マーシー・シート

舞台『マーシー・シート』を観てきたので詩情がダダ漏れになって書いた、しっちゃかめっちゃかなとても長いブログです。一応書いとくとこれはレポートではないし、括弧内はまったく台詞通りというわけではないのであしからず

ここに記すのは、書く者や演ずる者のこころではなく、わたしのこころのはなしであって、この舞台がどんなことを描いたものかとか、そんなのはわからない。観て、感じたことの羅列であって、決定的なものじゃないです
鏡のような舞台だった。いま、この4月の五日間に、なにが上演されたのか。

いやな物語。風景。灰色の雪。
「ねえ、2月みたいだ」
全部が終わって、目が覚めて、外を見たら、まるで真冬みたいなんだ。
ワールド・トレード・センターの亡骸を眺める2人は、偶然、あそこに居なかっただけである。

この舞台は最高に演劇的だった。
この舞台には、「演劇をやっている身体」以外に、「演劇をやっている行為をやっている身体」が発生していた。
というのも。公演期間中に地震が起きました。
熊本、震度7。
これを今、観るということが、この作品が、上演されるということが、どれだけ演劇的なことなのか。
そして、それだけでなく、「声優」がこれをやるということ。舞台に居たのは「俳優」でした。紛れもなく。「声優」という記号がうまく使われていて、だからわたしは身体のことについて考えざるを得なかった。見事に記号に踊らされて、たまらなく演劇的だと思いました。興奮した!

この舞台について、三木さんのインタビューがある。

舞台も声優の仕事も、「役を借りる」部分に関しては、肉体の使い方は全く同じだと三木眞一郎は言うが、しかし、それらは「似て非なるもの」であるとも言っておられる。
曰く、声の仕事のときも当然肉体を使ってはいるが、声優の演技と俳優の演技について、図像の見た目通り自分の肉体を動かして使えるかどうかという違いがある、とのこと
声優が使う肉体の使い方は、声を任された人物の動きを「再現する」ための肉体であり、いわば容れ物である。舞台では役の人物の動きをそのまま再現するが、声優はマイク前では実際にそれをする動きをそのまま再現できない。よって声優は、その状態を再現する筋肉を、マイク前で台本を持っている状態で動かせれば、止まった状態でよりリアルな声が発声できる。それが声優と、映像とか舞台の人の肉体の使い方の差、だと

ここで思うのは、俳優でも声優でもやっぱり三木さんは自身の「内面」を演技に持ち込まないということだ。仕事のスケジュールもきちんと声優業を優先にしつつ、「役を借りる」と言い切る彼は、とても声優という感じで最高ですかよ……

三木眞一郎は境界に居ない。
三木眞一郎が三木眞一郎であることは「声優」にとっては必要なく、キャラクターと自己の比率は100:0に近いんだろうな。たぶん。自分がキャラクターになるのではなく、キャラクターを自分にするのでもなく、それらに折り合いをつけて中和するのでもなく。そのどれをとったところで虚構の純粋さは保てない。それを知った上で、三木眞一郎の在り方がある。「借りる」という言い方は、その主体が自分になるということだ。しかし「役を借りる」と言った三木さんは自己をキャラクターに押し付けない。むしろ退こうとする。このように押しては引いたところで中間に立つこともなく、この複雑な乖離を大事に抱えたまま三木眞一郎の声のある虚構は成立する。この不可能性に満ちた曖昧な駆け引きが虚構を虚構として違和感なく成り立たせているのだと思う。なかなか難しい闘争だ。

ただ、言葉の定義の難しさというのはあるんだけど、再現するための肉体、というのは俳優においても言えることである。俳優もカメラの前、舞台の上などで役の再現をするわけである。ただ、やっぱり明確に違うのはそこに自己があるかどうかということだ。声は肉体がなければ存在することのできないものである。役が黙ったとき、目の前にいるそのキャラクターは果たして誰なのか。俳優は黙る。黙ればその空間には静かに肉体がある。声優が黙るとき、その肉体は声を取り戻し、完全体になるとして、空になるキャラクターのどこにしがみつけばよいのか。
(でも三木さん、沈黙が上手かった…「沈黙がうるさい」というあの状態が続いたときめちゃくちゃグッときた…)
声優における演技というのは、たぶん、その場面における肉体の在り方のアイデンティティを増幅すること(よりそれっぽくする、声からその場面における肉体の在り方を想起できる)であるのに対して、俳優においては、声の表情は二の次で、その場面における肉体をありのまま、存在させることなんだろうと思う。でもまあ、キャラクターに声をあてることはそこに感情を込めるということなので、声を持つ本人が見えているか見えていないか、どこに立っているかの違いだけだとは思うんだけど。要するに感情の分配のはなしということかな、どこに比重を置くかによって表現を考える。だから舞台の上では、自由な身体を手に入れたはずなのに、持て余す。見られる身体・客体であることを意識をすることで、ソファから立ち上がるたびに無意識にシャツの裾を直す。何度も腕を捲る。
あ、不自由だ、と思った。
だって身体の動きは不随意的なものなので。例えば、いま、あなたの身体を隅々まで点検してみてください。足の指が丸まっていたり、腹に力が入っていたり、脚をぶらぶらさせていたりする。これは考えてやってることじゃないというのがわかる。だから考えると、自分の身体がめちゃくちゃ邪魔なことに気付く。どうやって歩くか、走るかなんて考えないし。本来反射的に脳からきてる指令を、無理やり演じるということは、なかなか難しいことだと思う。
このシャツの裾を直すとか腕を捲る仕草たちは、例えば女の子がスカートの裾を気にするみたいに、食い込んだパンツのゴムをパチンとやるみたいに、自分にとっての不快感を解消するという行為で、だとすれば、こういう仕草がこの居心地の悪い舞台にあるということが、なかなか必然に思えてくる。この不自由さをベンは持っている。だから三木さんは演じようとすることで「ほんとうになる」っていうことになる。発話が自由だから、尚更。見事に役がハマっている…

そして、ベンは窓の外の出来事を見て、言う。
「言葉にならないよ」
「わかってるわ。でもしなきゃ。言ってみて」
言葉って記号だから、例えば「愛」という言葉に思う風景がみんなそれぞれ違うように、ラブレターを書くときに「好き」って言葉なんかいらないように、きちんと自分の言葉で話すことは、難しい。
「ニュースみたい。それは定型文でしょう」
感情が当てはまるからといってクリシェを使えば、どうしてもどこかを省略してしまう。

三木さんの持つ言葉は独特で、だけど、だから、カーテンコールの言葉がきちんと自分の言葉で、たまらなかった。みなさんと空間を共有して、吐き出した呼吸をもう一度吸ってここ(胸)に落とし込んだときに現れる感情がある、と。

というわけで、「ベン・ハーコート」は、声優:三木眞一郎にしかできないんじゃないかと思いました。

っていうのは、この身体と中身の乖離感みたいなものについて演劇的な効果だけでなく作品自体からも考えることができるし、作品自体についてもたくさん考えてしまった

「あなたはいつも後ろから私を愛する。あなたはいつも愛し合ってるとき、そうやる、やられてる、そう、私そういうふうに思っちゃうのよ」
「あなた愛し合ってるとき一度だって私の目を見てくれないの」
「絨毯の品質表示のタグを見ながら、あとはね、リストをつくるの。あたしあの別荘でクリスマスの予定ぜーんぶ立てちゃった。それから、あなたの奥さんにいたぶられることを想像しながら、私あなたに入られてるの」
そう言うアビーに対して、だって俺たち、身体の相性は最高じゃないかって、ベンは言う。
「愛してる。大丈夫」
この関係は不倫である。後ろめたさも感じてる。ときどき、うんざりする。でも、この言葉は嘘じゃない。
「俺が欲しいのは君だよ、アビー」
「俺たちは、同期で会社に入って、狙ってたポストに君が就いた。ただそれだけのことだろう」
「それと、俺は、後ろからするのが、好きなだけ。こう、なんか、近くなれたような感じがするから」
たまたまそうだった、というだけなのに、他人から見たらいろんな偏見になる。ベンは彼女の身体だけで、内面を求めていないのか。そうじゃない。セックスの最中一度も目を合わせなくても、自分はできるだけ何も捨てたくなくても、アビーのことを愛しているのはほんとうだ。
「けどここでは君が男だ」
「だからって君が支配欲にまみれたクソアマになる必要はない」
2人にとっては特別な関係でも、他人から見ればそれは犯罪かもしれない、不倫であり、パワーハラスメントであり、ただならぬことであり、どうでもいいことである。
「実際どうかはわからないけど、彼女、レズビアンに見えるよ。それだけで十分だ」
わたしたちが見るのは、好きなことも嫌いなことも、気持ちよさや、いやな感じも、すべて事実である。だけど、事実は、絶対じゃない。女はどうやっても女だし、男もどうしたって男で、だけど、例えば女がズボンを履くように、男だってスカートを履いてもいい。わたしたちは抗うことができる。事実はいつでも変えられる。
「あなたは、私があなたを愛していると思う?」
「僕は、君を愛してる」
「私はあなたに訊いてるのよ。そうやって他人のことを自分のことにすり替えないで」
例えば、肉体に、正しくセクシャリティや、魂自体が宿っていないこと。自分が自分じゃないような感じ。誰かに深く共感するとき、その人のことを分かったような気になって、まるで、わたしはあなたであるみたいな気になって。
「窓には近づかないほうがいいわ。この辺じゃあなたのことはみんな知ってるんだもの」
「知ってるけど、あなたを、ほんとうに、知っているひとがいると思う?」
「わたしの言ってること、わかる?」
わたしはあなたを愛している。だけど、全部だとは限らない。
どんなことがあっても、わたしたちは無傷な別人である。どんなに干渉しようとしたって、結局は、お前に何がわかるんだってことになる。物理的に身体を繋げたって、結局は、わたしはあなたではない。
「わたしはあなたのために灰を被りながらチーズを買ってきたの。だから食べて」
今、わたしのことを考えていてほしい。とか、その思いは傲慢でしかない。いちばん大変なときに、いちばん大切なことを考えているとは限らない。
当事者/傍観者として、わたしたちは境界にあぶなく立っている。
自我境界の曖昧さ。「演じる」という消極的な服従。この舞台では、そういうものを「声優」が担うことでまたひとつ別のレイヤーが生まれていたと思う。
わたしはあなたではない。
あなたもわたしではない。
わたしたちは互いに他人であり、本来は、ただ等価なはずだった。だけどそこに権力が生まれたとき、崩壊する。それは性別だったり、職位であったりするのだけれど、これらはすべて仕方のないことで、誰が悪いわけでもない。
だからこそ。
「こういうことが起きて、いちばん初めにあなたが言ったのは、これはチャンスだっていうことだったのよ」
「これが素晴らしいって言ってるんじゃないよ。ただ、これは事実だ」
真実は汚い。例えば、悪意のない悪意や、災害、その他諸々理不尽なわけのわからんことがこの世界には平然と存在していて、愛し合ってる2人だとしても毎日がうまくいってるとは限らないし、どうにか今日を、明日を、過ごさなくてはいけない。それがどんなに最悪でも、とりとめがなくても、どうにかしてやっていかなくてはいけない。それはクズでもヒーローでも同じこと。ときどき外で鳴る救急車、突然かかってくる電話の音に、はっと我に返って、思い出す。この隔離されたアパートの一室は、外の世界に繋がっている。目の前にあるこれらは紛れもない事実で、これが生活というものだ。
いくら悲しくてもやりきれなくても、最後にはいつもの夜が来て、いくら今が大変だって、恒例行事は執り行われる。
「ヤンキースが勝って、そしたらアメリカは立ち直るんだ」
「これがアメリカのやり方なんだ」
例えば2020年。ニッポンの栄光にはきっと震災が持ち出されて、悲しみはすり替えられる。
「わたしたち、いま何の話をしているの?」
いろんな出来事が複雑に絡みついて見えなくなってしまった本質。はっきりと理由は言えないけれど、なんとなく、目の前で鳴っている電話にいつまでも出られない。この不安さ、心もとなさ、そこに誰かがいるならば尚のこと。
結局、人間は自分で生きるしかない。ベンはいつか電話を取らなくてはいけない。人生を選ばざるをえない。どんなに酷いやり方でも、その選択が不満でも満足でも、人はそれを自らの意思として引き受けなくてはならない。過去は変えられないし、死ぬまでは未来がある。罪を背負っても、生活は続く。
「そうすべきだ、って言ったんだ」
過去は過去として事実である。変えたり、捨てたりはできない。
“過去によって変えられるものは、今の自分の気持ちだけだ……他人の気持ちや、ましてや命は”
そういう言葉を吐いたことのある身体が、あの舞台に立っているということ。
「芝居をしてるんだ」
ベンはそう言った。
「ラストが台無しになるから」
「これは映画じゃないのよ」
過去を変えようとするとろくなことがない。わたしたちはいくつものフィクションを通り抜けてきたはずなのに、何の教訓も得られない。結局どうなったところで完璧な幸せなんかどこにもないのだ。宮沢賢治は世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ないと言ったけど、それはほんとうにそう。これは愛おしい逆説である。
皆が心地よく暮らすっていうこと。誰もが居心地の悪さを感じている。それはたとえどんなに幸福なセックスのあとでも。2人は不和を抱えている。
誰かがわたしの幸福であるように、わたしが誰かの不幸であるということ。
「わかってる」
「でも、そうじゃない」
「ぜんぶじゃないよ。ときどきだ」
I know that/but/sometimesはすべてがほんとうで、いつでもそのときはそれが正しい。ひとつの質問の答えはイエスのこともあればノーであることもある。ここでイエスを選んだときにノーはただ存在するだけで、否定されるわけではない。アビーは真実を見たがって、その場に留まろうとするベンを連れていこうとする。
「わたしがこう、四つん這いになって、ときどきあなたは、下に降りてくる。自分では上手いと思ってるでしょうけど」
「あなたのやり方が下手って言ってるわけじゃないのよ、でも上手くもないわ」
選択をすれば、選ばなかった道は、まるでなかったみたいになる。ほんとうはそこにあるのに。わたしたちはすぐに忘れてしまう。生きていくために鈍くなる。自分がかわいくなっていく。
「俺は自分を守ってた。これでいい?」
保身をする。逃げる。ときには逃げることすら選ばずに目の前の選択を放棄してしまう。Y字路の分岐点に佇んで、動かない。停泊する。
「チーズ、買ってきたわよ。少し食べる?」
「いや、今は、いい」
またあとにする。そう言って幽霊みたくなってしまったいくつもの他愛ない出来事。
「逃げるんじゃない。ただ立ち去るだけ。俺たち2人が、ただ歩み去るんだ」
「今なら出来る」
突然、誰にも責任のないことが起きて、誰もがその災厄を素直に恨んだ。だからこれはチャンスなんだ。こんなのはいつでもできたはずのこと。それを、いまなら、なにかのせいにできる。2人の関係ないところにある、なにかに。選択すべきことはもうずっと前から分かっていた。だけど、それ以外のこと。なにかを選べば、なにかは捨てられる。これは2人だけのこと。君と、俺と、でも、それ以外のあらゆることが、罪悪として2人に覆い被さるのだ。そうしたい。だけど、できないのは、重要でない他愛もない「事実」が、どうしても胸の柔らかいところから入り込んでくるからだ。麻酔が切れたとき、それらは否応なく心を刺してくる。

どうして皆、笑えるんだろうと思った。
わたしには他人事じゃなかった。この居心地の悪さ。身に覚えのある罪悪。
客が笑っていること。
それはこの物語が自分の身に降りかかるものではないからだ。他人のことだから。
遠くでサイレンが響いている。
2人は当事者であり、無関係である。

キャラの思考法 メモ

『キャラの思考法:現代文化論のアップグレード』さやわか(2015)青土社.

・「きれいな偶像性」
…「実体」のないアイドル(虚構性)←ファンの自給自足
=理想のアイドル像
初音ミクの「声と絵の分かちがたさ」p.26
“言葉はだけがある場所には時間が流れていないし、声も存在しない。”
・音響派:曲や演奏として以前に「音そのもの」、「聴くこと」について自覚的になる
p.38「作りもの」であるアイドル↔︎「アーティスト」(自分で作詞作曲すること)
…「作りもの」は演じる
90’s:内面と表層をいったん分離した上で、それらの一致を見出す(内面は隠されているという心理主義的な価値観)
“引きつったような笑い”
キャラ(演じられる)/キャラクター(設定の束)
「演劇をやっている身体」
「演劇をやっている行為をやっている」←ゼロ年代以降のアイドル
p.92 【言葉と声、空間と関係】
p.94 アニメを私がみることによって私の中に彼女が存在するようになる
=図像の中に空間はなく、キャラクターと我々の間にこそ空間が生まれる
固有のキャラクターというのはありえなく、キャラクターはたくさんの私の中で内面化・複数化される
私との境界、私という内面、私という鏡
p.157 選択とは何か。…(中略)…選択それ自体は善悪を越えてしまう。また我々が何かを選ぶとき、その外部には選ばなかったやり方がまるで幽霊のように、ただ同時に存在している。
自分のやり方を自分で選択していかなくてはならないが、それが不満でも満足でも、それを自らの意思として引き受けなくてはならない
アニメ…記号性の追求が本質である表現→オタク文化
(オタク=一般的ではない記号の内容を知っている人、みたいなことだ)
Y字路という選択
ガラス、水、鏡という 歪めるレンズ(フィルター)←ガラス、カメラ、モニター
p.212 “キャラ図像”と”キャラ人格”
キャラ図像あっての「人格」…受容者の側で生まれる時間的な連続性が生成する(=キャラが時間を持つ状態)
・実存モデル
①「ほんとうの自分」という確固とした同一性」90’sのアイデンティティ像、近代的自我)
②「キャラ変」できる自我(時間的な推移によって)、キャラは書き換え可能であり、彼らが本来的に持つとされる一貫した内面は問題にされない

ヘッドフォンの向こう側に救いはあるのか

よく声のことを考えることがあって、それは不思議だと思う。身体とは乖離していないけど、していないからこそ、声というのは身体を取り去ったときに残るはずはない。なのにそれ単体だけで存在するように思えることがあって、例えばスピーカーとヘッドフォンをすればそのようになる。
声はかたちがないのに思い出すことができる。感触を知っているような気がする。ことばではなく科白でもなく人格でもなく喋り方でも感情でもなく「声」 その色とかたち 感覚 これはなんだろうって気分になる。クオリアみたいなもんだけど、肉体がなかったら声は存在できないのだし心がなくても発される必要性があまりない。伝えるためのもの、もしくは自分を守るためのもの、相手と関係するためのツール、云々。もちろんそんなことは絶対にないんだけど、アニメとかであれば人間が演技して魂を吹き込んでいくので第六感的なものはやっぱりついてまわるのだけど、最終的に残るのは「声」であってそのとき役者の身体はやはり余ることになる。肉体が余る。その身体性についてどう考えればよいのか。ということを知りたくて舞台「マーシー・シート」を観に行くことを決めました

以前、三木眞一郎さんが自身のサイトに以下のように書いていたことがあってそれにわたしはめちゃくちゃ感動した
舞台「奇跡の人」観劇後の文章である。この舞台の内容はウィキでどうぞ ヘレン・ケラーとサリバン先生のお話である

わたしは小学生のころ朝読書でそれについてのを読んでいたことがあったので舞台の内容はなんとなく分かるが、彼がこの物語をまっとうに感じ、こういう文章をしたためたことがものすごく重要であると思う。

なんで台詞を読みたがるのだろう
そんなもん無駄なんだ
オイラたちが言葉を手に入れた瞬間に失ったモノのなんと多いことか。
伝えるんだ
自分のやりたいコトではなく
声帯を任された人物の言いたいコトを。
聞き取るんだ
くだらない雑談ではなく
記号になっている人たちの言いたいコトを。

誰かに声を付与する という行為への文章としてなにをどう説明してもこの何行かを越えることはできませんでした。あーこれはほんとうにそうだなって心から思った。いいなとか好きだなとか最高だなというよりもなんというか、うわーっていう、嘘だろ、というような静かな衝撃みたいなものがあった

彼は自覚的に記号という概念を持ち込んで作り手がそこに投影した思想を自身へと逆輸入しようとしている。
ほんとうに言葉って邪魔で、例えばそれは椎名林檎が「太陽 酸素 海 風 もう充分だった筈でしょう」と歌うように かたちを与えてしまうから見えなくなるものがたくさんある。Le plus important est invisible. 大切なものは目に見えない。そういうふうに覆われてしまった本質をどれだけ読み取ろうとするか どれだけ伝えようとするか そういうことをこの人はわかっているんだと思った。

声優はキャラクターに声を吹きこむとき「見られる」身体を持たない。どうしても身体はあるのにその肉体が余るという現象が起きてしまう。なぜなら、「声」はキャラクターとは切り離せないものであり、その「声」は肉体をもつ「身体」から発されるものであり、その「身体」はキャラクターが持つものである(ということに最終的になる)からだ。このとき「身体」は容器、容れ物のようなものだと言ってもいい。「声」は容れ物が所有することになっているし、そういうことになってしまうのだが、そのとき演者の肉体が余るのである。と、こういうことをずらずら書いているうちに、あるインタビューを読んだ。2009年のものらしい

三木さん曰く”肉体はいらない”という。皮(がわ)には価値がないのだと。

僕たちは肉体という器に住まわせてもらうことを許されているだけの存在なのかなって思うんです

彼も「器」というけどわたしもすごくこの感覚がわかって、もう二元論として、肉体と精神はばらばらな感じがずっとしてた 流転とかがらんどうっていうことばを信頼してた

自分の肉体と精神が離れそうになることがありますね。意識的に笑顔にしていないと、誰かが僕の中に入り込んできて、ぼくは追い出されてしまう

この乖離感覚。こういうふうに落ち込んだときに肉体を皮(がわ)として意識するようになったという。

三木さんは「演じる」という言葉を使いたがらないらしいが、彼は声優という仕事をパーツだというが、それはやはり「演じる」というと主導権がこちらにあるので、キャラクターを役者に引き寄せる感じになるけどそのニュアンスよりも彼はたぶん役者側がキャラクターに取り込まれる というような感覚を持っているのだと思う。「演じる」よりも「ほんとうになる」という感じなのかな とにかく彼のなかでキャラクターと役者どちらもが完全体であることはなさそう
役者とキャラクターは一見50:50で(というか100:100で 同じ比率で もしくは比較関係ですらなく)存在する。けれど声を付与するとき、中身は、その精神の内訳は、0:100あるいは100:0という配分になっていると思う。

キャラクターへ没入/孤立すること つまり声を主体としてどちらの肉体に立て籠もるのか、みたいなはなし。まあどちらに傾くにせよ、どちらかには傾くのだ。声優というひとたち全員がこういうふうに自分とキャラクターの境界が柔らかいわけではないだろうけど、この細胞壁みたいな境界が不随意に作動してしまうことはなんだか恐ろしい。また必ずしも声優でなくともこういう感覚をわたしは分かるし、あやふやな怯えのようなものをいつも持っている。

ともかく、こういう感覚をきちんと自覚的に持っている人が声優にいるということがどんだけ素晴らしいことなのか。とてつもなくいいなって思ったしそういう精神性ってやはり演技に出てくるものなのだと思う。本当に最高だ
(この乖離感覚というのはBLの諸々にも通ずるところはあるんだけどそれを話し出すとほんとうに混沌とするので、なんかわかるな と思った方、詳しくはとりあえず『大人は判ってくれない』という本を読んでください。これは一般論ではないのかもしれないけど少なくともわたしはめちゃくちゃ共感し、深い感慨を持っているので、この乖離感覚 こういう精神性をもつひとが、腐女子がボーイズラブにはしる感覚に近いものを持ったうえでBLには心があるとか言ってたくさんドラマCDなどに出ておられると思うとほんとうに感動する)

さて 声を吹き込むという行為は、魂を与え、キャラクターを生かすということですが、なにもかもきっぱり分断できず、だからといって同一化するのも間違っている状況ではありますが、ではフィクションという虚構のなかで演じられる(または本物になる)現象について、なにがほんとうなのか。なにをどのように真実にすればよいのか。本物にしてよいのか。フィクションであることのほうがリアリティを濃くするのではないか。という詭弁っぽい疑問について。

アニメという場所でいえば声優はたぶん「自然さ」よりもきわめて演技的な演技を求められているのだろうけど、そりゃ演者のタイプも様々 技術で声をつくるひともいれば演技をすることで人格をつくるひともその他も諸々あるというのは承知の上で、技術だけが必要なのではないというのはわかる。知らないけど。という予測を立てるのは、先述したように声を吹き込むという行為は魂を与えることだからです、感情そのものを投影する行為だから

そのなかで、演者はどこへ向かうのか。

虚構という場所のなかでまず発見するのは、演者が不自由な身体であるということ。決められた台詞と絵が既にあるなかで、演者に託されるのはその記号内容です。声そのものとか喋り方というのはキャラクターの人格を決定づけるものであるから勿論のこと、その言葉のニュアンス、間の取り方 つまり感情というやつですね。演者はそのときやはりキャラクターそのものを任されるのではないか。というとかなり演者が自由なように見えるが、やはり演者自身で動かせるのは決められた記号の範囲内に限られる。そのように演者は、自分の知らない「身体」を新しく与えられることで、否応なしに不自由な身体を持つことになる。

キャラクターに声を入れるという行為において、演者は自分の意識から半ば身を引き離すことになる。それはつまり客観である。キャラクターにログインしつつ乖離する。難しい両立だ。これは無知で頭の悪いわたくしという人間が書いているので尚更、この闘争が可能であるのか、またこの闘争が存在しているのかはともかく、客観するということは没頭しないことであり、それはやはり真実を見ようとすることなのだと思う。ここで完全に切り離してしまうと、それは客観ではなく無関係になる。無関係ではなく客観。鳥瞰。こういう関係を浅田彰は「シラケつつノる」と言ったがそういうことだろう。この行為そのものが問いかけなのであり生きるということだとわたしは感じ、これはれっきとした「表現」である、そしてこの行為をとりまくものすべてひっくるめて「思想」であるのだなと考えた。

「声」というのはなんだろうか。「声」をあげるひとたちというのは何者だろうか。そしてそこにある意図とは、そこに暗渠になっているものとは。
いままでまったくよく知らなかった世界のうえにわたしは立っている。なにも知らない。アニメは小学生が見るものだと思ってた。それなのにいま、ただ2次元という虚構がひたすらに愛おしい。例えば、三木眞一郎という人が好きなのか三木眞一郎の出す声が好きなのか三木眞一郎の声をしてるキャラクターが好きなのかわたしはわからない。けれどそこに断絶がないように、友情とか恋情とか依存とか執着が似ているように、好きなのか嫌いなのかよりもなにか特別であるといった感情をうまく説明できないように、ただしさは据え置いて、こういう在り方が、ただ、あるのだと思う。彼の声をわたしの意識下から浮上させたのはBLのドラマCDだけど、その水面に見たのは、愛おしい声の、知らない誰かの姿だった。

ぼくはおんなのこ

「おまえさ、ショートとロングならどっちがタイプ?」
「んー、これめちゃくちゃ考えたんだけど、選べない、どっちも好きなんだよね」

やはりなにに対しても、これは普通、これは普通じゃない、とか、世論的な偏見というでかい空気みたいなものはどうしてもある。これは悪気のない悪なので。しかし、もっとフラットでいいのになーとそういうのに触れるたびに思います。ショートもロングもそれぞれどちらも魅力的なわけです。

アニメ「放浪息子」を見ました。淡くてよわい物語のなかでゆるやかにあぶないバランスですべてがしゃんと立っていた。この「ふとしたもの」の感じはたぶん、文字でもなくて、でも言葉のつよさは必要で、そのうえでアニメやマンガに立って鮮やかになる。この物語が持つのはきわめて日常的な風景、日常的な感情に見えながらそこからのズレ 不気味の谷みたいなやつ がひたひたと浸透してくる感じがあって、この物語はフィクションであることができて、フィクションでしか成り得ないなと(でもやっぱりこの物語にはマンガがいちばん合うんじゃないか)(あと見ててなんとなく高野文子の『おともだち』思い出した)。
わたしはというとあまり自分の性を気に入っていない。ジェンダーのこととかは専門家に聞いてください。ただ呼称の問題として女性的/男性的ってのがあるよね、とか、云々。

ああ言えばこう言う、その正義は論理や整合性なのかはたまた雑然で混沌なのか よくわからない社会のなかで、いまの時代は男の子が内股でもいいし髪の短い女の子だっているし、けっこう許容されている気がする。というか、別に何やってもお前には関係ないじゃん、お前に何がわかる、というのを感じる。しかし、性にそぐわない恰好してたりすると多分ギョッとはされる、みたいな時代なんではないでしょうか。万人に認められることを諦めれば、なんでも軽くできる。願望実現までのハードルがだいぶ低い。あんまり本気にならなくてもいいわけです。だから、例えば男物のスーツを着ている女の子がいたとして、わたしは男の子になりたいわけじゃない、けど女物のスーツはダサいから着たくないし、ネクタイってかっこいいじゃん、みたいな。または、いつもジーンズにTシャツだけど、今日はかわいいの着たいなー、みたいな。もしくは、服はもうS,M,Lサイズからしか選べないけど、キッズのやつカラフルだしかわいくて着たいなー、でも入らないや。みたいなこと。

このように願望はいくらでも自由に抱いていいが、社会はそうはいかない というところでの土居くん「バカじゃん、お前」ですよねー。学校という屈強なコミュニティ、それまた中学校ときたらなかなかのつよい存在感だと思う 中学生のときはだいたい学校が自分の世界のほとんどすべてだと思ってるし、(関係ないけどみんな実際アニメのように放課後遊んだりしてたんだろうか、少なくともわたしはありませんでした)そのつよいコミュニティのなかでキャラクターを変更することはかなり大変なことだから、遊び以外ではスカートとズボンを意志として纏うのはハンパなく勇気がいることだ。そこを乗り越えたっていろんな障害が待ち構えてるというものでいくら緩和されてきた社会とはいえやっぱりムリですよねー。という諦観みたいなきもちになった 溜息。それでも誰も悪くはないし、なにがまともでなにがそうでないというわけでもない。誰だってみんなしっくりきたいんだと思う、各々の自然というものがあるわけで。日本人は寿司と天ぷらばかり食ってるわけじゃないし。しっくりこないと苦しい。歌いてえー!ってときはカラオケ行った方がいいし、こいつが好きだー!ってときはそいつを愛したほうがいい。わたしは性をキャラクター構成要素のなかのひとつであるとしか考えていないのでほんとに男/女に生まれてきてしまったものは仕方ないけどみんながやりたいことやれるようになればいいなと思っている。どうせ分かり合えないんだから。知識とか学問とかそういうものを纏わせてしまうからフラットになれないんだってば。もっとみんな社会とかではなく人間として源流のほうで考えてくれ。もっと頑張れ、本能とかそういう純度高めなやつ。

かなしみはちからに

カミナが死んだ
カミナが死んだという事実を信じられないままカミナがまたひょっこり登場することを信じて13話までオープニングもエンディングも飛ばして見続けたがそれでもカミナは死んだ。カミナは死んだらしい。まだ信じられない
次へ次へと見続ける手をやっと止められたのにそのあとも不在に耐えられなくてというのもなんだか違うんだけどカミナという存在を希求するようにTumblrでハッシュタグ”kamina”を延々と検索しgifを漁り続けていた。インターネットのなかでカミナは生き生きと動いていた

カミナは8話で死ぬ

27話まであるアニメのめちゃくちゃ序盤で主要キャラクターが死んだ
死んで、その死を悼む暇もほとんどないままに物語は容赦なく進行していく。決定的すぎるくらいの死の証拠が欲しかった。ほんとうに呆気なく、それはおやすみと言って目を閉じるみたいに訪れて、通り過ぎた。みんな泣いていた。その次回では画面の中の誰かがカミナの死をまだ信じられないのよ、と言っていた
カミナの死はその後ずっと引き摺られる。もうしつこいくらいにカミナの存在を忘れない
カミナの不在が、カミナの存在を浮き彫りにする。

11話で回想的にカミナの姿が画面に現れ、その青い髪 赤い目 つよいまなざしを見たとき その死から暗渠になって脳に流れていた彼の不在のありかがなくなって、カミナの存在をいたく感じた瞬間、どうしようもなく涙が溢れ、ああ これは体験なんだ と思った

カミナと共に戦ってきた仲間がみんなそれを信じられないように、わたしたちもそれを信じられない。泣いている暇もなく、そのかなしみは抱えられたまま、あたりまえみたいに明日はくる。その喪失は葬られないまま、その喪失は時間に携えられて、歩まれる。きっと最終回までのあいだに、シモンやヨーコたちとおなじように、わたしたちも再生していくのだと思った。わたしたちだけがこのかなしみを乗り越えられないのではない。わたしたちがグレンラガンという物語を通り抜けてきた時間は、カミナと戦ってきた者たちの過ごしてきた時間でもあるし、アニメのなかの勇者たちだって泣いたのだ。まだ泣いている。機械が直るあいだに心は壊れる。それでも最終回までの時間はまだまだあるので、きっと、ときどき思い出して、どうしようもなくなって、泣いたりして、それでもときどき忘れる。死が身体に馴染んでいく。強くなる。

グレンラガンは2人搭乗していなくても動く。
「そっか、本当にひとりでも闘えるんだ」
ヨーコの零したこのことばに満ちる感情が、前に進むということなのだと思った

恋するバイオリズム

なにかを鑑賞する ということに対して、どうしても構えてしまうことがある。例えば演劇。どのくらい予習は必要か、タイムラインにとめどなく流れてくるネタバレをどうするか、などなど。いろいろ気にするのはたぶんその作品にたいして身構えているからで、公演中にケータイ鳴ったらそりゃ迷惑だけど、極端に言えば隣の人の身じろぎにまでもイライラしてしまうとか。映画であればポップコーンの音。完璧に鑑賞したい、という思いがつよくなると過敏になる。まあわかるけどさ。
もっと適当でいいんだよな と思う。わたしは何年か前までDVD1本見るのもなんというか覚悟が要る感じだった。家族が寝静まった頃、なんの妨害もなく見られる状態にして、きちんとデッキの前に正座して、固唾を呑んで、再生ボタンを押す。模試かよ。
本気で見て、本気で泣いたり笑ったりして、できれば我を忘れるくらい夢中になって、そういうのを純度の高い体験だと決めつけて、静謐な鑑賞行為を求めていたんだと思う。
だけど、アイドルにハマったときに(ああ DVDって いつ何時何回も見ていいんだ)というのをやっと知った。コンサートや舞台も「何度も同じものを繰り返し観たら飽きるし飽きたらせっかくの体験の純度が落ちる」みたいな理由でその一回性みたいなものを大事にしすぎるあまりせっかく音楽性のあるものを掴み逃してた。噛めば噛むほどおいしかったのに。だけどアイドルのDVDを見るということは、推しだけを見てもよし、萌えるとこだけ切り抜いて見てもよし、舞台だったらストーリーを追ってもよし、何度も見ることで作品について理解を深めてもよし、であり、やっとDVDを買った意味を感じられたのだった(前までは単純にモノとして所持しておきたかったから買っていた)。だらだら見てもいいしチャプターばんばん飛ばしていいし途中でトイレ行ってもいいしBGM的に流しててもいい、というのをそのときやっとわかった。なにかを鑑賞するとき、ひとつの現象に向き合うときにまったく純粋な鑑賞というのはまずありえないので、そのときそのときの体験において、もっとハードル下げちゃっていいんだと思う。そうするとそういうエンターテイメント的なるものたちは日常に組み込まれてくるので、いい意味でなのかは知らないが楽にはなるのだ。お好きなときにお好きなものをお好きなだけ。変に病んでも勿体無いし。というわけでこのブログも構えず書いたら10分足らず。
何度も同じものをみたりきいたりすると、身になるという感じがする。こんだけなんでも好きなときに手に入る現代でも、体内脳内になにかをインストールするのは自分のがんばり次第だから。好きだと何度も触れたくなって、最終的には食いたくなる気がしませんか。じぶんと好きなものが一体になってる感覚というのは、それはおたくにとって幸せなことじゃありませんか。

アニメってなんだ

昭和元禄落語心中というアニメが放送中な現在ですが と書くがこれはアニメという枠に一言で括っていいのだろうか。

わたしはもっとこういうアニメが見たいなと思う。このアニメを見るにはかなりのエネルギーがいるし教養もいるし心がたまらなくなるし情緒が大騒ぎでめちゃくちゃ大変なんだけどわたしはこういう物語が見たい。わたしのなかで集計されたアンケートにはアニメを見るひとのほとんどはなにかを考えるためというよりもどちらかといえば無になりたいから逃避したいから見るのだと書いてあるし、確かにアニメというのはつくられたものなので登場するものすべてがリスクを背負っていない。すこし躊躇する言い方でいえばすべては記号に過ぎないわけで、だから反道徳的でもいい。ありえない話をしていい。戦争もしていいし、人が死んでもいい。アニメのほとんどはストーリー以外でも現実には起こりえないことをしていそうだし、画の力というのは偉大なので、ストーリーは差し置いても「めちゃくちゃ強い奴が悪い奴を倒すぜ!」で終わっても全然おもしろいと思う。思うけどさ。

なんのためにアニメでやってるんだ。落語を。いま。

そりゃ時代など諸々の設定とか、役者が天才落語家を演じるのは大変だとか、いろいろ、越えなくてはならないハードルみたいなのはかなりあるけど(正月あたりにニノがやってたドラマ「赤めだか」は実在する人物立川談春のはなしなのでこれは虚構ではない。ニノ曰く噺を覚えるのがマジで大変だったそう。そりゃそうだよな。関係ないけどこのドラマでかかってた音楽がカバー多かったのよかった 落語のはなしなのでね)、やっぱりこの物語の持つドラマ性を、アニメという手法は増幅することができるからだと思う。

例えば、ドラマでは口元だけとか、身体の一部を撮ることはあまりない。シュヴァンクマイエルかよ、ではなくて映画とドラマもまたそれぞれがそれぞれである理由は違うしアニメはアニメである理由があるのだ。映画は人間の生々としたものが似合ったり、ドラマは感情を没入させることが似合ったりするが、演出がいちばん自在なのはアニメだ。個人の感想です。

このアニメの原作はマンガで、アニメではオリジナル部分は勿論あるけどけっこう原作に沿うようになっていると思う。しかしマンガで物語は比較的穏やかに進行する。というのも、アニメはやっぱりダイナミックなのだ。なにより音があるので、シリアスな部分はよりシリアスになるし、物語を進行させる時間は向こうに操作されるので、物語のもつ息遣い はやるところははやるし止まるところは止まる。風景をより比喩的に描くこともできる。これが実写だと、例えばカメラでは河面を撮っているのに人が喋っている、ということはあまりない。あるかもしれないけど。わたしの思うアニメ的なアニメ(しかもきわめて物語的)というののひとつに西尾維新の物語シリーズがあるが、あれはアニメでしかできないでしょうね。超好き。

「昭和元禄落語心中」という物語自体に焦点を当ててしまうとわたしは(全然詳しくないけど)落語も好きだし時代も文化も人間も好きだし戦後ヤミ市の研究をしてたこともあり随時グッとくる部分がありすぎるんですが、これをアニメでやる理由、というのを、第九話で目の当たりにしたような気がした、というはなしです

人が出会うときというのは普通、知らない顔を見て「はじめまして」という通過儀礼をやるのだろうが、そのとき内面は白紙である。まあそれはだいたいの場合のはなしで、インターネットであればまだ顔を知らない、声を知らない、本名を知らない、ただ中身だけは深く知ったつもりになっている他人が画面の向こう側に居るみたいな感じがしている。気のせいかもしれないけど。

「しなやかな熱情」というドラマCDで声に出会った。出会ったっていうのかな、まあわたしはその人の名前も顔も思想もなにもかも知らない状態で声だけを知ったのである。

その物語はたいへん素晴らしく、シリーズとしてもめちゃくちゃよいのですが、レビューをし出すと止まらないくらい最高としか言いようがないので、ここではひとまず言わないことにする。

最初は物語にばかり気を取られていたのだが、ふとその声を思い出し、その残滓みたいなものが胸に留まった。低い声のひとってあんまり記憶に残らないのですけどこの声だけはなんというか確実に違って、よくかっこいい声のひとがやる腹から声出してる的発声でもなく、クリアでも甘くもダークでもなく、演技くさいのでもないしかといって癖がないわけでもないのだけど、なんだかとても引っかかってしまって、その声が三木眞一郎というひとのものだと知った。

それから何を聴いてもこの声が恋しくなってしまうのですが、この声を聴いたら「しなやかな熱情」が恋しくなってしまう。というかこのシリーズが。このシリーズの「慈英」というキャラクターが。その声が。

なんか上手いよね、とかじゃなくてもうそういうことではなくて、味があるとかじゃ全然表せなくて、うまいこと言えないけどマジで最高なんだ、ということだけはわかっている。いままでまあまあドラマCDを聴いているけど、それはインターネットの海に潜水して聴いたものなので、誰の声であるとか、誰がつくったとか、書いたとか、そんなことを知らなくても別に全然支障はなかった。知ろうとしなかったのは、わたしは構造フェチなので、そういう名前 つまり記号を知ったらハマってしまうのがわかっていたからで、また物語の純度が失われてしまうのが分かっていたからです。

勿論、声のひとって声が商売道具であることは、無知なわたしにも分かるので、あんまり深くは調べないようにしているんだけど、というのもわたしは人が好きなので、知りたくなってしまうし何より検索がうまいので色々知ることができてしまうからなのだけど、やんわりとこの人について知っていくうちに、わたしが共感できる哲学を持っているひとであるということをを知り、記号を知るのを許しました、自分に。

そしてわたしは演劇が好きだったり、じぶんのいろんな居心地の悪さを感じていたり、諸々の理由で身体性について考えることが多くあり、この期に「声」について考えてみることにした

ハタチこえてからアニメをよく見るようになりました マンガは辺境な感じで BL好きです

ツイッターとの使い分けが微妙になってきそうだけど いずれにせよ 考えるために、言語化するために書きます

飛躍のひどいブログです