饗宴『深海のカンパネルラ』を観た




ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘の草の中につかれてねむっていたのでした。胸は何だかおかしく熱り頬にはつめたい涙がながれていました。

銀河鉄道の夜/宮沢賢治

いきなりだけど、この涙の質感を伝えられるのは、ほんらい小説だけだ。漫画や映像ではこの質感は伝えられない。涙をただ流して、その涙を流すという行為のことしか描けない。演劇も同様、画そのもの自体というのは弱い。例えば青年団の平田オリザは演劇のこういうことを(厳密には違うけど演劇の限界として)「歯が痛い」という言葉で説明した。歯が痛いことをせりふで「痛いんだ」と主張することは不可能で、歯が痛いらしい、ということしか言えないのだと。

ではどうやって涙の温度や湿度を出すか。

たしか、田島列島は漫画『子供はわかってあげない』で涙のうえに手のひらを置いた。彼女が目を閉じる。彼がその瞼に手のひらを当てる。その指の隙間から、涙が溢れる。

触覚を使う。

瀬戸祐介はこれをやっていた。

『頬にはつめたい涙がながれていました。』と地の文が言う。瀬戸氏は自らの頬を触った、そのあとその手で、自分の腕のあたりを拭くように触ったのだ。

こういう行為を観たくて、劇場に足を運んでる。

役者のなかで起きてること。感情が身体に滲むこと。それが空間にまで及ぶこと。

演劇は、戯曲ではない。演劇は、せりふではない。演劇は、身体ではない。演劇は、役者ではない。

人間は単純じゃない。感情は入り組んでいて、言葉は裏腹だ。すきだと言いたいのに、ばかと言ってしまったりする。すきだと言いたいのに、言葉が足りない。すきだという以上のことを言いたいのに、すきだという言葉にしかならない。

演劇はその複雑な人と人とのあいだにうまれる。〝推し〟だけを双眼鏡で切り取って眺めていては、演劇は見えない。

演劇にしかできないこと。この上演で、それを観た気がする。芝居自体はそりゃあ、それも観るけど、演劇は芝居ではない。もっともっと遠くから目を凝らしてみないと、ぜんたいを捉えられないものだ。

観客は役者の身体と言葉を辿って、物語をつなぐ。舞台のうえで星座をつなぐ彼らと同じように。眺めながら、途方に暮れるような気持ちになった。この茫漠とした広さが、星を見る遠さが、この距離が、この作品をみるときの(自分の)最適解だと思う。

きみの誕生日を覚えている。
きみのすきな星を覚えている。
きみの部活を覚えている。
きみの最期を、忘れようとしても思い出せない。

そうじゃなくて。

死まで受け入れるとき、やっと愛せる。

〈不在〉を現在→過去の箱庭にいれて再生することで死が現象になり、センテンスを反復することで空想が現象になり、ボーイミーツボーイを救いとすることで(広義での)恋が現象となり、きみを存在として愛している、という、つめたい愛。

きみの誕生日を忘れる。
きみのすきな星を忘れる。
きみの部活を忘れる。
きみの最期を、ときどき思い出す。

ラストの暗転前、りくはやっと遠くに目をやる。

時間を辿ることでしか、辿り着けない出口。見えない景色。

演劇にできることを、すごい彼方から思い出したような感じがした。






というわけで今回は自分用備忘録ブロゴとなります。ほかの細かめの感想はツイッターに載ってる。コロナ以降ほとんどの演劇は録画されてきた。でもこの公演は配信もされず円盤も出ない。戯曲販売もない。だから書いとく。でもあらすじ書いたって上演の意味がないので、観劇中自分にみえた星座のことを書く。あ、配信に慣れきってしまったからか単純に感性が鈍ったか、せりふをパンチラインとして覚える能力が衰えたので今回のせりふはとくにニュアンスで書いているためきをつけろ

ちなみにこれから書くのはBチームの公演のことだよ




瀬戸氏のかんそうはいっぱい作品のことと語るのでまずみんなのハイライトから。

葉山さんはまっすぐな落ち着いたあかるさがあってすごくよかった。いて座、だったかなあ、あれのとき椅子に片足かけて弓を引くのがすきだ。なにより彼は背負わないのがとてもいい(この「背負わない」は詳しくはこのブログ(声優・宮本充のブログ)のようなことですので参照)。悲しい場面を悲しく演じては客は感動できない。抑制が効いててかなりよかった。

しゅうへいさんはもうなによりかたちがいい。これは才能なんだけど、身体に癖を感じない、というのはなかなかじつは稀有。役者としてのつよみだとおもう。THE・MANでいられる才能。そんで説得力。車掌よりにーちゃんがよかったな。とても大人で、とても男だった。

川本さん。先生よかったな。あの概念をしゃべるところをほとんど立てていないのがかなりいい。生きるってことはぜんぶだからね。それをあたりまえのように、説くでもなく、独り言みたいに、でもはっきりとすばやく言う。ぜんぜん押し付けがましくなく、かといって聞かせないわけでもない。この塩梅とてもすきだった。

そんで瀬戸氏。

『どうして』という開口一番からもうよかった。テキストは解かれ、「どうして」のせりふのその以前の心性が空間に放られたようだった。ほんとに「口をついて出る」のが普段の言葉だ。祈りが通じてしまった、そのあとはもう、それは祈りではなく、縋るだけの幻想になってしまう。

〈ジョバンニ/りく〉は、〈カムパネルラ/けんじ〉の居た(もう居ない)椅子を見る。不在を思う、ということは、存在を強烈に思う、ということだ。

読み返して、念じては、だれも居ない椅子に目をやる。

この「祈り」の、正気な狂気がいたく哀しい。『屍者の帝国』でワトソンはフライデーを屍体のまま生かしたが、なんかそういう、信仰と化学が同一になってしまうような。

ただ瀬戸氏のジョバンニは同化していない。それが妄想のごっこ遊びだとあきらかに分かっていて、こうして物語のなかにいるうちはあいつがいるんだよ、ということも自分で言ってのける。だが、口だけだ。わかってるよ、と言いながら、受け入れ切れてはいなくて、むしゃくしゃしてる。

〈先生〉は「銀河鉄道に乗るか」「降りるか」の2択を出す(〈車掌〉は不在の椅子:けんじに向かってだけ、明確にアナウンスをしている)。そしてさいごには、りくに「君は降りなさい」と言う。
いまのりくはけんじが死んだことを受け入れず、死んだ者にこだわって、自分の生きている世界に戻れなくなっている。
けどりくは、結局は、どちらも選んだ。銀河鉄道に乗り、けんじに会いに行き、彼に向き合うことになる。

別れを言うときには、会える。

幻想第四次の邂逅のなかで、りくは孤独やさびしさを受け止めていく。

けんじとの偶然の出会いに巻き戻されて巻き込まれて、時間軸は混ざってく。このへんからりくはストーリーテラーを降りて、なんていうか、お母さんへ牛乳を届けにいくほうの彼になる。客は彼を遠くから眺めることになり、望遠鏡を逆さにしてみたような、全体から一点を見守るやさしさのようなものを持つ。わかりながら、わからないふりをしているのか、過去の記憶を眺めているのか、これがりくの見たかった夢なのか、いずれにしても。もうけんじはいない。

さんざん戯れ合って「また明日」で別れたあと、カットがかかる。

さっきまでの青春群像を、茶化すように、笑い合いながら、幻想第四次でふたたび会う2人。ひとつずつ、競り合うように、互いの分野のひとつひとつを指していく。そのひとつひとつは、その文字とは、違う言葉だ。デネブ。どうして。ベガ。行かないで。アルタイル。いやだよ。レグルス。さようなら。

けんじが死の間際に見た、ゴブリンシャークの群れ。そしてマリンスノウ。星空みたいで、奇麗だった。その死の手前、自分のあたえた記憶がそこで再生されたこと。彼の死が、全て苦しみに覆われていたわけではなかったこと。嘘でも、そう思えた。そう思いたい。ロマンチックう、そう呟くりくの喉が泣いている。

おまえ、そこにいるんだろ。

潜って潜り切った深海の、つめたく暗い底に立つ、りくのせりふだ。

羨ましいよ。おれだって見たいよ。

おまえのほうが羨ましいよ。ベテルギウスの超新星爆発。見たかったな。

ざまあみろ。

そのせりふの、気が遠くなるような裏腹さ。

けんじのひとことずつに、目をみはって、まばたきを忘れて、なにも言えずにいる。微笑むすぐ手前のような、それでいていまにも泣き出しそうな、片眉だけすこし下がったあの表情。

引き裂かれるようだ。幻想と現実のあいだにあぶなく立ち、それでも、それでも、と本をひらく彼の、どんどん少年のようになっていく、柔らかくて、ひどく繊細で、薄皮一枚下にふれているような、掻痒感すらあるようなあどけなさ。つよくてよわい。彼の飄然としたような佇まい、その奥にある、ふだんは羊歯で見えない、彼の暗がり。そういうことを思ってしまう。なんて無防備なんだろう。
なんだかいつも彼が舞台でひかるとき、その身体はとてもよわく見える。いや、肉体的にじゃなくて。目(は視覚なんだけど)の触覚が、彼の纏う感情に、ぐぐ、と入り込んでしまう。だからいつもつられる。観ていて、おなじような顔になる。おなじような喉になる。呼吸になる。それは感情移入でも共感でもない。なんだろう、ブラインドマラソンで、伴走者とランナーが一緒に持って走るロープがあるんだけど、それみたいだって思う。
感覚が感覚のまま伝わってくる。言葉は架け橋じゃない。作品は媒体じゃない。わたしたちが普段会話をしているときのあれがそのまま。瀬戸氏は「ほんとうに」それを言っている。いま、いま、いま、自分の裡からつねにあたらしく出た声として。

けんじはもういない。
でも別れを言いにきたから、ちゃんと会えた。

汽笛を遠く聴く。本をみずから閉じる。胸のまえで、ぱたん、と、手を合わせるように。それは祈りの姿にも似て、銀河鉄道を見送るりくのすがたに喉が詰まった。




余談だが、〈先生〉が言う「救い」を宮沢賢治が描こうとしていたとは私は思わない。彼が描こうとしていたのは、きっと祈りそのものだ。ほんとうに、誰しもの祈りを、どうか、どうかと、決して自己犠牲が先にあるわけではなく、だれかのために、自分の寿命をあげたっていい、そう思うことがわりとあるけど、そういう敬虔で痛切な感情のことを書きたかったのだと思う。

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

農民芸術概論綱要/宮沢賢治

それは『深海のカンパネルラ』でも言及される〝蠍の火〟のことだ。なにを尽くしても、身を灼くことでしか贖えないような、どうしようもなさみたいなものがある。生きていく苦しさだ。言葉を尽くして書こうとしたが、結局言葉がみつからない。「慟哭させる」ということでしか、ジョバンニの感情を表せない。
慟哭は、フェリーニ『道』テオ・アンゲロプロス『エレニの旅』(ちなみに同監督の『永遠と一日』では銀河鉄道の夜のような描写がある)、東野圭吾『容疑者Xの献身』ヤマシタトモコ『違国日記』とかにもあった。慟哭でないものもあるが、泣くことでしか、あらわせない感情について書いてある。宮沢賢治でいえば『注文の多い料理店』でも「二人は泣いて泣いて泣いて泣いて泣きました」という表現がある。

透き通るほど淡い夜に
あなたの夢がひとつ叶って
歓声と拍手の中に
誰かの悲鳴が隠れている

back number『水平線』

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。そのどうしようもない感情のために、ものを書いていた、というような気がする。業を変換して、昇華する。かなしみはちからに、欲(ほ)りはいつくしみに、いかりは 智慧にみちびかるべし。つまり魂の営為だ。やむにやまれぬ激情が、そうさせる。瀬戸祐介の芝居に、ときどきそれを感じる。それをみて私はいつも蠍の火になって、たくさん言葉を尽くしてしまう。

投稿者:

solaris496

(@so_lar_is)

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