していた。
だから、この2時間弱で、アニメ見てるときに起こる感情の動きはほとんどなかった。明確にここで萌えた!とかここ爆発的に感動した!とかなかった。でも泣いた。さいごのほうのシーン、西宮が橋の上で泣くとこで泣いた。気づいたら泣いてた、なんて10年くらいなかったかもしれない。鼻の奥がツンとなって、涙が溢れて、とかではまったくない、気づいたら視界が霞んで、目のふちがジリジリ温かくなって、あれ、と思って一瞬引き戻される。長い映画なのに、周りの座席が見えることなく、脳内で映像が再生されてるみたいになってた。夢中っていうのとはまた違う、読書に集中してるときみたいな感覚で映画を観たのは久しぶりだった。目の前の物語に感動したわけでは決してなく、感情移入してたわけでもなく、しんどさを胸に植え込まれて自分自身の中にある感覚で泣いてたんだと思った。西宮が泣いて、自分も同じだった。

「聲の形」、きちんと語れば多分ものすごくむずかしいジレンマに陥りそうなことを扱っているんですけど、ぜったいにどっかこころに残る、もしくは引っかかる映画だと思いました。観終えて、ウオ〜もう一回観たい!とかにならないんですよね。物思いに耽るときみたいにぼーっとしてしまう。うまく言えないんですけど、これからときどきこの映画のこと思い出すんだと思う。ときどき思い出して、ときどきまた観そうだし、そのたびに同じこと言ってそう。

秒速5センチメートル

“その瞬間、永遠とか、心とか、魂とかというものが何処にあるのか、分かった気がした。13年間生きていたことの全てを 分かちあえたように僕は思い、それから次の瞬間、堪らなく悲しくなった。明里のその温もりを、その魂をどのように扱えばいいのか、何処に持っていけばいいのか、それが僕には分からなかったからだ。僕たちはこの先もずっと一緒にいることはできないと、はっきりと分かった。僕たちの前には、未だ巨大すぎる人生が、茫漠とした時間が、 どうしようもなく横たわっていた。でも僕を捉えたその不安はやがて緩やかに溶けてゆき、後には明里の柔らかな唇だけが残っていた。”

いつかの春に見たこのアニメーションをまた見たらいろんなことを思い出してなんだかたまらなくなってしまった。街、新宿、ビル、都会、駅、電車、踏切、桜、海、空、星、宇宙、学校、狭い世界、どこにもいけない、あの頃のきもち。遠野の独白に深く頷くことができてしまう。充電の切れたiPhoneを持っているみたいな気持ち。夢だったかもしれない、記憶というよりは危うい思い出を心で撫でながら、ずっと遠くを思う気持ち。まだ若くて、先が見えなくて、目の前のことをひとつずつやっていくしかないというのはわかりすぎるくらいわかっているのに、堂々巡りにいつのまにかまた遠くを思っている。自分の居場所が、どこか違う場所が遠くにあるはずで、そこでは出会うべき誰かに出会うはずで、まだ人生は本番ではなく、いつか始まるその劇的であろう何かをひたすら待って、待ち続けて、ただ時間だけが過ぎてゆき、気付いたら結局何者にもなれず、なる気もなく、選んでもないのに結局諦めたことになっている。新海誠はそういう焦燥感、期待、不安、諦観、みたいなものを、私小説的に描いてきた気がするのだけれど、アニメであること、を考えれば、アニメで展開される物語にはある種の劇的さがやっぱり必要で、仄暗いものよりは愉快なものが響く、ということをやってくれたんだと思う、今回、『君の名は。』で。それは彼自身の変化なんだろうけど、たまたまこういう気分だっただけかもしれないけれど、こういうふうになにかをつくるひとが、なにかをつくりあげても尚こういう気持ちを忘れないでいるというのは、彼のなかにひどく深くこういう不安感覚が停泊しているんからなんだろうと思う。祭が終わった後、誰かと会った夜、そういうときにはっとする感覚。うわー、人生、みたいな。ああ、毎日生きてんのか。考えては、たまらなくなる。黙って今だけを生きていられたらよかったものを。だから『君の名は。』すごかったんですよ。新海誠はずっと新海誠のままその文体で言い回しを変えながら何度も何度も同じことを言ってきた。だから、君の名はみたいな作品を完成させたことで、1回目の成仏をできたんじゃないだろうか。少なくともわたくしのなかではそういうことになっている。彼の作品を見て心に立ち上がる感覚は、音楽とか本とかを愛してるひとのそれだなーと思う。この作品が完成したあと、心が一瞬でも晴れたんだろうなあと思いたい。なんか、幸あれ、みたいな、そういう気持ちになる。

『君の名は。』を観た

これがわたしの求めていた物語だったような気がする。

『君の名は。』

これは恋じゃない。人と人が出会うこと。会えなかった人に会えること。淡いピンク色じゃない「好き」という気持ち。

魂で出会っていたような気がする人。

画のきれいさなんて気に留めていられないくらいの、物語のつよさというよりももっと輪郭のないものでいっぱいだった。

なんかうまく言えないから適当に小見出し的なもの付けたんですけどそんなかち割って語れる物語じゃないんですよね、マジでいろんな要素が複雑に絡み合っている物語なので。よって読んでくれるひとは脳内でブレンドしてうまいことまとめてください。

・とにかく夢中のままに終わる1h46
まずグッときたのは構成。冒頭なんてミスリードありまくりじゃないですか。だけど追うごとになんとなくあーあのときのあれこれか、みたいなのがわかってきて、でもそれって劇中で登場人物たちも感じてることなわけで、観客はある意味彼らと同じ体験をさせられるんですよね。そこの没入感。「自分が」「あなたが」どう思うか、という次元ではもはやなく、自分の身体っていう容れ物のなかで、ただ目の前のものを感じているっていう、我を忘れるっていう鑑賞体験だった。圧倒されるというよりも、なんというか、なにもできない感じ。瓶を倒してビーズがばらばら溢れているのにそれを止めなきゃいけないのはわかってるのに最後の一個が落ちるまでただ唖然と眺めちゃう感じ。久々に口開いてたと思う。夢中っていう言葉の意味を思い出しましたね、穿って観ている暇などまるでない。
その物語の進行の疾走感についていくと、ふと思い出した演劇があって、それがままごとの「わが星」(に関連して□□□の00:00:00)。この作品は観中感(?)としてかなり似た位相にあるなあという個人的感覚。物語の緩急とか高まりとか胸中に抱えるものとかなんか知らんけど涙が出る感じとか。ディズニーのきらきらとかにまみれると興奮的な涙が出るじゃないですか、あんなん、高揚感に押されてうわーってなるアレがあって、こういうアニメ(だけでなくエンターテイメント全般)長らく無かったんじゃないでしょうか。おもしろい作品はたくさんあるけど容赦なく圧倒してくれるやつ、超久々に観たという思い。

・世界の描き方、空間/時間/人間
新海誠は都市を描く。自然を描く。人の思いを描く。都市、とくに新宿、これは全国民の第2の故郷、例えば、夜行バスのターミナルがあるところ、あらゆる電車の接続点であるところ、都市・トーキョーとしての新宿。知らない人しかいなくて、いかにも時空が歪みそうな本当にある土地。新宿について掘り下げるとキリがないんですけど、記号的意味が含まれるこの場所がアニメという虚構に置かれているのがとてつもなく最高と思う。
そして新海誠作品なので例によって映像美がヤバい。自然の描き方がヤバい、画のみずみずしさがヤバい、都市が雨が食べ物がヤバい、質感がヤバい、とにかくアニメだということが毎度信じられない。画は現実を周到しなくていいんですよ。いちばんそれが素敵に見えるように描いたらいい。だってアニメだし。0から立ち上げられる世界だし。だから星も瞬くし彗星もすごい軌道を描くし変なところに虹が入るし光と影の辻褄が合ってない、雨のなか山に入ったら死ぬしスカートにローファーであんなとこ歩いたら死ぬ、でもそれがいちばんうつくしいかたちだからいいんです、アニメなんだから。
ディテール的なことでいえばグッときたのは釘トントンの画。夏祭りの屋台を設営するときに釘打って最後トドメとして頭を入れるじゃないですか、そのときに木が柔らかいからトンカチの跡がつくんですよね、四角に凹む。それエー!と思いませんでしたか!
あと、入れ替わったあとの瀧と三葉の仕草や表情の感じおもしろかった。男の子/女の子っぽさってここに出るよなーっていう。女の子っぽさって、しなをつけるというか、背筋がのびている、ヒザが内側に入っている、脇が閉じている、とか繊細で上品な動作なんですけど、瀧(中身は三葉)が部屋の中で立ち上がるとこがあるんですけど、そのとき床に手をつく感じ、それが(あ〜女の子〜!)と思った。入れ替わってるとこは笑うという意味でかなりおもしろかったな…

・設定の妙
都会/田舎、男/女。それが入れ替わって、っていうこの大きな設定がもうめちゃくちゃにツボなんですわ、一言でいってしまうとハーそんなことか、と思うんですけど違うんだ、この表現はこのアニメを見てからだと印象が変わるんだ、頼む。とにかく、三葉の「来世は東京のイケメン男子にしてくださ〜い!」の言葉に完全に信頼を得た。このアニメはただの恋愛感動物語じゃない!!!
この設定、本来ならめちゃくちゃに自分を介せるし、自分をフィルターにすることでいろんな複雑な思いを持てるはずなんですよ、なぜなら、わたくしは都会への憧れと期待と不安と、みたいなのは超わかるし、満員電車で憂鬱な顔で窓の外見る感じも超わかるし、わたし自身女であることがあんまりピンとこなくて、来世はマジで東京生活を送るイケメンに生まれたいし、性が入れ替わるということに、こんなにもロマンがあるものだとは思ってなかったんですよね、これを観るまでは。中身が入れ替わるという設定がこんなにも萌えるもんだとは思わなかった、という発見。入れ替わったふたりを見ているとなんかしたたかな気持ちになりました。いままで男女入れ替わるやつってぜんぜん見たことあるし、正直この映画の予告見たときはこんな様式美のやつおもしろいのかよ、ある日突然入れ替わった男女が最終的に会って幸せでおしまい、っていうのをすごい映像美で説得してねじ伏せるんだろ、とか思ってたんですけどもうそれはほんとうにごめんなさい。すいませんでした。ぜんぜん違うじゃん!もうおもしろいとかじゃないよね、ニタニタ笑いながらひたすら溜息を吐き「いや〜」とか言うしかない、そういう感じです。ヤバかった。おもしろかったとかよかったとかいうんじゃなく、やばかった。
話が逸れた気がする。ええと、なにが言いたいかというと、このように自分のこととして受け入れておもしろがるポイントがいくつもあったにもかかわらず、共感とかしている暇ないしする必要もないというか、自分を介入させずにまっすぐに観れる作品でした。それくらいの夢中さがある。

・恋はピンクじゃない
この主役の二人、男の子と女の子なんで、恋物語だと思うじゃないですか、違うんですよ、二人はただ、人間として出会う。これは設定として異性のほうが適していたってだけで、ほんとうに、人として出会っていると思った。たぶんそれは中身が入れ替わってるから、男女が外と内で半分ずつになって中和されているので、”the man”になることができる。だからこの二人の関係を見るときに、脳をピンクで染めなくてもよかったんですよね。きわめてまっさらな人間どうし。性とか関係なく他人に持つ「かわいげ」みたいなものが、相手を思うということになる。「こいつ案外かわいいとこあるな」の「かわいい」。好きとか愛してるとかいうより気に入ってるという感じ。この思い入れというのが対等な会いたさを形成する。思いが対等なんですよね。量とか質とかではなく。ここで大事なのが、わたしとあなたは互いに別々に存在し、そのときわたしたちはただ対価である、ということ。オタクの性質の根っこのほうには、何故わたしはあなたではないのか、というのがあると思う。これは愛憎です。これが特別だということで、思い入れなんですよね。執着とも信仰とも依存とも違う。だけど、わたしはあなたではないし、あなたはわたしではない。絶対的に他人である。他人である幸福っていうの、誰かも言ってましたけど。それをさあ、この作品はこんなふうに見せるわけですよ。いかにも取り違えてしまいそうなのに、おれはおまえでわたしはあなた、ってなっちゃいそうなのに、ぜんぜんならない。むしろそのあぶないバランスのなかで、中身でありその主観である「わたし」と「おれ」は揺るがないから、他者と溶け合ってしまうことなく、各々が各々のままで、相手を深く知ることができる。この作品にあるのは「わたしたちって、なんか似てるね」ではないんですよ、なんの関係もない二人が、入れ替わったことでお互いの存在を認知して、学習していくわけです。それは恋ではないじゃないですか、恋ではないし、これはボーイミーツガールなのか?っていうか、ぜんぜん会ってないし。つまり、人を思うということ。わたくしのなかで出された統計によると、恋仲のふたりの恋の行方の物語は死ぬほどあるのに、募らせるということが描かれることが少ない気がする。この作品はこの、人を思うということが純度高く描いてあるので、よりフラットに観られたというわけだ。壮大なドラマなんだけど、御涙頂戴感もないし、フィクションだからって御都合主義的にむやみに抱き合ったりしないのがいい、恋愛的なイベントを作ってくれないのがよかった。会えてうれしい、この思いは恋愛ではない、だけど多分絶対に「すきだ」、この複雑な感動をそのままお互いの中に持っていて、かたわれ時に会えた二人は、わかるよ、死ぬほどわかる、っていう感動で胸は震えているんだけど、なんか他愛もないことばかり話す、でも泣く、うれしい、会えた、みたいな。ラストシーンだって、あんなに空間も時間も越えてやっと会えたのに一瞬、躊躇ってすれ違って機会を逃してしまうのが超リアル!でも声をかける、声をかけて、通じ合うじゃん、おれら魂で会ったことあるよなっていう心。この作品はハードは超フィクション的だけどソフトは極めてリアリティ的っていう、虚構の素晴らしさが見事に効いてるので最高。
あとは、ひとつ前の記事にも書いたんですけど、国民がみんな観るアニメ映画としてもうジブリにとって変わったんだろうなと思った。新海誠が移動したんじゃなくてジブリがいた枠が新海誠側に移動してきた感じ。そういうひとたちが『秒速5センチメートル』とかを見てなんていうかすごく興味がある。
ひとまず公開終了までに少なくとももう1回はおかわりすると思う。超ヤバかったので。マジでこれを求めていた感がすごかった。これ、斜に構えてるのか新海誠にトラウマがあるのか何かしらの理由で観ないっていうひとは絶対に観た方がいい!っていうのもよくないな、1回観るごとに人生でときめく回数が何回か増えます。

君の名は。という現象

君の名は。を観に行こうと思って自転車を走らせる。レイトショー20:40。満席。満席?嘘だろ、と思ったそばから傷物語(2回目)のチケットを買う。君の名は。って完売なんすね。はい、確か7時頃から兆しありましたねー。えー、人気なんすね、すごいな。ですねー、1,100円になります。あ、ありがとうございます。この時間だというのにロビーにはごった返す人、ポップコーンには行列、その群衆がそのまま6番館へ吸い込まれていくのを眺めて思ったのは、みんなアニメに飢えていたのだ、ということだ。アニメに、というよりはドラマに。純度の高い虚構に飢えていた。実写は現実と地続きなので、どうしても社会問題とか思想とか時代が絡んで、共感を覚えてしまったりして、むやみに心を揺さぶられたりして、要するにカタルシスがない。気持ちのいい感動というものがない。圧倒させられたり鬱屈とさせられたり考えさせられたりで、日常の観念や自意識を放り出して、まっすぐにその世界に佇むことができるような作品に出会えなくなってきている。
想像で言いますが、例えば宮崎駿が引退したこととか。アニメの総数は増えているのに、みんなで見るアニメがなくなったことなど。ジブリ作品はアニメって言っていいのか戸惑う程度には「アニメ」ではない。逆に言えば、アニメというものの定義が「オタク」とすっかりセットになってしまっている。「アニメ」は精神的にあるいは肉体的に欠陥やコンプレックスを抱えているために他人との関わりを持つことができなかった結果それなりの社会経験しか得られなかった人間が見るもの。そういう観念がアキハバラとともに出現した、的な。この観念は半ば正解なのですけれど、しかしアニメが好きでもオタク以外の道が残されている人だってたくさん居るし、暗い部屋でパソコンの前にさらされた顔面をチカチカさせながら体育座りでアニメを見ている人間ばかりではないのですけれど、アニメはひとりで深夜にシコシコ見るもの、そしてそのひとりずつが見ているアニメを接点としてインターネットで出会って共有するという流れなんてやっぱりだいたい合っているのだと思う。近くにいる2人がひとつのアニメをふつうに見る、ということが今はほんとうにない。どちらもオタクであるか、気の置けなすぎる関係かのどちらかか。あっても普通の人間ならば子供向けがギリ見られるアニメか。それか夕方の枠でやっている、たまたまテレビつけてやってても抵抗なく見られるアニメ、ドラえもんとかコナンとかポケモンとかワンピースとかなんだろうか。アニメがコアにマニアにフェチっぽくなっていけばいくほど、自分がそれを好きと言ったらどう思われるだろうという自意識が生まれて、結果、手放しで好きって言うのが難しくなっているんだよな、多分。

そこで彗星のごとく現れド真ん中にばちこーんと当てはまったのが『君の名は。』であるという気がする。要因としては、画がきれい(オタクでない人間にも見れる)、演技がアニメアニメしてない(神木隆之介・上白石萌音・長澤まさみ)、ドラマがある(適度なカタルシス)、フィクションの様式美がある(安心して現実世界を忘却することができる)、などなど。大人が見られるもの、かつ「オタク」ではない人も抵抗なく見られるアニメ。カップルで観られる映画!とか謳ったらいいんじゃないでしょうか(適当)。近頃は地下アイドルが武道館に、的なアンダーグラウンドがポップになる瞬間を目撃することも少なくはないのでそんな別段エー!という感じではないですがそういう感覚のひとも多いんだろうなーと思います。新海誠界隈がどうなっていくのか楽しみです。自分は信者じゃぜんぜんないですけど。