『シャイニングモンスター 2nd Step 〜てんげんつう〜』を観た




なんかもはやもう特筆することがあんまりない、もう手放しに「おもしろい!!!」って言える舞台だった。言うことなし。全部通いたかった…。高級料亭のコースではまったくないんだけど日常的に超通ってしまううまい定食屋みたいな舞台だったよ。
いつも舞台みたあとはTwitterの感想まとめて幻覚ポエムを語るんだけどそれがもう野暮というか、一周まわってきた人たちのカラッとした舞台だったのでもうなんかそんな必要ない。感想は演算子でツイッター検索(@so_lar_is since:2022-07-30 until:2022-08-06(あたり))でいいかなっていう。

まあ何個か自分用に引用しとく。あとはニッキ氏の演出について語るのみのブログです。

あと以下は舞台そのものの感想ではないけど制作のツイッター、たぶん抗原検査とか毎日してんだろね、そういう意味で書かれるんだけどああいう笑える舞台だったからなんか情勢とのあれで毎回泣けたげんきなツイートです

『みんな元気です!』
『全員元気です!』

みんな毎日撃沈で声出なくなるレベルの爆笑してたから免疫爆上がりしてたんじゃないかなと思います

あとはやっぱりなんか泣けた千秋楽後の瀬戸氏のツイート

『このご時世、毎日色々なことに怯えながら生きていたので、
唯一本当の自分になれるのは舞台上だけでした』






はい。それでは特筆すべき錦織一清氏の演出について語っていきますが。

ニッキ、やっぱりこの人は「わかっている」。演劇のなんたるか、エンターテインメントのなんたるか。ジャニーズっていう商業主義最前線をずっと走ってきたひとの、ショービジネスの世界のなかで生きてきたひとの最適解。

観客はもちろん女性が多い(観客の大多数が一般的なセクシュアリティを持っているとすれば)。そのNLベースの観劇をどうデザインすれば需要に応えうるか、というのをほんとうにわかっている。歌あり、ダンスあり、参加タイムあり、役者はぜったいに「かっこいい」ことを魅せたほうがいい、という要素をかんじるし、そしてやっぱ芝居もきちっと見せる。なにより、演劇を知っている。

筆者は「若だんなと屏風のぞき」「若だんなと仁吉」のシーンの置き方でそれを感じまくった。

「対照的」な2人(屏風のぞき/仁吉)を「同じ画」(中央ベンチで若だんなが下手寄りに座る)で見せる。場が記号的につかわれている。同じ画であることで、ここで起きたこと、ここで起きていることを観客は同時に想起する。

屏風のぞきにたいして若だんなは本音を吐露してしまう。屏風のぞきは若だんなをロングショットで(お腹の中にいる頃から)見ているから、若だんなを気にかけはするけれども人間にたいする「信頼」によって手放す。
それは劇中のせりふでも語られる。若だんなももう子供じゃないから、身体は万全でなくともすこしくらい仕事をさせてやったって良い。てんげんつうを今懲らしめなくとも、話くらい聞いてやったらいい。「目ん玉がそのへん転がったりしたら、若だんなが気絶しちまうぜ」。べつにこのせりふは言葉面はなにもいっていない。でも観たひとはわかると思う。直接言わずとも、それは愛だった。ぜんぶを守り切れるはずという信用ではない、抱えているだろう隠し立てを悟っていながらそっと見ぬふりをできるという、途方に暮れるような信頼のうえに立つ愛だった。

仁吉は若だんなを守りたい。「ずっとお傍におります」、それは屏風のぞきと同様の愛ではある。けれど、どこへでも勤められるはずなのにもっといい奉公先がありつつもここにいる、という、そこにあるのは〝情〟だと思う。恩とか、いろいろあるのかもしれないけど、やっぱりそれはエゴも混じった愛だ。でもこれが仁吉の〝御大切〟だ。どちらかといえば「愛」というより「恋」に近い。若だんなに「本当は何を訊こうとしたんですか」、ときいて、その答えに絶句する。仁吉は若だんなを守りたい気持ちがありすぎるゆえに、リスクは取れないんだ、という。たとえば無理をさせずに休ませる、は安全な信用ではあっても信頼ではない。過保護は親のためであり子供のためではないように。
屏風のぞきは若だんなが若だんなの道を選ぶ、ということを傍からあくまで「のぞいて」いるけれども、仁吉はどうしたって手を出したくなるし、口も出してしまう。でも結局は「かならずお守りいたします」という仁吉の信念が、若だんなの一歩後ろから守る、という道を選ばせるんだろう。

というわけであの場の見せ方はこの2人の若だんなにたいする〝御大切〟の対比がかなり効いていてよかったという具体例です。

ニッキは芸術としての演劇と、ビジネスとしてのショーの両方の手綱をつねに握ってる。脚本を舞台に立ち上げたときにはじめてあらわれるもの、役者の魅力を最大限引き出せるための口立てで整えなおしたせりふ、芝居を魅せるための効果的な演出。すべてが行き届いていて、ファンが「見たい」と思う姿を舞台の上に載せてくれる。それはやっぱりニッキ氏がアイドルをやるうえで身につけたバランス感覚であるのだろうなあとおもう。

だって『星屑のスパンコール』なんて曲を歌ってきたアイドルだもん。こんなのアイドルに与えていい言葉なのかよ、と思いつつアイドルにしか歌えないような曲だ。
もちろんその作詞はニッキ氏がしたわけでもないけれど、こういう言葉を彼らに委託してファンに夢を見させてしまうという構図が、ああいう商売にはある。だけどそれを引き受けたうえで、その夢をほんとうにファンに見させる。そういうことをやってきた人だから、こういう舞台がつくれるんだと思う。

開演ベル 光の渦の中で
知らない間に 君を探してる僕さ

星屑のスパンコール/少年隊

筆者がニッキ氏の演出をはじめて見たのは2014年の 『出発』だ。これを観たことで、演劇の見方をひとつ知ったみたいなところがある。

そうか、と当時思ったのは、主人公・一郎の嫁、明子がキャリーケースを引いて家を出ようとする場面。明子が、「この一家はみんな優しくていい人たちなんだけどやっぱり私お母さんになれそうにない」と言って泣いている。そこで主人公・一郎は「俺はスーパーマンだったんだ!」って明子を笑わせようとする。「笑え!笑えって、笑っていれば大抵の事は乗り越えられるんだ!」。

ここまではあきらかすぎる荒唐無稽さに、筆者はなかば笑いながらこの場面を見ていた。でも、一郎の言葉や姿をみているうちに、自分の頬がだんだん下がっていくのがわかる。

「な?飛べるんだよ!俺飛んだことあるんだから、あれおかしいな?」。一郎は言葉通り飛ぼうとする。けれど飛べるはずがない。これはべつに異能力系でもなんでもない、ただの人間がただの人間として生きている、つかこうへいの作品だ。「受け止めてやるから、お前の故郷も、お前が生きて来た歴史も、お前が何に痛んでいたのかも受け止めてやるからさらけ出せって。笑ってればいいわけよ、その笑顔を家族のきずなって言うわけ!」

それでも明子は笑わない。「その優しさが怖かったの。好きになるほど、怖くてしかたなかったの。母に捨てられて人を疑う癖がついてるのに、こんな優しく家族に受け入れられて、こんなに幸せでいいのかなって怖くて仕方がなかった。」

一郎は手放しで、そんなの関係ない、家族になればいいじゃないって歓迎してくれる。 でも明子はそんなのいいのかな、って思う。

「どうして飛べないんだろう、こんなに愛しているのに」。

「あなたの優しさが怖かった」。

一郎はどれだけ明子のことを愛していても、飛べることはない。
愛があっても、不可能なことは不可能なまま。

この場面の喜劇と悲劇の反転よ。演劇というのはこういうことができるんですね。叙事をひたすら一次情報として描いていく。叙情は観客の胸の裡にうまれる。言葉は確かではない。姿は確かではない。目に見えていない、耳に聞こえていない、形のないものに意味は宿っている。

だから屏風のぞきのせりふ「目ん玉がそのへん転がったりしたら〜」とかは、言葉以外の意味が豊穣だ。このせりふは、仁吉と佐助は若だんなのためだったらその手を止めてくれるだろう、というふたりの〝御大切〟を突いているし、若だんながてんげんつうの話を訊こうとしている、若だんなの〝御大切〟を汲んでいる。せりふそのものではない、ダイアログとして、それぞれのキャラクターの背景や文脈をとった、物語をきちんと90分辿らないと意味をもたない、演劇として語られる甲斐のある言葉になっている。

まあこれは本のうまさであって演出のうまさだけのことでは決してないと思うんだけど、やっぱり演出家の、脚本家の、演者たちの観客への信頼があるからできることだとおもう。いまはなんでも二次情報がないと見れないひとが増えてる。演劇でもわりと説明しまくってしまうものがあったり、ネタ番組でさえワイプのツッコミがあったりな(千鳥のクセスゴとか)。

だからシャイモン、浅草で、大衆小屋にいるような気持ちになり、「みんなの」「日本人の」「エンターテインメント」ってこれだよな、って思って、ものすごくしみじみとよかった。演劇は「芸術」でありつつも、「芸能」でもある。硬派な舞台もたしかにいいけど、そういうのは1回みたらもうその1回を後生大切にしまっとく、みたいになりがちだ。でもニッキ氏はやっぱりつかこうへいに演劇を仕込まれた人間で、70年代の初頭に演劇論とは無縁のエンターテインメントをやってきた演出家の血を確実に引いている。演劇論と無縁、というのは、つかこうへいがそれをそうと描かなかっただけで、じつはそれは戦略だったんだけど。劇構造にはずっと悪意の笑いがあった。あの喜悲劇の反転のように。ああいった狂騒のなかで、ほんとうは人間にたいするシニカルな目線がそこにある。荒唐無稽にみえて、骨はしっかり太い。それはシャイモンにもやっぱり引かれていた、見事な逆説だ。

でもニッキ氏にその悪意は引き継がれていない。死ぬほどエンターテインメントをみてきたひとの、やってきたひとの思いがそこにある。生の舞台をやるということがどういうことか、その意味が、甲斐がある。演者がまず楽しむ。それを見てお客さんも楽しい。いろんな意味での「赦し」が劇場に満ちていて、それは他ならない〝御大切〟だったなあ。

そういう感慨をかかえて、夜、閉園後の遊園地を通り抜け、劇場を出た。人もまばらな浅草で、手を合わす人々を横目に観ながらかんがえる。一度形骸と化したあの町の、でもいまもある、じぶんがうまれてくるまえからの長い時間を参照せざるをえない人間への包容力みたいなもの。そしてあの劇場に満ちていた、あの作品にあった、妖、付喪神、人間のなかにある〝おばけ〟。そして娑婆気。目に見えないのに、たしかにある。そういうもののことをじんわり想った。

投稿者:

solaris496

(@so_lar_is)

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