おぼんろ『瓶詰めの海は寝室でリュズタンの夢をうたった』を観た




リュズ夢自分用備忘録。例によってほとんどツイに書いてたことです。瀬戸円盤鑑賞後記に追記するくらいのノリでやっていきたい。

演出がどうとかこうとかいう本音めいたことはツイッターのほうにいっぱい書いてるので「@so_lar_is since:2022-08-20 until:2022-08-29」で検索だ。このブロゴは総括な。

そのまえに、末原氏×瀬戸氏の最高対談がこの公演がはじまる以前に公開されていたので、まずそのはなしをします。このあとだいぶ引用して語るのでここで話しておく。2.5ジゲン!! 編集部さんほんとうにありがとうございます。あと末原さんありがとうございます。

――お互いの第一印象を教えてください。

末原:去年の4月に僕が脚本演出の舞台に祐介が参加してくれたんだよね。

瀬戸:その時がはじめましてでしたね。末原さんの他にも同い年の演出家っているにはいるんですけど、一緒に仕事したことはなかったんですよ。当時は末原さんの名前も知らなくて、何の情報もないまま稽古場に入ったんですが、末原さんの稽古スタイルとか人に考えを伝える姿を見て、この人はすごいなと思いました。一気に尊敬しました。同い年なのに芝居を見る力がめちゃくちゃあるなって。その時はコロナもあって作品を世に出せなかったので、今回は嬉しいですね。この舞台は一緒に盛り上げたいという気持ちです。

末原拓馬&瀬戸祐介、「リュズタン」はまるで自由研究? この物語があなたの物語でありますように

まずここよ。瀬戸氏って「芝居を見る力」とか言うんだっていう。いやあたりまえに思うかもしれないが、役者なら全員が全員そういう視点持ってるかというとじつはそうでもないと思う。視座の違いというか、芝居を見る力があっても、それを意識的に言語化できるかどうか。まずもってほんらい「感じたことを言語化する」は難しく、なんなら「感じる」ことがまず難しい人もいる。瀬戸氏は末原拓馬という名前も、その人がやってることも知らずに、ただ「演出家」として出会ったのに、なんの補助線もなしに「この人は芝居を見る力がある」と感じ、かつ言えてしまうというのはやっぱり信頼っす。思考がクリアだから芝居もクリアなんだろうな感じる所存。

末原:当時、祐介が務めていた役は大事な役なんだけど出番は多くなくて、でもずっと稽古を見ていてくれたんです。印象的だったのは、主演の2人のシーンの稽古を粘っていたとき、他のキャストが帰っていく中で祐介はずっと稽古を見ていたんだよね。だから「ごめんね、ちょっと手伝って」って言ったら、スッと入ってきてくれて、「芝居が好きなんで」って言っていて。

瀬戸:そんな渋いこと言っていました?

末原:言っていたよ(笑)。芝居を最短時間で仕上げて、どんどん現場を回るっていう俳優の仕事のなかで、疲れているだろうし、ドライに仕事をこなす人もいるんだけど、祐介はめちゃくちゃ熱いんだなと思った。それが、普段稽古場にいる祐介からすると意外だったね。

末原拓馬&瀬戸祐介、「リュズタン」はまるで自由研究? この物語があなたの物語でありますように

ここもけっこうすきで、『薔薇ステ』稽古場スペースのときもさんざんツイートしたけど、稽古を「見る」人だから芝居が格段にいいんすわ。稽古で自分のターン以外のところをせりふ覚える時間にあてたりするひとはけっこういる。まあもちろん特に2.5の俳優とかは興行のスパンがバカみたいに短いせいでそんな稽古見てる時間とれない現場も多くあろうけれども、そういうなかで瀬戸氏はわりと「見る」人らしいということがまた信頼に値する。マジにインフィニティ・反芻で何回言うねん案件なんだけどこれはもうほんとうになかなか性格が出るから稽古場はさあ。まあ稽古場の居方は当然のこととして、いろんな芝居を見ることでしかたぶん見る眼は肥えないんだと思うし、けっこう下手な人のを見るのとかも大事だし線でどう変わってくのかを見るのも大事だし、見ることは簡単でみんなできるけどその精度と経験、質と量がマジで大事だということなんで何回も言います

――瀬戸さんの演技の印象を教えてください。

末原:祐介は芝居で嘘をつかないですね。表面上の演技についてはみんな技術を磨いてくるんだけど、ある意味当たり前なんですよね。10年くらいよっぽどサボらなければある程度の上手さは備わってくるんです。もちろんその技術は大切なことなんだけど、祐介はそのさらに中にある感情とそれを表現する方法に嘘がないんですよ。祐介本人の持っている個性は人間的な暖かな個性で、でも頑固なんです。すごく強くて頑固で暖かい中にとても脆いものがあって、その繊細さが見え隠れしながら舞台上で役を演じているというのが、多分祐介の個性なんだろうなと思います。そればっかりはどんな天才だろうと他人から引き出せないじゃないですか。そういった生まれてから祐介が培ってきたものを表現するために技術を磨いてきたんだなと思うと、彼は他の作品ではどんなふうになるんだろうって考えますね。

瀬戸:僕についてみんな、「セティって明るいね」っていうんですよ。脆いところがあるって言ってきた人って人生で数人しかいないんです。だからちょっと末原さんすごいなって思いました。僕はみんなでワイワイ明るいのも好きだし、僕自身明るいところもあるんですけど、実は陰キャなんですよ。色々怖いなって思っているんですけど、意外とみんなは気づかないみたいで。

末原:祐介は明るいもんね。

瀬戸:別にわざと明るくしているんじゃないんですよ、体育会系だし。でもやっぱり興味のあることにはグっと集中しちゃいますね。末原さんすごい。2回稽古場が一緒になっただけで、こんなに人を見ているなんて。

末原拓馬&瀬戸祐介、「リュズタン」はまるで自由研究? この物語があなたの物語でありますように

この辺のわかりみもすごかった。筆者はもうずっと瀬戸氏には申し訳なく思ってるけど、邪推分析人間なので勝手に、ほんとうになんの根拠もなく瀬戸氏の芝居、ひいては本人の性質のことを考えまくっている人間なんだけど、筆者が思うに、瀬戸氏って別に陰キャではないけど、根アカの謙虚シャイボーイだよなと勝手に感じている。

はっきりとした陰や暗さ、ナイーブさはほとんど見えない。かといってザ・陽キャって感じではない。確実にネアカではあると思う。でもだってさあ、これは筆者の偏見にまみれすぎの感想だけど、あんなビジュアルをもって生まれてきてサッカー部だった人間なんてスクールカースト上位男子すぎるだろっていう。ちょっとダサすぎの偏見なんだけどでもそうだろ。って思うじゃん。なのにそういう、ああいう人間たち特有のギラつきみたいなものはみえず、飄々とした佇まい、力が抜けていて、落ち着きのある、むしろちょっとさめてみえることもある。わりと奥ゆかしい印象。大人数のなかだとすすんで喋りはしないが、喋ったときには的確にもっていく、みたいな。いまのところの瀬戸氏の印象としてはまあ瀬戸氏の円盤を全部見たほうの感想ブログに書いてますのでそっちを見てくれ。

とにかくだ。芝居にこの人の佇まいが出てる。滲んでいる、と思う。

瀬戸氏の芝居は暗がりにいる人間のようなそれではない。でも、確実にそこには魂の営為がある。芝居に救われている、ではない。芝居に満たされている、あるいは、癒されている。そういうある種の、心の洞窟みたいなところに芝居が響いている。だから筆者は瀬戸氏の芝居に惹かれた。どこがどうみたいなのは後述することにも出てくるしあとにする。

あと『頑固』という言葉が出てきたのが鋭かったし、わかる。
よく瀬戸氏は自分のことフラットだっていう。けど、オープンマインドにガバガバのひろい心ですべてを吸収したその上で持ってる美学は譲らない役者だと筆者は思っている。
これは自分がそうだから言ってみることだが、自らのことをフラットだって言うひとはけっこうフラットじゃないと思っている。例えがちょっとアレすぎるんだけどどうしようかな。まあいっか。まあフェミニストにもいろんな種類がいるっての知ってるうえで、『ズートピア』でウサギが言ってたように、女であるってことを忖度しないでください、と言ってる奴ほど女への偏見がすごいんだよな、みたいな意味で、〝自らのことをフラットだって言うひとはけっこうフラットじゃないと思っている〟。要するにそこがコンプレックスなんですよ。偏見ありすぎるから、そう見ないように心がけてる、みたいな部分あんじゃねえかなあ、ってのは邪推している。

はい。最高対談でした。

そのうえで、『リュズ夢』のはなしだ。


自分が見た回は8/20夜・8/21昼と、配信された2公演、の全4公演。なんかうまいことミックスキャストのミックスを観れて全員の芝居は塩崎ラッコ以外2回ずつ見ている。塩崎ラッコは1回、瀬戸ラッコ3回。塩崎ラッコよかったんで瀬戸氏と比較してのちほど語っていきます。

リュズ夢俺ベスト回は8/21昼。メンツはわかばやし・橋本・高橋・瀬戸・大久保、だったかな。このベストというのはキャストの善し悪しではまったくなくて、このキャスト陣でリュズ夢という物語の本来の輪郭が見えた気がした、という点で。5人の関係値として自分の腑におちて、自分なりの最適解がそれだった、という点においてのベスト回。という意味です。

では自分的初回の8/20夜がベストに感じなかったのは何故か。

けっこうTwitterでブワーと検索かけて感想見てたんだけどこの興行はもう初日の初回の時点から「よかった」、「泣けた」、「信じられないくらい泣いた」、とかを見かけたが、あんまり筆者は「泣ける」物語を信用していない(これも後述する)ので警戒しつつも、末原氏の感性を見るにちょっとわりと響きそうな部分がちらほらあり、もしかしたら響きすぎて戻ってこれなくなるんじゃないか、と思ってちょっとこわくて、そのくらいの感じで期待してハンカチも膝の上に置いて観劇したんだけど、とくに、あの〜、泣けるんだと思うし泣きどころもわかるし物語もわかるしテーゼとかもモチーフもわかるんだけど、ほとんどグッとこなかったんす。

この世につまんない芝居はたくさんある。一方でこれはかなりおもしろい芝居だった。加えて空間の音楽の使い方とかもわりとどきどきしてテンション上がって見てたし、それが演劇としてどう、とかは抜きに作品を面白がれるタチなのを自分は自分で知ってるはずだった。だからけっこうこのグッとこなさには拍子抜けしてしまい、このわけを、この腑に落ちなさを、ずーーーーっとその夜ホテルでツイートしながら考えていた。今読み返してもけっこうただしいこと言ってると思うしはっきりとした差異は言い当てられないんだけど。

たぶん自分の感性と、この物語が持っている波長の、たんなるずれ。主人公の在り方と、マクガフィンの在り方、物語の視座。このへんが末原氏は自由なんだよ。屈託なく創作している。自分の寸法からけっこう外れていることが多くてびっくりしたもんな。でも弁士だしてきたりとか空間の飾り方がフィリップ・ジャンティめいていたりいろいろ見てんじゃないか?とも思えるのでむずかしい。っていうか末原氏という一人の人間からキヨとトノキヨの言葉どちらもが出てきてるということがめっちゃすごいと改めて思うんだが。まあそれはそれとして。

キヨが一回ああなることによって物語の一旦のゴールが「キヨを救う」にすり替わる。でもそもそもはトノキヨが救われなくてはならなくて、トノキヨが「生」へと恢復していくべき物語だ。想像力のことが繰り返し言われていて、想像力がキヨを救う、あの頃の5人を救う。けれども、トノキヨは想像力そのものに救われたわけではないんだよ。トノキヨは想像力をつかって過去を取り戻し、向き直り、携え直した。でも再生したのは想像力でもなんでもなくて、もう4人はいない、ということを認めて、受け入れた。そのことが捉えきれなかったから腑落ちしなかったんだと思った。あと〝演劇的な〟想像力をそんなに使わなかった、というところも、自分の感性とのずれがあったというだけのはなしで、めっちゃわかるのに、周りと琴線が合わない、みたいになったことが腑落ちしなかったでかい一個の原因だった。まあとった席が前すぎたというのはおおいにある。

それでだよ。

自分が腑落ちしたのは橋本真一のキヨと、わかばやしめぐみのトノキヨの姿だった。

まずこの物語には「母性」が必要だったのか!と思ってしまうような女性主人公の存在だ。「こども」である4人の心のぐしゃぐしゃを包容するまなざしと、つよく立つ「大人」。「4人とトノキヨ」という関係値がわりとクリアに見えた。その関係値は「こども/大人」であり「主人公/脇役」であり「巻き込まれるひと/仕掛け人」とかいえるとおもう。

そんで橋本氏の純性というか、邪気のなさ。キヨは無垢でよろこびを満たした子供だと腑に落ちた。末原氏のクラゲは「わかりすぎてる」という感じがしたんだよ。ミステリアスすぎるっつーか、なにかを背負ってそうすぎる。キャラクターの造形が二枚目すぎる。もちろん末原氏本人も二枚目だが。〝悪童〟なんだよ。寝室の窓を開けた瞬間のあの佇まい。かっこよすぎる。だからこういう立ちすぎてる存在感のキヨが闇堕ちする、という現象のコントラストも立ちすぎるし、ほんとにキヨが「最強」にみえてしまう。あの4人は対等・並列であったほうがいい。キヨが中心にいたとしても。ていうかだって末原氏はガチの創作人間だし。イマジナリ最強人間というのが板の上でも滲むんだなあと思う。

でもこれもインタビューのはなしじゃないけど、自分がコンプレックスで物語をまなざしてしまう人間だからそう見えたってだけだとも思う。私はなんにも思いつかないこどもだったから。トノキヨのせりふがほとんどかなりわかる。

かといってこれはべつに共感とか感情移入とかのはなしではない。視座がずれる、ということ。それまでトノキヨの物語だったのに、さいごだけキヨが立ちすぎて急によくわかんなくなってしまっただけで、さいごまでトノキヨの物語であればちゃんとこの物語の輪郭を捉えられるんだなと思った、っていうはなしをする。

この8/21昼の回はわかばやしさんの『海をみようよ』というせりふが妙に立って聴こえた。ここでもうちゃんとグッときた。

ああ、そうか、この物語はそういうことだったんだ。

『想像力使って/提出しないとな、夏休みの宿題』が、すべてを認めて、受け入れた向こうの言葉として聴こえた。諦めた向こうにある、決意と再生。トノキヨの姿がここで変わったのがわかった。

そしてもうひとつグッときたところ。

トノキヨが発表をはじめたとき、キヨが抗う。ああ、終わりが来てしまう、いやだ、やめてくれ。そういう「こどもがぐずる姿」が痛いほど無垢でひどく胸にきた。だからキヨを、「キヨに守られていたトノキヨ」が、こんどは「キヨを守る」、という姿の反転が、切なくてとても奇麗だった。

そしてなによりも、あのキヨの痛ましい姿は、あの記憶に差し掛かってしまう、そのおそろしさに抗う姿だ。橋本キヨが抗いだしたとき、ふなの、憲宗、みなの3人が、キヨから目を〝背けていた〟。ここに私はかなりはっとした。末原キヨにはハラハラとみんな前のめりになっていたような気がして、それを確かめる術はもうないんだけど、でも橋本氏のキヨはそういう「見てはいけない一面」があそこでどっとあふれるのがよかった。

見ていられない、っていうことってあんまりないと思うんだよ。どうしたって『想像力』を持っているからこそ、悪性の好奇心が人間のなかにはある。目を背けながら、見たくなってしまう光景ってけっこうある。でも、あの場面はすごく痛かった。私も見ていてそういう気持ちだったからたぶん「目を背けた」という3人の行為に驚きと同意とではっきりと記憶しているんだと思う。心の痛覚がヒリヒリして、劇場にいたひとみんなおなじような顔してたと思う。3人が示し合わせたようにほとんど同時に目を背けていたような気がして、そうだよね、という、なんか安堵とか救いのような気持ちと、光景にある痛みと、どっちも感じていた。だから、トノキヨがキヨを守り、トノキヨ自身が「乗り越える」大人としてつよくあそこに在ってくれて、また胸を打たれた。

あの「厭わない」つよさ。アシタカがタタリ神にのまれたサンにあたりまえに手をのばすみたいな信頼のつよさだ。キヨは戻ってくる。キヨは大丈夫だから。キヨは最強だから。そういう信頼と愛に基づいて言葉をかけていく。そのひとつ、ひとつ、って光が戻ってくる速度が、朝日の昇る速度と並行して辺りはあかるくなっていく。

『砂浜を走りました』というふなのの無垢さ、無邪気さが胸にくる。

『海の水に触りました』という憲宗の声の震えが、すこしみんなより賢いだろう彼の想像力に触れたと思えるようで胸にくる。

『みんなを見ながら』というみなの佇まい、立ち位置、4人への愛が胸にくる。

あのラスト前の場面で感じたかったエネルギーがこの回は胸に満ちてきた。間違いなく海の端っこだった。熱かった。






そんでもう個別感想を言うには書きすぎてんよ。だが書いとかないと後世の自分が困るので以下瀬戸氏重点の感想。

じつは塩崎ラッコがかなり好みで解釈一致だった。この物語の筆者としての最適解ラッコは塩崎氏だったと思う。
憲宗ってほんらいこういう奴なんだろうなあと思うような感じだ。名は体をあらわすけど瀬戸氏のは「憲宗」ってかんじではあんまりない。みたいな感じ。伝われ。瀬戸ラッコはちょっと鋭すぎるかな。わかんない。でも「叡智」って感じっつーか。塩崎ラッコのが「小学5年生なりのがんばって背伸びした聡明さ」って感じで自分はこっちがぴったりきた。
瀬戸氏はわりと自分の地からいってるというか、自分の「なかにある」子供を引っ張ってきてやってる感。けど塩崎氏は地とはちがうとこで自分の「外から」引っ張ってきてる感。塩崎氏のほかのを見たことないからちょっとわからんけども。
瀬戸ラッコはガチで聡明そうに見える。だからたとえば、鉄橋前の『何時だと思ってんだよ』とか見ててしんどいせりふある。ここが実際どうなってたかはあとで語りますが。
たとえば火って高温になると寒色になっていくじゃん、塩崎ラッコの炎は暖色だけど瀬戸ラッコの炎は寒色だ。瀬戸氏のもってるオープンマインドな、ちょっとひりつくくらいのやわらかさを併せ持ったつめたい愛があり、これが「そのせりふどんな気持ちで言ってる?」っていう胸痛になっていく。これはヲタクの幻の痛覚だけど。
塩崎ラッコは子供なりに聡くて、隙があって、不器用ぽくて、無骨であった。大人になるにつれ、忖度とか恥とかで素直に投げれなくなっていく言葉や行為をポーンと直球で投げれてしまう、そういう無垢さ、朴訥さがあった。
どっちも良い奴で、でも愛嬌の在処がちがうっていうか。瀬戸ラッコは愛嬌が内側に、塩崎ラッコは愛嬌が外側にある感じ。
たとえば『本人は気にしていない様子』のくだりあるけど、塩崎ラッコはほんとにそういうの気にしなそうに見えた。「おれはおれ。あとは言わせとけ」みたいなカタさがあって、けっこうつよい。でも瀬戸氏はどっかよわさが見える。よわさっていうのは他人に自分を明け渡してしまうような、壁の薄さっていうか。
それは末原氏との対談の話にもなるけど、末原said〝脆さ〟のことでもあると思う。
瀬戸ラッコは『本人は気にしていない様子』にたいしてまっすぐにそうね!って思わない。気にしたうえで、まあどうにもならんわい、って感じ。塩崎ラッコはマジで気にしないっていうかそれがどうした?みたいな感じ。現実を認めて受け止める皿のかたちが違う。
瀬戸氏のラッコはかなり塩崎氏にくらべてほどかれていると思った。だからこそハートが伝わってきてけっこう胸痛かった。

っていうことを具体的にどこで感じたん?というのが以下。

『なんでだろうな』

まず登場して答えの4をおしえてあげるまでの場面。
塩崎ラッコはすっとぼけ・ハードボイルド・坊っちゃんという感じでかなり「粗忽者」度が高い。ボケ方が「目に意思がない」というタイプの、真面目にやればやるほど面白くなるタイプのやつ。真顔であるほど笑ってしまう的な。無言爆死のオチをやるタイプのやつ。伝われ。
瀬戸ラッコは茶目っ気・やんちゃ・ボーイという感じでこっちは愛で笑ってしまうタイプのやつ。微笑ましい、みたいな。
いずれネコを見て笑うかイヌを見て笑うかの違いっていうか(ラッコをネコやイヌで例えるな)。
そこで『なんでだろうな』というせりふの出力よ。
塩崎ラッコはなにも含ませない。でもなにも含ませていないのにちょっと間があるために客はすこしそこで立ち止まる。ほんとに「なんでだろうな?」くらいの引っかかり。こっちはこの言葉自体に立ち止まる。塩崎ラッコのこのせりふはトノキヨに「はいはい」っていう、なんも気にすんな、あんま聞いてくれるな、というなおざり感。やっぱこっちのほうが朴訥としてるよな。
だが瀬戸ラッコはわりと含みありめ。なんでだろうな?っていうあとに「なんでなのかな?」の理由に思考がちょっと接続される感じ。「なんでだろうな」の言葉をこえてその先にちょっと思いがいく感じ。瀬戸ラッコの『なんでだろうな』茶化すニュアンスがあり、朴訥さはない。答えにくいな〜のニュアンスもあるね。この茶化し加減はのちの『怖い目合わなかったか?』にもつながります。マジでせりふに人が出るね。

『おれだよ』

瀬戸ラッコはキヨ・ふなの・憲宗で〝悪友〟って感じがあり、一緒になってウェーイしてる感がある。やーいやーい!ばーか!おれだよ!っていう。「よっ」て感じね。街中で人を見つけたときに後ろから無言でどーんっていくタイプのほうね(知らん)。
塩崎ラッコはンっとにしゃーねーな、ばかだなあ、おれだよおれ、っていうやれやれ感がある。この「傍からみている感じ」がラッコの立ち位置っぽいなあというのが筆者的に解像度高かった。

『あ、おれだ』『シジミ』

これ「まさのり」って言って伝わるかわかんないけど錦鯉みんな見たことあると思うからまさのりで通すけど、塩崎ラッコのはまさのりなんだよ。まっすぐ勢いよくでかい声で言うっていう。こういうボケ方するときの照れがゼロな感じ。ここでも粗忽者度高いなあという。
瀬戸ラッコはシャイボーイなとこがほんとうに出てるなと思う。いや本人がどうかは邪推でしかないんだけど、末原氏の対談の「いろんなことへの怖さ」とか、瀬戸氏をみてるときの奥ゆかしみというかギラギラしてない感じ、俺が俺がってしない感じ(それがすきなんだけど)が出てるっぽく思う。つねにちょっとてへぺろ感というか、茶化してる感じがあるのよ。
ここまできてもう何回も言ってるからわかるけど瀬戸ラッコは照れ隠し的な出力が多々あるんだよ。
そこで次です。

『手当てしてやる』・『怖い目合わなかったか』

前者はキヨへのせりふ。後者はトノキヨへのせりふ。ここ戯曲では『怖い目に合わなかった?』でぜんぜん違うよね。これは2人ともだったと思う。『怖い目に合わなかった?』はけっこうへりくだるニュアンスじゃん。だいじょうぶ?っていうの慮り、心配がある。でも2人ともそれは違った。でも心配してないわけじゃないんだよ。
塩崎ラッコの『手当てしてやる』は(しゃーねーな)という愛とマセが入ってる。ここでも小学5年生なりの範疇での最大限の背伸びがある。これもなかなか好きだ。子供なりのはりきりってあるじゃん、あの感じよ。
だけども瀬戸ラッコは本意気の「手当てしてやる」に聞こえる。ほんとにまっすぐのニュアンスでさらっと言う。
でも瀬戸ラッコ、『怖い目合わなかったか』はやっぱりちょっと照れ隠し的要素があるんだよ。映像でちゃんと顔と身体の表情見ると若干の人見知り感というか初対面感も感じて(トノキヨに会うのは初めてだから)、ほんとに人が出るなあ(2)。ここをポーンと言わないのが瀬戸氏の感性だなと思う。『手当てしてやる』はまっすぐ言えるのに『怖い目合わなかったか』はまっすぐ言わない、言えない。相手が傷ついていることが自明なら躊躇なく手を差し伸べる/相手が無事だったらちょっと恥ずかしいから置きにいく。このひとは善人のシャイボーイだなあっていう。邪推がすごいってのはそうなんだけども。
一方の塩崎ラッコの『怖い目合わなかったか』は純粋に自意識ゼロでまたまさのりで言ってる。どーんて放る感じ。怖い目合わなかったか!(目が二重丸)っていう。こっちのがコミュニケーションとしてはシンプルだと思うから筆者はすきでした。瀬戸氏のはコンテクストがある反応なのでもうすこし複雑だ。

『トノキヨ 待て』

これはせりふというよりもここからのくだりのはなしをする。せりふにかぎって言えば、塩崎ラッコの『待て』はまず「声をかける」だ。あんまり声を荒げることはなくて、やっぱりラッコは聡い子だから「説得する」んだよ。わかってもらおうとする。だからキヨとの出会いのことを喋る。そういう理由のある流れにみえた。塩崎ラッコはわりと冷静に喋る。パッションとか想いで伝えるというより、情報を伝える。これがラッコ、もとい憲宗っぽいなあと思う。
このあとの糸電話のとこにいく流れも、塩崎ラッコだとその前のシーンと段差がほとんどない。ここまでが一続きの括弧で括れる「シーン」だ。
一方瀬戸ラッコはかなりハートでいく。だから『待て』も「待て!」だ。説得する、ではない。引き止める。トノキヨとの出会いを話すのも、情で話している。トノキヨが「キヨは最強だったし俺なんかが助けなくたって」と言うことに対して、「俺なんか」じゃない。「キヨは最強」じゃない。言葉の裏に触れるように話す。キヨは弱いとこもある。トノキヨはキヨを救うに値する。そういう感情にはたらきかける。情報じゃなくハートで伝えるというシーン①だ。それから糸電話はわりとがらっとトーン変えてシーン②になる。
そういう意味で瀬戸ラッコのこのシーンは一続きじゃなく、塩崎ラッコとちがってここに段差がある。塩崎ラッコは「勉強をおしえる」に近い伝え方だけど、瀬戸ラッコは「悩みをきく」みたいな。うまく言えないけど。
塩崎ラッコはトノキヨをあの日の記憶へと向かわせたい。貝のなかの秘密をみせるということを背負ってるというか。背中が広い。ひどい記憶を見せたのはおまえのせい、って言われたっていい。そういう毅然とした態度に見えて、憲宗ってこうするだろうな、と筆者は思う。でも自分はけっこう道徳より倫理、論理より感情派なので、瀬戸ラッコのこともたいへん沁みる。

『安心しろ。その秘密のなかに俺たちも居る』

これもさっきの場のなかのせりふではあるけど、2人でけっこう違ったので抜粋。
塩崎ラッコのこのせりふは妙に心強く響く。瀬戸ラッコは先述したようにハートで寄り添う。トノキヨが「どうやってこの貝を開ければいい」と訊いたときに、もう目的は達成される。だからトノキヨに貝を渡して行くとき、瀬戸ラッコはもう去る。貝のなかの秘密に実感をもっているから。ほんとにその秘密のなかにおれたちもいるから。安心しろ。心配すんな。でもトノキヨはそう言われても尚まだ彼が去ってしまう心細さがある。まって、置いてかないで。
だが塩崎ラッコはもうこれ以上指南してくれることはない。その秘密のなかに俺たちも居る、それはトノキヨへのバトンだ。俺たちもいる。だから託す。しっかり向き合えよ。その突き放し方は彼のトノキヨへの思いだ。寄り添うのではない。過保護ではない。手放すという信頼がある。だからトノキヨは置いてかれても進まなきゃっていう永訣のような別れを受け止めて一人になれる。
特筆すべきなのが戯曲では『安心しろ』というところを塩崎ラッコは『大丈夫だ』と言う。せりふは一言一句の役者とイメージ記憶の役者がいるが、瀬戸氏はわりと一言一句だと思う。『大丈夫だ』と『安心しろ』はだいぶ違う。これは『なんでだろうな』に近い。安心しろ、は落ち着け、とかの部類だ。相手の状態をフォローする言葉。けど『大丈夫だ』は違う。大丈夫かどうかは相手によるからだ。大丈夫かどうかは当人にしか決められない。それでも塩崎ラッコは『大丈夫だ』と言う。『なんでだろうな』がニアリーイコール「これ以上聞いてくれるな」だったように、『大丈夫だ』は信頼とともに「おまえ一人で行くんだ」でもある。そこに俺たちもいるから。だから行け。進め。覚悟せざるを得ないつよさがある。強くあれ、という言葉。塩崎ラッコのこのせりふを受けたら「まって、置いてかないで」とはなれないだろう。頼ろうとしていた自分にはっとして、ああ、行かなきゃ。キヨを救えるのは自分だけなんだ。そう思い直すような気がする。

『傘が必要だって言ったろ』

塩崎ラッコのがマセてて笑える。これも小学5年生の背伸びだ。言ったろ、へへん、っていう。そのあとの「いやそれならさっき傘させよ」「ああそれもそうだな」ってやりとりもやっぱり基本的には小学生だなっていう、思い至ってない感じがあって、あーやっぱこっちだねってなる。
瀬戸ラッコはそのまえの「感動している!」の地続きの嬉しみで言ってる。子供がテンション上がっちゃってるときのあの感じ。得意になって言ってることには変わりはないんだけど、瀬戸ラッコのは「傘が必要だ」っていうその自分のアイデアが御名答だったことへの感動の言葉だ。塩崎ラッコは「傘が必要だ」っていうアイデアそのものを得意がってる。やっぱり瀬戸ラッコのほうが感情が入り組んでいる。だからといって大人びているというわけではなく、感情のレイヤーの枚数が多いのだ。筆者は瀬戸氏の分断できなさ、カテゴライズできなさがだいすきなので、ここでもそれが見られてかなり嬉しかった。2.5とかのキャラが一本通っているタイプの芝居で氏の芝居が面白く感じるのはそういうことだと思う。キャラにすっとはまってわかりやすい、というのが一般的には受けるのだろうけど、瀬戸氏の芝居には奥行きがあって、容易には掴めない。かといって塩崎氏の芝居がそうではないというわけではまったくなく、ベクトルというかもう位相が違う。たとえば塩崎ラッコの「ツッコミでいるようで存在的にはボケ」とか、ノってしまいそうな芝居をあっさりやる、とか、(まあこれは自分の感性が瀬戸氏寄りなだけだとは思うのだが)なかなかできないことであるなあ(詠嘆)。

この2枚目の顔。心がきらきらしていることは確かだけど、そういうときに瀬戸氏はこういう顔をすることがある。覇気のほうにいかない。あどけなさ。たよりなさ。 こういう表情が出ることに、末原氏との対談の陰キャのくだりが勝手にすごく腑に落ちる。そっちなんだ。よわくなるんだ。
今回は小学5年生だからほんとに「こども」だけど、こういう「こども」になるときの瀬戸氏が結構すきだ。一見、硬派な芝居をするなという印象がある役者だが、こういう心のやわらかさ、存在のひらけているところ。先述したことと被るけど。対談での末原氏のいう「脆さ」ってこのへんだと思う。そんなに見せてくれていいの、そんな部分さわらせてくれていいの、ってところがみえる、芝居、というより、佇まい。
ツイートの2枚目の場面のみんなとの表情の差異。だいたいのみなさんは琴線というか感情の源泉とか核みたいなものがみぞおちより高いところにある感じがする。でも瀬戸氏はけっこうそれが低くある。みぞおちあたり、もしくはそれより下、身体の深いところ。この深さに感情の在り処がある。そこから声も出てくる。喉の下のほうから。「喉から手が出るほど」っていう言葉がある。ヲタクならみんな身に覚えのある感覚だと思うけど、推しをみるときに喉が締まる感じ。あたらしい驚きとか、外から入ってくるものではなくて、内側からこみ上げる感慨のようなもの。
みんなはクジラについて新鮮な反応をしてるけど、憲宗にかぎってはここはあらかじめ想像してたことが具現化されて「感動している」。その地続きの感情なのでこみ上げる感のある表情と声のことを、すごくわかるって思う。
この感情の位置について、たとえば怒りだ。あらわすのにいろんな言葉があり、「腹が立つ」「むかつく」「キレる」。あとにくるにつれて新しい言葉だと思うけど、どんどん怒りの位置は上にきている。
瀬戸氏がdoじゃなくbeでリアクタータイプ、というのを勝手に思ってるということは詳しく後述するけども、もともと当人はあんまりゴリっと感情出ないタイプなんじゃないかなあと思ったりする。一回呑み込むっていうか。感情が本来わりと奥の方にある人にみえる。
『朝日、楽しみだ!』とかの喉声もそう。人ってたのしみなときそういう身体になるよね、だからそういう声になるよねって思う。

『何時だと思ってんのさ、大丈夫だよ』

先述したけど、これ、どんな気持ちで言ってる?と思うせりふだ。言う度に心のどこかが痛むかもしれない。演劇は生の時間のうえで上演されるので、この「場面」での5人の「役」がこれから起こることを知らなくたって、客はその5人の「役者」が地続きでこれをやってるのを知ってるわけだから、こういうのは背負い方がむずかしい。どうやって自分のUIを整えるか。こういうのに人が出る。
塩崎氏はとにかくプレーンにうまいので、ここもプレーン味だ。なにも背負わない。「ここではまだなにも知らないという演技」は決してしていない。さらっと屈託なく居るだけだ。
一方瀬戸氏だ。ところで筆者は瀬戸氏の芝居はUIがマジで整っているなあと思っている。こうなってそうなるよな、みたいなのがうまい。芝居そのものというより、芝居と芝居のあいだとかにそれが出ている。間が豊穣だとか、動線が気持ち悪くないとか。
その自分用UIの整い方はここでも見えた。瀬戸氏の解は「地図に気を取られててなんとなく返事してる」だ。それだと背負わなくて済むし、言いやすい。筆者はこれをみて、身に覚えがある、と思う。嘘をつけないから、うやむやにする、茶化す、はぐらかす。芝居の表面のことではなくて、表出する行為の理由、その源流にある本音として。言い方アレかもしれないけどこれはまずもって自分のことだからいいだろう。罪悪感がみえる。まあこれは自分がそう思うからそう見えるだけのはなしだが。そういう罪悪感を「役者」としてもちつつ、「役」としてはケロッとこのせりふを言わないといけなくて、どうやって踏み切り板を設置するかといえば、踏み切り板をあらかじめ壊しておく、みたいな。踏んだときに飛べなくとも、自分のせいではない。急に書いてて出てきた例えなんだそれすぎてビビってるけどまあそんな感じだ。
要するに、あたりまえなんだけどちゃんとどうにか腑落ちさしてやってるよなあってのが見えるようでよかったなというはなし。

夢が崩れはじめるところ

これもせりふではないけど、そのときの行為が違う。とくに塩崎ラッコ。
だいたい、というかみんなはこの状況に呑まれながらもキヨのこと、舞台中央で起きていることを見てる。けど塩崎ラッコはこの状況に呑まれるよりも、いま、どうなっている?ということを気にしている。叙情より叙事。周りを見て状況を把握しようとしてる感じだ。「憲宗」っていう子はこうだろうなあ、と思ってけっこうおおっと思った振る舞い。
瀬戸ラッコはやっぱりキヨを、自分以外の「人」を気にする。憲宗が友達想いなのは2人ともそうだけど、瀬戸ラッコは友達想いをこえてなんていうかもはや「人情」がすごいある。自分がどうなったって、みんなのことを見てる。塩崎ラッコはみんなを「想ってる」のがすごいわかるけど、瀬戸ラッコはそれが表面的にもみえる感じ。『その秘密のなかに〜』のくだりでも書いたけど、友達にぶつける想いがとてもつよいし、ハートを感じまくる。
塩崎ラッコはみんなのことを自分の手の届く範疇に置けなくなった時点ではじめてその想いが見える。それはキヨの黒い影から生じた闇の波に呑まれてからだ。常に4人の名前を呼んで、「大丈夫か」「しっかりしろ」って言う。
そしてキヨの様子がおかしい、ってなったとき、得体の知れない影をこえて、躊躇なくぜんぶ投げうってキヨのもとへいく。そこでキヨと言葉を交わすときの瀬戸氏の反応がすきだった。憲宗のほうがぶつける感情はつよい。キヨはもうなにも聞き入れられないからだ。その拒絶に立ち向かう。末原氏との対談のとこでも触れたけども、筆者は瀬戸氏について板の上でもフラットでひらいているというか、オープンマインドな印象があり、その居方は基本的にデフォルトで〝be〟だ。〝do〟ではない。感情をぶつける〝act〟と同時に、おなじくらいの〝re-act〟もある。瀬戸氏はすぐれたリアクターだ。だからここでも、めちゃくちゃキヨのエネルギーを受ける。人のもつエネルギーみたいなものは目にみえないけれども、圧される、とかってたぶんみんなわかると思う。そんなふうにここではキヨの影につられるように呑まれ、キヨのすがたに狼狽える。



瀬戸氏について

ここからは比較ではないので自分用瀬戸感想です。まあぜんぶそうだが。

今回はけっこうコンセプチュアルな作品だし、白塗り(トノキヨだけ白塗りじゃない、かつ5人とも涙のペイントってことで演劇的にいえば道化だ。常ならぬ者、人ではない者、みたいな記号としてある、という意味での白塗り。関係ないけどこのキャラデザの時点でこの作品の展開と役の関係値はほぼ読めていた)ということで原作モノ(2.5次元という意味で)ではないにしてもわりと制御系の芝居をしてくるだろうなと思っていた。でもぜんぜんちがった。まず開口一番の声におどろいた。いつもの深めの発声なんだけど、高め柔らかめでくると思っていたので自分はここで一旦もうまっさらになりました。

でも期待していた部分はちゃんとあって、まずやわらかいこと。瀬戸氏は先述したとおりハイコンテクストな役をあてられることが多いし、アダルトに技巧をつかう役、どちらかといえばクールな、ダークな役どころが多いような気がする。なんていうか、そこに必要なのは「隠す」芝居だ。けれども彼のほんらいの魅力は、本人の持つフラとか、飾らなさとか茶目っ気だと自分は思っている。クールといえどもあったかみのあるクールさ。力の抜けた感じ。笑っちゃうような愛嬌。だからそういう部分、彼のもつほんらいのやわらかさが持ってこられるとうれしいなと思っていた。

リュズ夢でそれは板の上にちゃんとのっていた。フラットに、まっすぐに、ほとんど制御してなくて、けっこうナチュラルに芝居をしていたと思う。憲宗くんというのはああでこうで、ではなくて、じぶんの肚でやる。そういう純性をもってそこにいた。

またあんなにハートのある芝居をするのに、背負わないところ、ナイーブにならないところがほんとうに最高だ。キヨとの出会いをトノキヨに話すところとか、ラスト前とか、ともすれば「悲劇」に傾きがちなシーンをぜったいにそうしない。それは塩崎ラッコも同様なんだけども。こういうとき、あ〜〜〜「連獅子で勘九郎に手を握ってもらえなかった鶴松に稽古をつける七之助」のエピ全人類が知ってたらな〜〜〜と思うんだけど、見てないよね…ちゃんと書きますが、こういうときにね。こういうときに、泣きに入らないのだ。縋らない、被らない、なにも悲壮じゃない、涙は感情の高揚としてそこに表出し、パーっと上昇してくエネルギーがそこにある。これでいうと『リュズ夢』はたしかに「泣ける」話なのかもしれないけど、「泣ける」なんて指標はほんとにどうでもよすぎる。簡単だからだ。生きてる人間で泣いたことない人はたぶんいないように、泣くことは簡単なのだ。泣かせることも。だからここに〝安易に〟寄りかかる役者は見ていて冷める。だからわりと筆者は物語自体には冷めながら観ていたところもある。でもやっぱり目の前で嘘のない芝居をしている役者たちの姿には胸を打たれるし、グッとくる。この嘘のなさも末原氏は対談で言ってたけど、瀬戸氏の姿にはほんとうに嘘がない。嘘があったとして、そこには理由がある。話は逸れるけど俳優が泣く、という現象には役の感情を追って、という他に「高揚」がある。マームとジプシーという劇団があるけれども、主催の藤田氏が発明(発明)した「リフレイン」という手法がある。くりかえしくりかえしやることでエネルギーが折り重なってそこで表面張力する。そういう「昂り」で泣くことには嘘がない。たぶんみんな経験あると思う。大きい声を出してて泣いてしまうこと、本音を話そうとして泣いてしまうこと。リュズ夢の涙は私にとってはそういうエネルギーからくるものだった。舞台に立っている、5人ずつの俳優たちのエネルギーそのものがよかった。あれはでかい声で口にしていると泣いてしまう言葉たちだと思う。それはせりふの力でもある。人の再生する姿。光を見ようとする力。失う姿のほうにフォーカスしてしまったら『リュズ夢』はほんとうにナイーブな作品になってしまってただろうなと思うけども、闇は闇として、乗り越えるものとしてある。光をひたすらに信じて描くという、共感はできなくとも、ものすごく好感を持った。あそこにあったのは孤独でも死でもなく、純度の高い生の挙動だ。屈託なく眩しくて、でもそれがとてもよかった。

瀬戸氏の芝居のはなしに戻る。

これは20日夜に限ったはなしになるしこれは芝居そのもののはなしでもないんだけど、特筆したいからする「キヨん家に来てタッパー渡してから屋根裏上がってく」とこ。
下手の移動階段のストッパ止まってなくて、瀬戸氏が3段くらい上がってからン?なんか足場揺らつくな?って降りてきて、とりあえず片方、上手側のストッパー(移動階段の両脇、左右にストッパーがついてる)だけ止めて階段上がってった。
んでここで筆者は(ン?もう片方はなんで止めてかなかったんだ?まあここで完全に降りてきてってのもお客さん気になるし応急処置として片方でもたしかに問題はないかなあ)みたいな例によって邪推を繰り広げていた。
そしたらですよ、ラッコが地図とりにくるターンがあり、それか〜!っていう。いまからわかりづらい説明をする。
一回屋根裏に上がってったじゃん。んで、もう一回降りてきた。地図をとりに。地図はランドセルのなかにあるんですよ。んでそのランドセルは移動階段の下手側、つまり、さっき瀬戸ラッコが止めて行かなかったストッパー側にあるんすよ。
お分かりいただけただろうか。つまり、階段上がっていく段階で、「このあとランドセルを開けるタイミングがあるから、そこでもう片方は止めればいいか。」っていうのがまずあの段階で脳内にあったわけじゃんか。しかも地図はランドセルのなかにあるので「ランドセルに触れる」があることを見越して、先にランドセルがない側である上手側のストッパーを、客が気にならんように脚で止めていった。
ということを、地図をとりにきたラッコが「階段を降り切ってから」「階段の下手側に置いてあったランドセルを開ける流れのなかで」「手で」止めていったときに気づいて、めっちゃボエ〜〜〜〜〜〜となった。瀬戸氏はほんといつもフラットだなあと思っているけれども、マジでこの役者はほんとに板の上でもフラットだなあと尚信頼した。
こういうことが芝居のなかでできる役者はいい役者だと思っている。なんかゴミ落ちてんな、とかペットボトル倒れたな、とか。それの上級編になると噛んだとこにつっこむとか軌道修正にアドリブ入れるとか。要するにお客さんが気になってしまうところに触れられるかどうか。どう触れるのか。
階段ぐらぐらしてんなあぶねーな、ってのが解消されれば(これはお客さんへの目配せというより役者がまずあぶないし)よかったものが、瀬戸氏はそれを「どう」解消するかっていうことまで一瞬で考えていったわけですわ。おれが上がってったあとにここを走ったり飛び降りたりするやつはいないなあ、っていうのまで考えられるものかね。考えてないかもしんないけど。少なくともこの「一度目は脚で」「二度目は手で」に自我をかんじるよ。


あと20夜と21昼で瀬戸氏以外は全員テレコで対(塩崎ラッコ以外になるけど)全キャストをみれたこと、とくにトノキヨを男女でみれたのはよかった。男女、というのは、安易で申し訳ないが「わかりやすいから」です。誰だって相手が変われば自分も変わる。人間はみんなそうなので、わかりやすく変わるのはそこだよねという指標。歳上/歳下もわかりやすめだけども、今回「2」の関係(人は3人以上のコミュニティになると客観性が高くなっていくと筆者が思ってるため)があったのは対トノキヨくらいだった。シジミ渡すとこ。
対さひがし氏にはパッションがつよかった。どちらかといえば、感情をぶつける、といった感じ。
対わかばやし氏にだと想いを制御しつつもあふれるという感じがみえた。どちらかといえば、説く、っていう。言葉の掛け方が違った。そりゃ(一般的なのセクシャリティにもとづけば)女の子にたいしてはちょっとやさしめにいくのはそうだし、男の子にたいしてはガッツリいくよねと思う。一方でトノキヨの役者は2人とも瀬戸氏にとっては先輩なので、そこにはやっぱり敬意というか、誠実さがある。歳下なら「諭す」「伺い見る」「寄り添う」みたいなニュアンスもはいってきたんじゃないかなあ。身を預けられる役者が相手だから、真っ向からけっこうなエネルギーで言葉を掛けられるんだろうな、と思うなどした。


さいごは、あの最高のラスト前。ここのことを言いたくていろいろ書いてきた感がある。そのくらい、これがみれてよかった、と思ったところだ。

キヨが想像力を取り戻し、ひとつ、またひとつ、話し始める。
『憲宗が、海の魚と川の魚の味の違いについて、誰にも聞かれてないのに、話していました』。
末原氏は、それを「独りごちる」。虚空に視線を預けながら、自分のなかで想像が膨らんでくるのを感じながら、ぽつり、ぽつりと言葉を落とす。だからそれを聞くみんなはキヨの落とす言葉をこぼさないように、ぐっと前のめりで、頷きながら聞いている。
橋本氏は、それを「語りかける」。想像が膨らんできたことになかば驚きながら、みんなにそれを見せるみたいに、伝えようとするみたいに、一人ずつと目を合わせて、訴えかける。『憲宗が、海の魚と川の魚の味の違いについて、誰にも聞かれてないのに、話していました』。
そのとき瀬戸氏から、「ああ、」って声が聴こえた。
えっ、と思った。
やわらかい声だった。息の多い声だった。笑い泣きの混じるような。キヨの呼びかけに、その声をもって頷いた。
この景色にかなりギュってなった。ああ、って。それはきっと反応だったんだろう。まっさらな反応。戯曲にも書かれていない、橋本氏の行為に、フラットに反応する。目を合わせられて、あの先にあったかもしれない時間のことを、信じたい、そうありたい、その祈りを向けられて、そうだよ。未来はきっと、そうだったよ。ゼロの身体で立っているからこそ表出した、美しい反応だった。


リュズ夢は演劇としてはたぶんイレギュラーな作品だ。でも生の身体が、役者のエネルギーが、芝居がちゃんとそこにあった。だからよかった。この作品を、この作品に出ている瀬戸氏を観れてよかった。

みんなの海はどうですか




おぼんろの『瓶詰めの海は寝室でリュズタンの夢をうたった』を観た。

夜公演を観終えて劇場を出たら、池袋は雨が降っていた。天気予報をわざわざ確認して、わざわざ傘を置いてきたのに。
いつもわりとそう。備えてもその通りにはならなくて、たとえば膝の上に置いていたハンカチは使わなかった。でもなぜかすがすがしい心地で、街の明かりを吸い込んだ重い空を見上げる。雨はしょっぱくない。この雨は河に流れる。河は海に向かって流れる。私はひとの流れに逆らってずんずん歩く。歩けば夏の湿気に汗をかく。汗はしょっぱい。汗と雨が肌の上で混じる。そのぬるい雫が指先に伝う。この雨はいつか止むし、雨で街が没することはない。さっき飲んだソルティライチは私の身体にながれている。ぜんぶ流転してる。あの物語に暗渠になって流れている、そのことを思う。始まれば終わる。終われば、始まる。だからまたいつか会える。終わらないものはない。なくならないものはない。約束された終わりは確実にあって、夢は覚める。人は死ぬ。私はトノキヨの言ってることが死ぬほどわかる。『生きていたってどうせいつか死ぬだけだ。何をしたところで意味がない』。ずっとそうやって生きてる。今もそう。それはリュズ夢をみたあとでも変わることはない。トノキヨの、5人のあの表情を思い出しながら、ホテルまでの道を濡れて一人で歩いた。

いつも一人でいい、と思ってるけど、喪失がこわいからだ。数年前に祖母を亡くした。はじめて人が死ぬところを目の前でみた。もうずっと眠っていて、泣いたり、苦しんだりはしていなかったけれど、それでも悲しかった。夜。いま、何時ですか?と医者が言う。姉がiPhoneを取り出して、時間を告げる。いやご臨終の時間確認iPhoneかよ、と思ったこととか、ばーちゃんのまるい背中、もう亡くなったというのにカイロ貼りすぎてめちゃめちゃ熱すぎたこととか、お化粧をしてあげようと思ったらみんな持ってる化粧品が若すぎてわりと死に顔がイケイケな表情になってしまったこととか、そんなことばかり覚えている。亡くなった翌日、実家の庭に赤い彼岸花が一輪、急に咲いていたこととか。

だからほんとはすきなものを増やすこともこわい。この公演をみるまえもこわかった。大事なものが増えること、しかもその大事なものが消えてしまう(記録映像はあっても、その公演は一度限りで本当の意味でこの世に残ることはない)とわかっていて、それでも観に行くことはけっこうこわい。記憶は完全じゃない。毎回そういうこわさを持って劇場の椅子に沈んでいる。でもやっぱり観たら楽しい。楽しいし、心の水面に宝石を投げ込まれて波紋がおきる。そういうきらきらを抱えて何個もの夜を過ごしている。意味がなかったはずの夜を、やり過ごすんじゃなく、ちゃんと過ごせる。

大切なものを喪ったとき、もう立ち上がれないんじゃないかと思う。夜もあんまり眠れないし、ごはんもあんまり食べれない。もう何十年も、死ぬまでこんな気持ちを抱えて生きていくのかな、とか絶望する。
でも時間が経てばいつか大丈夫になる。人は忘れてしまう。思い出せなくなる。でも、忘れたいこともたくさんある。それでいて、思い出すこともできる。

作中でリフレインされる『かもしれない』の力を私はほとんど信じていない。トノキヨの言うように、期待したところで、そうならないことのほうが現実には多いからだ。
けれど、『それでも』の力を私は信じている。もうみんなはいない。あの時間は、もう戻ることはない。それでも。あの記憶を取り戻してよかった。悲しかったけど、苦しかったけど、あの記憶と向き合えてよかった。そう思う。
深海を歩くような、暗くて、つめたくて、長い孤独があり、それでも生きていかなきゃいけない、途方に暮れるような生がある。
だからこそ、さいごのあかるい照明のなかで、みんなの存在がきちんと証明されていくこと。
夜と朝は円環になって繋がっていて、きちんと朝日が昇ってくること。
生きることをやめたくなるときに、希望がきちんと希望としてひかること。

海をみようよ
最高の夏休みの思い出にしたいじゃん


トノキヨの口から、この言葉が聴けてよかった。

現実は現実として、ただそうあるだけだ。けれど、それをどう捉えるか。どう自分の心に定着させるかは、自分で決めることができる。なにかの喪失を、だれかの死を、どうやって携えて歩いていくか。

かなしみはちからに
欲りはいつくしみに
いかりは智慧にみちびかるべし

宮沢賢治 書簡

海が見たい、という欲求は、人それぞれのかたちをしていると思う。海を思うとき、あの舞台の上にあった海のことを、この5人が盗んできた海のことを、きっと思い出すんだろう。

胸のなかにある瓶を割る夜。この海はもう私のなかにある。

きらきらと明けていく夜。朝日を乱反射して眩しくなっていく海。未明の明るさ。見えていないのに、そこにある海。

みんなの海はどうですか。