薔薇ステ脳直感想



ネタバレしか含まない薔薇ステ感想です。わりとツイに書いてたことをまとめたやつ。配信という文明のリキがあるにもかかわらずいまのところ記憶だけで書いてるので間違いいっぱいあるとおもう…。

以下舞台全体の感想と、キャスト別感想です。
(個々の分量がめっちゃちがうんだけど、よかった、ってときってもうなんも言うことないよね!みたいな感じの役者もいっぱいいる。なんか立ち止まったり、違和をかんじたりするときのほうがいろいろ考えてしまうよな…っていうことをふまえておよみください)

🌹舞台のかんそう

まずなんかテーマどうこうとかじゃなく、設定が、史実が、動機が、そんなことでもなく、もちろん説明はするけれども、人の行為を、人が(時代の呪縛である)神に翻弄されている状況を描いていたのでよかった。

演出家の松崎氏が観客を信頼していること、演劇を信用していることがわかる。物語を語ること、観客にわからせること、を優先しない。容赦なく物語を進めていき、人の営為を見せていくことで客はついてくる。そういう上演だった。

ゲネのインタビュとかで両性具有ってだけで現代的なテーマも…みたいな話を記者とかがよく出してたけどなんかぜんぜんちがう。両性具有っていうのは「悪魔だよ」のポーズでしかないというか、リチャードが翻弄されるための装置でしかない。その設定じたいはべつに物語を推進しない。マクガフィンは王冠だと思うし 、「魂と信念」そして「愛と欲望」がキーワードだ。自分にとっては。
「魂と信念」のひとたちは安定しており、「愛と欲望」のひとたちは不安定である。前者は一方的、後者は相互的でないと成立しないので結局「自ら選び取る」ができない人間は孤独になる。自ら選び取れないとは神のせいである。時代の呪縛としての神。エドワードは自ら選び取ったようにも見えるけれど、エリザベスも結局ほんとうの偶然の出会いではないし、神に「選ばされている」(エリザベスは夫を殺されて復讐のためにエドワードのまえにあらわれた)。
「魂と信念」のひとたちは、ヨーク公の不在によってそれがまた「愛と欲望」フェーズに戻ってしまう。ウォリックが顕著。ヨーク公の不在に向き合おうとはするものの、結局一方通行のやり方で「魂と信念」をやろうとするから結末は悲劇になるという。

観ているあいだずっと、泣きたい、というきもちが胸のなかにあった。悲しい、とも、苦しい、とも違う、(ああ、このひとはこうなるんだな、こうしかならないな)という、諦観にも安堵にも似た泣きたさ。自分が呪われていることを知りながら、あるいは自分がいつのまにか呪縛されてしまった(信念や約束が呪いに変わる)ことを知らないまま、その過程を通り抜けるしかない(死ぬとわかっていて戦に出るとか、相手が愛した人だとしても殺さなければならないとか)その信念、みたいなものに胸を打たれて、ずっと泣きたかった。『君のために祈りたい』。ぜんぶのキャラクターにほんとにそう思いながら、祈りながらも、この祈りは叶わないと分かっている、そういう痛みをずっと感じていた。

薔薇ステでいちばん心が震えるのは一幕終わり手前の薔薇が降るところ、いちばん胸にくるのはウォリックがヨーク公の幻影をみながらたたかうあの眼、泣けたのはマーガレットが子を庇う気高さ、寄り添ってしまうのはヘンリーのやさしいこころ。

一幕ラストの、音楽と、照明の明るさと、薔薇が降るという画だけでぐわーっとなる。ていうか舞台においてなんか降ってくるやつ好きすぎる。筆者がみたなかでは歌舞伎『花魁草』のやつが史上最大にきれいだったけどあの息を呑むような静謐さとはまた違う、深すぎる溜息が出るような光景だった。舞台装置が回転して中央にうねるエネルギーみたいなもの、それとあいまって圧巻の景色を生み出していたとおもう。幕がおりて、タイトルが出て、いや改めて『薔薇王の葬列』っていうタイトルすごいな、と思った一幕のおわりだった。

松崎氏の演出はやっぱりめっちゃいい。まず場を記号としてきちんと使うじゃんか。いや勝手に自分がそう感じただけかもだけども。上手下手の舞台作法はもちろんのこと、たとえばウォリックの忠誠を誓う図であれば場は違えど画としては同じじゃん、ひざまづいて手の甲にキスするという。あれは劇中に3回あるんだけど、①ヨーク公へ②エドワードへ③マーガレットへ。③だけ向きが違うんですね、①と②はおなじであることに加えて、演劇という生の時間をかけて順番に辿っていかないといけないツールをめっちゃちゃんとした意味で使っている。物語を辿ってきた観客は、②のときに①とおなじ構図であることで①の場面を思い出す。つまり①ヨークに②エドワードが代入される。この哀しい代替……。公がもういない、ということを尚感じさせられてめちゃめちゃよかった。いやよくはないんだけど胸にきた、というはなしです。

あと距離と触れ方。それで人の関係値がわかるなあって思った。それは〝演劇〟にほかならないよなあ。わりとキス(してないが)だったりハグだったり、肩に触れたりとかも薔薇ステは多いんだけど、若月氏(リチャード)がインタビュで言ってた「父上に駆け寄る動機」みたいなものが誰と誰の関係においても丁寧に施されているように思った。

ただ一個だけ、これも自分が幻覚見過ぎがちなヲタクなだけだとは思うんだけども、演出について、モノにたいするアンテナがちょっと弱い。演劇におけるモノは記号として記憶が宿る。
そこでだよ、ウォリックが殺されるシーン、そのあとアンちゃんがマーガレットに「息子(エドワード王太子)を頼む」と言われて戦に出るシーン。原作ではみんな絵で描かれるのは鎧だからわかる、で、ウォリックを殺す人間は作劇上の都合で「謎の者」として甲冑(頭)を被らせるのはいい。だが、そのあとにすぐエドワード王太子に扮するアンちゃんに同じ(たぶん)甲冑を被らせるのはなんかアレ?って感じだった。他の人も甲冑被ってんならいいけども。いやいろんな都合があるとは思うよ?だがどっちも甲冑ってのはなあ。アンちゃんは顔だけ隠すために、そして戦場に出たという記号としても甲冑がほしい、だとすれば、ウォリックを殺す謎の者(バッキンガム)は、んーなんだろ、なんか印象に残るようにして、(カテコ挨拶後のシーンで観客があいつだ!ってピンと来なければならない)白薔薇の刺繍的なものを入れたマント着させて後ろ姿にしとく、とかでいいんじゃないすかね。わかんないけど。とにかく記号が重複するのはよくないと思ったぞ。ウォリックとアンちゃんは父と娘なわけで、関係性をいちばん勘繰りたくない部分だし。エドワード王太子に扮して死ぬ覚悟で戦に出てくれたアンちゃんの勇姿を気持ちよくかっこよく見せないといけない場面だから尚更だ。



あと他にすきなシーンを挙げていく。

ヨーク勝利という場。ここのシーンのやわらかさすきなんだよなあ。明るい照明たいてるだけのシーン。冬の日の朝っぽい。

リチャードとヘンリーが出会ってしまうところ。『僕はこの国の王だ』こんなに空虚なせりふがあるだろうか。表明ではなく絶望として言われる、茫漠、って感じの言葉だった。
またここをケイツビーが見てる、というのがこれまたすきだ。出会ってしまう場を見てる人(ケイツビー)を見る(観客)ことでそのシーンは後景化する。メッセージの伝わり方が変わる。没入しすぎてるとシリアスに痛切に見えるものが、ケイツビーを通すことで、すこし愚かさとか、諦めとか、ちょっと人間の業を省みるくらいまでは引いて見えてくるっていうか。ヘンリーとリチャードだけのぐるぐる閉じてった円環が、ケイツビーの存在によってひらかれる。(ああ、出会ってしまった)ていうのが、(ああ、時代に翻弄されているな)ってなるっていうか。

あとラストのジャンヌ。君、祈ってくれてたのか……。あろうことか配信のカメラが抜いてくれて気づいた。たぶんこれは青年館ホールの半分より後ろの席でないと気づきづらいんじゃないだろうか。でも気づかないくらいに置かれることで、逆に祈りってこういうものだよな、救いってこういうものだよな、とも思う。気づく人だけは救われる。救済の意味が残酷に描かれている、と捉えることもできるかもしれない。ルイス・ブニュエルの『銀河』を思い出す。

あとはやっぱりラストが好きだ。音楽がいい。起こってる事の少なさがいい。エレキが歪み始めて、シンセだけ不安定に半音震えながら響いて、始まりながら終わってくみたいだ。暗転後にはピアノだけ一滴ずつおちるみたいになって、『薔薇王の葬列』とタイトルが出る。ここがまあ〜〜〜きれいなんだ……。投影で、金色のひかりが闇を通り抜けて朗々と水面みたいに、波の刺繍みたいになって余韻を残す。あれは生でないとわからない奇麗さだ。あのさいご射してくる光をみるために劇場に行ってすらいいと思える美しさだった。

あとはもうきりがないのでキャストのはなししながら思い出したら書いていきます。


🌹キャストのかんそう

・リチャード

若月氏と有馬氏の差異についても語りたいので分けずに一緒に語ります。

若リチャは少年、有リチャは青年、という感じがした。若リチャだとシェイクスピアだ!ってかんじがしたね。外へのエネルギーがクリアに、でも型としてはノイジーに出る。有リチャは内へのエネルギーなんだけど、内面がノイジーで、型はクリア。この違いがまあめちゃめちゃ面白(interest)かった。

若リチャはド攻め様だったし有リチャはド受けちゃんだった、って言ったら語弊あるけど、属性としてね?いやでもアンちゃんとのとこの若リチャは他ならぬド攻めだったな……。アンちゃんが、あなたは他の人と違う、って言ってしまったのごめんなさい、って言ったときのさあ、『忘れました』の言い方よ…。あはは、ってちょっとやれやれめに笑ってから『わすれまし、た…♡」っていう弄ぶ感。わたくしのことももてあそんでくれ。そのあともアンの脚をお気遣いするリチャ、若リチャはやはり手つきが自然だった。女の子に触れ、「スカートを捲る」よりも「傷を探す」というモーション。アンを座らせるときのアシストと目線もド攻め様だったなあ。アイドルってみんなこんなもれなくおそろしい子なんですか?おしえてくれ…いややっぱいいや…こわいよお…。

若リチャのほうが意識が灯っていて、有リチャのが自我がある。若リチャは世界の広さとか真実のことまだ知らずに「今」にいる感じ。有リチャは知ったような顔ですべて諦め切って「果て」にいる感じがする。どっちもすごくいい。こんなに違うのに。

有リチャはなんていうか、人あらざるもの、みたいな出力だったなあ。父上に戦えと囁くところとか、若リチャとぜんぜん違った。わりと有リチャの内向エネルギーというか「籠ってる」感じ、神経性の痛みばかりな感じのとこすきだなあと思いながら見てたんだけど、やっぱ身体が男性だからそう見てしまうんだろうか。だって身体はやっぱ男だから、肉体を呪う必要がない。父上が「俺」を「息子だ」と言った、んだもん。などということを思い、自分の目線を残酷だなって感じたよ。ごめんね、リチャード。

有リチャは怒りが身体まで灯ってない。頭の中だけでぐつぐつ、ぐるぐるしている感。若リチャは全身で震えるみたいに怒っている。

だから『涙などいらぬ』のあとの『〜焼き尽くす』までを一息でいく有リチャがよかった。身体が物理的に追い詰められるのが心理とリンクする。神経性の痛みが、肉体まで広がっていく、実感が伴っていく。ずっとずっと内に籠ってた感情がここで堰を切って爆発するように見えた。父上の亡骸を携えて剣を振るうとき、自失している、と思う。殺しきって、その濁流みたいな感情が止んできて、心がもう充電1%みたいになったとき、そこから仰ぐぎらぎらした照明、尚も降っている薔薇、の上にばたーんと倒れる感じ。ものすごくかっこよかった。

あと気になったせりふの差異。せりふの聞こえ方マジで超違っててほんとにほんとに楽しかった。

『俺の光はこれじゃない』、若リチャは「俺詳〜♪」て感じでこれはこれでいいなあ 有リチャは(あ、違うや……これじゃないわ……)の内向感情。

『口に出すのも嫌な名だ』については舞台/アニメでの違いが面白かった。若リチャも有リチャもジャンヌに図星〜!されてハ!ちげえし!そんなんじゃねえし!のベクトルで発話されてるけど、アニメだとわりとツンデレの「嫌な名なのに……なぜこんな気持ちに……」みたいな感じで、これが自分としてはしっくりくる。でもあの流れでリチャードの気持ちでいたら怒るベクトルになっちゃうと思う。ツンデレベクトルにするにはやっぱ「夢が覚める」みたいな、ハッ!ていう異世界から戻ってきた安堵、あと1人でいること、が必要かなあ。ジャンヌがまだそこにいて、ヘンリーもそこにいて、それだと照れ隠しみたいにしておまえなんかすきじゃねーし!みたいに言っちゃうよ。何より自分のことを戒めるために。これが芝居だなあと思いものすごくたのしかった。

あと身体について。若リチャの身体性はだらっ、と脱力がみえて、男の子だ、という気がする。有リチャの身体性は、とにかく重心が高めで、身体が閉じている。このからだの差異がけっこう影響して、異なるリチャード像を板のうえに出現させていたと思う。殺陣とかいうことでなくてね。佇まいとして。でも若リチャのゆっくり殺陣は痛そうでえっちだったなあ

薔薇の扱い方は有リチャのが好みだった。白薔薇はやっぱヨークの象徴なわけで、繊細に、ほぼ触れないくらいのきもちで扱うのが最適解だと思う。

さいごのほう、ヘンリーが自分の母のことを独白するシーン。
ここが若リチャだとものすごくものすごく切なかった。
『僕の母は悪魔だった』、そう訥々と独白するヘンリーを見ている、若リチャのみずみずしい表情よ。ピュアに聴いている。目線がうつくしい。言葉を聴いて、入ってきたその言葉に心が揺れていることが分かる。ヘンリーの空っぽな身体の感じもあいまって、なんて虚ろで澄んだシーンなんだろうと思う。
ていうかここのシーンのリチャードとヘンリーの距離感もぜんぜん違うことで関係値も違く見えてよかった。内面の表出としてのからだがある。若リチャは当事者、有リチャは傍観者として聴いてた。
『でも恐れているのは女性じゃない、欲望だ』その言葉から動揺し始める若リチャ。心は通っていないのに、ヘンリーに言われる『君は僕の天使』というせりふが、若リチャだと救いじゃなく、とどめに聴こえた。違うんだ、神様、違うんだ、っていう感じ。秘密と欲望を抱えたリチャードの身体の苦しみが見えるような気がして、切なかった。
『俺は女じゃない、それなのに、俺はヘンリーを、愛してる』のせりふも、若リチャはヘンリーに刺すように言う。そうすることで、「愛してしまった、こんなにも愛しているのに、告げても、聴こえない、届かない」様に見える。
 若リチャの「愛してしまった」という切なさにたいして、有リチャは「異性じゃなくても、愛せるんだ」という希望に聴こえる。
だからヘンリーの『君は僕の天使』というせりふは、若リチャには「遠景から被さってくる呪い」だったのに対して、有リチャには「前景として射してくる光」のように聴こえる。なんでこんなにもちがうんだろう?感動する。しかも和田氏(ヘンリー)と若月氏(リチャード)の男女コンビでやったほうが禁忌っぽい関係になるのはすごく不思議。いやわかるけどね。よくない言い方するけど、冗談で済むかどうかっていうか。

あとラスト。『おれは大丈夫だ おれとおまえは、大丈夫だ』。若月氏の「ヘンリー、」と呼ぶ声は語尾が上がっていて、呼びかけではなくて、応答を求める、そういう切ない希求を含んだ、でも「どうか」っていうつよい祈りを含んだ声だった。

ほんとうのラスト(ラストいっぱいある)で、『黙れ!』でヘンリーを既に投げ飛ばす有リチャと、しばらく喋ってから投げ飛ばす若リチャ。振り払う動機が『黙れ』の時点で身体にあるかどうかっていう、ほんとうに芝居がみえる作品と役者が揃っていて3時間ずっとずっと嬉しかった。有リチャ、初日あたりだとヘンリーに跨ったままナイフを振り下ろしていたから、幻覚見まくりヲタクである自分は(自死したのかな、)とすら思っていた。ヘンリーを刺したのか、自分を刺したのか。そのマスキングを暗転でかけていたのがすごく好きだった。
でも有リチャ、大楽ではラスト立ってナイフを振り下ろした。立ち上がってから。若リチャは跨ることなくって感じだったけど、膝ついてた回もあったりするのかなあ?

一旦暗転してからのラストの「画をみせる」みたいなとこもまたすごい。
ここのラストのリチャードの立ち姿が有リチャと若リチャでぜんぜん違う。
有リチャは「画」だった。すこしだけ振り返るような立ち姿で、その停泊した空間にはらはらと降る薔薇の印象がつよかった。
でも若リチャは「感情」だった。肩でおおきく呼吸をしていて、手が剣先まで震えていて、その切っ先にあたる赤い照明がすごく印象的だった。
2人ともただ立っているだけなのにね。こんなにも違うのがほんとにうれしかった。


・ヘンリー

アニメのヘンリーとはまったくちがうんだけど筆者はものすごく和田ヘンリーがすきだった。こんなに奇麗なひとがいていいのか?という奇麗さだった。美術館来ちまったのかと思ったもん。落ち着いた佇まい、輪郭の淡い声。あたたかいのに、青い、というかんじがした。

すきなせりふありすぎ。「君がおいで」「傷ついていないなら、どうして泣いているの?」「捨てられ〝ている〟」「自由が敗北によって手に入るなんて」「好きな色は?好きな食べ物は?」「約束」「それでも」「君に会いたいよ」。王のせりふとは思えないせりふ。優しくて大好きだった。

和田氏、身体の扱い方が丁寧だ。直接触れないところも、たとえば手のひらで人を示す、とかいう触覚を延長するような所作のところまでひとつも雑じゃない。手からうまれる印象がとても硬派。誠実な手だとおもった。
また人に触れられているときの身体のフラットさのわりに物質感すごくなるのが印象的だった。彫刻みてるときみたいだったなあ……ほんとにきれいだった。

あとリチャードとの芝居がきちんと「反応」として違うことがうれしかった。有リチャとの芝居の方が「ひらいている」気がする。たぶん有リチャが閉じているから、その心を開きたいみたいな感じが作用してエネルギーがちょっと相手まで潜ろうとする。若リチャは闇を抱えつつもわりとオープンマインドだから、ヘンリーも歩み寄るというよりはただそこに「居る」。相手に潜ろうとするよりも、相手と自分との一線は保ちながらする駆け引きみたいなものがちょっとみえるような気がした。
有リチャとのやわらかいヘンリー、自分はなんとなくこっちのほうがすきだった。柔らかいところ曝け出しすぎてちょっと自棄にすらなってるくらいの感じがあって、ヘンリーの闇もまたけっこう深いという見え方になる気がしてとてもよかった。

さいご、独白のシーン。2人だけ取り残された世界みたいだった。ほんとうに。雷鳴も響いているのに、その音はすごく遠い。稲光からフラッシュバックする悪魔たる母の幻影はもう「思い出されるもの」ではなく、「いまここ」を覆っている闇そのものだ。雷鳴が聴こえるたびに、ヘンリーの昏いままの眼を見ては、ああ、ヘンリーはもうヘンリーじゃないんだ、と思った。切なかった。

ラスト。暗転してからの、手先にスポットがあたるとこ。わだくま氏のここの一瞬「灯る」ような手のことすごくすごくすきだった。灯るには激情すぎるような一瞬のエネルギー。それがまた凪いでいく様。きれいすぎた。

あと関係ないしそういうとこ見ててほんとうにもうしわけないんだけど配信実況ツイに『ヘンリーわりとちゃんとした肌色のインナー着てるな GUNZEですか?』って書いてあって笑った。グンゼかどうかはしらん。

・エドワード

稀有だと思うんですよ、たとえばアイドルとかを見て、ばっちり照れもなにもなく甘い言葉を吐いてウインクで星が飛ぶ、みたいなやつ。そういう、行き過ぎててもはや笑っちゃう、という存在には誰でもそうなれるわけではないよね。『配信のカメラ オーラでぶち破ってくる(君沢氏のツイッターより)』じゃないんだよ。ほんとセクシー枠をやらせたら天下一品。喜んで甘々な仕上がりにしてくれるじゃん。『君とこうしていると♡国のことも忘れてしまいそうだ♡』じゃねえんだよ、マジで。ほんとうに華があって最高です。この役者のサービス精神はほんとうにありがたいね……。

君沢氏のせりふ、覚えているものがすごく多かったし、ハッとすることが多かったんだけど、たとえばヨーク公が「もういない」、あの言葉もアニメより舞台上のほうが虚しく、でも熱く響いていた。

・ジョージ

なんかお写真とかみてる限りできれいめクール系のひとなのかなと思ってたんだけど、高本氏の持っている茶目っ気と抜けの良い明るさがめちゃめちゃにジョージだった。どっか残念キャラなんだけど憎みきれない感じのいい奴、に見えすぎる。もうなんかジャスト、ジャストだよ!って感じだった。いちばん人間味あって、いちばん(時代の呪霊としての)神から遠かった。フラットな思考ゆえに、板挟みになって壊れていくという。薔薇王の世界のなかではいちばん空回り感あるように見えてしまうんだけどやっぱりまともなんだよ。現代に生きてたら幸せだったんじゃないだろうか……まあみんなそうか……いやそうでもないか……。ただみんなで幸せでありたい、という願いを持ってる。彼がヘンリーと出会っていたらどうなってたかなあ、みたいなことを考える。

・ケイツビー

いちばんエモキャラ。みんなが自分にとっての信念にたいして殉教していくなかで、さいごまで、いちばん誠実に、踏み外してしまうことなく心を捧げてた。切ね……。

1幕ラストのケイツビーのモーション完璧だと思う。暗転前、リチャードを抱えてから立ち上がる、ってとこがギリ見えないんだよ。彼によって一幕の余韻は残るような気すらする。完璧な余韻……。

あとさいごの雨音だけのシーンもすき。『永遠に思いを伝えずに ただ傍に』。いつもリチャードのすこしうしろに静かに佇んで、思ってることはたぶん膨大なのに、なにひとつ語ることなく、リチャードを見守っているケイツビー。永遠に思いを伝えずに、ただ傍に。そのせりふが雨音のたびに自分のなかに波紋を立てて、反芻される様。その感じそのものだった。マジで切ね……。

・ウォリック

一幕終わり、筆者が幕間にしたツイートが以下。

『ウォリックはたしかに実直な奴だと思った 忠誠、そして殉教 捧げるとはこういうことだと思う まっすぐな信念 信頼というより、信念だったと思う でもそこには愛がある』

そして二幕終え、終演。

『せりふのうえで詩情が表面張力して心がぶるぶると震えた 魂をつかまえておく(※筆者注 ただしくは〝おさえておく〟)この言葉がずっと身体のなかに響いていた』

そしてその公演後、瀬戸さんがツイートしたのが以下。

『原作者の菅野さんがツイートされてましたが、エドワードとの魂と信念の対話は仲良しの君ちゃんとだからできた特別なシーンだと感じています!』

これさあ、「魂」はせりふで言われてたけど、「信念」だってよ。せりふでもしかしたら言ってたかもしんないけど、それがこんなにジャストに伝わることってあるんだろうか。

役者の投げるべき「的」は台本が完成した時点でだいたい正解があると思う。2.5でアニメ化とかしていればなおさらだ。けどその的に当てるフォームとか投げ方は誰一人として同じにはならないと思う。今回のWキャストとかまさにそうだ(リチャードは「的」すら違ってたのにどっちもものすごく正解でほんとにほんとに面白かったし感激した)。けど瀬戸氏のフォーム、すごくないですか。あそこに投げたいんだな、ってわかるってことじゃんか。だからこそ、これから話すようなことが起きる。キャラがキャラを裏切ることとはまた別に、役者が観客を裏切る、というか、観客の信頼が揺らぐ瞬間があったということ、でもそれはまっとうな揺らぎだったよ、ということを行ったり来たりしながらはなしていきますが。的はみえてる気がするのにぜんぜん捕まえられなくて、でも結局みえてた的で合ってたんじゃねえかよ!みたいな。コロコロPKかよみたいな。いや違うか。わかんないけど。

ウォリック、キャラ的には感情を表に出さないがちだとおもうんだけど、やっぱウォリックにとっての「王たる王」像はもうヨーク公しかいないんだ。まったく代替可能じゃない。「王たる自覚のない男(エドワード)」、「王たる資格のない男(ジョージ)」、そのどちらも、ヨークの血はひいているのに、やっぱ玉座に相応しくない。その息子たちの折に触れて絶望するたびに、やはりだめだ、これではだめだ、という苛つきとうんざり感が身振りとして出ていてすきだった。ヘンリーにたいしてもやっぱ「ああ、だめだ、王ではない」みたいな感じ。ウォリックにとって、いかにヨーク公が「王」の理想像だったのかと思う。そしてその「王」たる理想像が明確にありすぎることで、王の幻影を追いすぎる。これはキングメイカーの矜持だよ。だがそれも行きすぎるとやっぱり呪いになるという。ウォリックのカタいまでの実直さがやっぱ死を招いたよなあという腑落ちのあるキャラ造形だった。すごく人間の業を感じる。ヨークのことをずっと心に抱いていて、この人に玉座からの景色を見せたい、みたいな無垢な欲がある。
公の前で剣を右手に持ち替えるのも印象的だったなあ。いや作法として基本ではあるんだが。あんま2.5でやってる人見たことない。

あとエドワードとのあのシーン。エドワードが弱く、ウォリックが「私が立っていなければ」みたいな力のバランス感。ウォリックがエドワードを奮い立たせんとする気が見えた。君沢氏の狼狽は内向きの憔悴ではなくちゃんと縋るような外向きの慟哭で、瀬戸氏が毎回それをきちんと受けて、心が動いているんだなってのが見えた気がしている。
『貴方があの方の子なら』、ってあと、12日の公演かなあ?エドワードの手を取るその力強さが印象的だった。「手を取りキスで忠誠を誓う」図ではあるんだけど、それって捧げるように手を取るはずなんだよ。でもそうではなかった。一度ぐ、って握って、力強く託すみたいにした。その姿がすごくよかった。涙に暮れている暇はないよなって。

後半はけっこうヒールのような役割にも見えてしまいそうな立ち位置になる。裏切った、といわれるウォリック、だが裏切られた側でもあるよなという悲哀が滑稽にスライドしていくのは見事だった。なんかイマイチ締まんないな〜、みたいな戦の指揮、それはウォリック自身には「王たる資質」がないからに他ならない。だってウォリックが王たる資質を持っていたら「いや別にエドワードもジョージも差し置いてウォリックが国おさめたらよくね?」ってなるもんな。
けど、ウォリックが良いキャラすぎるから、なんでこうなった…の感じは滑稽とはいえども悲哀が消えるわけではない。ずっとそういう切なさを抱えながら、ウォリックが力(権威)を持っていくのをみてた。裏切るわけがない、と思いたい。堕ちるわけがない、と思いたい。でもあの聡明な慧眼をもつひとがそうなってしまったという事実は、やっぱいかに心の支柱がヨーク公だったか、いかにヨーク公を喪った代償がデカいのか、ということを裏づけてしまう。憧憬が執着に変わるのは最悪な恋をしているときみたいだよね。分かっていても別れられない。それもまた呪いになってしまった。

だから『死神のヴェールに目を覆われたか』『この世のどんな逆謀も看破し得たというのに』このエドワードのせりふに救われた。ウォリックが〝眼〟のひとだったなってことがわかるせりふだ。時代を見極めて、推し測る。見る人は主役にはなれない。我々観客のように。でも見る人がいないと世界は現れない。そのまなざしが永遠にうしなわれる。そういう「眼」が曇った、ということが言われ、ああ、そりゃダメだよなあ、ってここではじめて腑落ちできたというか。なんで自分が玉座にすわってしまったのか…そんな人では…みたいなのが、ここでもう納得というか、やっと諦めがついた。
この「諦めのつかなさ」みたいなのってみんな感じてたんじゃないかな、って思ったのは、アニメを見た時に『強くなったな(エドワードと剣を交えたときのせりふ)』がなかったからなんだよ。ああ、ウォリックというキャラクターに、こうあってほしい、みたいな創り手の祈りが見えた気がしてハッとした。

『忘れたかおまえに剣を教えたのが誰だったかを』のとこは舞台のがすきだった。アニメ伯は常にヨーク公に気持ちが向いてるけど、舞台伯は愛の対象がもうちょい広くて、ヨーク〝家〟を愛してる。ヨークの血を愛してる。『忘れたか』のこのせりふは、アニメは目の前のエドワードを挑発する感じがけっこうあったけど、舞台は嬉しそうにみえる。それは次の『強くなったな』のせりふが言われたときに確信になる。嬉しいんだな。昔のこと思い出して、ヨークのことも思い出してるんだな。心にずっとヨークがいるんだなって。切ねえ!だからあれは対敵としての決闘ではなくて、魂の交歓として交えた剣だった。演出よすぎるし、ウォリックがあのまま死んでくのは救いがなさすぎるから、幻影だとしてもヨークと共に戦場に居られたうえに、エドワードとも和解(まではしてないが)できたということがほんとうによかった。感謝した。

あとはもう、「最期」ですよ。瀬戸氏の表情。切羽詰まったあと、『魂をおさえておく』そうエドワードに言われて手を握られたときからあどけなくなる。ここアニメだとウォリックの幼少期にみたヨーク公への憧憬が回想としてさしこまれていて、ほんとにその頃に戻ったみたいにウォリックに心が微かにきらきらするのがわかる。配信の近さだから焦点もわかってつらかった。虚ろに彷徨ってた瞳が、はっ、と一度フォーカス絞られたあと、空っぽになるみたいに視線がひらいてく。表情筋やばかった ああ、ここだ、ここなんだ、って思った。あどけなさのなかに忸怩たる思いもあって、ぐっとこみ上げる様がわかる。ほんとうに悔いている。『この手には何も無い』、ほんとうにそういう虚無感に襲われる様だなって思った。恐れ。苦しみ。刺された傷口からずっとおさえていたマグマがぼたぼたこぼれるみたいだった。
『陛下』という最期の言葉には父と息子が重なる。やっぱヨーク公へ、なのかなあ、というふうに聴こえたけど、さいごのさいごにエドワードを王だと認めたんじゃないかな、とも思いたい。
あと前楽だったか配信のどっちかで、逝ったあとに左手がだらっ、て落ちて、その肉体の物質感が、なんかぎゃくに魂がそこにはもうないって思って実感すごかった。このひとはまだ腕のなかにいるのに、もういないね、エドワード……。

なげえよ。あともうちょいウォリックのすきなとこ抜粋な。

ウォリックがアンの背中に手を当ててエスコートしてってあげたあとにぐるーってまわってきてこの席に着いてるの萌えた。ただハケるだけなのだが、やっぱここで父娘なのに舞台の都合だけで最短距離でハケるのは心理的に気持ち悪いもんな。瀬戸氏の芝居のUIは整いまくっている。

あとモノの扱い方がちゃんと内実ある。イザベルを連れてきて『ジョージ、国王陛下』のとこ、あの瓶のなかにはちゃんと液体があるなあというマイム。あのゴブレットは磨かれていて顔がうつるだろうという想像力を客に使わせるモーション。ていうか瓶とゴブレット片手で持つそのセットの仕方よ。この役者はどんだけ丹念に映画を観ているんだろうな〜と思いました。わかんないけど。

あとみんな大好きマント捌きね。これ装飾としてやっているだけではなくて、瀬戸氏に「衣装を捌く」という意識が確実にあるなあと感じた。『リチャード様と結婚なんてしないわ!』→『聴かれてたか』のとこ、曲がんなきゃいけない動線多めでそのたびにちゃんと翻し直すのが見えたので。意識があるかないかってでかい違いだよ。

ていうかアンちゃんをくれってマーガレットに言われたウォリック、一回渋い顔して逡巡してから「仕方あるまい」みたいな感じなのすごい父。だし、あらジョージ〜ってマーガレットからチクチク言葉いわれるとこも、心無いことを言われて傷つくであろうジョージを庇ってるようにも見えるんだよなあ。ヨーク家がなんだかんだ大事なウォリック伯。忠実な奴ゆえに、ヨークの人間に情があって死ぬっていう。良いキャラだった。

・エドワード王太子

みんなのエドワード王太子!!!!!物怖じしない舞台度胸とその度胸に裏付けられたフラットな佇まいが超好感だった。

有リチャ初日だったか、市場で買ったブローチが服に引っかかってぜんぜん差し出せなかったときあったんだよ。あそこわりと緊迫感あるシーンだったのに、「ちょっと待ってくれ」って言ってちゃんと差し出してた。客もふふってなってて、まあそのまえまでのこいつリチャードのことまじで大好きだな〜ってのがあるのもあるんだけど、シーンをぜんぜん壊さずに対応しててなんかスゲーッッッッてした記憶ある。
アドリブって「そのシーンになんかおもしろいことを無理矢理差し込む」ことではまったくないじゃんか。ちゃんと文脈があり、キャラのもつ背景や人格とか、シーンのもつトーンとか、そういうなかできちんと会話して「反応として出てくる」ものだと思ってるし。だからうまくできなかったら「ちょっと待ってくれ」って言う。アンちゃんと寝室にいるとこも、枕が落ちたら拾う。あたりまえのことをまっすぐできる。廣野氏は役者ってよりパフォーマーのイメージがつよかったけども、役者としての感性が完全にちゃんとあるなあって思った。

だがパフォーマーとしての感性も光っていた!殺陣が、剣がよかった。西洋の殺陣だった。リチャードに向けた短剣とかも、なんか刃を刃と思わないような手つきで身体の輪郭をいなすようなやり方。たぶん合ってるんだよな。フェンシングのひとが言ってたけど、刺すとか切るではなく、剣の先でいなす感じらしい。日本刀とか切れる刀だとたぶん違うんだけども、洋画とかで観る西洋の殺陣の感じだなあと思いながらみてた。殺陣に詳しくないからわかんないけども。

・アン

毎回毎回嘘みたいに良いんだよな。なんかよくわかんない例えするけど、きれいすぎる果物とかみたときに(嘘みたいだな)って思いながら寧ろそのモノとしての存在を実感しているときがあるんだけど、それだった。嘘みたいだなって。きれいで、かわいくて、でもしたたかで、やさしくてつよい。素直なこの子が笑える世界であってほしいなって思う。

・セシリー

アニメよりなんか救いのある描かれ方だったような気がする。アニメもそんな丁寧には見れてなくてアレなんだけども。リチャードそのものを憎んだり恨んだりという感じではなく、リチャードを産んでしまった自分を呪っている感。なんか死ねって言葉を吐く(機会そんなないけど)とき、いちばんそういう自分にたいして死ねって思うフシがあると思うんだけどそんな感じに見えた。彼女の弱さを藤岡氏は描いてくれた。

・ジャンヌ

開口一番は彼女なんですよ。そこで鳥肌が立った瞬間に(あっこれはもうこの作品勝ちました、優勝です)って思った。

冒頭でジャンヌの祈る姿の話を書いたけど、彼女の存在がでかすぎる。物語を物語にすべく彼女もたたかっている。でも現実(神)のまえでは結局折られてしまう。運命などなく、すべてはただそうある。その叙事を、3時間ずっと叙情で語ってくれていた。

あとさいごリチャードが戦場を駆け抜け掻き分けヘンリー王を殺さんとするところ、ここのジャンヌがまあ〜〜〜泣けるんだよ。「ほんとのきみを知っているのは僕だけだ!!!!!」この痛切な祈りのような、リチャードだけを思うかけがえのない声に胸があふれる。全身全霊で、そっちに行っちゃダメだ、って言ってる。しんどい。ほんとうにリチャードをずっとずっと見ていてくれてありがとう。

・マーガレット

言うことなくないすか?という良さ。観た人みんなそう思ってると思う。

マジですごかった。一気に引き込むというか、場がヒリッとする。筆者はわりと演劇を演劇として観るには引いてみれるかどうかが重要だと思っていて、あんまりのめり込みすぎないようにバランスとって観るようにしてるんだけど、どうやってもヨークとのあそこでグッと一回没入してしまうと思う。

声量のボリュームがもうほんとに絶妙で最高。ボリューム絞られるとグッと聴き入る。朗々とした語り口で説得力のある声。いや姿もすべてよかったけども。千秋楽だったか、アンちゃんとのシーンあたりでたぶんめっちゃ昂っていて、でもあそこはやっぱ淡々と毅然といたほうがいいシーンで、だから高揚を抑えるというその声と身体の感じがものすごくグッときた。こっちまで喉が詰まった。

・ヨーク公

芝居がマジですき。

公が王たる王でなきゃこの物語破綻しちゃうじゃん、でもマジで王たる王だった。懐がひろくて、包容力のある人だった。精悍だけど優しいし、聡いし、でも頭ばっかりじゃなくて肉体も伴っている。勇敢で野生みもある。寛大な笑顔とその奥の怖さみたいな。畏怖ってかんじだった。なんか存在感が山とかそういう次元の。

いちばん言いたいのは顔だよね。いやもともとハンサムな役者ではあるんだけど表情が、「良い顔してるなあ」っていう意味での顔がいい。もう殺されるところのさいごの顔がすごいのよ、ああいうときって苦痛に歪むか悲痛に泣きに入ると思うじゃん、でも違うんだよ、エッ、その顔を採択するんですかよ?!というこのセンス。もはや見得きってた。た〜っぷり、っていう。殺陣には華があるし。ヨッ、谷口屋。

『ジョージ、私の王冠はどこにある』って出てくるところ最高。怒ってはないんだけどきびしい顔で出てきて、諭すような、でもやべ怒ってんな…って顔で出てくるんだがジョージが抱きついたとこでパパ上の顔になるのが最高にすきだった。笑顔が最高。笑顔が最高なひとって最高だよな…すごい普通のこと言ってるけど…

あと公-息子-キングメイカーの図になるところ、ここはウォリックに見えてる幻影の公なんだけど、身体が「いま」じゃなくなるのがすごかった。アニメとかで回想のときにかかるフィルターみたいなのあるじゃんか、あれが肉体のうえで起きてるみたいだった。ここの谷口御大のお顔やばいんだよ。慈愛だった。でかい存在だったんだ、ってことを改めて思い知らされる。このときのヨーク公、これから起こることとか、起こってしまったことを背負ってないのがよかった。 ヨークがあの日のままでかいからみんな胸があふれる。もうただただ幻影としてあらわれる「ヨーク公」のお顔してた。







たぶん以上です…。明日BDが来い(特典付きの予約したよ〜!!!!!)(いやまず配信観ますわ〜!!!!! )!!!!!

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舞台『薔薇王の葬列』を観た

この世界で、愛はどのようなことができると思いますか。

傷つくひとが少なければいいなと思ってしまう。泣く人が、苦しむひとがいなければいいなと思ってしまう。けれど具体的には何もできなくて、誰かを救いたくとも、差し出したその手が傲慢なのかもしれないと、短絡的な偽善なのかもしれないと、黙ってその手を差し出すことをやめてしまうことがある。

沈黙して、なにも言えなくなって、そのうち自分のかなしい、と思うきもちや、いやだ、というきもちのことを、無意識に無かったことにしてしまうこともある。

だからなんなんだろう、と、思ってしまう。何かしたって、だからなんなんだろう。そうやって演劇を観ることをやめてしまったこともある。観て、だからなんなんだろう。1人で新幹線乗って、1人で感動して、1人でごはん食べて、ホテル泊まって。感動しても、ずっと1人で。

でも、音を立てながら降る薔薇をみて、きれいだ、と思った。

きれいだ、と思って、気付けば泣いていた。

知っているのに、すぐに忘れてしまう。みんな純粋なこどもだったこと。傷付いたら痛いこと。悲しかったら涙が出ること。自分のきもちが自分のものであること。それが間違っていたとしても、自分にとってはほんとうであること。

それをいつのまにか、無意識に胸の裡に葬っていること。

愛は役に立たないものだ。愛していたとして、だからなんだっていうんだろう。でもほんとは違うと思う。愛が役に立たないからって、だからなんだっていうんだろう。

そうしたい、って思う。

なにかを見たい、って思う。

それが自分に向けられた愛じゃなくても。

誰かが誰かを愛する、その魂の交歓。やり方が間違っていたとして、血に塗れていたとして、その姿はとても奇麗だ。

誰かを愛するということ。

何かしてあげたいって思うこと。

愛は傲慢でよくて、有用じゃなくてよくて、なにかを手に入れるためには対価を支払わなければいけないことなんてない。 愛は地位じゃない。愛は名誉じゃない。薔薇はただ咲く。そして散る。それはただそうあるだけだ。

みんながみんなの本懐を遂げたくて、それは自分の欲望と向き合うということで、いつまでも背いていたって、欲望が消えることはない。生きているから。人間として生きているから。

誰も自分を獲得せずにいる。そのなかでも、誰もが手放さずに、手放せずにいるもの、それは情だ。欲望だ。身体の奥底に眠るそれらがみんなの命だ。形式から、肩書きから、権威から、呪縛から抜け出してその人の心が見えたとき、絶望は消えないが、居場所は現れる。幻影ではない。幽霊ではない。それはそのひとにとってはほんとうで、それはなんの因果でも、対価でもない。

〝ああ 最早栄光も塵芥か この手には何も無い 私には もう何一つ〟

この世界で、愛はどのようなことができると思いますか。

傲慢かもしれない、と、作中のキャラクターが、演出家が、そう言っている。けれど私は思う。愛には、世界を変えることができるのだと。

幕が降り、劇は終わる。劇場を出て、私はマスク越しに6月の空気を吸い込む。雨だった。夜に降る雨が、止まなければいいな、と、ヘンリーの纏う儚い光を、約束、というあのやさしい声の輪郭を反芻しながら、すこし思う。

約束と呪いは異なる。その選択が自らの意思によるという点において。約束だったんだ、みんなが守りたいのは約束で、生き残れなかったとしても、なにも守れなかったわけじゃない。

演出家曰く、『薔薇王の葬列』はリチャードにみえている世界だ。私もそう思う。どこまでも孤独で、どこまでも救いがない。けれど彼は一瞬だけ、戻ってくる。自分の肉体のなかに。愛のまえで、きらきらした光のなかで、一瞬だけ。死の前に一度自分が自分であるということを認め、選び取る。

〝俺を、愛してくれ。〟

それは欲望だ。また会えた、その約束のなかでたったひとときだけ叶う。あまりに切なくて、けれどあまりに短くて、涙を流す隙もない、たった一瞬の生還。

劇はかならず終わる。薔薇は散る。たんなる事実として。劇は虚構だ。でも目の前で役者が生きている。息をしている。そのことはほんとうで、私が鞄に仕舞っているチケットとはなんにも関係がない。嘆かわしいまでに。

劇場を出て、耳を掠めた雨音、夜の闇で見えなかった雨、身体が濡れて気付いた、雨。

傘がなくて、ホテルに戻った。濡れるのは嫌だったから。

でも、雨も夜も、もうすこしは、明けなければいいね、止まなければいいね、リチャード。

演劇なんてうそで、具体的にはなんにも役に立たないのかもしれないけど、薬みたいな効用はないのかもしれないけど。そこに心はある。愛がある。そして愛には、何もできなくていいのだと思う。心があるから。心は勝手に感じ取るから。生きているかぎり。

観るまえと観たあとで、世界が違って見える。ひとりずつにみえている、ひとりずつにしかみえていない世界のこと。その景色を変えることは、世界を変えることに他ならないんじゃないか。それを救いだとは、呼べないんだろうか。