岡本悠紀 円盤 で検索をかけてもまとめが出てこなくて落ち込んだヲタクたちへ

もうタイトル通りのブログになります。

YouTubeとかで「岡本悠紀」検索してパッと出てくるやつとかはみんなもう見たっしょ?ということでそれ以外のヲタク有益情報優先順位順(?)に並べていこうとおもいます。

(自分は岡本さんが舞台芸術をどう捉えてるかとか、役をどう解釈してるかとかが知りたいのでできれば過去パンフレットにあるインタビューとかを読みたいところです。有益情報あれば是非におしえてください、先人方!!!)




◆円盤◆
まず2021年時点で買える映像たちから時系列でいきます。タイトルに購入できるリンクが貼ってあるぞ!



📀2021 ヒロステ

まあ言わずもがなのやつ。
東宝の特典は2022.01.09まで期間限定特典なのでそれ以降は特典無しのしか買えないんだけど、この特典が岡本さんたぶん出ずっぱりなのでこれ以降に岡本さん堕ちしたヲタクはなんかどうにかして手に入れたり鑑賞会して特典持ってるヲタクに見せてもらってほしい


📀2020 テニミュThe First Stage

筆者はこの記事を書いてる時点でまだこの円盤が手元に届いておりません。
テニミュのことまだ原作もアニメもなんも見たことないのでその状態から「新テニミュ」を見ようとしていますが…大丈夫か…?


📀2021テニミュ 4thシーズン 青学vs不動峰

岡本さんはキャストでなく歌唱指導で参加とのこと。バクステ映像にちょいちょい映ってるって本人が言ってたぞ!
岡本さんは3rd?から歌唱指導に入ってるみたいなので、じゃあ3rd買おう!と思って調べたらなんか3rdだけで死ぬほど円盤があって天仰ぎつつiPhoneの画面一旦消したよ…スーッ(深呼吸)
おーい!!!!!いいなー!!!!!テニミュどんだけ供給に恵まれしジャンル!!!!!
テニミュの先人達様…その…どの円盤のどこに岡本さん映り込んでたよー!みたいな報告を…待っていますね…みなさんよろしくな…


🎥2021はじめの一歩

これは円盤にはなってないけど買える動画なのでここに並べておきます。推しそんなに2.5数出てないにもかかわらずキャスティングされる振れ幅のでかさヤバくないですか?と思えるサンプルになりうるキャラ…キャスティング班に感謝しかない


📀2019 ヒロステ

会場予約限定特典のスペシャルDVDには岡本さんは出てませんで上のリンク先買えば間違いないです。1-A生徒たちと岩永マッスルフォームさんのリレートークです。岡本さん出てはないけど猪野広樹氏がプレゼント・マイクについて触れてくれてはいる。


📀2016 手紙

まだ見てない。次の章(?)で動画のリンク載っけるので見てくれ


📀2015 特別公演 銀河英雄伝説〜星々の軌跡〜

ちょっとこれもまだ手元に届いてない。殺陣やってるサンプルがねえなと思ってここで殺陣やってるぽいので買ってはみた。でも多分この作品は洋風殺陣なので和風殺陣(腰落とすタイプの殺陣)やってる岡本さんを見たい。今後のキャスティングに期待(?)





◆動画◆
検索でパッと出てきづらい動画まとめです。舞台本編は当然ないのでカテコとかトレーラーとか各メディアのゲネ映像みたいなやつ。
以下に載せてないやつは、動画自体探せなかったか、動画はあるけど岡本さんの姿を探せなかったかのどちらかです(後者の場合基本的にはWikiとかから岡本さんの出ている舞台のタイトル直に検索すればだいたい出てきますので探したい方はがんばってくれ!居たよ!って言ってくれたら追加します)(しかし見切れ映像とかは個人的にいらないというか、「この役者はこうやって立つんだなあ」「普段は重心こんな感じなのかあ」「こういう種類のダンスもイケんのな…」みたいなことを知れる映像がほしいのでそういうのあれば何卒 情報提供よろしくおねがいします)。


・2020 VIOLET




・2018 GHOST




・2017 RENT(2015のRENTも混ざってるかもしれん)




・2016 ミス・サイゴン
後半のはNHKのうたコン動画です こっそりリンク貼らしていただいた方すいません




・2016 手紙




・2016 グレイト・ギャツビー




・2015 RENT プロモーション映像(舞台の映像じゃない)




・2014 アダムス・ファミリー
アダムスファミリーはわりとガッツリダンス入ってて身体性ヲタクである筆者としてはとても助かる動画です。岡本さんはシルクハットのおばけのひとです(実際この動画を見てどういうことが発覚したかは筆者のツイッターにおいでください)




・2013 GET OUT!STREET!!




・2013〜
(富山 名作ミュージカル上演シリーズ)
ミー&マイガール
ハロー・ドーリー!
ショウ・ボート






◆その他◆
ルーツとか演技論とかを考える補助線になりうるやつ。


・2021 ロボ・ロボ パンフレット
在庫なくて筆者の手元にはありません。対談とかインタビューがあったらしくてすごく読みたいです!!!!!


・エンタステージ インタビュー
これはもうみなさんYouTubeにある動画見たと思うので記事載っけときます。

【役者名鑑】第1回:岡本悠紀<前編>「人生を変えた“宝塚”出会いと“ハッピー”に込める想い」│エンタステージ

【役者名鑑】第1回:岡本悠紀<後編>「2.5次元舞台で感じた“熱い青春”」│エンタステージ


・岡本寛子氏による動画
悠紀様のお姉様いつもヲタクとして勝手にお世話になっております(土下埋)。リンクを貼らせていただきます。
動画を見ていただくとこの感じめちゃくちゃ感性が感覚派でニュアンスで教えるタイプなかんじがいたしますな。テニミュんときは門外漢の子たちへどう言語化し、どう伝え、どう指導してるのか知りてーッ!




あとは本人のインスタに載ってる愛犬モネちゃんさんにちゅーるあげてるときの口笛がやたらとうまい(爆笑)こととか、ドナルドダックのモノマネで喋れてなんと歌えまでするということとか、あーこの役者は耳がよく、口内の調整(歌やせりふの技量として)が微細にできるのだなあというサンプルとなりえました。はい、なんでも参考になりますありがとうございます


というわけで2021年のインターネットで拾えた有益情報はこんくらいだと思う

取り急ぎまとめましたのでみなさんで岡本悠紀氏のはなしをしよう!!!!!よろしくおねがいします!!!!!

14歳の国

・それはたぶん、すこしの好奇心だったはずだ。

私が小さい頃、祖母がよく切れる大きなハサミを買ってきた。柄がオレンジの、裁ちバサミみたいなやつだったと思う。銀色の刃が鋭く研がれていて、私はそれをきれいだと思った。そして、このハサミがどれくらい切れるのか、興味があった。親指を添えてみる。ぐっ、と当ててみる。切れはしない。もう少し、もう少し強く、とやっているうちに、親指の皮がぶつ、と切れた。ホチキスでも同じことをやったことがあり、針だから、と思って指を挟んで、針が食い込んで取れなくなって、血が溢れて、怖くなって、抜かずにそのまま絆創膏をしたことがある。

包丁を持っていてもそう思うけど。全くもってその気はないのだ。ないのだけれど、危ないものを持っていると、振り回したくなるだとか、そういった衝動とか、ほんの出来心だ。この、心性の変化。

・生々しさとはなにか。血を見れば肌がひりつくかといえば、そうでもない。慣れきってしまっているから、例えばリストカットをするひとのきもちがわからない。なぜならその血で、痛みで、生きているという実感が得られるとは思えないからだ。それと同じように、死の、生の、出来事の重さ、それもわからなくなる。目の前で大切なひとが死んだことに、ただ涙を流し、その得体の知れないかなしみは、iPhoneのメモに閉じ込められる。データのことば。それは簡単に消えてしまうことばだ。それを書いて、なにをしようというのか。どうにもならない。

・生徒の机の裏に、ガムテープで止められていたバタフライナイフ。それは一見、おもちゃのようにも見える、小さなナイフだ。

漂う緊迫感。見つけた教師が、別の教師に、それを手渡す。

おもちゃのようなナイフで。信じがたい光景。それが手のひらから、ごとり、と鈍く重い音を立てて床に落ちる音。質量を感じる音だった。ナイフは切らなくてもずっと重いはずだった。

・それは教室で起こってしまった。それはとにかく確実に起こってしまって、もう取り返しがつかない。一連のことを、皆が見ている。花瓶が落ちることに気づきながら、ただ見てしまってそれを止められないように、その一連を見てしまった、という、シーンの暴力性。

・刺した張本人が言う。煙草はだめだ、と。

教師5 ポケットから煙草を出し)……アキツ君。

教師3 え?

教師5 火、ある?

教師3 ……だからだめですよ、ここは教室なんですから。

これは教室で、教師が起こした出来事だ。

『今週、ぼくは誕生日を迎えた。ぼくは、十五歳になった』

煙草は20歳から。ではナイフは?

三日月宗近とジョーカーなき世界

「俺は未来を繋げたいのだ」

この一言に詰まっている。

刀剣乱舞、大団円ですね。

舞台刀剣乱舞 悲伝 結いの目の不如帰』お疲れ様でございました。

観に行ったのは、明治座初日と千秋楽のライビュ。

千秋楽に行ったことで、また千秋楽までいろんなことを考え続けたことで、なんか繋がったことがあり、それを書きます。まあいつもツイッターで言ってるようなことだけども。

まず、教訓じみたことを言うとかそんなダサいことしたくないですし、べつに本作の真髄を暴こうとかそんな気もない。それは公式とか金を払われるような文を書くひとがやればいいことだ。

これは論文でも考察でもなんでもない。自分のなかで勝手に符号が合いまくってピーンときたこと、そういうのを非常に個人的に、思想のしがらみとかないなかで書けることを書こうと思う。

さいごのキャスパレを観ながら『広島に原爆を落とす日』のことをちょっと考えていた。

そういう感じのことだ。

今まで自分が舞台刀剣乱舞のシリーズ集大成という時点で書くだろうなと思ってきたことが明確にあったんだけど、やっぱ禅問答みたいになるし、それは意外とべつに書かなくてもいいか、と思いました。演劇の効果とか、歴史の継承とか、そういうのね。あとは俳優のこと、これまでの刀ステで散々言われてきたこととかを、改めて見つめて書きたいと思ってたんだけど。

戯曲を買ったんですね。それで、義伝の後書はこう始まる。

「歴史が事実とは限らない」

歴史とは、どうあがいても「説」の域を出ず、「たぶんこうだったんじゃなかろうか」「こうであってほしい」という仮想の物語が、今でいう「歴史」であると末満健一は言う。

刀剣男士は実体のないものを守ろうとしているようにしか考えられない、とも言っている。

非常に同感だ。「歴史」とはなんなのか。それが改変されればどうなるのか。なぜ改変してはいけないのか。彼らの守ろうとしている歴史は真実なのか。真実でないのなら、彼らの戦う意味はどこにあるのだろうか。歴史を守り、それを現代に伝えたところで、それがなんなのか。

ドキュメンタリーを観ても、本を読んでも、それが一次情報なのか、それすら実証できるものはなにもなく、歴史は「それが本当らしい」、そこまでしか現代ではわからない。

でも、刀は実在する。

刀がそこにある限り、人を斬ったり斬られたり、そういうことがたしかにあったことだけは、本当だったのだと信じられる。

そういうことばかり考えていた。

千秋楽のライビュを観て考えたことは、またちょっと違うことだ。

三日月宗近とは何だったのか。

これしか頭になかった。最近たまたま思い出してたことに符号が合っただけなんだけど、それでも、やっぱり、このキャラクターなしには刀ステを、ましてや2.5次元を、考えることができない。個人的にだけど。

だから三日月宗近のことを書きます。それだけのブログです。せりふとかは円盤買ったら直します。多分。

・この現代まで刀が残されている意味とはなんだろうか。劇中でも話されるが、刀は時代とともに在り方を変えてきた。武器として。美術品として。歴史を立証するものとして。他にもいろいろあるだろう。

・刀の本分とはなんだったか。

それは「たたかう」こと、つまり人を斬ることにある。人を斬ることは、命を奪うことである。

・いま、刀は、負の遺産だ。アウシュヴィッツや、原爆ドームと同じように。そしてやはり、本来の目的として使われることはない。

・「貴殿は包丁ではないのだぞ」

・しかし、彼ら自身には、負の遺産が掲げるような、世界平和、とか、そういう目的はない。ゲーム世界のなかの彼らは、ただ「主命を果たす」「過去と向き合う」とか、個々の思いはいろいろあるなかで、まあ、理由は分からないが、刀剣男士たちが人の身を得てたたかう目的は、「歴史を守る」ためであることになっている。時間遡行軍の目的も、歴史を改変しようとすることであり、信念はそこにない(ように見える)。

・はじめに挙げたようなたくさんの問いには、明確な答えがない。そもそも、歴史は不確かなものであるからだ。

・だとすれば、なぜ歴史を守るか?という問い自体が、無意味な問いである。まあ、結局この世界に意味なんてないんだけど(劇中にこんなせりふあったような気もするけど、気のせいか?)。この問いを生んでしまった、刀剣乱舞というゲーム世界をコピーアンドペーストみたいにいくつも発生させてしまったこと自体が、人間の業のように思える。問いだけは無数にわいてくるが、この不確かで不条理な世界にそもそも帰結点なんてあるだろうか。

・歴史は実体のないもの。

・でも刀はそこにある。

・この『結いの目の不如帰』を観て思ったのは、三日月宗近は、ヴェルト・ガイスト(世界精神)そのものだったんだなあ、ということだった。

まあいまから言いたいことは伊藤計劃のブログにぜんぶ書いてあるようなものなので読んでください。そしたらこのブログは読まなくてもいいと思います。

まあ、ちょっと、というか、けっこう違うとこもあるんだけど、陥ってしまってる状況は同様なものとして、彼に倣って三日月宗近を「”世界精神型”のキャラクター」、といいましょうか。

・ヴェルト・ガイスト:世界精神とは(ほんとは引用先を読んでほしいんだけど)、まあでっかく言うと、社会の発展や、歴史の進行方向のことである。”世界精神型”の人、というのは、その流れが、自分のやった行為とイコールになるような人物のことだ。自分の行動が歴史の流れと関連する人物。それが三日月宗近だった。世界の意思そのもの、歴史そのもの。

・刀ステという作品の意思は、三日月宗近、この一振だけで事足りる。

・伊藤計劃のブログ、映画『ダークナイト』を書いた文章に、こういう一節がある。

ジョーカーは知っているのだ。秩序に身を置きながら自警団として秩序を破らざるを得ない矛盾を抱えたバットマンと、世界がカオスに叩き込まれるのを心の底から望みながら、秩序という世界の枠組みそのものが崩れてしまうと「ゲームを楽しめなくなる」という矛盾を(楽しそうに)抱えた自分が、ともに化け物、コインの表裏であることを。

ジョーカーは人間の負の面を露わにする装置として、ゴッサムの夜を踊る。(ダークナイト)

・これ、だいぶ三日月宗近なんじゃないでしょうか。まあ対応する関係とかもほんとは構造としてまんまじゃないし、ことばの中身も違うんだけど、明らかに異なるのは、三日月は悪役にはならないし、ディストピアを見せることを望んではいないということだ。

・「秩序」は、「正義と悪」とかではなく、刀剣乱舞というゲーム世界や、刀ステという演劇世界の秩序、それと、刀が刀として在るために必要な、武器として生まれたその最初から孕んでいる秩序のこと、といえる。

・書き換えるならこうだ。

三日月宗近は知っている。秩序に身を置きながら自警団として秩序を破らざるを得ない矛盾を抱えた刀剣男士達と、自らが刀であることを望みながら、歴史を守る/改変するこの戦がなくなり、この秩序という世界の枠組みそのものが崩れてしまうと「自分が存在できなくなる」という矛盾を抱えた自分が、ともに化け物、コインの表裏であることを。

三日月宗近は人間の負の面を露わにする装置として、歴史の円環を巡る。

・「矛盾だな」と、三日月宗近のせりふが聴こえるようだ。

・この円環は、閉じられるのかどうかもわからない。鵺(時鳥)のような異質な存在に「賭けて」みないと、その仕組みもわからないようなディストピアに生きている。

この歴史の円環を暴き、壊し、閉じきる、とは、どういうことか。

・歴史の授業で学んだこと。だいたいは争いのことだ。人類はずっと闘ってきたし、いまも争いは絶えない。それだけじゃなくて、何度もやってしまう小さな失敗とか。

これが円環だ。反省し、後悔しても、繰り返されてきた歴史。

・彼は、存在するだけで、戦争という時間を出現させてしまう。自身が目的をそれと持つわけではないのにだ。

・刀剣乱舞における三日月宗近は、主を守るためでもない、刀の本分を貫くためでもない、ただ、「歴史を守るために」、闘っている。限りない円環を、不条理に、ずっと生き続けている。何度も、何度も、何度も、何度も、終わらない世界を、結末の決まっている世界を。刀であるということは、そういう命運を持って生まれてしまったということだ。自身が結いの目であることは、とうの昔に決まっていたことだ。

・そして三日月は、たった1人で、パンドラの箱の鍵を見つけてしまったのかもしれない。その鍵を、たった1人で秘かに持っていなければならない、という孤独。

・三日月宗近は、生まれながらにして変数値だったんだなあ。

・『まりんとメラン』にあった会話を思い出す。

ロロ、変数値は滅びを望んでいるわけじゃない。山を焼かなければ、新たな芽も出てこれないだろう。ブリガドーンの地上都市を見てみろ。旧世代の生きものの名残だ。今の世代に生まれ変わるときも、破滅を必要としたんだ。

(ルル/第26話「サヨナラは海の碧」)

・三日月宗近が、刀剣男士たちが、歴史を守り、未来を繋げるには、刀は、武器であることをやめなくてはならなかった。

戦がなくなるということは、刀がなくなるということ。

戦をなくすために、戦をする。これも矛盾だ。

「おれたちは、何と闘ってるんだ」

それは、人間の持つ悪意そのものだったんじゃないだろうか。

・ライビュの時にはなかったけど、劇中、「坂本龍馬の暗殺」シーンのあとに挿入されていたシーンがある。

タタタタ、タタタタ、と、鉄砲の音。ゆっくり歩を進める兵士たち。その手に、刀はない。

戦争に刀は使われなくなったのだ。

それでも、日々流れるニュース。

「都内に住む30代男性が、刃物で刺され、死亡しました」

現代においても、刃物で人は殺せるのだ。

・三日月宗近は美しい刀であったがためか、武器として使われることはなかった。先代の主にすら、使われなかった。足利義輝の命は守られず、いくら時間を繰り返しやり直したところで、結局、絶たれてしまう。

だが、その主の言った言葉。

「三日月宗近、その刀を後世まで伝えよ」

五月雨はつゆかなみだか時鳥

わが名をあげよ雲の上まで

・三日月宗近は2018年現在まで、美しいままの姿で残っている。

死者の使いである「ホトトギス」は、命と引き換えに足利義輝の名を天まで轟かせ、そして三日月宗近も名刀として、主の名を後世まで語り継いでいる。

そこには、歴史のよすがとしての刀の姿がある。

・まあ、こんなに詳しく顛末が語られているとも思えないし、史実とはまったく異なるのだろう。しかし、この物語は現実の虚構の境界を溶かすように、時代に寄り添って横たわる。

・「俺は未来を繋げたいのだ」

現在、人が争うにしても、日本刀を交えることはない。武力ではなく、美しさをもって、人を救えることはあるのかもしれない。

・虚伝での三日月の言葉を思い出す。

「俺たちに心があるのは、物であるが故なのではないか」

例えば、月を見て美しい、と思うこと。その心が月に宿る。その心はいつか、自分に返ってくるのだと。

「心とは森羅万象を廻る。だから人は物を作り、物を語り、物に心を込めるのだ。我々刀剣は人の心を運ぶ歴史のよすがなのやもしれん。織田の刀にも、そしておぬしにも、託された心があり、それが廻り廻って繋がっていくのだ」

山姥切を三日月は「存分に美しい」と言った。

「主はおぬしにそう心を込めた。おぬしはおぬしを信じ、その心でこの世を照らしてやればいい。そうだな。あの月を照らす陽の光のようにだ」

「月を照らす陽の光のように…か。無茶を言ってくれる」

「これはまた随分煤けた太陽だ」

・その心をいちばんに信じたのが、三日月宗近だ。と、そう思いたい。

・この望みもまた、人間の業なのだろう。

・刀は、武器である。人の命を奪うものである。逆に言えば、人の命を奪うものとしてしか、存在意義がない。

・けれど、本当にそうだろうか。

在り方は時代によって変わる、その自覚があるはずの、刀剣男士自身たちによって繰り返し言われる言葉。

「俺たちは刀だ」「刀の本分を忘れるな」

・円環を断ち切るということは、この刀の性質を無意味にするということ。しかしその円環を断ち切ったからこそ、泰平は訪れ、三日月宗近はそのままの姿で現存している。

・この矛盾だ。三日月宗近の悲しさは、そこにある。

彼は刀の本分として命運を果たすことが出来ない。しかしそう在るからこそ、未来を繋げることができた。表裏一体、陰と光。

「悲しいのは心が在る故なのに、心に非ずと書いて悲しい、とは、皮肉なものよな」

矛盾を、自身が孕んでいる。そうしたいわけでは決してない。それが三日月宗近の悲しさだ。目の奥に深くある、青く、昏い悲しみだ。

・千秋楽では、少し演出が変わっている(初回と千秋楽しか観てないから途中からそうなっていたかはわからない)。

何十公演と通り抜けてきた一言一句違わぬ物語、その最後が千秋楽だ。斬っては斬られ、何度も交わしてきた約束。その最後の最後に、三日月と山姥切の勝負はついた。約束も、もういらない。美しく円環を閉じるための、少しの改変だ。

・だが、いくら台本が書き換えられようと、あの三日月宗近は、もういない。結末はどうやったって変わらない。

「歴史のあるがままにだ」

・そして夜は明ける。

・夜。小田原の城が出会わせてくれた夜。三日月が明けないでほしいと願った夜。闇に月は煌々と輝く。それももう最後だ。太陽が昇る。闇が晴れる。こう書くと、希望に満ち溢れた景色にしか見えないようだけど、悲しい、こんなに悲しいよ…。

月は隠れているだけで、消えてしまったりはしない。いまは暫し、時が満ちるのを待つだけだ。とか、こういうダサい演繹をし続けて、あいつはまだ居ると、心の底から思いたい。もう繰り返したくはないのに、そう思ってしまうね。何度考えてもその度、胸にくる。

・永遠にループされるゲーム、永遠にリフレインされる演劇、そもそもが不条理な世界において前提条件を問われると、〈いま、ここ〉にある足元が揺らぐような目眩がある。自分がどう変わろうと、周りをどう変えようと、結末は変わらない。〈ここではないどこか〉へは、絶対に行くことができない。逃れられない。

・その世界に、三日月宗近は武器としてまた顕現した。

・ユートピアはどこにあるか。

・彼なきあとの本丸では、皆平和に茶を啜りながら、「暇だなー」「すっかり身体が鈍ってしまったよ」。

・平和ボケ、って、なんなんでしょうか。

・まあそれがなんにせよ、ここでいくら何を言おうと、繰り返したくとも繰り返せないこともある。

・あの三日月は、ひとりで行ってしまった。

・悲しい。

・もう会えない。

『グレイテスト・ショーマン』を観た

・『グレイテスト・ショーマン』を観る。これは観てよかった。ミュージカルを期待して行ったが、その期待は外れた。しかし、よかったのだ。例えばそれは昨日山口昌男のことを考えていたからとも言えるし、自分がマイノリティ側の人間である可能性があるからかもしれない。すべて繋がる。

・ストーリーがリアルで、ミュージカルなのにこれは何事かと、ララランドのときのことも思い出していたのだった。そしたら最後に格言のようなものがスクリーンに。そこでやっと知ったのだが、P・Tバーナムは実在した人物だった。ドラマはある種ドキュメントのような感じ。

・サーカスの基盤をつくったひとりの興行師なのだそうだ。自身も労働階級で、サーカスを立ち上げたのは金に困ったことが始まりだ。はぐれもの、というか、いわゆるそういうひとたちを「ユニーク」と称して、人を集める。障がいとか、ジェンダーとか、人種とか、そういったコンプレックスを「見世物」にする。サーカスとはそういったものだよな、と、思う。丸尾末広の漫画や、なんかそういったもので知っているものは少なくともそうだった。でもちょっと語弊だな、「見世物」という気はさらさらなく、奇抜なものを見せて、そのスキャンダラスなものを目撃したい、という観客の好奇心を誘ったのだ。でもそれは結果的にマイノリティを救うことになる。

・芸人、というか、道化師の地位は低かった。だが、それを向上させたのも、こうした人々の功績なのだろう。サーカスが成功し始めると、批評家が新聞に悪評を書く。それを逆手にとり、バーナムはその新聞を持参すればチケット半額、そして自らは”Prince of Humbug”と書かれた王冠を被り、堂々と舞台へ立つ。この姿勢、きわめて紳士的に権威主義に挑み、それを笑う、その根元にある昏さまで見事に描いている。素晴らしい喜劇だ。

・そういや今日読みはじめた東浩紀『観光学の哲学』にも、トマス・クックのはなしがあった。上流とのたたかい。

・だが成功しても、上流階級からは成り上がりと言われ、お前のショーは芸術ではない、と言われる。

・ここでのちのビジネスパートナーになるフィリップだ。バーナムとは対照的に、上流階級にも受け入れられるような、たぶん「アカ」的な芝居なのだろう。芸術だと受け入れられているが、楽しくない、生きている心地がしない。フィリップはバーナムに言うのだった。

・あなたの上演は偽物だが、客は笑顔で劇場から出てくる。

・この、舞台芸術というもののなかでの対比、ショーと演劇は異なる、ということを示し、タッグを組ませたところにもまた唸るのだった。

・だいたい、大衆がなにかを観るとき、そこには必ず感動があり、根拠があり、ストーリーがあり、オチがある、と思い込んでいるものだ。けれど、違うものもある。観客は、舞台の上にあるものにはなにかしら意味を見つけたがるものだ。絶対になにか意味を見出せる、なにか観た後にたしかなものを持ち帰ることができる、と思い込むので、ストーリー性のないもの、文学でいえば私小説や、ロブ・グリエ的なものは「売れない」のだろう。

・しかし、舞台ならば、それでいいんじゃないのか。

・私がしばしば書くように、舞台ならば、いま目の前で生起する、肉体、あるいは肉声があれば、そのパフォーマンスが受容するもののほとんどを占めるだろう。せりふなんてほとんど聞いちゃいない。言葉は演劇の生を前にすれば弱いものだ。だからサーカスという、その見世物だけで成立しているような舞台に、フィリップがノるのはうまい。嬉しい。

・とまあ、俺も上流を呼びたいんだ、とフィリップを口説いたことでわかるとおり、バーナムのショーは上流階級に受け入れられなかった。さらに、彼の上演は奇抜なサーカスであったことで、市民からは、街を出て行け、下品だ、野蛮だ、というような抗議。

・吉見俊哉は、「盛り場」は「悪場所」であるといっている。このような「場」は、サードプレイスであり、アジールのようなものだ。「盛り場」はその空間ではなくその中身、「盛り」が大事なのであって、その外側は本質ではない。だから劇場が燃えてもサーカスを建て直すことができた。そしてパレードは続く。

・さらに、「盛り場」、もっといえば、「盛り」には「性的なコノテーション」がある。人間はそういった猥雑さを好む。つるっとした、きれいすぎる街を好んでいるなら、例えばゴールデン街などとうの昔に整備されきっているだろう。エンデの『モモ』に描かれるような、灰色で無機質に整然と並ぶビル街。

・まあ、こういった感じで、私はこの映画をミュージカルではなくドキュメンタリーのように観ました。心のなかのエンターテイメント部分が充たされきったわけでは正直ないのですが、この物語が「映画」というものである意味、というか、それを感じ、きわめて上半身的な楽しみ方をしていた。こういう意外な出会いがあるので食わず嫌いはよくない。もっと映画を観よう。しかし、ムーランルージュのときも思ったが、向こうのミュージカルはなぜこうなのか。曲といい、役者のからだといい。まあ、個人的には生々しくて好きだけれども。

天魔王と鈴木拡樹

んー、やっぱりこれだけがんばって行った舞台というのはあんまりないので未来の自分のためにも書いておくことにする。

『髑髏城の七人 Season月』のことだ。

いや、もっといえば、『髑髏城の七人 Season月に抜擢された鈴木拡樹という役者』についてのことだ。

ここでのスタンスはというと、

もともと演劇が好き→髑髏城の七人ってめちゃくちゃ聞くから一回行っておきたいと思っていた→どうやら今公演中らしい→現場(鳥)→ワカを観る(DVD)→月キャスト公表→エッ?→鈴木拡樹?→宮野真守てエッ?→2.5系?髑ステ?→はいチケット取れました→現場(月)

という流れです。ちなみに2.5次元に触れたのは20176月。

こちらもご参照ください。

けっこうおたくと話したりツイに書いたりともう言うことないですという感じではあるんだけど、今回やっぱ書いとこうと思ったのは何より鈴木拡樹という役者が劇団☆新感線に出た、というこの事件のことである。

・鈴木拡樹がキャスティングされたのは「天魔王」、まーあマジか、と思いましたよね、でも改めて考えれば捨之介でも蘭兵衛でもないな、天魔王だな、というのがわかるんだけど、発表されたときはほんとうに時空が歪んだかと思いました。

・で、結論から言うと、鈴木拡樹の天魔王は、かなりよかった。

『髑髏城の七人』という作品は、90年、97年、04年、11年、17年と、だいたいの物語は同じでも、何パターンもの上演がある。そしてキャストも毎度違うため、かなり多くの解がある演目である。

今回の17年は年間通して花鳥風月(極)と、5つの筋書きがあるうえに、いま公演している「月」はWチームで「上弦の月/下弦の月」に分かれている。

・鈴木拡樹は下弦の月の天魔王を演じた。

・月の台本はというと(あんま観てないけど)ほかの台本に比べて味付けが少ないように感じる。ノーマル、プレーン味です、という筋書きで、キャラクターもきわめてまっすぐで、髑髏城初めて観るなら月で!というような、教科書的な雑味のなさである。

・ここで言っておきたいのが、けっこうレポ?ブログ?とかで見かける「勧善懲悪のストーリーなんですけどオ」というコレ、嘘?、みんな正義vs悪の物語だと思ってたの?、マジか、ぜんぜん違う。

・髑髏城の七人は、正義vs正義の物語だ。公共の福祉が成り立たないなら、話し合いでおさまらないなら、暴力しかねえ!っていう戦乱だ。

「たたかう」という物語の持っている、「みんな信念を貫こうとしてこうなった」という大義のこと忘れてませんか、天魔王が悪役感ありすぎて勧善懲悪の物語だと思ってしまいすぎる。でも違う。

・これはメイクや衣装が原因なことが多いにある、という気もするけど、髑髏城を勧善懲悪と言ってしまうの、まずは天魔王のことを「天魔王様」だと認識してしまうことが我々の失敗だよなと思う。あの、バリバリのメイクと衣装による、俺様は超つよい悪役です!的ビジュアルによって、根本的なことである「彼は今もただの人間である」という、このことを忘れてしまう。彼は「天魔王」になる前は普通の名前を持った、普通の人間なのだ。

ここを失念してしまうと、「蘭兵衛と天魔王と捨之介が3人とも揃って信長公に身も心も捧げていた男達」であることが流れてしまって、マジで元も子もない。昔はみんなでおなじ方向をむいていたのだ。いまは時も経っていろいろ変わってしまったが、そのきっかけとしては、みんなべつに殿(信長)に恨みをもって解散したわけではなく、殿が居なくなったから散り散りになっただけであって、みんなの大義は変わっていなかった。そして、戦乱の世が終焉した”今”でもまだその過去に縛られている。

だから“今”世にはばかろうとしている秀吉や家康には程度の差こそあれ3人とも納得のいかない部分があって、いつまでも引き摺ってちゃいけない、だから過去への燻りに決着をつける、そういう物語だ。

・「天魔王像」というのはほんとうに色々あると思うんだけど、やっぱり彼は自分の弱さに背を向けたひとだ。あんなに身も心も俺が尽くしていた殿は蘭兵衛を選び、『私に死ねと言った』。そのショック。湧き上がる黒い感情。愛ゆえに膨れ上がる憎しみ。執着や憧憬や愛情がごちゃ混ぜになって、『そんなのは殿じゃない』、『殿の最期の言葉はそんなくだらないものじゃない』。理想が高すぎて、それを裏切った事実を受け入れられない。完璧な理想が叶わなければ死んだほうがマシ。自分の無力さや弱さやふがいなさを直視できないために、静かに、まともに、狂ってしまった。そういう可哀想な人間だ。

・だって、考えてみれば兵庫とかめちゃくちゃいい奴だけど、村娘を襲った侍を殺して村を出た、って、人を殺してるのには変わりがない。でもそれは法の考えだ。倫理とは?と、立ち止まる。兵庫は『弱きを助け、強きを挫く』悪いやつの敵である。だから筋通ってんだよなあ、髑髏城に出てくる人間には、みんな曲げられない信念があり、捨てたい過去があり、捨てたくても捨てられず、どうしてもそういう業を抱えて生きている。だからときどき正義がぶつかりあうのだ。みんな間違っていて、みんな正しい。

・要するに、みんなあまりに人間的で、圧倒的なものは存在しない。アニメみたいに超能力で闘えないし、斬られたら血が出て死ぬ。刀も百人斬りなんてできない。だから『斬るたびに研ぐ、突くたびに打ち直す』。天魔王だって人間だ。みんなと同じように心を持ち、言葉を話す人間だ。捨之介と蘭兵衛と天魔王が、信長の御前で、交わした酒とか、談笑だってあったかもしれない(事実的にあることかどうかは知らん)。

ここまで語ってきたこと、天魔王がこういう人間であること、それが鈴木拡樹にぴったりすぎて、考えれば考えるほどより鮮やかな解になる。

・鈴木拡樹自身とか、その界隈のインタビューを読むと、彼のことを口々に皆「優しい」と言う。特筆すべきことでもないじゃん、優しさ、とか、と思うとともに、特筆されるべきレベルで優しいのだろうか、と思ったりもする。

・ここからはもうぜんぜん読んでるインタビューも観た芝居も少なすぎるので想像でしかない。でも、自分にとってはけっこう確実にこの役者の核に迫っていけてる気がする。

・今のところ、鈴木拡樹というひとについては、芝居にあることだけが正直で、振る舞いとか態度とかはぜんぶ嘘っぽいと思っている。

だから、天魔王よろしく鈴木拡樹についても人間界まで引き摺り下ろしてやるよ!と思っているんだけど、『舞台男子』で自分のことを「頑固」って言っていたあの言葉、あれにけっこうあっ、と確信を持ち、ただひたすらに感動した。

あれのおかげでこの人についてよく語られる優しさとか母性みたいなものが強固にそこへ根をはっていることがわかったし、それがこの人の腹の底にあるドロドロしたものから少しだけはみでた本音なんだなーと思った。この人の中枢にあるかけがえのない暴力をみんな知っている。

・うまく言い難いけど、要するに逆のひとだ、ということ。たとえばバラエティで櫻井翔が「ほんとうに駄目すぎるくらいルーズすぎるから分刻みでスケジュール立てるんだ」って言っていたけどそういう感じだと思った。いつも自分のアンチをいく。だから己の測定計において、自己愛と自己嫌悪の振れ幅は同じくらいデカいものの、それらの極がハンパなく遠い。完璧主義で、理想に追いつけない自分を許せない。だから常に自分のことを肯定したい、と思いながらも、常に自分のことを否定し続けている。常に二重である自己。まっすぐにひねくれているのでわかりづらいけど、常に2つ(もしくはそれ以上)の視座から自分を見ているために、やけに落ち着いていたりとか、達観したような佇まいがあるのもわかる感じがする。

・「頑固」だからこそ、「優しく」したい。他人に優しくしよう、と意識していなくてはいけないほどの、コントロールしようがない決意を、激情を、鈴木拡樹は持っているということだ。

・だから、いつも静かに笑っていて、あんまり人には言わない、そういう気がする。いろんな自分の意思を押し殺す「優しさ」。それはときどき、状況を正当化しようとしすぎて、確固たるものまで揺らぐことがあると思う。頑固すぎるから、意見を柔らかくしておく、みたいなことが苦手で、他人の線引きもわからない。自分は頑固すぎるから、もしかしたら他人がここまでオーケーとしているところを自分は狭めているのかもしれない、基準がわからない。だから逆に寛大になりすぎる。そこは譲らなくていいよ、守っていいんだよ、というところまで明け渡してしまうことがある。

・徳川家康は、天魔王の正体を、「空っぽ」の「仮面」、と言う。ほんとうにそうだ。あけすけで、鍵がバカになっていて、一向に開かずの扉もあれば、厳重にしておかなきゃならない扉が開いてしまっていたりする。まったく不器用すぎる。彼は、他人が自分の領域を侵すことを許容してしまう。鈴木拡樹の優しさは、自分を傷つける優しさだ。自分の意思がありつつもそれを殺したり、殺したうえで非自己を取り入れたりするのが苦ではない、という、自分の中身を入れ替えることを厭わない人間。そんなの、役者に向いてるに決まってる。

鈴木拡樹はほんとうに掴めない人間だ。ときどき、ほんの一瞬、芝居に本音を垣間見たような気がすることがあり、掴めた、とまた一瞬、思っても、彼の姿はもう、そこにはない。

でも、ほんとうにいい役者だ。語れなさは記号の豊饒さを示してくれるし、こういう”詩”のようなものを舞台上に観せられる人間は、そういない。「髑ステ」などと揶揄された(らしい)Season月だが、ベストアクトと呼ぶ声も聞く。若い現場にもいい人材はたしかにいるのだ。なにが本物か、というのは、本物を見ることでしかわからない。味わえない。理解だけじゃ何も面白くない。わからない、けれどなにかどうしても惹かれるものがある、それこそが魅力というものだ。これだけ言葉を費やしても、まったく掴めた気がしないのがこの役者の魅力の証拠だし、なにより演劇(その他諸々!)の素晴らしさ語るためには、このジャンルと役者は事欠かないのだ。嘆かわしいことに。

2.5次元という世界について

2.5次元舞台について改めて書いておきたくて、まずはじめにこのジャンルの門外漢としてなにを考えていたか、というのを再確認するためにツイッターを遡った。

以下の文章は、2.5次元舞台というものをどう考えていったらいいか、という大義のもとに、それに補助線を引くためのいろいろな考え方を引用しています。演劇論だったりそうじゃなかったり。だからといって難しいはなしをしたいわけではなくて、ほんとに2.5ってなんだろう?というふうに思って書いた文章で、だって最高すぎると語彙がなくなるじゃん、それがすごいもったいないので…その罪滅ぼし的な感じもなきにしもあらず

2.5次元の舞台、というのがあるのはけっこう前から知っていた。そしてそこに良い演出家がいるのも。でも足を踏み入れるとは思ってもいませんでした。まさか円盤も買ってしまうなんてな…

以下は2017年6月のツイッターを再構成した文章と、演劇についてちょっと自分のなかで整理したやつ

「演劇」というのは基本的に上演されるまで観たひとしか中身がわからないし、観たひとしか実際がわからないからどうしようもない。

観る作品を決める手掛かりは、脚本、演出、役者、劇団とかそのブランドに頼るしかない。だからそれがダメとかいいとか、上位だとか下位だとかがボヤボヤで語られてしまう。閉ざされたまま進化していってしまう特殊なジャンルだ。でも演劇にはえもいわれぬエネルギーがあって、自分のなかではいちばん魅力的なものだ。だから2.5のことも知ろうと思った。同じ演劇なら食わないと損だろうと思った。

ツイッターで話した部分までの経緯は、刀ステ→ペダステ→ユリイカ2.5特集を買う、という流れ。

ちなみに、実は2.5のミュージカルは観たことがない。だから今回はステ(舞台)だけにしてミュは置いておくけど、いろいろみた感想としては2.5はやっぱ「テニミュ」なんだなあと思う。どのジャンルにいてもだいたい耳に入ってくる単語「テニミュ」。ジャニーズを通ったことがあるのでなんとなく形態はわかる(1幕が芝居、2幕がコンサート)。観ないのはあくまでこの2.5について考える作業を「演劇」というところから出発したいというだけなので、いずれ観ると思う。

・まず、演劇、舞台芸術である意味、というのを考える。

上演される作品のことを「演劇」「舞台」「芝居」とか言うが、自分のなかではそれらの中身はちゃんと違い、一応分けて使っているつもりだ。「舞台」のほうが色物って感じで本より役者とか観に行く様なもの。それか舞台空間そのものを指す。「演劇」は小劇場で作品自体とか演出家の思想とかその時代性とかを考えるもの。「芝居」はキナ臭いものか演技のことかなあ。一応そう定義しておきたい。で、「舞台で、上演される作品」の呼び方がころころ変わるかもしれないが、上記の意味を敷衍してください。あくまで演劇は演劇、舞台は舞台。そう書いてあればそっちの意で書いてるということです。

(劇団新感線を出すとややこしいのでちょっと置いておきたいが、「髑髏城の七人」における、蒼月の「なんでもありかー!」、このせりふを聴くたびに、胸があふれる。)

・演劇の特性として、まずはめちゃくちゃ不合理。みんながひとつの劇場に集まって、その場に2,3時間くらい拘束される。で、ながら見を許容されない空間のなかで、荒唐無稽な筋書きや表象の飛躍に容赦なく耐えさせられる。

逆にいえば、眼前のワンシーンごとが見事であれば、生ものなので(完璧なかたちで)記録されない演劇という上演形態は、筋書きがどうあれ、客を丸め込める(言い方よくないけど)。この”非あらすじ的”な部分が、舞台作品の魅力のひとつだ。

・援用したいのが、アナログとデジタル、という概念。これは決してアナログ=古いもの、デジタル=新しいもの、とかではなく、もともとの概念のことです。「大人のピタゴラスイッチ」を見ていただければわかりやすいんだが、デジタルとは「離散的(とびとび)な」もののこと、アナログとは「連続的な」もののことをいう。その媒体、上演形態が、デジタルか?アナログか?を踏まえると、かなり演出の「正しさ」というのが導き出せる。この概念はたびたび使えるので覚えておくと後々わかりやすいと思います。個人的に、説明のときとかに使う概念としては、アナログは書籍とかで、デジタルは演劇、映像、ドラマCDとか。特性バラバラだしちょっと違うやつもあるけど一応いまのところとりあえずたぶんこう。

演劇はアナログじゃん、と言われてもそうですねとしか言えないのだが、そのワンシーンごとでも完結できて、飛躍しても大丈夫。あと眼前には瞬間ごとの1つの風景しかなくて、全貌がひと目で把握できない。そういうのをデジタルだよねーと言っている。本は本でもKindleはデジタル、紙媒体はアナログ、と思うとわかりやすい。全貌が把握できない、という点では、Kindleのほうがその場面の位置とかを筋立ててみづらいということですね。以下の記事がわかりやすい

Kindleで読書する人は、ペーパーバックで読む人よりもストーリーの筋立てを覚えていないことが、新たな研究論文で明らかになった

あと演劇とか映画とかでは上演時間のさいごのほうにクライマックスをもってこざるをえなくなるのですが本はそうでもない。場面配分の問題とかもこの考え方で最適解が出そう。

ということで(?)、物語の辻褄が合わなくても理解できなくても、劇場を出るときに「なんかすごいよかったな…」という感想を持たせることができれば勝ち、みたいなのは舞台には顕著な特性だろうなと思う。とくに2.5ではテキストのつよさではあんまり勝負しないから尚更だ。たぶん本よりも身体、役者とキャラクターに重きが置かれているし。

演劇のダイナミズムと呼んでいるものがある(もっとうまい言葉ないかなあ…)。これはほんとうにうまく言えないが「人間の、よくわからないもの」に属する、はたらく力のことを指しています(たぶん)。映像にしたときにガクンとなくなってしまうもの、それが演劇のダイナミズムだ。その空間に居ると感じられる、たとえば緊張感、演者から流れてくる圧倒的なエネルギー、物語が大団円を迎えたときの高揚、その他諸々、そういうもののこと。これこそが生の魅力。これは、分断できない、理屈ではないものだ。

・社会学者に岸雅彦というひとがいて、『断片的なものの社会学』という本がある。研究というのは物事を切断し、括り、一般化していくものだけど、やっぱりどうしても「その他」の項目が出てきてしまう。著者はそういう「分断できない、なんでもないようなもの」をわざわざ書く。まあなんていうか、説明しようとしてもしきれない「なにかよくわからないもの」という生きる人間のダイナミズム。そういう力のうねりが生の舞台のおもしろさだと思う。テキストからはみ出してしまっているもの。戯曲読むとほんとうにそれがわかる。これしかないのか、と思う(読むと逆にストーリーが明快になったりはするんだけど)。はみ出している部分は固定されていない。たとえばキャストが交代したとき、そのキャラクターはかなり違う人間になる。

たとえば劇団新感線「髑髏城の七人」とかかなりわかりやすいですよね。花鳥風月、おなじ物語なのにまったく違う作品になっている。いま公演している「season月」とかはWチームなんだけど、その2チームともテキストや動線がほぼ同じなのに全然違う。

・もうひとつ例をあげれば、音楽の「カバー」とか、落語とか、外国文学の翻訳とか。おなじ曲・噺・文章をもとにしているはずなのに違う人が再現するとまったく違う。個々のものになる(ただそこに居て、人間の差異をゆったり感じること、それが「演劇」だと思っている)。そういうふうに、無意識のうちにも、からだから匂い立つもの。これがあるから演劇はおもしろい。見えないなにかが確実にある。

こうして見ると、平面には書かれていない0.5の部分がいかに膨大か。そういう、不安定ではあるが絶対にあるもの。それは、観客のなかに勝手に立ち上がっているものだ。平面のものが立体になったとき、観客は、舞台空間に見えないはずの幻影”0.5”をみる。わたしたちが漫画に見る集中線とか、トーン、そういうものは見えていないのに、たしかにある、と感じることができるのは、人間から発しているノイズとか、パンキッシュに匂ってくるもの、生気なんだと思う。気配というか。あれを観にいってる。

・2.5次元文化は、観客にとっては共通項の多い、ハイコンテクストな文化だ。劇場に集まる人間にだけわかる「常識」がほとんど形成されていて、演者と観客のあいだ、観客と観客のあいだに共通の認識がある。設定とかキャラクターの性格とか、前提条件はだいたいクリアして劇場にくるわけだし。

初見の人間をおたくと同地点に立たせることはできない。これから2.5界隈にもそういう作品が出てくればすごいとは思うけど、別にやらなくていい。むしろたった3時間にも満たないくらいの公演で、それを成立させるのは無理だ。必要ないし。2.5次元舞台は、ハイコンテクストで閉じられた原作の文脈を解体し、再構成する。総集編にはせず、あくまでも再構築。それに成功している舞台はたぶんウケている。

逆に、固有名詞が多いということ、記号のなかでも具体性の高いものを使わなくてはならないこと、どこまで説明するか、というか、客層がほぼ全員と言っていいほど原作に理解がある状態で、なにを言わなくていいのか、なにを見せなくていいのか、見せたほうがいいのか、そういうのが2.5の難しいところだなと思う。

ユリイカの2.5特集を読む。この「文化」のことを知るには最適だとは思うけど、「2.5次元舞台」自体のことを知るにはぜんぜん適していない。とくに女の書いた文章は「おたく文化」に寄りすぎているし、いつも頼りにしている演劇ジャーナリストの徳永京子の文章ですらぜんぜん合っていない。というのも、2.5特集と聞いてこれを読む層はたぶん、アカデミックなものとか「演劇」の延長線上の思考を期待しているわけではなく、そこに一見遠いと思われているいまの2.5というジャンルとそれとを対応させて語ってほしかっただろうと思うからだ。この雑誌でフォーカスを当ててる「2.5」の定義は寛大でいいとは思ったが、やっぱりなんていうのだろうか、小劇場の人間(?)はそれ以外の演劇を(揶揄の意がある)下位文化だと思ってる気がした。でもそれは違う、ジャンルは等価だし、等価であるべきです。言うならば周縁文化とか。亜文化とか。2.5はたぶん唯一無二のジャンルになる(もうなってるけど、ユリイカ読んでるとこれが創刊された当時の時代の空気がこの本に流れているのでそういう気分になってしまっている)から、演者や作品のレベルがぐいぐい上がっていけば絶対に認められる。いつか小劇場のひとたちを振り向かせなきゃならないときがくるのかもしれんが、そこは勝手に言わせておけばいい。

なんか1年前くらいにあった、銀河劇場が代アニ劇場になるならないの事件、を思い出していて、これはすごく、たしかに、ひどかったんだけど、いろんな固定観念と誤解をといていかなくちゃいけないんだよなあと思う。みんなで文化を担わなきゃいけない。みんなが頭を使ってセンスを磨いて文化を育てなきゃダメだとほんとうにそう思う。がんばろう

・ユリイカ2.5特集に求めていたことは、アニメ評論家である藤津亮太の文章にあった。個人的にはこの雑誌に、2.5それ自体に対してその存在の言語化を期待していたので、2.5を「現象」とか「ムーブメント」とかにせずに2.5そのものを見つめてくれたことをすごく評価したい。

そもそも自分が2次元に転げ落ちたきっかけは「ドラマCD」と言っても過言ではないのだが、その点を藤津さんは「図像」と「声」の関係を語りながら「CDドラマはもう1つの2.5次元である」と言っている。つまり役者の身体依存度の数値がこの”0.5″にはあるということだ。

・逆に、論点ズレてるなーという感想を持った文章があったのはたぶん2.5という言葉の定義が広すぎたからだと思う。今回の特集では「2次元を舞台空間に立ち上げたもの」という感じに、「2.5」という言葉をすごい広義で捉えたため、マームとジプシーの「cocoon」も入っている(「テヅカ」とか「プルートゥ」入れちゃうのかよエーッ)のでちょっと論点もズレてくるのだが…。ちなみにマームのcocoonは固有名詞をほぼ消してやったらしい。出来事をコマから引き剥がして奥行きを出したのか。2.5の評価されうる部分というのはいろいろあるのだが、ああいうアカの人々にたいしていちばん響くのはたぶん再構成の方法とか。

・でも2.5は演劇だ。人の胸をうつのはテクストよりもやっぱり演劇としてのダイナミズム、あの生のうねりのようなものだろう。演劇にしかないもの。2.5に触れるとそれを改めてすごく考えさせられる。

・血の通ったからだに目の前でなにかが起こる、そういうことが演劇だ。2次元にはもともと血と肉がない。はずなのに、あるように感じる。その錯覚が0.5だ。2.5の上演が、2次元の記号群にたいしていのちを与えた行為だとしたら、たとえば刀ステとかはやはりめちゃくちゃおもしろいのではないか。刀が人の身体を持つ、そこに疑問を持つキャラクターがいて、みんなその生(せい)に葛藤する。こういうなかで2.5の答えが出てくるといい。可能性は計り知れないと思う。ものすごい魅力だ。

・示唆的な文章がある。2.5はDVDでもおもしろい、という、ユリイカ対談での村田充のことばだ。

そもそも自分の2.5の初見は、さっき言及した舞台「刀剣乱舞」。いろいろ割愛するがたまたま家で流れてたDVDをみて(うわーこれが噂のニーテンゴ…)(ン?)(なんかこの役者は…違うな)(目を奪われる)という流れでこのブログを書くまでに至ってしまったわけだが、舞台に立つ「鈴木拡樹」という役者には、終始1秒たりとも打ちのめされなかったことがなかった。映像なのに、とにかくずっとすごい。只者ではないな、というのがわかる。村田充の言うように、2.5は映像でもかなりおもしろい。2次元を下敷きにしていることで、生で観ればそのダイナミズムが浮き彫りになる、逆に映像で観れば、演劇が映像になって削がれる部分を(質は違えど)補える。補う、というよりは、もともとないものとして、半減しない(3次元演劇:ふつうの演劇は映像に収まって-0.5になるが、みたいな感じ)。

・たとえば以下のツイート

映像になったときに感じ方はたしかに変わった。減った、というよりも、変わった、といったほうがいい。生(現在性のつよい状態)で観たほうが膨大に感覚を貰えるかといったら決してぜんぶがそうではない。

ここで「舞台空虚」と呼んでいるのは、ピーター・ブルックの『なにもない空間』に書かれているようなもので、なんていうか、”There is nothing.”みたいなことだ。「ないものがある」。空虚をそこに顕著に見る、ということ。

劇の眼」はちょっとズレるけど太田省吾の文脈で、『劇的とは省略することである』という考え方は、演劇を考える上ではかなり重要だ。キャラクターたちにも日常があるはずだが、そういう冗長な部分を省略しまくって、ドラマ性のつよい部分だけを切り取ったものが上演される作品である、ということ。刀ステだったら本丸からの移動は省いて即戦場に着くとか。それが「劇的」ということ。「劇の眼」とは、その日常的な部分を「なにもない」と捉える(ないものはない、としか思えない):「空虚」=「ない」のまなざしのことだ。言い換えると、白、という色を、余白、と捉えるか、白色で塗られている、と捉えるか、ということ。

ドラマチック、とは何か。

2.5はどちらかといえば「劇の眼」で観られる演劇だと思う。けど、それは生でみるとき、なにか演劇的なちからがはたらいているので、なにもない舞台空間にも「なにか」が立ち現れている。

ツイートにも引いてきた立川左談次はこう言っている。

客が言葉を理解する時間を間という、また魔ともいう。って、利いた風な事言ってやがら(笑)。

落語を聴くとき、客はなにを見ているか。実際に目の前にあるのは、舞台、座布団、落語家、そのくらいだ。けど客はそこに噺の風景を見る。読書でも、目の前にあるのは活字だけだが、脳内ではその記号から映像が立ち上がっているはずだ。この「」という舞台の余白に、忽然と立ち現れる「」。そこにはなにかが潜んでいる。2.5でいえば、我々のキャラクターにたいする思い入れや、それまで辿ってきた物語が見せる幻影、0.5の錯覚だ。観客が没入していなければ、この間はもたないだろう。1分の転換、それがライビュでみたときにすごく短く感じた、というかとくに気にならなかった。けどDMMを家でみたときは、ただなにもない時間になってしまった。あれ?こんな長い転換あったっけ?演出の失敗か?みたいなことになる。だけど物語性もきちんと強く、劇的に描かれているので、べつに上で言ったような演劇的な効果に頼らなくてもいい。

と、このように、生の舞台作品としての楽しみ方もできるし、記録された映像作品としての楽しみ方もできるわけだ。

それでさっき書いたのをもう一回読むと、『2次元を下敷きにしていることで、生で観ればそのダイナミズムが浮き彫りになる、逆に映像で観れば、演劇が映像になって削がれる部分を(質は違えど)補える。補う、というよりは、もともとないものとして、半減しない(3次元演劇:ふつうの演劇は映像に収まって-0.5になるが、みたいな感じ)。』な、なるほど〜!要するに、現在性のつよい状態で観るときにだけダイナミズムは生まれるが、2.5はそうでなくても、映像になっても耐えうるおもしろさだ、ということです。

・生の舞台のなにが醍醐味かというと、目の前で生身の人間が声を出すこと、動くことで、それこそ2.5では物語世界の虚構度はかなり高いにもかかわらず、役者のからだが追い詰められていくことでその声や動きには嘘がなくなっていく。感度の高い観客たちは、そこに本物を感じている。

・「芝居」じゃなくて「演技」だなと思う。抑制するもの。自然の佇まいというより、技巧で舞台に立つ。鈴木拡樹みたいな役者を見ると、そういう在り方が向いてるんだなーとちょっと思った。そのなかで生をみるというのは、浮き彫り度がめっちゃ高い。より生々しく感じられる。

ペダステとか、ストーリーなんかなんのこっちゃみていなかったのかもしれない、と思う。ただ演出のおもしろさと、怒涛の容赦ない時間の進行と、どんどん追い込まれてく役者の肉体についていくので精一杯。というかほんとにもう、舞台「弱虫ペダル」は、この演出家に頼んだ時点で成功だったとも言える。

漫才とかでもそうだが、テキストで読んだら全然面白くない、みたいなものが、空間に立ち上がるとこれだけ面白くなる、というのが2次元と3次元のあいだにある(演劇的な意味での)0.5のおもしろさだ。こうなってくるともはや3次元だし、こんな舞台があるならたしかに3次元からいかに0.5引くかのほうを考えちゃうな…。

・2.5次元、もはや五次元くらいなんじゃないの、と思う。演劇であるからこそ、時間軸の跳躍とか、記号を利用して表象をぐるぐるまわしたりとか、そういうのが可能だし、エモさから幻影をみせてくれる。演劇という上演形態だからこそ、そして原作があるからこそ、現実でできる範囲のことを越えられる。

・ユリイカ2.5特集、結局は当事者たちのインタビュがいちばんおもしろかった。西田シャトナーはやっぱり語ってくれている。

例えば演劇とテキストについて。否定されてきた歴史もそれでも尚重要なこともわかった上で、自身の劇団時代も省みて、やっぱり2.5を肯定する。

シャトナー氏は観客にも言及しつつも、それがおたく文化だけの範囲に終わってしまうことなく、観客の「観る」スタンスについての性質を語り、誤解を生みがちな表層(イケメン、とか2次元ビジュアルとかそういう)にも触れて、しかしそれを否定することも削ぐこともなく、その上で評価をしてくれている。

(また読みたいなーと思って読んだらもうこんなブログ書かんとシャトナー氏のインタビュ全編載せとき、という感じだった。言いたいこと全てを語ってくれている)(というかギリシア劇のことどこかに書いてあったか?「コロスの響くロードレース」という題なんだけど。あんまりちゃんと覚えてない)

・おー、と思った文章をツイッターに引用してるんだけど頁が書いてない。あとで追記したいと思います。以下引用。

『自らが加担して作り出している現実感であるとわかりつつ、あるいはわかっているからこその現実感を抜き差しならないものとして感じ取るというあり方

『(たとえそうした営為が実際には、批評的な距離を取った観察者の視点に屈服しやすい傾向を持っているとしても)』

そう、ああいうのは加担しようとしないとぜんぜんおもしろくない。マジか、と内心思いつつそこの抵抗に抵抗して、屈服しない、という姿勢が2.5鑑賞には必要だ。シラけつつノる、というやつ(浅田彰)。

ハーすごい長くなりましたけど、ひとまずここまで。結局、この文化のことをどう考えていいかはわからない。でも上に羅列した文章群によってみえてきたものはあると思う。いろいろ結びつく符号がある気がする。こういう捉え方をされていってほしい。

この2.5というジャンルがどういう種類の演劇なのか、どういう位相にあるのか、これからどう動くためにどう大事にされていくべきなのか。まだまだ考え足りない。

2.5次元舞台には、ものすごい演劇の可能性があるように思えてならない。

黄昏かげろう座





“お前が世界を見たいなら、
眼をお閉じ、ロズモンドよ……”
ー『シュザンヌと太平洋』








スペースFS汐留にて「黄昏かげろう座」観てきました。

演目は、江戸川乱歩『屋根裏の散歩者』と『人でなしの恋』。それぞれ2公演ずつ。
感想書きつつ思ったのは、朗読劇、難しいなー!ということ。正しい芝居なんてなくて、すべては好みの問題なんだけど、一本の作品としてのおもしろさを、どこに委ねたらいいのかわからない。原作、脚本、演出、俳優、それらのバランス。

まあ今回も三木眞一郎につられて行ったやつなのでとどのつまり三木眞一郎はスゲエってことを書くと思います。

あとは、女優と声優というキャストであったことで、その差異について見えたものがあったのでそれを書きます。



屋根裏の散歩者
200に満たない座席。
舞台は真っ黒。上手、下手に机と椅子が1セットずつ置かれている。それぞれの机上には切子のペアグラス、青と赤。下手、青いグラスの隣には黒いハット。その向こう、最下手には椅子がもう1つ、久世光彦エッセイ朗読のアクトスポットとして置いてある。
そこに黒ずくめの演者2人。物語は久世光彦のエッセイから始まる。

久世光彦のエッセイの混ぜ方、おもしろかった。この久世光彦というひとの、「劇場」というものについての思想には頷ける気がする。劇場は春の日の陽炎のようなもの。考現学、とか言ったらいいのかな、劇場というものは、それこそわたしたちの暮らす街でもいい、眼前にある光景、それが立ち上がる「場」が「劇場」であり、その現象は、演劇である、という感じ(多分)。生活をしていてもときどき我に返って、はっとする。そういうとき、そこには詩がある。生きていても、白昼夢を見ているみたいに、ずっと実感がないことのほうが多くて、そうやってわたしたちが普段ぼんやりと眺めて通り抜けているだけの日常、現実に、一瞬の閃光のような何らかのきらめき、ロマンみたいなものを感じるとき、それははっきりとした輪郭をもって迫ってくる。ここは劇場である。そういう幻想のほうがどうにもしっくりくるというか、すごくわかる。夢のほうが、ずっと現実だ。

倉本朋幸の演出はさっぱりしてた。この演出家、知らなかったんですが「三月の5日間」「好き好き大好き超愛してる」「書を捨てよ、町へ出よう」などを手がけておられるらしく、なんというか、アングラ、ではないんだけど、激情系、みたいなのが好きなんだろうなーという印象。岡田利規、舞城王太郎、寺山修司、江戸川乱歩、っていうとなんとなーく繋がるものがある。

演者レビューとしては、まずは田畑智子。知ったのは朝ドラですけどオッと思ったのは「ふがいない僕は空を見た」です。まあ原作が好きだっていうのがでかいけど。今回は朗読劇だったがやはり、適材適所というのはあるんだなーという感想だった。彼女は美しいよ。けど朗読ではない。舞台にいる彼女の表情とか、佇まい、そういうものはやっぱ女優だなー!と思ったけど、発声とか読み方とかは、映えない。これ朗読劇じゃなく演劇なら光っただろうなと思った。勿体無さすぎる。「ただ、そこにいる」ということ。ただ、人間が、そこに立っている、それだけで、細かい演技のテクニックとかは、どうでもいい。だから彼女は「女優」だし、勿体無いというのは、朗読劇という領域で足掻く彼女を見たいわけではなかったからです。見るのであれば、彼女のなかにもともとあるものを、テキストに縛られずにいる彼女を、見たかった。においがしなかった、といえばわかるかもしれない。
1日目は夜公演がよかったですね、初回は緊張してらしたとみた。2日目はやっぱり女をやるということで、しっくりきたし、素敵だった。

一方、三木眞一郎である。改めてマジですごい。それと、完全に演劇の畑に居ていい人じゃんと思いました。2日目は特にすごかったのでまずは1日目に思ったこと。

声優なので、書き言葉を話すのはお手の物なのはまあそれはそう、それでも、この引力はなんだろう。書き言葉の文章に浸透力を持たせる力がある。
朗読劇なので、やっぱりテクニックは必要。それは演劇と違って、演者から発されるただの言葉を、観客が聴き、脳内で風景を描いていかなくちゃいけない。だから物語がうまく進行していくかどうかは、発信される言葉と、それを受け取る観客の想像力に委ねられる。朗読劇は演劇よりも、視界で受け取る情報がずっと少なく、想像するためには、言葉を聴かなくちゃいけない。でもこれがなかなか難しい。

相手に伝わる情報の割合は、話の内容、言葉そのものの意味から7%、声の質・速さ・大きさ・口調から38%、そして、見た目・表情・しぐさ・視線からは55%で、視覚的情報を奪うと半分以上の情報を削がれる(そう考えてドラマCDとか聴くとすごすぎる)。さらに今回の公演は90分、人間の集中力が続くのは15分。どうやっても飽きる。
なのにどうしてか、飽きない。勿論、視覚的な効果は、演出として入れられている(例えば、猿股の紐に模した真っ赤なゴム紐を、2人の間に繋ぎ、シーンの流れの途切れる台詞の狭間で、離す、といった文章構造の可視化など)んだけど、緩急、とかそういうのだけではないなにかがある。どうすれば文は伝わりやすいか、というと、文章の構造をきちんと把握して、どこで区切るか、どこを目立たせるか、どの語に重きを置けばいいのか、そういうのを大事にすれば話す文としての正解は出る。

(前にこういうpostをしたけど、三木眞一郎みたいな声優がこういうのをパッと言うっていうことに怖さを感じました。もう基礎とか忘れてていいくらいなのにな、先生かよ)
(たまごの声という声優のたまごの人がやってるらしいラジオにゲスト出演したときの発言)
だけど、この正解だけではない、それ以上に、言葉にあらゆる感覚が伴っている、と思う。

三木眞一郎の朗読は、文章の向こうに湛えてある感情とか魂みたいなものをインストールして喋っているような感じがする。書かれたものを読み取ることで再び風景や感情を立ち上げるのではなく、書いて平面に落とし込む前の原風景を、そのまま発話にのせている感じだ。

そしてそれだけではなく、演劇人じゃん、と思ったのは、存在感そのもの。あの長身。舞台に立つ人間は手が大きくなきゃ、みたいなのを読んだことあるけど、そういうこと。やっぱり舞台上で映えるためにはタッパがないといかん。スーツにハットの姿もさることながら、なんていうか、身ひとつで立っていても舞台が余らない。そして一個一個の仕草のためらいのなさ。朗読劇に丁度良い塩梅の身振り。指パッチンのち天井を指差すとか、顔を上下(かみしも)に向けるとか、強調する部分で人差し指を立てるとか。役とか地の文ごとに声色を変えるのは勿論、明智小五郎をやるときは背凭れにもたれて足を組んだり、身体も変えていた。声色でも十分わかるのに。すごいな。そうそう、これを観聴きしながらなんとなく落語のことを考えていました。

あと身体のことでいうと、声を出すときの姿勢。
いままでは、三木さんは「姿勢を正して」というよりも「自然体で」というひとだと思っていて、それはあながち間違いではないと思うのだけど、今回の朗読劇見て思ったのは、肺を開いている、ということだった。

演技って「いい身体」「いい声」で観客のほうを向いて大声で叫ぶ、というのが正しいわけではなくて、べつに腹から声が出てなくていい、背筋が伸びていなくていい(かといって仰々しくない自然さがいいというわけでもないんだけど)。三木さんは普通に立つし、無闇に声を張るわけでもないし、やたらと滑舌良く喋るわけでもない。むしろ声を裏返すことだってある。こういう「自然さ」。

今回の朗読劇、演者2人はほとんど座って読む。だからわかったことがあって、三木さんは、みぞおちあたりから肩までが、なんというか、ひらけて、立っているのだった。声の通り道と、その響く部位を確保しているという感じで。背中が丸まっていると声はこもる。喉も詰まるし呼吸も浅くなる。いままでは立って演技しているのしか見たことがなかったけど、座るとなんとなく、どういうふうに身体を使っているのかが見えて、ヘェーってすごく興味深かった。
あとこれは姿勢のはなしとも繋がるかもしれないので書いておくんだけど(マイクの付ける位置にもよるとは思う)、三木さんだけマイクをふかないんですよね。発声の問題なのかはわからないけど、ボッ、ていうあれがない。それもなんかヘェーってなりました。





人でなしの恋
昼公演、見終えた直後、放心してた。何も書けない、何も言えない、泣くこともできない。ただ痺れるてのひらを握ったり開いたりしながら、この静かな興奮を振り払うように頭を振りながら、足早に劇場を出た。

どうしよう。どうしようもない。
もっとこの人の芝居が見たい、と思った。

三木さんには一言の台詞もない場面。
なのに、だんだん、唇がわなわな震え、息が上がり、一気に、静かに、彼の纏っている空気だけが濃くなり、高まっていく。その一点だけに、視界が絞られていく。ネクタイを解き、ボタンをひとつ外す。赤みのさした首筋が露わになる。
そして、すっくと立つ。見開かれた目、その鋭い眼光。真っ赤な紐を唇に咥え、そこからするすると長い体躯に巻きつけていく。少しでも動けば血の出そうな緊迫感。あの赤い糸に劇場全体が雁字搦めになって、動けない。

腹の底から、言いようのない感情、そして熱が、ふつふつと湧き上がるのがわかった。内臓が熱い。呼吸が出来ない。裏腹に、皮膚の表面はへんな汗をかいて、冷えている。掻痒感にも似た、ひりひりとした感覚が、心のやわらかい場所を貫いていく。

こんなに揺さぶられたことはなかった。

自分の人生のなかで興奮の閾値を超えたものなんて3つの出来事ほどで、それらはすべて10代のとき、田中泯のフランシス・ベーコンの舞踏、滋賀の女子高生ろろちゃんの自殺動画、クリスティーン・バタースビーの『性別と天才』を読んだとき。なにもかもに慣れてきて、感覚も鈍ったいま、20をこえてから、こんなに揺さぶられたことなんて、なかった。

形容しがたいよ、こんなの。すごすぎる。何度も溜息を吐いて、思わず手紙を書いた。

かげろう座2日目は、下手に田畑智子、上手に三木眞一郎。きのうと交代のかたち。最初と最後の久世光彦のエッセイ朗読も、きのうは田畑智子がやっていたところを三木眞一郎が読む。
衣装は白の分量が増えてた。田畑さんは白いカットソー、三木さんはスーツのジャケットなしでシャツ+ネクタイ。

冒頭、素晴らしい引き込み方だ。空気を多く含んだ柔らかい声で、聴かせる。
なのに最後、雷に打たれたようなわたしたちを横目に、あんな緊迫感を解きほぐすように、はじめと変わらないトーンで、震えもない、落ち着いたあの声で、諭すみたいにまた、観客に語りかける。

すごいよ、三木眞一郎。一体なんなんだ。
声優の域を越えてる。俳優でもあんな演技ができるかわからない。
ドラマCDとかのフリートークとかでよく共演者は三木眞一郎に対して「緊張感」というワードを出すけど、その意味がやっと分かった。纏う空気が、飄然と張り詰めている。

冒頭のエッセイから乱歩の物語に切り替わるとき、三木さん、目を閉じるんだよ。その幻想に身を浸して、ひとつひとつの言葉の向こうの原風景を、かげろうのように立ち現れる瞼の裏の劇場を、じっ、と見つめるみたいに。

素晴らしかった。それだけ。もう何も言えない。すごかったんだよ。動悸がおさまらない。

さよならソルシエ


SOUND THEATRE × さよならソルシエを観てきました。音楽朗読劇ということで観る前はどういうこと?と思っていたんですがドラマCD一発録りみたいな感じです。生でこれができちゃうのすごすぎる。加えて、舞台なので、視覚の楽しさをつける感じ。ライブペインティング、照明、舞台の演出、衣装など。レポではないです。個人の主観入りまくりの感想。

ここで原作についても語ってしまうとかなりとっ散らかってしまうので基本的に演出と演者について。この12/3の公演はPLAY BUTTON(プレイボタンはバッジ型デジタル・オーディオ・プレーヤーです。バッジ型の本体にイヤホン / ヘッドホンを差し込むだけで、いつでも、どこでも収録された音源を楽しむことができます、とのこと)に録音されているけど、記録媒体からはみ出してしまうものがやっぱり生の舞台にはある。その劇場のダイナミズムとかについて。
以下原作の漫画の題です。舞台脚本ではすこしずつ入り組んでこの区切りを越えて行ったり来たりもするし台詞がつけたされているところもある。

1話 パリの魔法使い
2話 夜の住人たち
3話 草原の兄弟
4話 アンデパンダン展
5話 夜明けのパーティー
6話 冬の草原
7話 才能
8話 絶望と希望
9話 彼の宿命
10話 手紙
11話 炎の画家
12話 au revoir, Sorcier

演者は下手から、三木眞一郎、浜田賢二、諏訪部順一、内田雄馬。中心2人には立ち台がついてる。(ちなみに自分のスタンスを話しておくと、三木眞一郎が超すき、浜田賢二と諏訪部順一はものすごい推し、内田雄馬は気になるキャラ居てエンドロール見るとまたこの人だったか、というタイプで好きな役いくつかあるけどノーマークだった)

ちなみに衣装と髪型はこう。左がフィンセント・浜田・ゴッホ、右がテオドルス・諏訪部・ゴッホです。浜田賢二髪の毛モフモフ、諏訪部順一外ハネ茶髪(ありがとうございました)、もうこの画像だけでつらくないですか、ほんとにまんまなんですよ、これがステージにいたんですよ

内田雄馬はビビットめな色でかっちりはしてない若者めいた格好にさらっと下ろした黒髪、三木眞一郎はベージュのロングコートっぽい羽織りに茶髪グラデ外ハネロン毛です

会場には照明を映えさせるための霧が立ち込めている。ステージには描きかけのキャンバス。波を通り抜けてきたような光の網が虹色に光って、ステージの輪郭の外まで広がっている。開演と同時にその網は青く染まり、観客は物語のなかに潜水する。

再構成された物語。戯曲家ジャン・サントロと画家アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレックの再会から、回想譚として語られていく。

・物語は『2話 夜の住人たち』の一部から始まる。
プロローグのあと、物語の冒頭で容赦無く観客を引き込む諏訪部順一。諏訪部さんの声には説得力があるなあと思う。カリスマ性のある、というか、有無を言わさず相手を説き伏せる力。安心して聴けすぎる。地に足がついている。
・マルクスが路上でパンの絵を売る場面。
「さて、お立ち会い!」暗転後まで往来に向かい商売をするジェスチャー、観客の想像の解像度を上げてくれる三木眞一郎…
三木さんはこういうふうに意識的にパフォーマンスをすることもあるけど無意識のうちに出る動きも多い、逆に諏訪部さんは身振り手振りは全て自覚的にやっている気がする、憑依するか、引いて見ているかどっちと言われれば、前者三木、後者諏訪部と思います。三木さんも客観人間とは思ってたけど思ってるよりこれは感覚というか右脳派の人間なのかもしれない…最高…

・ここでフィンセント・浜田・ゴッホ登場なんですけど、ひたすらあどけなく、善人で、穏やかで、無垢な感じの声色。浜田賢二の声って額に細く当たって響くんじゃなくて、喉の後方から鼻腔にかけてボワーと広がるような声ですよね、最高。(基本的に)諏訪部順一は鼻から喉にかけて(おとがいあたりも)、内田雄馬は喉かな(勉強不足)、三木眞一郎は胸(肺のあたり)に響く。個人的に浜田賢二と三木眞一郎は聴いてて心地好い系で声自体が好きすぎる。

・3話、幼少のふたり。諏訪部順一のショタ声がレアなのかはよく知らんが、高い。そして諏訪部氏、子供をやるときは休めの姿勢になるみたいだぞ!身体を変えることで胸に立ち上がってくる心持ちが違うということを知っておられる…
ここでの三木さんまさかのゴッホ兄弟の母として登場。こういう声色も違和感なく出せるの、流石すぎる。この撫でるような色気。
そしてジェローム殿も登場。ウオーッ!三木眞一郎の、振れ幅〜…!コメディもシリアスも女も悪役もできる!すごいぞ

・振れ幅で言うと、内田雄馬もすごかった。5役?もっとか?チャンネルの使い分けに唸る。シリアスな場面に迷いもなくおもしろいトーンを入れてくる。内田さんのそういう台詞のあと、音源からはあまり感じられないけど会場の空気がざわっと揺れるんだよな。そして内田雄馬、身体性まで自在なように見えた。なんていうか、今にも走り出せそうなって言ったら変だけど、腰が落ちてないというか、とにかく身軽で、自由で、楽しそうだった。緊張している様子もなく、スゲー人間だ…

・内田雄馬、6話では老婆もやる!ここが泣かせるシーンで、演技がうまくないとそっちに気を取られちゃうリスクあるところなんですけど、見事に老婆だったので、会場がめっちゃ泣いた。
冬のパリで、40年前の夏の草原の風景を描くシーン。
浜田賢二の、純粋で無垢で真っ白なやさしさが、人間の持っている狡猾さ、意地の悪さを、抉ってくるようなまでに真っ直ぐで、たまらなく胸が締め付けられる。
大袈裟になることもなく、格好付けることもなく、そこにある人物の感情にぴったり寄り添うように話す。目の前に、その光景が見えているように、穏やかに微笑みながら。童話の世界のひとのようだった。佇まいに不思議な引力がある。

・7話、第一部の終幕。
絵を選んでいるときの「どれにしようかな〜」のあとにテオドルスに呼びかけられての「う〜ん?」がほんとうに夢中になってて上の空返事でめちゃくちゃかわいい(死)
・一幕ラストの演出が素晴らしい。テオドルスの激昂。赤い照明。はやる音楽。諏訪部順一担当のお姉様方でこの公演観てないひとはシビれる台詞かなりあるので原作読んでみてください。脳内再生容易に可能だと思われる。

・第二部は8話から。
フィンセントが教会へ連れ去られる。浜田賢二、後ろ手に縄をかけられているように台本を持っていないほうの左手を背後に回している。
・「死ぬのは、俺のほうだ」拳銃のかたちにつくった左手を自分のこめかみに当てるエンターテイナー諏訪部順一…

・9話は8話からほぼ地続き。フィンセントの、弟を信じたい、そういう祈りみたいに、嘘だよねテオ、って縋るような声、繰り返される「いやだ」「やめろ」がどんどん涙ぐんで小さくなっていくのに胸が締め付けられるように痛い…
浜田賢二、沈黙を操れるひとだと思いました。声優だけなんて勿体無いよ〜!このひとにあるテンポは演劇とかに持ち込まれるべきだよ〜!

・兄弟のこの長いやりとりの最中、明転中なのに三木さんが座ったんですよ。いままではきちんとスポットが絞り切られるまで立っていたので、(えっまだスポット付いてるよ!)と思ったんだけど、これ、ちょっと待って、あれ、なんか、そこにいらっしゃるのは…ジェローム…?
いままでの暗転時の座り方は普通にむしろ猫背めで座ってたのに、このときは崇高な芸術家ジェローム殿らしく、踏ん反り返って見事に「偉そう」な座り方なんですよ…えっすごい…兄弟が魂をひっくり返してぶつかり合ってるときに、やっぱり3人立っているのは気が散る、かといって明転暗転を繰り返すのも気が散る、となれば、2人を舞台に残しつつ、自分は傍観者を「演じる」というのが、三木眞一郎、さ、策士〜…!

・この場面ではじめて怒りの感情をあらわすフィンセント。いままでの穏やかさとは裏腹に鋭く低い声、静かな激情。ここでまたライブペイント、なんですけどその前に炎が!19列目でもけっこう熱いくらいの。描かれた絵はこれ。これは終演後ロビーに飾られていたもの。この公演のじゃないのでたぶんゲネのものとかだと思う。

・とまあとにかく、この教会のシーンはけっこうな見せ場であり、いちいち心を動かしている暇がないくらい、めくるめいている。目が足りないと思ったことはあるけど心が足りないと思ったのははじめてだ…
浜田賢二の沈黙の使い方、ニュアンスのシンプルさ、それでいて豊かな感情のブレンド比率に唸り、諏訪部順一の音楽感覚、迷いのない声色の選び方で唸り、三木眞一郎の「追いかけるな、くだらん」で唸る!
このシーン全体の抑揚、見事すぎる。

・10話、手紙を読む浜田賢二、つらい。こんなにいい手紙はないよなと思う。
「ごめん、テオ…」その余韻とともにフェードアウトして絞られていくスポットのなかに佇む浜田賢二の姿が妙に目に焼き付いている。哀しそうというより、悔しそうというより、ひどく寂しそうだった。

・フィンセントの訃報を知らせにきたマルクス。息急き切ってドアを開けた彼が口にする、フィンセントが、「亡くなったと」。この一言に表面張力するニュアンスは膨大だ。衝撃、焦燥、狼狽、痛惜、後悔、悲嘆がすごい速さで流れながらこの一言に込められている。嘘だろ、信じられない、いやだ、信じたくない、けどこれは事実で、早急に伝えなくてはいけない、っていう感じが詰まりすぎてる。拒絶してた事実を受け入れたときに哀しみがどっと押し寄せてくるような。
こんなにハッとする瞬間にはなかなか出会えない。ほんとうにすごい一言だった。一言というよりも、一撃に近かった。

・そのあと、暗転後に三木さん、泣いてたんですよ…oh…汗かなと思ったけど、タオルを顔に当てたあと、台本を観客にかざすように持ってきて、そんなことしなくてもスポットは当たっていないのに、本人の心理状態がそうさせたってことはほんとうに…えっ…でもタオルを置いたあと鼻を啜ってたので、やっぱり…って、思ったけど、三木さんは泣いていることを恥ずかしがってたわけでは決してなく、演者のマナーとして、客にそれを見せない、という配慮だったんだろうなと思いました。紳士…

・幼き日の幻想を見ながら、兄に想いを馳せるテオドルス。「待ってくれ、行かないでくれ、兄さん」。「く」が丸い感じの発音で、すごく幼い。不敵に笑って何事にも動じない男が、そうやって泣くことが、どれだけ異常なことか。声を詰まらせながら泣く、その、声をあげてわあわあ喚いてしまえたら楽なのに、どうしようもなく、抱え込むしかない悲しさ、悔しさ、そういう青い感情が内臓に爆発しそうなくらい渦巻いてるんだけど、ぜんぜんそれが出て行く量に追いついてなくて、苦しんでる感じ。
諏訪部順一、空を仰いだんだよな、ここで。心を抱え込むような絶叫を想像していたんだけど、祈るように、神を責めるかのように、顎を上げて泣くテオドルス・諏訪部・ゴッホ…ちなみに原作でもこうして泣いています…

・そんなシーンのあと、弟・テオドルスへ書いた手紙を読む浜田賢二の、痛いほどやさしくまっすぐな演技が、泣けすぎる。おだやかな希望を湛えて、ひたむきに、つよく、見据えている。決意に満ちているのに、静かで、心は凪いでいる。この声に、会場の空気が一気に、静かに、泣いたのが分かった。「テオ」と何度も呼びかけるその声がやさしく、あどけなさすぎる、兄なのに、すべての信頼を弟に寄せるみたいに…いとしすぎる…
弟に、久しぶりに会えるのを楽しみにしている、と書いた手紙の〆に、「フィンセントより」って自分の名を言うんだけど、これがほんとうに心から嬉しそうに弾んだ声で言うもんで、情緒が、崩壊した…

・11話。テオドルスは兄の人生のシナリオをある戯曲家に依頼する。ジャン・サントロ。フィンセントの絵を見た瞬間、「どうした、サントロ」泣いてるぞ。ここの演出もまた最高だった。演劇の、生の舞台のダイナミズム。琴線、という言葉を思いながら観てた。バイオリンに乗って加速する物語。衝撃からくる様々な感情が入り混じり、叫びだしたくなるような激情が、静かに執拗に、サントロのなかに熟していく。
「金なんかいらねえよ」「こんな面白い仕事はない」
目に浮かぶ涙を振り払うように、鮮明に見たいその絵を滲ませる視界を悔しがるように、慟哭を抑えながら、感動を口走る。台詞を紡ぐ、なんて穏やかなものではない、情動の乱れ。
三木眞一郎の憑依の仕方は凄まじい。ここでも暗転後目頭を摘まんでいたよ…
そして諏訪部順一の音楽感覚はやっぱり素晴らしすぎる!バイオリンが鳴り、あのタイミングで入ってこられるの、なんていうか、長縄跳びがうまい、みたいな(伝われ)、サントロにフィンセントの絵を見せるシーン、「天才の絵だ」からの、バイオリンが入り、「人々の興味を引く画家の人生は〜」のところ、ほんとうに気持ち良すぎる…この三連符めいたテンポ、走り出した音楽とともに歌うように前のめりな加速!
あの加速あった後の高揚に三木眞一郎の演技がハマったような気がして、気が気を呼んだ感じで、すごかった…

・ラスト、12話。
「行こう、テオ、僕と一緒に」
「ああ、ずっと一緒だ、兄さん」
幼き日の兄弟の記憶。男の勲章だと言って背中に傷をつくったテオドルスの隣に、すこし背の高い、兄・ゴッホが描き足されていく。

ステージ奥の絵画に描かれる”FIN…”の文字を4人の演者は振り返ってまなざす。弦の余韻が終わる。暗転。

『かなしみはちからに、慾りはいつくしみに、いかりは智慧にみちびかるべし』
宮沢賢治は言ったけど、そういうふうに、暗がりまで愛せるひとが好きだ。孤独や悲哀までうつくしく、絶望を原動力にできる。ゴッホもまたそうだったんだと思う。この作品に出会えてよかった。ありがとう。
R.I.P. to “bon,au revoir Sorcier”.

『リトルマーメイド』を観た

四季劇場・夏にて「リトルマーメイド」観てきました。ツイにも少々書いたけど以下レビューです。

わたくしの観たキャストはたぶんこう

・個人的には上川エリック観たいという希望を抱いていたんですが(ユタを見たときにオッこれはとなった)飯田エリックのギラっと感は若い王子めいててよかった。CDキャストが上川一哉なので後にふた通りの聴き比べをできてるんですが飯田王子には威勢の良い果敢なつよさ、上川王子には穏やかに佇むしたたかさがあり、ふたりともに共通するのは内に秘めた熱いこころやまっすぐさがある、という感じ。実際観たの飯田達郎のみだけれども。上川さん、ユタとぜんぜん違うな、こんな変わるのか。キャラで雰囲気変わるのおもしろいなー。
セバスチャンが飯野おさみさんで俺得、ジャニーズ(元祖)なので舞台人というよりエンターテイナーである。芸が細かいというか行き渡ってる。
歌ウマというか好きな声なのは海蛇の背が小さいほう(平田郁夫)。
アースラー(原田真理)とかやっぱヴィランズは演技力ないとできないんだろうなと思う。
フランダー(嶋野達也)は萌えキャラ(個人的に観ててニマニマしたのフランダーだった)。フランダーさいごピンク色の女の子連れててオーッお前も幸せになったかー!そうだよなー!お前は幸せにならなきゃダメだよなー!(心の声)と自分のなかで話題に。自分のこと棚に上げて好きなひとの幸せを願って協力までしちゃう系キャラは幸せになって終わってくれないとダメ!
MVPはシェフ(清水大星) 、シェフヤバい!!!厨房のシーンは終始腹痛かった。別にこのシーンおもしろいことは特に言えないんですよ、台詞決まってるし。けど演じ方でこれだけおもしろいひと久しぶりにみた。仕草と表情と歌い方。すごい。これ驚いたのがプログラム見てたらこのひとエリックもやってるということですがエリック?エリック?!見たすぎるだろ。プリンスもやりながらこのハジけ方できるの完全にヤバいでしょ…このひとが舞台出てるときは他のキャストの表情伺ってしまう。絶対に笑い堪えてるひといるだろ。みんな完璧な演技顔だったけど。慣れってマジこわい。

・劇団四季大人になってから劇場で観たのたぶん初なんですけど、これも案の定、線で観たくなってしまった。小さい頃は考えずに感じているだけで構成とか裏のことなんも考えなかったけど今はそういうことばかり考えてしまいます、よね(付加疑問文)?あの頃はアリエルはアリエルだと思ってたからなあ…文体という概念がなかったので一役に何人もキャストいるとか思いもよってなかったです。しかし、いまは大人なので、キャストの違いでも楽しみたいしキャスト一人ひとりにもハマりたいし恐ろしい沼を目前に立ち眩んでいるところ。

・改めて劇団四季は大衆〜!という感じがした。コストの掛かり方。潤沢。舞台装置がすごい。ハード(↔︎ソフト)がつよい。そして転換のうまさ。暗転なしってすごくないですか。覚えてる限り暗転なかった。ような気がする。小劇場演劇と違ってミュージカルをやるにはやっぱり舞台も広いことだし、マイムじゃなくモノや背景や衣装は存在していたほうがいいわけですね、だからモノを場面ごとに動かす作業が必要で、もうこれはお家芸でしょ。気付かないうちになんとなくシーンが入れ替わっている。

・エリックが海に落ちたときの演出が超うつくしかったなーと思う。幕とか使ってあの水の浪々とした光の澱、虹の網のようなものを映して、なんかめちゃくちゃ、推進力、と思った。物語の、舞台の、進行する推進力がヤバい。馬力がある。有無を言わせない感じ。理屈じゃない。やっぱり素晴らしいものは素晴らしいんだなってめちゃくちゃ思う。

・劇団四季の特徴ですよね、この理屈じゃなさ、夢見加減のヤバさ。現実逃避というより現実忘却というか。右脳演劇って呼んでるんですけど(呼んでない)。まずディズニー作品である、物語そのものがつよい、音楽そのものがよい、など、全体的にコストが既にでかいというのがあり、それは力技なんだけれども、それに加え照明とか演技とかの味付けがあってあの容赦ないダイナミズムを生むんですよね。やっぱり前を向いてはっきり喋る、しっかり屈強な肉体で立つ、という大仰な演劇というのもあっていいというかあるべきである。あれこそカタルシスという感じがする。考えない演劇。本能演劇。

・音楽の良さをさっき挙げましたけど、やっぱりアラン・メンケンは天才だということ。アンダーザシーとかなにも悲しいことないのに泣いちゃうもんね。情動がヤバい。高揚感に圧倒されるというか、夢みているような気分ってこういうことなんだなと思う。内臓が疼く感じ。音楽のちからってこういうもんだよ。バックホーンも誰もがみんな幸せなら歌なんて生まれないって言ってるし。星野源も生まれ変わりがあるのなら人は歌なんて歌わないさって言ってるし。
音楽のことでもう一個言えば、ピクサーばかりになってからというものミュージカルを見なくなったけど、アナ雪が流行ったのって歌があるからなんじゃないかと思った。歴史とか系譜とか知らないけど、そういやさいきん歌ってるディズニーアニメ見ないなと思った。歌があればそこに楔が打たれて物語は忘れられないじゃないですか、現に久々にリトルマーメイド見たけど、こんな物語だったっけ?という感じで結末すらあんまり覚えてない。でも歌は流れれば反応してアレだ!と思うしやっぱりこどもが楽しいのって音楽だよなあと思うので(エンタの神様がこどもにウケてたのって多分そういうことだろう)歌は超大事。

・劇場は春秋しかたぶん行ったことないので夏のキャパにビビった。観たの3列目だったのでぜんぜんアレなんだけど。

ぜんぜんレビューになんなかったな。いろいろいい場面は山ほどあったけどそれはレポートなのでリトルマーメイドを観て発生した私的感想だけ。
この文章に「やっぱり」の多さが見受けられ、畢竟、劇団四季はすごい・改(アラタメ)という感想だった。こうして再確認したのとは別に自分のなかのおたく性を発見した後の初観劇ということでやっぱりナマはいいねー&文体論最高というはなし。